自由

2016.4.22.

「Concept o right conductがないところでは、despotimか、anarchyか、どちらかに終る。Libertyはsecurityのあるところにのみ発する。自由は必然的に貴族的である。」(対話 p.34)
「国家が善を命ずる時でさえ、まさに命令するということのゆえに、善を破壊し、無価値なものにする。……命じられたからでなく、それを意識し、意欲し、かつ愛するがゆえに善を行うという点にこそ、人間の自由と倫理性と尊厳がある。(バクーニン全集一「神と国家」(一九〇〇年版)二八八頁)」(対話 p.81)
「押しつけられた善にたいする叛逆は自然的であるだけでなく正当でもある。……けだし自由を離れて善はなく、自由はあらゆる善の源泉であり、その絶対的条件なのである。(同上「連合主義・社会主義・反神学主義」二〇四頁)」(対話 p.81)
「自由⇔安定・安全  「人間的自由の最初の行為はパラダイスからの追放という代償を払って遂行された!」  Cf.バクーニン「神と国家」「全集」(一九〇〇年版)第一巻、一四四-五頁)」( 対話 p.83)
「平等。
 平等の機会、平等の待遇、法の前における平等-ここにあるもっとも大きな問題はハンディキャップの存在をみとめてかかるか、それともみとめないかということだ。トラックのレースで、内側に近いコースの者も一列に並ばせることが平等なのか、それとも、外側のコースの出発点を人為的に前に設定することが平等なのか。後者としてもどの程度のハンディキャップをみとめることが「公正」なのか。所有権・相続財産その他所与の優越的チャンスをどの程度訴訟に考慮するかが「法の前の平等」の核心である。」(対話 p.107)
「十九世紀は現代なのである。十八世紀と十九世紀とはいはゞ深淵を以て隔てられているが、十九世紀と二十世紀とはひと続きなのである。ある意味からいふと、ギリシャ・ローマの昔から紀元一世紀を始に十八世紀までを一括して「昔」と呼び、十九世紀以後現在までを「今」と呼んでもさして不当ではない。このことを具体的に示すために手取り早い一つの例を挙げよう。
 十九世紀のはじめ迄、馬よりスピードのある輸送機関はなかった。‥この巨大な変化は何に由来するか。いふまでもなく蒸気機関が発明されたことによって従来の有機的動力(人間、畜類の使用)に代る機械的動力が生産組織に採用された。是によって齎(もた)らされた驚くべき社会的変革がいはゆる産業革命と呼ばれる現象にほかならない。さうしてわれわれはこの産業革命の社会的結果の真只中に只今もなほ住んで居り、そこから生まれて来たもろもろの問題はまさに今日全人類に解決を迫ってゐるのである。独立生産者の大規模な没落、一方に於ける厖大な生産機関の所有者と他方に於ける賃労働者群の形成、産業都市の急激な膨張と農村手工業の衰滅、都市と農村の対立、家内労働により大工場労働への発展に伴ふ家族制度の解体、機械的作業による人間の不具化、-産業革命の進行と共に露はになったこの様な所謂「社会問題」はどれ一つとして現代われわれの目前に展開されつゝある問題でないものはない。
 さうしてこの様な社会的矛盾を打開すべく十九世紀に登場し来つた諸々のイデオロギーは、或は自由主義、或は社会主義、或は無政府主義、或は社会改良主義、或は共産主義にせよ、いづれも究極の勝利をめざして現在なほ世界的規模に於て血みどろの争ひを続けているのである。われわれは二十世紀に於て未だなんら新らしい思想=哲学体系をしらない。…」(手帖40 「十九世紀以降欧州社会思想史-特に独逸を中心として-」1946.2.8.~4.8.pp.3-4)
「フランス革命とナポレオン戦争によって自由主義は独逸にも浸潤したが、独逸の自由主義は封建領主から政治的自由を要求すると同時に、否それより前に、まづ千々に分裂したドイツ諸邦を統一して、他の国がづつと早くから完成した様な中央集権国家を作り出さねばならなかった。そこで自由主義はドイツでは同時に民族主義乃至国家主義の主張を随伴してゐた。しかもドイツ資本主義の立遅れは自からドイツのブルジョアジーを発展させず、従つて封建貴族に対抗する力がきはめて弱かった。かくして独逸の統一はブルジョアジーが下から封建貴族に対して闘ひとつたものではなく、最もユンケル(土地貴族)の地盤の強いプロシャの君主が、ユンケル出身のビスマルク宰相の鉄腕によつて上から与へられた。‥さうして新ドイツ帝国は英仏とくにイギリスに対する立遅れをとりもどすために強力に国家権力によって資本主義を育成した。かうしてはじめから一本立ち出来なかったドイツブルジョアジーと軍部・官僚の封建的勢力の妥協融合が行はれた。しかもこのとき世界は帝国主義時代に入つたから、いよいよ以て独逸の資本主義は軍部にすがり、武力を背景として国外に進出することとなつた。‥
 かうした事情からしてドイツの社会思想はきはめて奇形的な発展をとげた。第一に前に述べた様に、自由主義がはじめから国家的統一といふ課題を背負ってゐたために、国家権力からの自由といふ主張を充分に貫く事が出来なかった。そのため自由主義は動(やや)もすると上からの国家主義に吸収される危険性と脆弱性を持つた。ブルジョアジーは英仏に於ける様に政治的自由の主張を貫かず、かへつてプロレタリアートの抬頭を恐れて封建勢力との闘争を中途半端に停止した。そこでプロレタリアートは封建勢力に対する闘ひと資本主義に対する闘ひとを同時に遂行せねばならなかつた。いひかへるならば独逸社会主義は英仏の自由主義の果した役割と自分の本来の役割と、二重の仕事を成遂げねばならず、その負担は甚だしく重かった。自由主義的な洗礼を受けてゐない独逸労働者階級には、その社会的要求の実現をあせつて軍部・官僚勢力の好餌に対する誘惑に抗することが困難であつた。軍部・官僚の封建勢力はかうしてブルジョアジーとプロレタリアートを巧みに操縦して自己の支配権を強固に保持することが出来たのである。
 …以上述べたところだけでも、なんとなく、独逸と日本が似てゐるなといふ感じはしないだらうか。もしさういふ感じを持たれたら、それだけで十分である。十九世紀ドイツが悩み悶えた問題はまさにわれわれの前にのしかゝつてゐる問題なのである。
 われわれの眼前に声たからかに叫ばれるいろいろの政治的=社会的主張は、自由主義にせよ、社会主義にせよ、共産主義にせよ、いづれもそれ相応の深い背景を持つてゐるのである。われわれがいたづらに政治屋のデマゴギーにまどはされる事なく、透徹した理性と高邁な見透しを以て正しい政治的判断を下すためには、まづ以てさうした思潮の歴史的発達の跡をきはめることがなにより大切である。」(手帖40 同上pp.7-9)
「中世に於ては人間の生活と思想は厳しい束縛の下におかれてゐた。社会的にも、道徳的にも、法律的にも、個々の人間は、或は制定法の、或は慣習法の強力な支配を受け、個人はいはゞ全社会の欲し、考へるが儘に行動してゐた。
 集団から離れて生存しえなかったのが中世の特徴である。個人はつねにその環境から行為と判断の規準を受取つてゐた。人間が主体的に環境に働きかけ之を改変する程度が弱いために、環境は自から固定化する。これが所謂伝統である。伝統的人間が中世の典型的人間である。政治も学問も芸術も、祖先から伝へられた様式をそのまゝ受取つて是を後の世代に伝へて行く。かうした社会は必然的に停滞的である。重くよどんだ雰囲気の中に、人々は無気力にルーティン・ウァークを繰返してゐた(中世社会の主権者は習慣である)。
 しかしやがてかうした停滞した空気が動きはじめた。人々はいままで何の気なしにすごして来た生活の仕方或はものの考へ方に対して、なぜかといふ疑問を持ちはじめた。環境のなかにぬくぬくと生活してゐた人間が目を見開いて、環境を批判的に見始めた。ひとは集団から一応抜け出て、自分で考へ、自分で判断し自分で行動することを望む様になつた。ここに長い中世の集団主義の時代が終つて個人主義の黎明がさしはじめた。これがヨーロッパでは十六世紀のルネッサンスにはじまり、十七世紀を経て、十八世紀の啓蒙時代と呼ばれる時期に完成されたところの大きな思潮の流れである。
 個人主義が最初に伝統と因習に対して反逆の叫びを上げたのは宗教の領域であつた。なぜなら宗教こそは中世の社会と生活の文化の中心であり、凝集点であつたから。‥大切なことは、ルーテルが宗教的信仰を自分自身で決定する権利を、いひかへるならば神を礼拝する仕方を自分自身で選択する権利を宣告したことである。かうして神は外部的な権威からして個人の良識の問題へと移されたのである。自明として誰も疑はなかつた教会と法王の権威に対して初めて「何故か」といふ疑問を投げかけたこと-これこそルーテルの世界史的な事業にほかならぬ。
 個人主義はやがて哲学思潮の上にも現はれた。近代哲学はデカルト(仏)とベーコン(英)にはじまる。デカルトの有名な「我思ふ故に我あり」といふ宣言はこれまで哲学の中心問題であつた宇宙と世界のかはりに、この宇宙と世界を認識し、是に対して行動する自我を打立てたのである。ベーコンは実験的方法を打立てた。実験とは自然を人間によつて再構成することである。‥新鮮な捉はわれない眼で事物を眺め、事物と事物との連関をさぐることを説いたのである。その方法が「実験」であつた。ここにも伝統的権威に盲従する代りに自己自身の観察に頼るといふ個人主義の芽生へが見える。さうして近世哲学はデカルトにはじまり、ヨーロッパ大陸に伝はったところの理性主義(ラシオナリズム)(合理主義)と、ベーコンにはじまり、英国に伝はつたところの経験主義(エンピリズム)といふ二つの思潮によつて推し進められて行った。‥この二つの系列を綜合して近世哲学の一大体系を打立てたのがカントである。」(手帖40 同上pp.10-12)
「この個人主義の誕生は、政治的=社会的部面ではいはゞ一種のまはり道をとつた。それは直ちに多数の民衆の個人主義とはならずに、まづ以て専制君主(絶対主権君主)のそれとして現はれた。何故さうなつたかといへば、ルネッサンスは同時に近代国家といふものが歴史の舞台に登場した時代だつたからである。…専制君主の(国際的、国内的)絶対権力は、神の代表者たる教会と法王の権威につねに服してゐた中世の世俗的君主と比較すると、あきらかにルネッサンスに於ける人間の自覚を表現してゐる事が分る。…
 専制君主による統一国家の建設は‥教会や封建貴族の地方的割拠的な支配権を打破し、これをたゞ一つの国家主権の中に吸収することによつて行はれたから、それは当然この様な教会及貴族勢力のはげしい抵抗を誘致した。そこで専制君主はこの抵抗を排除するために、当時新に勃興しつゝあつた平民の上層部、いはゆるブルジョアジーと同盟を結んだのである。この新興ブルジョアジーといふのは‥或は市民階級ともいひ、或は第三階級ともいふ。…」(手帖40 同上pp.12-15)
「この様な新興市民階級は、絶対君主と封建貴族・僧侶勢力との抗争に於て、前者を極力援助した。それは絶対君主による統一国家の形成が市民階級の商業的生産的活動に対して有利だつたからである。…
 近世初期には中央集権国家の権力を制限しようといふ動向はむしろ封建的=貴族的な立場からなされた。いはゆるモナルコ=マッヘンといはれた政治理論-君主の行為は絶対的でなく、神に与へられた自然法の制限に服する。この自然法に反する君主に対しては神の名に於て放伐して可なり-といふ議論は、実はこの様な統一国家の形成に反対する反動的立場からなされたのである(国家権力に反対し之を制限しようとする思想がすべて進歩的なのではない。それが如何なる立場から制限されるかといふ事が重要なのである…)。
 之に反して国家主権の統一性、不可分性、絶対性を強調する理論はむしろ市民階級の立場から現はれた。有名なジャン・ボーダンの「主権論」‥は近代国家主権理論の最初の基礎づけであるが、ボーダンは封建貴族の蟠踞してゐる元老院や等族会議等に対抗して君主主権の絶対性を極力主張すると同時に、私有財産の不可侵性を説く事を忘れなかつたのである。
 かうして市民階級、新興商工業階級は、統一国家の形成を援助しつゝ、重商主義政策によつて庇護されながら漸次その勢力を増大して行った。貴族・僧侶等の中間勢力は王と第三階級との挟撃にあつて漸次、独自の政治的勢力たる事を失ひ、絶対君主に附従するいはゆる宮廷貴族・宮廷僧侶となつた。この様にして、社会階級は王、貴族、僧侶によつて結成される支配階級と商工業者によつてリードされる被支配階級とに漸次二分される様になつた。近代的プロレタリアートはまだ形成されず、市民階級のなかに包含されてゐたのである。この市民階級がますます勢力を蓄積して遂に王・貴族・僧侶を含む全封建体制(アンシャン・レジーム)に対して最後的に反抗するに至つたのが、十七世紀のイギリス革命と十八世紀末のフランス革命である。
 つまり市民階級は最初は絶対君主と連携し、国家権力の拡大化の傾向を援助してゐたが、自己が充分の実力をたくはえるに従つて、国家権力の無制限な干渉に反対し個人的自由の不可侵性を主張し、進んで政治的自由を唱へ、個人自由権の確保のため、政治への全面的参与を要求するに至つたのである。個人主義乃至自由主義の政治的=社会的な部面に於ける発達の背後にはこの様に大きな歴史的変化が横はつてゐるのである。
 今日自由主義といふと直ちに経済的自由主義(自由放任主義)を連想する。しかし、個人的自由の主張は前述の様にまづ十六世紀に宗教の領域に於て信仰の自由、良心の自由として現はれ、それが思想・言論の自由となり、漸次、かうした個人的自由の保障、いはゆる基本的人権の国家による尊重を要求する政治的自由の主張として発展し、最後に経済的自由の要求として十九世紀に絶頂に達したのである。」(手帖40 同上pp.16-19)
「ルーテルは未だ一般に思想信仰の自由を主張したのではない。その点では彼乃至彼につゞくカルヴィンも決して自由主義者ではなく、却つて、カトリック教会と同様に、異端に対して激しい不寛容の態度を持した。他の信仰態度に対する寛容(トレランス)、一般に自己と異なる思想的立場に対する尊重は自由主義が我々に与へた最も貴重な遺産であるが、それがヨーロッパに普及するには、宗教改革以後なほ数百年を要した。寛容思想の発展については大陸と英国はいくぶんちがつた経過をとつてゐる。大陸に於ては宗教改革以後、各国はプロテスタント派とカトリック派に分裂し、或は国際的に或は国内的に血で血を洗ふ闘争をつゞけた。三十年戦争はかうした宗教戦争の総結集である。‥結局新教派も旧教派も絶対的な勝利をおさめる事が出来ず、徒らに犠牲のみ多かつた。かくしてその間に自ら、妥協的傾向が生れ、銘々((各国家))自己の宗教的信念を保持しつゝたゞその普及貫徹のために力に訴へる事を避ける様になつた。国家は宗教的紛争に介入せず、自己の支配の正当性を宗教的正義に基礎づけずに形式的な法秩序として宗教的対立に中立的立場をとる様になつた。かくて宗教は国家的=政治的問題からして、各人の良心の問題に委ねられ、「私事」となつたのである。
 …英国では宗教が国家権力と合一したために「寛容」の主張は自から、他宗教に対するよりも、国家権力に対する良心の自由の主張となつた。これが英国に於て国家干渉に対する個人的自由の主張が最も早く形成された思想史的動因である。
 やがてこの様な宗教的=思想的自由の主張は一般に個人の自由権にひろげられ、国家権力の介入すべからざる領域として、制度的な保障を要求する様になつた。この政治的自由が最も早く理論づけられ、又実現されたのはやはりイギリスであつた。それには前述の様な宗教的動因のほかに、イギリス市民階級の早期的成長といふ社会的要因が挙げられねばならぬ。一般に大陸国では市民階級は前述した様に、まづ封建貴族の割拠的独立勢力を打ちやぶり国家的統一を完成するために、専制君主と長い間提携し、中央集権化に助力を与へねばならなかつたが、イギリスではすでに十三世紀の薔薇(バラ)戦争で、かういふ封建的領主が無力化し、チュードル王朝の下に中央集権的専制国家が成立した。さうして、政治的独立性を失つた貴族・地主はやがて和蘭(オランダ)に於ける毛織物工業の勃興と共に、いはゆる「囲込み」といつて農奴を追出して羊を飼育する経営者となつた。また彼等は金融業に投資して銀行業者となつた。この様に地主が広範囲にブルジョア化し、地主階級と新興ブルジョア階級との融合が行はれた。かくして、新興商工業者と貴族との連携によつて絶対専制君主に対して、国家権力の恣意化に反対し、人権の尊重、自由権の保障を進んで(立法権への参加)求める様になつた。この様にして一六八八年名誉革命は世界最初の自由主義革命となつたのである。‥
 この様な政治的自由を基礎づける理論として発達したのが、いはゆる自然法の思想である。それは最初むしろ封建的=中世的立場から君権を制限する理論であつたのが、漸次新興ブルジョアジーが自己の生命財産の保障を要求するための理論に転化した。ジョン・ロックはかうした立場からの自然法理論の輝かしい最初の代表者である。
 国家は個人のためにある。国家の任務は個人自由の保護にある。といふのが自由主義国家論の核心であり、之はやがて経済的自由主義の主張に於て最も徹底的な形態をとるのである。」(手帖40 同上pp.19-22)
「フランス革命の背景をなす合理主義的個人主義はすべての人間に共通な理性を万物を批判し判断する規準とする。いかに由緒の深いものでも理性に照して承認出来ないものは存在の価値なきものとして之を破壊する。従つてそれは現在万能主義であり、反歴史主義である。
 ロマン主義はかうした理性で万事を割切るつめたい態度に反対する。人間生活や歴史は単に不合理だからといつてぶちこはしてしまへる様な単純なものではない。個人のなかにある非合理的なものを無視できない様に、国家社会のなかにある風習や伝統はどんなに理屈に合はぬものでもそれだけで意味があるのだ。国家や社会生活が理性だけで組立てられ、人間がつめたい理性だけで動いたら、世の中はどんなにさくばくたるものになるだらう。ひとは理性的な判断で恋愛をしたり、芸術品をつくる事は出来ない。理性よりももつと根源的な本能や情熱にかられて行動するのだ。そこに人間生活の美しさ、うるほいがある。伝統や歴史の美しさもさうしたものだ-といふのである。
 かうした考え方からも分る様にロマン主義はなによりフランス革命とその思想的背景に対するドイツの側からの反動運動である。そこにドイツの民族意識の興隆を見ることが出来る。他民族に於て数百年も前から発達してゐた民族意識は、ドイツにあつては封建的分裂=割拠のために成長を妨げられ来た。それがナポレオンの馬蹄に全ドイツが蹂躙されるに至つてはじめて澎湃(ほうはい)としてドイツ民族の共通の文化と運命にめざめたのである。さうしてナポレオンの支配から脱しようといふ意識は自から、ナポレオンを生んだフランス革命の思想に対する反撥となり、抽象的な世界市民主義に対する民族主義、理性的人間に対する感情的、美的人間の尊重、普遍に対する個別の重視、ひいて自己の歴史的過去への憧憬となつて現はれたのである。
 従つてロマン主義を単純に反動思想と断定してはならない。そこに含まれてゐる人間個性の尊重、個性の生活全分野への発揚の主張、無限なるものへの魂の渇望の要求は、疑ひもなくドイツに於ける個人意識のめざめであり、近代精神の最も貴重な産物である所の人間人格の尊厳への自覚がこゝに表現されてゐる。真の個人主義は英仏的な普遍的個人と、ロマン主義に於ける特殊的個性とが結合したところに成立するのである。また民族の伝統への覚醒も、ナポレオンの支配が本来の自由・平等・博愛の理想をのりこへて、帝国主義的な権力支配に堕したことに対するドイツ民族の正当な反抗の表示であり、解放戦争に表現された「自由にして統一されたる独逸」といふ理想と共通な動向を追ふものである。…たゞやがてフランス革命の進行がジャコバンの独裁とロベスピエールの恐怖政治を生み、「理性」を旗印とした革命が、最も非理性的な粗野な人間衝動の解放による無秩序と暴力の混乱状態に陥るに従つて、いたくその結果に失望し、やがてナポレオンの世界制覇となるに及んで、彼等の之に対する反抗は、フランス革命そのものへの一般的反対へと転じて行った。
 かうしてロマン主義は当初の進歩的な性質を漸次に喪失して行くのである。彼等の民族的伝統への回顧は最初は民族的自覚に基く、現状打破の運動であつたが、ドイツの封建勢力の鉄の如き強靱な支配といふみじめな現実に直面し、それを打開する力の弱さに失望したロマン主義者は、民族の「ありしよかりし日」への憧憬、それへの陶酔によつて現実の悲惨さを忘れようとした。かうして、歴史伝統への回顧は、民族的自覚に基く現状打破の運動から漸次に、過去への逃避となり、現実から遮断された「夢」の王国を幻想のなかにつくりあげて、そこに生き甲斐を見出す様になつた。…
 かういふロマン主義の変質の原因はどこにあるか。それは外部的社会的に見れば、ロマン主義の担ひ手たるドイツ市民層とインテリゲンチャの未成熟といふところに帰せられよう。‥しかし同時にわれわれはロマン主義の考へ方そのものに内在する弱みといふものを忘れてはならない。‥
 それは何かといへば、一言にしていへば理性の蔑視といふことである。理性を軽蔑することは理論を軽蔑することであり、理論を軽蔑することは原則を軽蔑することである。彼等は確固たる原則に従つて生活する事が出来ない。彼等が啓蒙主義の理性の冷たさを指摘し、複雑な人間と社会を抽象的な道理で割り切る事に反撥を感じた気持ちは分るし、それ自体としては正当である。社会や歴史に於ける非合理的なものは、啓蒙的な自由主義が考へてゐる様に簡単に無視出来るものではない。伝統や風俗の存在は人間理性が曇らされてゐるからで、その蔭りがとれれば、つまり、人間が利口になれば忽ち廃されるものだと考へるところに、抽象的な合理主義の甘さがある。非合理的なものははるかに深く人間性に根をおろしてゐるのだ。
 人間生活の歴史はたしかに合理的なものが漸次に非合理的な部分へ喰ひ入つて之を合理化して行く過程である。しかし全人間生活が完全に理性によつて占拠され、人間が感情や本能や衝動に身をまかせる事が絶対になく、恋愛をしたり、芸術的創作をしたり、歌を歌つたりすることがすべて冷静な理性的判断に基いて行はれるといふ様な日はまだまだ遠いし、また果してさういふ事が望ましいかどうかも疑問である。かうした非合理的要素を簡単に駆逐出来ると考へるのは、合理主義の抽象性、非現実性であつて、ロマン主義がそこをついたのは確かに当つてゐる。しかしながらロマン主義は他の極の誤謬に陥つてしまつたのだ。感情や衝動を重視するのあまり、本来理性的に処理さるべき領域にまで、かうした非合理的要素をもち込んでしまつた。その結果、生活は気分本位、感情本位になる。その時々の気分、感情のおもむくまゝに奔放に行動する。そこに彼等はとらはれない自由な境地を楽しまうとする。しかしそれが現実に陥る結果は極度のオポチュニズム、機会主義だ。原則を蔑視する彼等は、今日は今日の気分に従つて一つの主義に飛びつくと、明日は忽ち弊履の様にそれを捨てて、他のイズムにとびつく。ロマン主義者の無節操といふことはここに由来する。ロマン主義が統一的な世界観とならず、人によつて甚しく異り、体系的でないのもそのためである。啓蒙思想のたてた合理主義をあくまで堅持しつゝ、しかもその抽象性を避け、ロマン主義のいふ非合理的なものを尊重しつゝ、理性と歴史的現実とを綜合せんとしたのが、独逸理想主義、就中(なかんずく)ヘーゲルである。」(手帖40 同上pp.30-35)
「人間は理性的人間である。理性といふのは打算や勘定ではない。普遍をめざす心である。啓蒙的人間は幸福を追求することに自由を見出す。しかし幸福といふのが感性的幸福なら、それは自己以外の客体(もの)にしばられてゐるので、決して自由ではない。自然的傾向を助長するのが自由なのではない。自由とは自律である。自分で課した法則に自分で従ふところに自由がある。その普遍的法則が道徳律にほかならぬ。…
 理想国家は「各人の自由が他人の自由と両立する事が出来る様な法律の下に於ける最大の人間的自由の状態」である。…
 自我が非我としての自然界(感性的世界)を克服して活動するところに自由がある。ところが、さうした感性からの束縛を脱するためには、まづ生きて行くための物質的条件が各人にとつて必要となる。精神的な価値を実現するためには、即ち、-真実を探求し、倫理を実現し、美的芸術的創作にいそしむために最低限に必要な生活条件は自由なる人格の前提である。そこでいまや生存権、さらに労働権が、言論、思想、信仰、職業の自由とならんで、個人の基本的人権に加はる。国家はかゝる個人の生存権を確保する義務がある。各人が自律的人間となるに必要な物質的財を各人に確保すること、そのために財産の分配を公平ならしむること、これがなにより国家の任務である。そのためには国家は経済生活を積極的に統制することが必要である。それは決して個人自由への干渉ではなく、むしろ個人を真にカント的意味での自由な人格にするために、それを妨害する条件を排除することにほかならぬ。かうしてフィヒテは国家の統制が自由と矛盾しないことを説き、従来の啓蒙的自由主義に於て背反的関係にあつた国家と個人をはじめて結びつけた。「国家からの自由」はこゝに「国家に於ける自由」へと転化した。フィヒテは私有財産(生産手段)の国有を説いてはゐず、むしろ財産を自由な人格の一つの条件にしてゐるので、決して社会主義者ではないが、生存権、労働権をとなへ、各人にさうした労働権を与へるための国家の経済的統制を主張した点で、社会主義の先駆者といはれる。後の自由主義の思想的転回に大きな影響を与へた。…」(手帖40 同上pp.36-38)
「ヘーゲルにとつての第一の問題は、カント、フィヒテを継承して「自由」の基礎づけであつた。‥カント、フィヒテの説いた「自由」を彼は二つの方向に発展させた。一はそれを歴史的発展に於てとらへたことである。「世界史は自由の意識に於ける進歩である」(ヘーゲル『歴史哲学』)。…
 第二にヘーゲルは自由の具体的実現の過程を論理的に構成した。この論理がいはゆる弁証法である。弁証法とは概念の発展形態である。一つの概念が措定されると、それは必然にそのなかから自己の反対の概念を呼び起す(即自-対自)。しかしやがて最初の概念はその否定概念をも自己のなかに取り入れる事によつて一段高い概念となる(即自かつ対自)。第一段階をテーゼといひ、第二の矛盾の段階をアンチテーゼといひ、それをさらに否定して第一段階にかへる(しかしより高い形態に於て)事をジンテーゼといふ。かくして得たる概念はさらにその中に否定を生んで一層発展して行く。これが概念の自己運動であり、そこに思惟が構成される。矛盾が概念の運動の原動力である。…
 ヘーゲルはカントに於ける理念と現実、精神と肉体、理性と感性、抽象的悟性と歴史的現実、自由の世界と必然の世界とを媒介せんとした。理想の現実化を捉へようとした。理性が歴史のなかに実現されて行く過程、自由が必然の世界のなかに働きかけて行く過程が即ち世界史であり、その運動の論理が弁証法であった。かくして有名な「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」といふ命題が成立する。この命題は二つの事を意味する。一は現実に存在するものはすべて何程かの存在の意味をもち、合理性をもつといふこと。この点で彼は啓蒙的合理主義の一刀両断的な反歴史的、反伝統的態度に反対した。第二に、しかし合理性を失つたものは早晩消滅すること、逆に凡(およ)そ存在すべき意味をもつものは、やがて必ず現実に存在するに至ること。この点で彼は、フランス革命の反動たる非合理主義(ロマン主義にも含まれるところ)的な歴史主義にも反対した。…
 ヘーゲルは理念と現実の橋渡しをし、現実のなかに理念を持ち込み‥それによつてカントの抽象性、空虚性を克服しようとした。しかし、彼は現実に対して妥協的となり、現実を理想化する結果をもたらした事は否定出来ない。‥例へば個人のモラルの場合でも、彼は一切の感性(感情、本能、激情、喜怒哀楽)に規定された行為を非理性的したがつて非道徳的と見るカントの峻厳な克己説に反対し、歴史上いかなる偉大な行為もさうした感情や本能の力をまたずしてはなされなかつたといひ、古来の英雄(ナポレオンやアレキサンダー)がたとへ感情にかられ、或は利己的動機をも交へて行動したとしても、それによつて世界史の時代を画する様な偉業を達成したではないかといひ、これは世界精神がかういふ世界史的個人の利己心や名誉心を利用して自己を実現するのであつて、彼等は世界理性のおとりにすぎぬといひ、之を「理性の狡智」と呼んだ。うまい説明であるが、これによつて個人は歴史の潮流に規定される受動的手段的存在となり、カントの様な自由な人格の独立性が失はれてしまつた。また、国家を精神発展の最高の段階とし、道徳の最高形態としたために、個人の自由は国家のなかに吸収され、国家は、人格をのみつくし、一切の道徳も宗教も自分のなかに吸収する絶対的存在となり、国家を超へた道義は否定され、国際道徳などといふものは存立の余地なく、カントの否定した戦争は国家の当然の権利となり、国家万能主義に陥つしまった…。
 しかしかうした種々の欠陥にも拘らず、彼の本質はどこまでもカントが立てた自律的人格とその自由の実現といふ課題を追求して行った所にあり、独逸理想主義の最高峰を形造る偉大な存在であることは断じて否定されない。」(手帖40 同上pp.38-44)
「ドイツ理想主義が、どこまでも「自由」の哲学でありながら、他方に於て国家の役割、目的が著しく増大し、ヘーゲルに至つては遂に個人をのみつくす様になつてしまつたことはどこに原因があるか。それは二つの大きな歴史的意味がある。一はドイツの自由が、イギリスやフランスの様に、国家からの自由ではなくて、まずドイツ国家をつくる事、統一国家をつくる事を課題としてゐたこと。そのために対外的自由独立がドイツ民族の第一の課題となり、国内に於ける政治的自由は第二義的になつてしまつた。第二に、ドイツが自由意識にめざめた時はイギリスは既に産業革命の真最中であり、産業革命のもたらした悲惨な現実-機械の採用による失業者の氾濫、労働時間の延長、婦人、少年労働者の大量的登場による疾病、不具者の増大、産業都市の不衛生、農村の荒廃、貧富の懸隔の急激な増大-は全ヨーロッパに早くも大きな社会問題としてとりあげられた。もはやドイツ人は、経済的自由放任主義、スミスの様な楽観的予定調和論の素朴な信者たるべく、あまりに資本主義の現実を知りすぎてゐた。これフィヒテをして、生存権の問題を取りあげさせ、ヘーゲルをして、市民社会を「万人の万人に対する闘争場」と観ぜしめた所以である。かくて彼等は市民社会の自動的調整力を信ぜず、市民社会の上に国家を置いて、国家によつて市民社会の弊害をコントロールする事を考へたのである。‥ドイツの自由主義はかくして最初から国家といふ重荷を負う使命にあつたのである。
 独逸理想主義は近代精神の核心をなす「自由」の最も深い基礎づけであり、自由が何故に個人的恣意でないかの問題、自由が社会的=国家的共同生活と何故矛盾しないかの問題、いな進んで自由と国家乃至社会生活との必然的牽連(けんれん)を最も深奥な論理に於て説いた。他方独逸ロマン主義は個人的自由と並んで、近代の特質たる民族主義、民族意識の問題をはじめて明確に形成した。
 爾後自由主義と民族主義とは相からみ合つてヨーロッパ政治史の構成原理となつたのである。‥
 しかし「自由」と「民族」の問題がいちばん深い基礎づけをもつたまさにその国に於て、政治的自由と民族的統一の実現が最も遅れてゐたといふ事は興味深い。ドイツ人は政治的に社会的に自由を実現出来なかつたために、いはゞ内向して、精神の王国に於てその夢を満した。十八世紀末から十九世紀はじめにかけてのドイツは政治的=社会的にみじめをきはめたのと恰度反比例して、学問と芸術に於て比類なく輝かしい業績をあげた。‥それは‥政治的社会的な停滞といふ高い犠牲に於てかちえられたものである事を忘れてはならぬ。さうして一方、かうした高い芸術と哲学を生む程優秀な素質にめぐまれた独逸人が、その外部的環境を、生活環境を打開し、政治=社会制度を改善し、高めて行くといふ点でスタートからまづつまづき、この立遅れが後々までまつはりついたために、政治意識に於ては著しく他の西欧諸国民より劣位にある事がどれほど独逸にとつて悲劇的な結果をもたらしたか。吾々はそれを二度にわたる世界大戦でまざまざと見せつけられた。‥まさにこのことにドイツの生活と思想の著しい跛行(はこう)性(ビッコ、平均がとれないこと)を看破せねばならぬ。
 …英米人はドイツ人の様に日常生活から遊離したイデオロギーに陶酔しない。彼等はたえず学問のなかに生活をもちこみ、生活のなかに学問をもちこむ。思想や「イズム」が肉体化してゐることが彼等の特徴だ。だからデモクラシーは単なる理論でなく、生活様式として躍動してゐるのである。尊いと思つた事、正しいと思つた事は直ちに実現すべく外に向つて働きかけ、社会的環境をかへて行く。内部を深め、豊かにすることと、外部的環境をたえず高めて行くことをつねに併行させて行かねば第一級の国民となりえない-これがドイツ哲学から吾々が学ぶ一つの教訓である。」(手帖40 同上pp.45-48)
「空想的社会主義者に於ては、資本主義は即ち悪であつた。生産手段の私有、それに基く貧富の懸隔は許すべからざる不正義なるが故に之を打倒せねばならぬ、とする。しかし資本主義が単に悪なら、それは出現しない方がよかつたといふ事になる。…
 しかしマルクス・エンゲルスの考へ方はこれとははつきり区別される。彼等は資本主義を単なる悪の権化として憎悪しない。それは封建的生産方法に対しては大なる進歩なのだ。とくに産業革命による機械の採用は生産力を飛躍的に増大せしめ、我々の生活環境を比類なく高めた。之を無視して機械的生産以前の手工業的生産などに復帰することは到底出来ないし、又そんな事をしたら我等の全文明生活の進歩は停滞してしまふ。資本主義は単なる善でもなければ単なる悪でもない。それは生産力を増大した限り進歩的だつた。さうして今や生産力の発展をおしとゞめる様になつたために反動的になつたのである。生産力発展にとつて資本主義は、反対価値に転化したのだ(弁証法)。逆にまた、社会主義が理想だからといつて、それを大昔に実現することは出来ない。それは今日の最も進んだ生産力の発展段階に相応した生産様式なのである。‥資本主義は単に排除されるのではなく、止揚されるのである(社会的占有-個人的所有-社会的占有)。
 それは悪ではなく、必然に通過すべき段階なのだ。かういふ考へ方は啓蒙的自由主義者やそれを継承する空想的社会主義者には全く知られてゐなかつたのであつて、ヘーゲルの弁証法やダーウィンの進化論の方法が、社会に適用されたのである。」(手帖40 pp.56-57)
 「空想的社会主義者は啓蒙的自由主義を継承して、人間理性の普遍性の信仰の上に立つた。従つてブルジョアジーでも貴族でも、理性にたちかへれば必ず社会主義に賛成すると考へた。
 しかしマルクスは、かうした楽観主義とは鋭く対立する。人間は根本的に彼の経済的利害に左右される所の利己的動物である。彼の意識は決して彼の階級的立場を超えないから、社会主義を理想として行動する筈がないといふのである。そこから階級闘争と暴力革命が是認される。産業革命後の悲惨な社会悪が、この様に人間観をヨリ悲観的な方向に導いたのである。従つてマルクス社会主義は労働者階級に対しても、社会主義が人類の真理だとかいはないで、端的にそれが彼等の搾取からの経済的解放なのだと告げる。労働者階級もやはり自己の階級的利益に従つて意欲し、利益に駆られて行動する。決して新しい生産力を代表するといふ意識や、人類の理想を実現するといふ意識で階級闘争に参加するのではない。窮乏と抑圧と搾取からのがれようとする、いはゞ本能的な、生きんとする衝動が彼を動かしてゐるのだ。しかも、-この点が重大である-かうして階級的利害に駆られて行動し、闘争し、資本主義的生産を廃棄することによつて、実は彼は自ら意識せずして全人類のために戦ひ、全人類の解放と進歩を実現するのである-と考へられる。けだし資本主義社会はマルクスによれば、階級闘争に基礎を置く社会、言換へれば、生産手段の特定階級による独占に基く社会の最後の形態であり、資本主義的所有の廃棄によつて、凡そ階級対立一般が消滅し、人間による人間の搾取が不可能にされるからである。それは世界歴史の全く新しいページ、いはゆる必然の王国から自由の王国への飛躍であり、プロレタリアートはこの世界史的使命を帯びた階級なのである。ここに如何にヘーゲルの「理性の狡智」の考へが影響してゐるかが窺はれる。‥
 空想的社会主義に於ては、社会主義は即ち人間性に基く真理であり、正義であつた。従つてそれは社会のいかなる階級の人間を問はず、凡そ理性にたちかへつて真実を認識すれば必ず到達すべき理想であつた。従つてそれの担ひ手は、ブルジョアジーであれ、貴族であれ、凡そ自然的合理性を洞察した者すべてであり、またその啓蒙宣伝の対象も、社会のすべての階層に向けられた。…無産階級はたかだか理想社会に於てはじめて救はるべき客体であつた。無産階級がやるのではなく、無産階級を救ふ運動である。
 ところがマルクスに於ては社会主義は階級闘争を通じて、まさに無産階級自体によつて実現さるべきものであつた。‥支配階級に真理を説得するなどといふことは迂遠なおめでたい話であり、そんなことでは到底プロレタリアートの解放は行はれない。それはプロレタリアート自らを主体とするプロレタリアートのための思想であり運動であり、それの実現は、本来の敵たる支配階級への美はしき教説ではなく、もつぱらこれとの闘争によつてのみ確保されると考へられるのである。
 何故プロレタリアートのみが新しい生産力を代表すると考へられるか。けだし彼は古い生産方法、もはや増大した生産力に適応しなくなつた生産関係の維持になんらの利益も感じてゐないからである。資本主義的生産方法の基礎は生産手段の私有であるが、プロレタリアートは抑々生産手段を持たない点が特徴なのである。従つて、それを廃棄し、生産手段を社会の公有にすることによつて彼は何物も失はない。「失ふのは鉄鎖だけである」。さうして社会主義社会によつて資本への隷属から解放され、はじめて自由な人間となる。「得るところは全世界である」。故に労働者階級は、さうして労働者階級のみが、新しい社会の、新しい生産関係の産婆役たりうる。」(手帖40 同上pp.56-60)
「自由主義は当初、個人的自由権の不可侵の立場に立つて、あらゆる国家権力の干渉に反対し、国家の任務を一に外敵の防衛と国内秩序の維持に限定した(夜警国家観)。従つて十九世紀半ばころ、いはゆる社会問題が世人の視聴をあつめる様になり、資本主義的自由競争の結果、資本の集積、独立生産者のプロレタリア化が大規模に進行しても、彼等はこれは経済法則の必然的現象で、下手に国家が之に干渉することはかへつて経済秩序を混乱させる事になるといつて、あくまで経済的自由の立場から放任主義を主張した。従つてまた、労使関係についても、之は資本家と労働者の自由な契約の産物であるから、その内容に法律で制限を加へること(例へば労働時間の制限、最低賃金制、婦人・小児労働の禁止、休日制)は自由の侵害であるとして、之に反対の態度をとつた。‥ところが、官僚的ユンケル的勢力はブルジョアジーの勃興を喜ばない。また一般に保守党や中央党のごとき保守的分子は、工業が発達し、大企業が起って中産階級が没落し、また都市集中が甚だしくなつて農村が衰微することは、国家を不安定にし、社会革命の素地をつくるところから、なるべく中小工業を維持し、農村の中小自作農を保護しようとする。そこでかうしたユンケル的保守的勢力は経済の自由放任に反対して、国家の干渉によつて中産階級のプロレタリア化を防止せんとし、また労働者の革命化を恐れて労使契約を制限して、労働者を保護しようとする(日本の軍・官僚)。ここに於て、社会政策立法(工場衛生の確立、中小工業保護、労働時間の制限)を真先に主張したのは、かうした官僚的封建的勢力であつた。そこには同時に抬頭する労働者階級を味方につけて、ブルジョアジーを孤立化し封建的地盤を強化しようとする意図もはたらいてゐた。…
 かうして社会改良主義は、まづ封建的、官僚的立場から唱へられた。ところが、かういた情勢に面し、自由主義者もまた従来の態度を修正すべく迫られたのである。…資本ははじめから一本立ち出来なかつたのである。しかし、貿易政策については国家の保護を要求する自由主義者も、労働契約に関しては容易に国家干渉を容認しなかつた。それは封建的官僚勢力を強化するに終ることを恐れたのである。しかしこのままに放任するならば、自由主義者は官僚的国家主義者と社会主義者の板ばさみにあつて、国民の支持を失はねばならぬ。そこで自由主義の立場と矛盾しないで大資本の横暴から労働者を保護する理論が考へられねばならなかつた。
 その一つは、社会政策立法をば、真の自由競争を実現するための前提として容認しようとする立場である。‥労働者保護立法は「自由に対する妨害の妨害」であるから個人自由権と矛盾しないといふのである。独逸にもかういふ考へ方で労使関係に対する国家の干渉を最小限度に容認しようとする立場が自由主義政党の中にも生れて来た。一八九四年、進歩党の中から分裂して生れた自由人民党はかうした態度を明白にした。」(手帖40 同上pp.64-67)
「近代的な自由意識というものは…無規定的な単なる遠心的・非社会的自由ではなくて、本質的に政治的自由なのだ。それは内にひきこもる消極的精神ではなく逆に外に働きかける能動的な精神であり、政治的秩序から逃避する精神ではなくて、逆に政治的秩序に絶えず立ち向おうとする精神にほかならない。…近代国家は…教会とかギルドとか荘園とかのいわゆる仲介的勢力…を、一方、唯一最高の国家主権、他方、自由平等な個人という両極に解消する過程として現われる。だから、この両極がいかに関係し合うかということが、近代政治思想の一貫した課題になっているわけだ。」(集③ 「ラッセル「西洋哲学史」(近世)を読む」1946.12.p.72)
「ホッブスにおいては、自由とは第一義的に拘束の欠如であり、それに尽きているのに対し、ロックにおいてはより積極的に理性的な自己決定の能力と考えられている。従って前者の様な自由概念は決して人間に本質的なものではありえず、ホッブスが明らかにしている様に、それは非理性的動物にも、いな植物にすら適用出来るのに対して、ロック的自由は本質的に理性的〔存在〕者のものである。前の自由が人間における動物との共通性に根ざしているとすれば、後者はあくまで人における神性のうちに座を占めているのである。この自由の把握のしかたの対立が、…ホッブスにおける君主(国家)主権と専制主義の、ロックにおける人民主権と民主政の、基礎づけとそれぞれ密接に関連している…。ヨーロッパ近代思想史において、拘束の欠如としての自由が、理性的自己決定としてのそれへと自らを積極的に押進めたとき、はじめてそれは封建的反動との激しい抗争において新しき秩序を形成する内面的エネルギーとして作用しえたといいうる。」(集③ 「日本における自由意識の形成と特質」1947.8.21.pp.154-155)
「(一) 近代的自由の中核としての自己立法の観念
ロックは「自由」の概念を「拘束の欠如」という消極的な規定から、自己立法-人間が自己に規範を課する主体的自由-という積極的=構成的な観念に高めることによって、政治的自由主義の原則を体系的に確立した最も早い思想家の一人であった。…すなわち政治的自由とは代議政において具体化される人民の政治的自律以外のものではない。このように、法を自由に媒介させる能力を人間のうちに信ずるかどうかという一点に近代的政治原理の全運命は賭けられていたのである。」(集④ 「ジョン・ロックと近代政治原理」1949.8.p.189)
 「自利と他利、私益と公益、快楽と道徳の究極的一致というロックの思想こそは後にスミスからベンサムに流れ込んでイギリス・ブルジョアジーの強靱なイデオロギー的伝統をなした…」(集④ 同上p.192)
 「(二) 一切の政治権力が人民の信託(trust)に基づくこと。従って政治的支配の唯一の正当性的根拠は人民の同意(consent)にあるという原則」(集④ 同上p.192)
 「(三) 力は権利を生まぬという原則」(集④ 同上p.195)
 「(四) いわゆる三権分立の原則(checks and balances)」
 ロックが…立法権、行政権、連合権の三者を区別したことが、モンテスキューによって受継がれ、連合権の代りに司法権が置かれることによって、近代憲法の基本原則の一つになり、アメリカ憲法やフランス革命の人権宣言の中に採用された…。しかしこの発展のうちには多分にロックの思想の誤解が含まれて居り、その責任はモンテスキューにある。…立法権と行政権とは、なるほど分離すべき事は主張されているが、アメリカ憲法のように、夫々対等の独立性を持つものとは考えられないで、むしろ立法権の行政権に対する優越が説かれているのである。」(集④ 同上p.197)
 「(五) 「法による行政」の原則
 立法権の優越に基づく権力の分立と不可分に結びついているのが法による行政の理念である。…法における予測性…の要請、従って抽象的法規範(法律)の具体的法規範(命令・執行)に対する優位、罪刑法定主義、法の前での平等というごとき近代法治主義の基本原則がここに悉(ことごと)く芽をふき出している。」(集④ 同上p.198)
 「(六) 人民主権による革命権
 ロックは…主権という言葉を避けて居るが、一切の政治権力を究極的に人民からのトラストに基礎づける彼の立場がいわゆる人民主権を意味する事は明瞭である。…ロックによれば通常の場合は立法府が最高権を持っているのであるから、人民の最高権が発動するのは、もはや合法的手続では人民の自然権を保持出来ぬ場合であ…る。」(集④ 同上p.199)
 「(七) 思想信仰の自由と寛容の原則」(集④ 同上p.201)
「近代的な自由というもののもっている思想的な意味はどこにあるかというと、自主的な選択という重荷にたえる人間、どんな通信をも受信して、そしてこっちから自主的な送信を送り得るような、そういう強い人間というものにわれわれは鍛え上げていくというところに、近代的な自由をもつ意味があるわけであります。そうでなくて垣根の内と外の分離にもとづいて、内の中で平穏であり自由であるという意味における自由、そういう意味の自由は昔からあって、何も近代社会においてはじめて獲得されたものでも何でもないわけであります。」(別集② 「内と外」1960年 p.363)
 「近代社会における幸福を大事にするという意味は、アメリカの独立宣言の中に、自由、平等、および幸福の追求‥といわれておりますように、幸福を追求する行為であります。それは内に閉じ込もって、そこで‥幸福をエンジョイしている行為ではなくて、外の世界に自分の幸福を追求している行為であります。したがってはじめて自分の幸福を守るという行為が同時に、社会的なまた政治的な批判、あるいは行動というものと結びつくわけであります。…
 幸福をたんにエンジョイするという態度と、幸福を積極的に追求していこうという態度とは、状況によってはまったく反対の意味をもつ。幸福を追求していく態度からこそ、はじめてわれわれの環境というものをわれわれの内発的な意思に従って自主的に判断し、自主的に方向選択して、われわれの幸福を追求していくことによってたとえば強くわれわれの幸福を保障するような制度というものを作り上げていくというような、外の世界に向かって積極的に立ち向かっていくエネルギーというものが出てくるわけです。」(別集② 同上pp.366-367)
 「世の中が変動する、その中においてしっかり自主的に行動するというためには、状況は何かということを自分でもってまずみなければいけない。それには第一義的に、自分の好き嫌いというものを離れた認識というものを、われわれがもたなければいけないわけです。状況は‥たえず変動しますから、もしその場合に既成のイメージ、われわれに住みついて固定しているイメージ、偏見というものを外の出来事によって修正する用意をたえずもたなければ、変動する状況というものにわれわれは対処することができない。つまり世の中と自分の関係をいつでも新たに再調整する用意、積極的な用意というものを、われわれがもつということがどうしても必要になってくるわけです。不愉快なもの、不愉快な出来事でもそれを直視するという勇気をもあなければいけない。これが知性の勇気ということになるわけです。外からのどんな通信に対しても、それを正しく受信する能力というものをわれわれの中に養うということに、これが自分の中にある既成のイメージというものの妥当性を検討するという用意であります。」(別集② 同上p.367)
「人権の考えはギリシャにはなく、クリスト教から出て、ブルジョア憲法の中に制定化された考えですが、‥普遍的な人間性、人間というイメージがないと出てきませんね。普遍が特殊の下にあり、特殊の基礎であるという考えがないと出てこない。コスモポリタニズムの思想を通過しないと生まれないわけですね。コスモポリタニズムほど我々にわかりにくい考えはありません。つまり我々には世界が外にあるわけですからね。‥世界の市民であると同時に日本人であるという二重性において、コスモポリタン=人類の一員でありうる。人類は遠い所にあるのではなく、隣りにすわっている人が同時的に人類なのだ。そういうふうに同時的に見るべきことです。普遍は特殊の外にあったり、特殊を追求して普遍になるのではないのです。普遍はいつも特殊と重なってあるわけです。」(集⑯ 「普遍の意識欠く日本の思想」1964.7.15.p.59)
「啓蒙的な意味の個人主義(は)普遍的な理性によってくくられるような個人主義、あらゆる人間には理性が備わっているんだ、ということを前提にした個人主義なんです。ところが啓蒙主義に反逆して起こってきたロマン主義になってくると個体概念が出てくるんです。‥それはニーチェまでいくんですけれど、個性的個人主義ですね。つまりこれは二人といないということになる。これが歴史的個体性です。これは上級のものによってくくれないんです。
 しかし、それも淵源はキリスト教なんです。つまり、神様にみんな一人ひとりの良心が直結しているでしょ。したがって同じ人間は一人としていない。そこが仏教なんかと非常に違っています。つまり一人ひとりの個体性という考え方もヨーロッパではキリスト教に発している。したがって個体の魂の不滅ですから永遠に責任を負わなければいけない。‥だからやはりキリスト教の中にそういう個体概念もある。しかし同時にキリスト教の中から啓蒙的な普遍的な理性という考え方も出てくる。そこが非常に錯綜していて、簡単に言えないですが……。」(手帖10 「内山秀夫研究会特別ゼミナール 第二回(上)」1979.6.2.pp.24-25)
 「トクヴィルはイギリスとフランスを区別して、次のように言っている。つまりイギリスでなぜ個人主義が発達したかというと、身分が個人の人権の砦になったからだと。ところがフランスは、絶対主義の時からそうですけれども、特にフランス革命でもって個人と国家の間にある団体を全部ぶち壊してしまった。すると個人が裸で国家権力に直面したもんだから、非常に無力になってしまった。フランスは中央集権の国ですから。かえって人権思想というのは、封建的あるいは身分的なものが残存していたイギリスにおいて出てくる。というのは、ゼクテン[セクト]が基本的人権の保障になっているんです。‥ですから、そういう意味で個人主義というものと裸になった個人とは全然違う。」(手帖10 同上pp.32-33)
「自由ってのは、ものすごい代償を払わなければいけない。ただでは自由は買えない。極端にいえば、人間の歴史は、生命の代償を払って自由を獲得してきた歴史なんです。人間というのは、そういう動物なんです。‥それで、自由獲得の歴史ってのは血にまみれているわけです。
 …キリストはどうして十字架にかかったのか。‥どうして黙って十字架にかかったのか。人間が自由意志で、つまり、善と悪とを選択する人間が自由意志でキリストを選ばなければ、それは信仰したことにならない、と。自分は黙って十字架について、人間のほうから自由意志でキリストを選択させる。それで、黙って十字架についた。だから、そこが、「右手にコーラン、左手に剣」というのとの違いになるわけですね。
 正義を実現することだけが問題なら、左手に剣を持ち右手に真理を持って、真理が普及したほうがいいわけです。僕は、イスラム教からコミュニズムまで全部そういう考え方に立っていると思うんです。キリスト教は違うんですね。キリスト教は自由意志をもって選択しなければ、意味がない。善の強制は善じゃないという立場です。そこで、キリストは黙って十字架にかかった。僕はそれをドストエフスキーから教わったな。自由、人間の自由とは何か。コミュニズムとかは、多かれ少なかれ、善の強制あるいは真理の強制という考えに立っている。
 僕の考え方がそれと基本的に対立するのは、‥根本的に世界観として相容れないのは、そこですね。つまり、反対はあった方がいいと考えるのか、それとも、真理が普及したほうがいいじゃないか、真理に対する反対はないほうがいいと考えるのか。それは、世界観の問題なんです。…
 …ジョン・スチュアート・ミルの"On Liberty[自由論]"はそうじゃない。反対は、あればあるほどいい。なきゃいけない。なければ真理が腐敗する、逆に。[コミュニズムとミルと]どっちがいいかは世界観の問題になっちゃうわけです。証明できないんです。それは世界観の問題で、みんな経験的に証明できないんです。公理ってあるでしょ、幾何学で。民主主義も公理に立ってるんです。」(手帖11 「早稲田大学 丸山眞男自主ゼミナールの記録 第一回(下)」1983.11.26.pp.24-25)
「政治のほうではね、‥「形式的自由」と「実質的自由」って言うんですよ。言論の自由とかをね、なんで形式的って言うかというと、そこで何を言うかってことを捨象してるでしょう。実質を捨象して、何を言うかは問わない。一方、実質的自由っていうのは、たとえば経済的な保障を与えるとか、社会福祉とか。
 マルクス主義的に言えば、ブルジョワ的な自由主義のひとつの特色は、言論・出版・結社の、形式的自由ですね。しかし、これの問題性が出てきたのが、‥ナチなんです。もっとも進歩的な憲法であるワイマール憲法、そこにある形式的自由を、彼らは最大限に利用したでしょ。
 そうすると、形式的自由それ自体を否定する結社に対しても、自由を与えるのか、と。それじゃあ形式的自由の自殺じゃないか、ということになるわけですね。まずいことにナチの例がある。これが共産主義に対しても、同じ論理になるわけです。マッカーシズムも、大義名分はそこにあったわけですから、共産主義はそもそも形式的自由を認めないし、反対政党も認めない、と。
 ぼくは「現代自由主義論」(四八年)で、われわれはディレンマに面しているということを言っています。自由主義を打倒する力に対して、自由主義的な権利を与えることは、その理念それ自体の自殺になりますから。だけど、そればっかり言うと、マッカーシズムみたいのが出てきて、うまく利用するんです。…
 だから、自由主義のディレンマなんですよ。自由主義の敵に対して、自由を与えるのかどうかということは。やっぱりトレランス(寛容)を原則的に認めないものに対しては、トレラントであってはいけないんです。ぼくはそう思ってます。それはぼくのナチの経験です。
 もし共産主義がね、原則的にトレランスを認めないなら、それはおんなじです。しかしぼくがそこがちょっと甘いんだな、共産主義に対しては。ソ連の遅れとか、いろんなほかの原因が入ってきちゃってるけどね、コミュニズムというものはリベラリズムないしデモクラシーの嫡子だという考えがぼくにあるわけ。フランス革命、一七八九年の革命それ自身を否定しない。
 (鶴見「そこには少なくとも論争のオチがありますね。両者のあいだに、明瞭な一線が引けるかどうかについては。」)あります。非常にあります。たしかに、ぼくはだんだんコミュニズムにも厳しくなった。それは、正直に言って。…
 ラスキが同じなんですよ。ただ、彼は、やっぱり反共的自由主義者というような人たちは非常に浮動的だ、と。
 バートランド・ラッセルが、そうなんです。彼自身の中でも、途切れて、時期によって非常に違っている。戦後、一時、非常にはっきりとそういう立場に立って、ラスキと論争してます。ラスキのほうが、そのときソヴィエトに対して寛容なんですね。ラッセルは、ものすごく厳しいんです、ソヴィエトに対して。
 (鶴見「しかし、ラッセルは原爆という事態が出てきてね、人類の残存という問題になってくると、くるっと変わるでしょ。」)そうそうそう。そこで越えたわけです。別の論理になって。
 これは、ぼくは解答の出ないものだと思います。つまり、どこまでイズムってものと、現実の国家体制ってものをね、区別できるのか。ぼくはやっぱり、政治思想史が専門だってせいもあって、思想は思想としてあって、ナチ的な全体主義とコミュニズムは原理的に違うと、いまでもその説ですがね。
 しかし、いまコミュニズムが生じてるのは、だいたい、リベラリズムの洗礼のないところでしょ。ポル・ポトを含めて。現実には、基本的人権の無視ということになると、ナチ的な全体主義とほとんど区別がつかないんだな。反革命の名によって、大量虐殺しますしね。現実の政治過程では、ほとんど区別ができない。
 ぼくは「『スターリン批判』の批判」を書いたときより、やっぱり、少なくともソ連型社会主義に対しては、ちょっと厳しいな。正直なところ。  しかし、他方、反共ムードが強いからね、「この野郎」っていう気分もありますよ。正直言って、それは非常に。『朝日新聞』まで「左」と言われるような、今は驚くべき右ムードですよ。これはやっぱりなんとかしなきゃいけないと思います。
 だけど、ソ連というものへの失望は、ぼくはだんだん増してきた。ただ社会の遅れとかいうことだけじゃなくてね、困ったもんだという気がするんですけどね。」(自由 1985.6.2.pp.149-153)
「(文明の)「精神」をいいかえれば「人民の気風」です。これがこの書物の中核的な概念の一つになります。…たとえば、アジアとヨーロッパとのちがいは一人のちがいではなく全体のちがいである。一人一人見ていったらアジアにも秀れた人はいるのだが、全体の気風に制せられる。…要するに一国の気風を変えて、人民独立の精神を根づかせるということになります。」(集⑬「文明論之概略を読む(上・中)」1986.pp.118-119)
 「たとえば今の日本を見ると、官に在る人にもなかなか秀れた人物が少なくないし、平民にしても無気力な愚民だけではない。ところが、一人一人は智者でも、集まると愚かなことをやる。…日本はなぜそうなってしまうのか、といえば、結局一国の気風というものに制せられるからだ。だから、今の我国の文明を前に進めるためには何よりも「先ずかの人心に浸潤したる気風を一掃せざるべからず」ということになるわけです。そして、有名な一身独立して一国独立するという命題に結びつけていくのです。」(集⑬ 同上pp.118-120)
「どんなに純精善良な説であっても、それが政治権力と合体して正統とされたときは、思想的自由は原理的には生じない。‥自由の気風はただ多事争論の中からしか出てこない。必ず反対意見が自由に発表され、少数意見の権利が保証されるところにのみ存在する。いわゆる市民的自由というものが「形式的」自由であるといわれる理由がここにあります。つまり、特定の思想内容に係わらない、いかなる説でも自由に表明されるべしということです。ここでは必ず複数の考え方の共存と競争が前提になるわけです。…
 ‥自由の専制-つまりザ・リバティ-は自由でないという逆説ですね。自由はつねに諸自由(リバティーズ)という複数形であるべきで、一つの自由、たとえば報道の自由が、他の自由、たとえばプライヴァシーの自由によって制約せられている-まさにそのいろいろな自由のせめぎ合いの中に自由があるのだ、というわけです。…
 これと対立するザ・リバティを主張する典型的な命題はロベスピエールの「自由は暴政にたいする独裁である」という、別の逆説です。こっちの流れから「プロレタリアート独裁」という観念も出てくるので、これは、まさに二つの自由観の対立なのです。
 けれどもここで注意しなければならないのは、この二つの対立する自由観がともに近代的自由観のなかに流れこんでいる、ということです。たとえば三権分立とか権力分立とかいう考え方はや制度は、右の「諸自由」の間の牽制と均衡という原理に立っていますが、人民主権-あるいは人民主権まで徹底しないでも、政府の専制対人民の自由というアンチテーゼを前提とする政治思想や制度は明らかに「もう一つ」の自由観の現われです。国民代表の原理にたつ議会制民主主義の考えもそうです。…近代的自由にはその二つの要素がともに内在していて、簡単に一方だけを切りすてるというわけに行かない‥。」(集⑬ 同上pp138-139)
「「個一個人の気象」に「インヂヴヰヂュアリチ」と、わざわざ注記していることが重要です。つまりindividualityという英語を、逆に独一個の気象または独一個人の気象と訳したわけです。…
 なぜミルが個性を強調したかといえば、デモクラシーの発達とともに、凡庸の支配が出てくる傾向がある。‥多数の横暴と同じく、ミルはそれを憂えた。社会の平等化とともに人間の平均化現象がおこる。これはトクヴィルの『アメリカにおけるデモクラシー』における大きなテーマでもあり、ミルは‥このトクヴィルからも学んで、平均化された大衆に対する「個性」の伸長の必要を『自由論』で展開したのです。
 個人主義と一口にいいますが、十八世紀の啓蒙的個人主義には、こういう意味の個性の主張はありません。それは十九世紀に入ってロマン主義の台頭とともに前面に出てくる主張です。丸山眞男なら丸山眞男という人間が二人とはこの世にいない、というのが「個性」です。この考えは、淵源となるとキリスト教にまでさかのぼりますが、近代における発生はロマン主義的自我なのです。
 啓蒙的個人主義の個人は普遍的理性を具えた個人です。ですから、普遍的理性を具えたものとして、全ての人間は平等であるという意識が出てくる。
 近代的自由というもののなかに、普遍的理性を前提とした平等意識にもとづく個人主義と、理性的個人主義と、そういう二つの要素があるのです。ヨーロッパの近代的自我には、本来こうした必ずしも一致しない二元的な観念がからみ合っていて、それが十九世紀をずっと貫いています。G・ジンメルは「個性」に依拠する個人主義を、「唯一性の個人主義」‥と呼んでいますが、この流れは、ニーチェの「超人」になったり、いろいろな現われ方をします。それが民族に投射されると、「民族精神」となり、民族的個性の強調になります。十九世紀のヨーロッパ思想史のなかでは非常に面白い問題です。近代ヨーロッパを「近代合理主義」などといって一括するのは、その点だけ見てもたいへん粗雑な考え方です。十九世紀を覆ったロマン主義思想はまさに十八世紀的合理主義への反逆だからです。
 ただJ・S・ミルが『自由論』でいう個性は、ロマン的自我の個性というよりは、世論の圧力や多数意見に盲従しない個人の思想・言論の自由が主旋律であり、福沢のいう「インヂヴヰヂュアリチ」あるいは独一個人の気象というのも、そんなに厄介な詮索のうえで使っているのではなく、今日の言葉でいえば、個人の自立性というほどの意味です。武人の気象はいかにも快活不羈に見えるけれども、先祖とか家名とか君のためとかいう自分以外の社会的存在によって名誉心が動機づけられているかぎり、自主独立の精神とはいえない、ということです。」(集⑭ 「文明論之概略を読む(中・下)」1986.pp.196-198)
「人権という概念は確かに西欧から出ている。しかし西欧から出て、それが普遍的概念になるから世界中に拡がっていく。ヨーロッパの帝国主義を、あるいはヨーロッパの搾取を弾劾する武器にもなる。その中に普遍性の種を蔵しているから、自分に対する刃になってくる。だから、世界人権宣言というのは無から生まれたのじゃなくて、アメリカ独立、フランス革命、長い人権の歴史の中で世界人権宣言もあるわけでね。そういう伝統を持ったところと、人権の伝統のない日本みたいなところで"権利"という場合とは、常識が違ってくるわけです。…
 個別的な権利と人権とはやはり区別しなければいけないと思います。同性愛の権利というのは個別的権利-性的自由の中の一つの項目-であって、それがないから人権がないということじゃなくて……。人権についての共通の理解があって、その上に個別的条項を加えるということなんですね。やはり普遍的な理念としての人権がなければ話にならないと思う。例えば一世紀経ったら、同性愛は人権じゃないという考え方が出てくるかもしれない、個別的な権利だから。」(手帖7 「秋陽会記」1991.11.3.pp.61-62)
 「諸権利の集合が人権なのかというと、そうじゃない。逆なんです、むしろ。歴史的にいうとピューリタン革命では人権は出てこない。イギリス人の権利なんです、イングランドに住む人民の権利なんです。それがアメリカ独立宣言における人権宣言、フランス革命の人権宣言とイギリス革命との非常な違い。みんなブルジョア革命って一括しちゃったんだけど、何故イギリスの場合は反革命の干渉を受けなかったのか。イギリス人の人権の擁護-マグナ・カルタなんです、基は。イギリス人が元来持っていた権利を侵害したのは王である。これを回復しようという運動なんです。だからフランスとか他の国は関係ないわけですよ。それがパティキュラリズムとユニヴァーサリズムの非常な違いで、ユニヴァーサリズムが初めて公式文書になったのはアメリカの独立宣言。しかし、実際に非常に世界に拡がったのは、フランスの人権宣言。あの中で一切の抑圧された-これがロシア革命のモデルなんです-国民の解放を宣言しちゃったのです。それで他の絶対主義勢力が全部革命を押しつぶそう、と。そのモデルがロシア革命、万国のプロレタリアートの解放-"これは大変"ってことになってみんな干渉する。ソビエトに対する干渉は、そこから始まる。」(手帖7 同上p.62)
「アナーキズムというのは、リベラリズムの中の人間性は善だという考え方を極端にまで押しつめた考え方なんですね。クロポトキンの相互扶助論。つまり、なまじっか制度とか法律があるから悪くなる。たしかにそういう面もあるんだ。全く嘘とは言えない。それでは、人間性そのものをそれほど楽観できるか。人間のエゴの要素をアナーキズムは根本的に無視しているんだな、政治思想としては。
 もちろん、権力とか制度というものに対してネガティブになるのは、そういうものが、人間そのものをかえって抑圧しているから。このごろの管理とかを見てもそうですね。たしかに抑圧している中にマイナス面は明らかにある。逆にそういうものが全部なくなれば、人間の各々助け合う心情だけが伸びていくかというと、実際はそれほど甘くはない。それには両方あって、アダムとイヴ以来、りんごの実を食ったマイナスの面が。大げさに言うと人間性の中にある罪の要素というか、罪にまでいかなくてもエゴイズムの……。厳しすぎるんですね、アナーキズムというのは。‥
 ある意味で進歩思想とは、みんなそうなんです。デモクラシーもリベラリズムも、究極はアナーキズムになるんです。それは、制度なんてないほうがいいに決まっている。みんなが相互に助け合ってうまくいけば、一番いいじゃないですか。いいに決まっている。
 だけど、例えば、大杉栄は本能の絶対肯定でしょ。とくに日本みたいに理想主義の伝統が弱いと、克己という、自分を克服するというのが出てこない。これは全面解放だから、なにも女性関係だけじゃなくって。それは、ちょっとひどいものだ。自分が自分を抑えるというか、自分の中の分裂を認めないんだから。自我の解放ですから。自我の解放というのは、日本的心情主義と相通じるところがある。ファウストじゃないけれど、「わが中に二つの魂がある」というのはないんだ。魂は一つしかないから、レーベンが、生命力が外へ向かって噴出しようとするのと、それを抑えようとする権力の制限との闘いという、その二元論しかないわけ。自分の中の二元性というのを認めない。だから、当為とか、そうすべきだということが出てこない。」(手帖41 「丸山眞男先生を囲む会(上)」1993.7.31.pp.22-23)
「(「人権という概念は、政治思想史の中で扱うことのできる概念なんですか」との質問に)政治思想史と法思想史でしょうね、扱えるのは。哲学では出てきませんね。‥哲学者は論じていますよ。ロックでも、ヒュームでも、カントでも、みんな人権は論じています。しかし、人権の歴史とか、そういうことを問題にすると、それは哲学史じゃなくなりますね。倫理思想史でも人権とはあまり言わないですね。ただ法、政治と倫理がいちばん関係が深いから、その次は倫理思想史でしょうね。(right)という観念自身が法的観念だし。それから次に政治的観念だし。それから倫理では正当という意味で。正当、正しいという意味でライトですね。
 (「人権という思想が日常道徳にあんまり関係しないというか、巻き込まれない」という発言に対し)それはまた別の問題。二つあるんですね、問題は。権利という観念と、「人(じん)」という観念と。人(ひと)という観念と権利という観念とがぶつかるわけでしょう。君主の権利とか、大統領の権利とか、あるいは、この家に長く住んでいる権利とか、俺はこんなに長く東京に住んでいるんだから、東京都民として権利があるのは当然じゃないかとか。そう言うほうがわかりやすい。人間としての権利というのがいちばんわかりにくい。そこが大事なんです。人権とは、「ただの人間」としての権利で、東京に住んでいるとか、日本人だとか、東大の教授だとかは関係ないわけです。それにもかかわらず人間として権利を持っているという観念が定着しにくいのはなぜか。
 (「ただの人間としての権利というのは、いつ頃どこで生まれた考えなんでしょうか」との質問に答え)いわゆる人権という言葉が発したのは、西ヨーロッパですね。一般的に定着するようになったのは、フランス革命以後です。ある朝目覚めたら人権という言葉が出てきたということはないけれども、歴史的画期、エポックメイキングと言えば、フランス革命です。(「例えば東洋政治思想史の、堯・舜の時代に、人権という観念は」という問いかけに)ない。論理的に言いますと、その基礎にはユニーバーサリズムとパティキュラリズム、普遍主義と特殊主義の区別があるわけですよ。つまり、ただの人間というのは普遍主義的概念です。
 (「「ただの人間」という考えもやはり、人権と同じような頃に生まれてきた考え……」という質問に)言葉として流通するようになって、割合一般の人も使うようになったという画期は、フランス革命なんです。いつ頃から生まれたかというと、これは非常に古くなっちゃうんですね。やはり普遍宗教とともに生まれた、僕に言わせれば。例えば神道は普遍宗教じゃないです。これは日本の皇室の由来を説明する宗教だから、特殊主義的な宗教。仏教、キリスト教、イスラム教は全部普遍宗教。これらはどこの国の人間だからとかは関係ないんですよ。ユダヤ教はいかにもイスラエルみたいだけれど、あれも普遍宗教なんです。ユダヤ教を日本人が信じちゃいけないということはない。だからこれもやはり普遍宗教。‥僕の仮説、ドグマになりますが、普遍宗教がはじめて「ただの人間」という観念を生んだ。日本でそういう観念が薄いということは、言い換えれば普遍宗教の観念が薄いということ。つまり特殊主義的考え方が非常に強い。それが‥ウチ・ヨソと関係があるわけです。
 (「まさに今おっしゃったことが、アムネスティの抱えている大きな問題だと思っているんです。アムネスティ・インターナショナルということで、そのインターナショナルにこめている意味というのは、単に欧米の人権概念の押しつけじゃないんだとと。もっと内発的なものとして人権をとらえて、普遍的なものとしていこうと口では言っているんです。ところが、現実はどうなっているかというと、どうしても欧米の運動のものまねのようになってしまう自分たちの運動のあり方。そのジレンマがまさにある。」という発言を受けて)僕はそれに反駁する立場なんです。ただ、そういうふうに考えることは大切です。歴史というのはそういうものだと、とりあえず認識すること。しかしそれを承認することじゃないです。まったく反対です。日本では、まさにその反対だということが、なかなか理解されない。つまり、正統性の根拠と発生の由来とが混同されるんです、日本では。どこに発生したかということと、それが正しいかどうかということが、混同される。その本質と発生とが混同される。簡単な例で僕が何べんも出すのは、キリスト教はヨーロッパの宗教、ヨーロッパの伝統だと言いますね。では、ヨーロッパでキリスト教が発生したのか。とんでもないですよ。‥キリスト教はオリエントに生えた宗教をもってきて、ヨーロッパの伝統にしたんです、長い歴史の間に。ウチに生えたものだけが伝統がという感覚が、日本は非常に強い。それは、‥ウチとヨソに関係があるんです。…どこに発生したかということと、伝統かどうかというのは、関係ないんです。日本で言うと、およそヨーロッパ的なものの考え方は、全部ヨソなんです。国会であれ、立憲制であれ、自由であれ、平等であれ、発生は全部ヨーロッパ。だから発生と伝統とに必然な関係があるならば、これは伝統じゃないんですよ、全部。ヨーロッパに発生しようが、中国に発生しようが、それをもってきて伝統にするかどうかということは、我々の問題なんです。…日本に昔からなかったということ、それから日本において理解されている自由とか平等とか人権という考え方と、ヨーロッパの理解の仕方とは違うという、そこを認識することが大事です。日本のは良くて外国のはダメだとか、外国のは良くて日本のはダメだとかいうのとは別問題なんです。」(手帖54 「「アムネスティ・インターナショナル日本」メンバーとの対話」1993.10.20.pp.11-15)
 「(「アムネスティが今直面しているのは、‥人権というものの普遍性を持ちながら、どう現場の課題につなげたらいいのかという悩み」という発言を受けて)それは全ての問題です。近代的な抽象語は、全部翻訳語ですから。人権だけじゃないです。自由も、平等も、みなそうです。‥あらゆる抽象語は大和言葉ではないんですよ。だから全部漢語を使った。漢語、あるいは仏(ぶつ)語ですね。面白いんです。平等(びょうどう)と言うでしょ。もしも平等を漢語で読めばヘイトウです。なぜ呉音でビョウドウと言うかというと、漢語ではないからです。‥ビョウドウという仏教語はある。だからビョウドウという呉音で読むんです。なぜか。それは‥普遍宗教というものがはじめて平等観念を生んだということの一つの証拠なんです。
 中国の儒教は普遍宗教じゃないんです。最も高度な哲学を持った特殊宗教です。なぜなら儒教の基本的な道徳は、五倫なんです。‥(君臣・父子・夫婦:・兄弟・朋友の中の)朋友は友だちでしょ。友だち以外の人はたくさんいるわけ。赤の他人。友だちじゃないわけですよ。それについての道徳がないんです、儒教には。結局どう解釈しているかと言うと、朋友の観念を推し及ぼすという。赤の他人同士の道徳はないんです。なぜないのか。つまり、特殊主義的な哲学だからです。つまり、ただの人間なんてものはない。‥今でも日本は強いでしょ、人間なんて抽象概念で、ないじゃないかと。日本人、アメリカ人、フランス人なんてのがあるだけで、ただの人間なんてものは存在しないんだという。これはやっぱり儒教がそういう考え方なんです。ただの人間という観念が存在するということを教えたのが、普遍宗教。キリスト教だけでなく仏教にもある。」(手帖54  同上pp.15-16)
(「アメリカの国務省がとっている外交政策はエンラージメント政策と言って、アメリカ的人権、自由、資本主義の社会を広めていく。結果的には儒教の言っている朋友主義、要するにアメリカ的な人権概念を共有できる友だち関係にしていきましょうという政策」という問題提起を受けて)問題は、アメリカが現実にやっていることと、アメリカン・デモクラシーの中にそもそもそういう考え方があるのかということを、区別しなければいけない。‥理念と現実をどこまで区別するかという能力の問題なんです。アメリカが現実にやっていることと、アメリカン・デモクラシーの理念とは違う。‥アメリカン・デモクラシーがアメリカの利益を超えたものを持っているから世界を動かす。現実にやっていることとは別です。
 アメリカでなぜそういう考えが強いかというのは、アメリカの歴史の中に非常に深い由来がある。‥だけど、近代思想の中には、そういう考え方を否定する考え方がある。それが寛容ということです。それは儒教にはないです。真理と正義を体現しているんです、聖人の教えは。それに反する奴は、不正義なんだ。不正義はやっつける以外にない。そうすると、寛容という考え方がないんです。キリスト教にもずっとなかった。プロテスタントとカトリックが血を流して、二世紀も争って、はじめて寛容という考え方が出てきた。違った信仰を認めるという考え。‥寛容という考え方があって、はじめてアメリカの独立が正当化されるんです。だからアメリカの独立の思想の中には寛容という言葉がはじめから入っている。それは思想だけじゃないかということがあるけれど、そんなことはないです。‥アメリカがやっていることは、自分の考え方を世界に広めているだけじゃないかということを自由に言っている出版物が山ほどあります。これはアメリカの大したところです。それがアメリカの自由の精神なんです。政府の言っていることに反対する自由というのが、山ほどあります。‥違った考え方に対する自由、異なった意見の発表の自由、これは言論の自由の根幹。
 ホームズというアメリカの最高裁判所判事の有名な言葉に「思想の自由とは憎む思想に対する自由である」というのがある。‥自分と反対の思想に自由を認めるかどうかが、試金石なの。」(手帖54 同上pp.16-18)
(「自由に反対する自由は認められるのか」「人権に反対する人権もまた認められるのか」という問題提起に対し)憎む思想に対する自由を認めなければ自由じゃないということは、わかるでしょ。自由に反対する自由はあるかというのは、今でも解けない問題です。自由に反対する自由を認めるという説と、認めないという説とあって、今でも大きく分かれています。今のドイツの問題です。新しいナチ運動に対して、どれだけ自由を認めるかというのは、その問題なんです。‥思想言論の自由を否定するイデオロギーに立った運動に対して自由を認めるのは、言論の自由の自殺じゃないかと。それは禁止すると。ただそうすると、定義の問題になっちゃう。何が一体自由を否定する思想だと言えるのかと。そういうと、マッカーシズムも肯定されちゃうんです。‥自由を否定する思想に対しては自由を認めないというのが、マッカーシズムの根拠なんです。」(手帖54 同上pp.18-19)
(「自分の生活体験から、普遍原理につながる言葉がどうやって出てくるのかよくわからないんです。どうすれば豊かな実感をもった普遍原理の言葉が自分の中に生まれていくのか、そのための契機というか、チャンスというのは、今の日本社会の中でどういうふうにあり得るのかが、よくわからない」という発言に対して)気が短いんだな、日本人は。そういうことは、今日や明日でできると思うほうが間違い。僕はそう思います。今日、明日でできると思うから、そんなことやっても意味がないか、その言葉に酔っちゃうかのどちらかになっちゃう。政治改革と言うと、猫も杓子も政治改革になる。民主主義と言うと、猫も杓子も民主主義になる。それに対して迷う人は、‥本当の意味での内発的、自分の内側から出たものになるかということを考えているんです。しかしそれはなかなかならないという覚悟を持たないとできないの。気を長く持ってやる以外ないんですね。僕自身がそうです。‥歴史の勉強をやっていますと、一年や二年では考えないんですよ。一年や二年では変わらないんですね。二、三百年単位でしょ。極端に言えば僕の言ったことは、絶対に少数だといつも思っています。それは構わない。‥ぼくはマイノリティという意識がいつもあります。だけど、百年後、二百年後にはもう少しわかる人が増えるかも知れないと思っています。‥今通らなくたっていつかは通る。真理は必ず通るんだと。まさにそれがないの、我々には。我々はやっぱり気が短いです。一〇年や二〇年で浸透するはずがないです、アムネスティの理念なんてものは。‥一人でも、二人でもいいからつくっていく、言わば同志を。それがあちこちにいれば、大変な運動になるんです、結果においては。自由主義運動でも、民主主義運動でも、社会主義運動でも、あらゆるものはそうやって運動になっていった。はじめから一挙に大衆に広がるなんて言うのは、嘘に決まっています。みんな少数者の、非常に長い少数者の運動というものを経験しているんです。だからまた思想はそれだけ長い生命を持つ。‥だからロングランに考える以外ないんですね。」(手帖54 同上pp.20-21)
 「ウチとかヨソとか言ったのは、そういう普遍主義的な考え方が、実感として定着するのを阻む事情が日本にあるのではないか、ということの歴史的説明をしたつもりなんです。だから、しょうがないじゃないかというのは、僕に言わせると気が早いの。気が早いから変わり身も早い。‥亡命したことなんてないでしょ。向こうの知識人なんかだと自分の思想を捨てるか、思想をとって亡命するかという選択に何度も立っているわけ。僕が戦争中抵抗したと言って威張らないのは、海外に行ってまずはじめに、なぜ亡命しなかったのかと言われたからです。夢にも思わない、亡命なんてことは。当時、新聞や雑誌を覆っているあらゆる思想に対して一〇〇パーセント近い反対を持っていながら、亡命ということが頭にないんですよ。これはやっぱり日本の特殊事情です。‥それぐらい自分の思想を守って亡命するというのは、普通のこと。ということは、国を捨てるということは、普通なんですよ。自分の国は手段ですから。何も日本人である必要はないわけです。自分の信念と相容れなかったら捨てるほうが当たり前なんです。‥日本に生まれて、日本にいるよりほかしょうがないというのが、我々の根本の観念で。
 だんだん変わりましたね。戦後は変わったんじゃないですか、僕らの時代から比べると。良い悪いは別として、国籍を変更するということに対する観念が割合自由になったでしょ。僕はそれは非常に良いことだと、特にウチ・ヨソ思想〔を破るという点〕から言えば。国籍なんてものは変更したっていいんですよ。‥日本国民であり、日本国籍を持っているということは、人工的なものです。だからそれは、自分の信念に反すれば、何時でも変更してもいい。」(手帖54 同上pp.21-23)
 「わざわざ人権という言葉を避けることはないんで、今は人権という言葉もかなり普及している。むしろやるべきことは、人権のこういう考え方はおかしいという、その論理の練習ですよ。人権概念の中の争いなんですよ。するとこれは、南の人でも通用する。
 (「言論の自由ということしか言わないで、貧しい人たちがいくら困っていても、それは人権じゃないみたいな顔をしているから、それに対する反感があるんだと思うんです」という提起に対して)人権の無限の拡張はいけないと思います。例えば、貧困の問題は貧困の問題なんであって、貧困の問題を解決するのは、人権思想じゃないんです。それは社会問題であって、社会の機構をどう変えていくかということと関係するから、いかに人権思想が普及しても貧困の問題は解決しません。
 (「人権という中には、自由もあれば、いろいろありますよね。平等は人権の確信であるという意見もあります」という提起に対して)何が核心だなんて議論をすると、人権の大議論があるという以外にないです。ただ、それなしに人権があり得ない重要な構成要素として、差別の否定ということはある。」(手帖54 同上pp.37-38)
 「(「人権にしても、民主主義にしても、自由にしても、強い個人というのを前提にしている。だけど人間はそんなに強くないんだから、強い個人を前提にした意見は非現実的であって、結局まずいことになる」「つまり、人間は弱いもので、共同体があってはじめて生きられるようなものだから、あまり強い個人を主張するような意見は、非現実的ではないか」「つまり「こどもの権利条約」で子どもが強くなる、女性差別反対で女が強くなる。そうすると家庭が崩壊してしまうのではないか」という質問に答え)非常に深く考えれば、自由・平等・博愛・人権という思想は、人間性を高く見ているんです。高く見過ぎているからいけないというのに対しては、反駁が困難ですね。だから理想になるんです。どの国も完全にそれらを実現していないんです。そういう社会は世界中どこにもない。にもかかわらず、自由・平等・博愛・人権がなぜ理念になるのかと。それを目指さなければいけないという方向性にあるからです。現実の人間はそれよりはるかに下なんです。以下だから、それを目指さなければいけない。みんな理想なの。問題は、人間は自分の力でその理想に近づけるのか、近づけないのかということです。極端に言うと、これは宗教問題になっちゃう。仏教で言うと、自力・他力なんです。キリスト教も他力です。内村みたいな厳しいクリスチャンは、デモクラシーとか自由を全然認めないです。あれは人間絶対主義の否定だから。人間の罪というものに対する自覚が足りない。人間が自分の努力で理想社会をつくるなんてとんでもない。特にプロテスタントにはそういう考え方がずっとあります。だから理想社会をつくろうという考え方自身が、傲慢なんですね。人間の能力に対する傲慢から発している。深刻な問題になっちゃって難しいんですが、それに対してはオルタナティブ、じゃあどうしたらいいですか、ということを訊ねることが大事。どうせ現実の状態がそうだから、貧富の差がいくら大きくても仕方がないと黙っているのか。差別があってもしょうがないからと黙っているのか。どんなに遠い理想であろうと、どんなに現実に人間がそれから遠くても、それを目指すことによって、一歩でも二歩でもそれに近づき得るのか。そうしたらそこに寝そべっちゅよりいいじゃないかと。僕は現実に寝そべるよりは、理想を求めたほうがいいということ以外に言えないです。日本では変な現実主義が多いんです。理想主義というのは、高いところにあるものを取ろうとするわけです。高いところにあるものを取ろうとすると、転んだりして変な格好になる。いちばん安定しているのは、寝ていることなんです。寝ていて、あんな格好してバカだなぁと言っている。これが日本の現実主義。これがいちばん安定している。所与の現実をただ絶対化する。しかし、これでは全然進歩がないです。それでいいんですか、と。転びつ、まろびつ、少しでも理想に近づいていくという、そういう人間観をとるかということです。」(手帖54 同上pp.46-48)