欧州文明の多元性

2016.4.21.

「二一・七・五
ギリシャ的合理主義と近代的合理主義。
 近代的合理主義は徹底的な経験論と相ともなつて現はれた。ギリシャ的合理主義は幾何学の精神、数学の精神であり、それは根本的に演繹的である。そこで経験的なものから出発する様に見えてゐる場合にも、よく見ると、経験的なものの中に、すでにイデーが、合法則性が内在してゐるのだ。アリストテレスの経験主義に最もよくあらはれてゐる様に、具体的なものはつねに質料と形相の二面を含んでゐる。だからそこでの客体は目的論的だ。純粋に機械的な、一切の価値的なものを含まぬ客観的自然は近代の発見にかゝる。近代的合理主義は、理性的なもの、価値的なものを客体に内在せるものと見ずに、客体に対して主体が賦与するものと見る。従つて、形相(形式)を賦与されない以前の客体(質料)は全くのカオスである。(概念なき直観は盲目である(原注:カントの言葉)。)
 〔ここに近代合理主義の行動性、実践性が生れる。スコラ的観想に対するデカルト的能動性、実験精神。
 東洋の経験と西洋の経験。〕
 この純然たるカオスという観念はギリシャ人にはフレムドであつた。
 清水幾多郎氏曰く、さういふカオスの観念の起源はクリスト教にある。」(対 話 pp.18-19)
「ヨーロッパに於て精神と自然が一は内的なる主観として一は外的なる客観として対立したのはまぎれもなくルネッサンス以後の最も重大な意識の革命であった。…近世の自然観は、このアリストテレス的価値序列(丸山:質料-形相の階層的論理)を打破して、自然からあらゆる内在的価値を奪い、之を純粋な機械的自然として-従って量的な、「記号」に還元しうる関係として-把握することによって完成した。しかも価値的なものが客体的な自然から排除される過程は同時に之を主体的精神が独占的に吸収する過程でもあった。自然を精神から完全に疎外し之に外部的客観性を承認することが同時に、精神が社会的位階への内在から脱出して主体的な独立性を自覚する契機となったのである。ニュートン力学に結晶した近代自然科学のめざましい勃興は、デカルト以後の強烈な主体的理性の覚醒によって裏うちされていたのである。」(集③ 「福沢に於ける「実学」の展開」1947.3.p.122)
「今日の民主主義には大まかにいって二つの系譜があり、その合流、葛藤によってさらに種々のものがでてきた‥。
 そのⅠの系譜は「ポリス(ギリシャの都市国家)的民主主義」の概念である。ここでの中核概念は積極的市民すなわち公民が公共事の決定および施行に参与すること、つまり市民の参与participationである。…
 Ⅰの系譜からは、間接民主制より、直接民主制の法がヨリ民主的という結論が出てくる。また、ここからいわゆる「人民主権」-権力行使についての最終的判定者は人民である-の考え方が出てきて、革命権、反抗権が正当づけられる。換言すれば人民と国家権力とが一体化すればするほど民主化というわけで、思想史的にはルソーがこの古代的デモクラシー理念の系列を代表し、ジャコバン主義へと流れ込む。
 これに対しⅡの系譜は「クリスト教および中世に由来する民主主義」であり、これはむしろ立憲主義Constitutionalismといった方がよいかもしれない。ここではストアから中世に至る自然法思想や中世に由来する立憲主義的伝統が基礎となる。権力が単一主体に集中したり、ヨリ上級の規範によって拘束されないという事態になると、本来よい目的をもった権力でも濫用されたり害を生ずる、という考え方が中核をなす。…
 Ⅱの系譜はその由来を問えば、本来aristocraticなもので、封建貴族、自治都市、教会、地方団体等が自分たちの身分的特権を王の恣意的権力行使から守ろうとしたところに端を発している。しかし、ここからも、特権は自然法によっているという理由のもとに、自然法に反する君主の権力行使には反抗する権利がある、という身分的立場からの抵抗権の主張が生まれた。現在の西欧民主主義は十九世紀後半に、このⅠ・Ⅱの系譜が合流し、妥協してできたものである。(集⑧ 「民主主義の歴史的背景」1959.2.pp.90-92)
「ゲオルク・ジンメルは、人間の社会的結合の発展過程というものを二つの指標(メルクマール)から解明しているのでありますが、その一つは‥集団の拡大であり、それにともなう‥個性の形成[人格の個性化]であります。これは視圏の拡大ということになってあらわれるというのであります。
 そして、ここで視圏の拡大というのは、たんに社会的事実としての集団の拡大をいうのではなくて、人間の意識における視圏の拡大というように理解されなければいけないわけであります。たとえば、中国というところは、‥ヨーロッパ全体あるいはそれ以上の大きさをもっている。にもかかわらず、そこに非常な歴史的停滞性が支配していた。つまり異質的なものとの接触交流が欠けているから視圏の拡大が行われていない。だから、近代意識の形成は、‥自己中心的な世界から、「世界のうちにおける自己」というように問題が転化されていく、そういうプロセスとして考えることができる。一見逆説的でありますけれども、自己中心的な世界像が克服されていくに応じて、個性の確立が行われていく。
 …それは言い換えれば、自己中心的な世界像がそのまま拡大していくというプロセスではなくて遠近法的な見方が克服されていく-常に自分というものを社会の中において見ることであります。
 これを国家に投影するならば、自分が属する日本なり中国なりがすなわち世界であった段階から、世界の中における日本なり中国なりとして自覚していく過程なのであります。…エゴツェントリッシュな遠近法的な見方が構造的な見方によってとって代わられる。それに応じて、むしろ逆説的に個性というものが確立されてくるというわけなのであります[客観世界の成立と主体意識の形成とは楯の両面]。
 で、近代ヨーロッパ的な進歩というものは、こういったいわゆるUnity in Varietyのなかにある。言い換えればUniformity(画一性)の世界から‥社会的分化が起こり、文化の多様性と人格の個性化という原則が生まれる。その中に近代ヨーロッパの進歩の秘密がある。…
 で、いわゆるヨーロッパにおける市民社会の形成というものをイデオロギッシュにみるならば、それがまさに、われわれがここで言ったところの多様性の中における統一-ますます社会的ヴァライエティが豊富になり、それによってますます人格の個性化が完成していく、しかしそれによって、統一は、死んだ固定的統一から生きた豊富な統一になってくる-これをもっとも総括的な表現で示すならば、ヨーロッパにおける「市民社会の形成」ということにほかならない。…Unity in Varietyの原理は、経済・政治・教育・文化あらゆる領域を貫通している。」(別集① 「ヨーロッパと日本」1949.6.17. pp.334-337)
「ヨーロッパの自由・デモクラシー・立憲主義の‥あるものは中世に根をもち確立されたもの、あるものはギリシャで確立し、そうしたものがあいあつまってブルジョア・デモクラシーを形成しているわけです。それゆえに、その中に矛盾するものがいくらもあるわけですね。たとえば、権力の分立と人民の支配-つまり治者と被治者の合致という理想とは矛盾する。この両者は系譜としてはちがったものからきているわけで、ちがった系譜からの思想で矛盾するものはいくつもあるわけです。」(集⑯ 「普遍の意識欠く日本の思想」1964.7.15.p.58)
「ヨーロッパで、近代的な法観念ないしは基本的人権とか、ルール・オブ・ローとかいう観念が発達してきたのはなぜかということには、もちろんいろんな歴史的原因があります。しかし、しばしば忘れられていることの一つに、‥ヨーロッパというものはもと非常に異質的な文化、異質的な民族・人種・言語、そういうものが絶えず接触し、混乱を起こしながら、だんだんとあるまとまった文化圏をなしていった社会、その意味で、多元的な社会だったということです。…完全な他者と他者が向い合う社会はどういう社会かということを、極端な理念型として考えますと、これが、ホッブスなんかが社会契約説をとった時に考えた自然状態です。規範とか秩序とかについての共通の了解が全くない社会というものを想定しますと、これはさっきいった、人間関係における他者の行動にたいする期待可能性がゼロの社会です。…これではとうてい暮していけない。そこでしかたなく、‥契約をとりかわす。とにかく、突然とびかかって私を刺すというようなことはよそうじゃないか、私もやらないという約束がまずできるわけです。これが秩序をつくる最初の行為です。もし二人のうちどちらかがこの約束を破ればどうなるか、これは自然状態に復帰するわけです。‥そこで契約は守らなければならないというルール意識が出てくる。ルールというものは、他者と他者とが相対した時に、相手の行動の予測可能性がゼロですから、自分の自然権をまもるためにも、契約をして一つの秩序を維持する、というところから出てくる。これは現実にそうだったというのではない。ですから、社会契約説というのはフィクションです。しかし、それは相互に他者であるような人間によって構成された社会ほど、このフィクションは想像力によって裏づけられる。お互いに契約を守らないとこういうことになるぞということからして、法意識および規範意識というものがいわば下から発達してくる。
 事実関係と規範意識の区別の問題もこれと関連しています。事実関係というのは自然状態ですから、いわば純粋な物理的な力関係の状態、これにたいして区別された規範関係がルールの関係です。ですから、そこから法的権利という観念が出てくるんです。…そうでないと強い者勝ちになる。そうでなくするために法がある。そういう考え方を前提にして、はじめて正義と司法とがなぜ同じコトバで表現されるのかが理解されるわけです。…はじめから根本的に同質的でいわば一大部落だった日本のような社会と、「他者」と「他者」によって構成されたヨーロッパのような社会とは、やっぱり法意識が違います。」(集⑯ 「丸山眞男教授をかこむ座談会の記録」1968.11.pp.110-112)
「近代史知識人の誕生というのは、まず、身分的=制度的な錨付(いかりづ)けから解放されること、それから、オーソドックスな世界解釈の配給者という役目から解放されることが前提となります。そういう二重の意味で「自由な」知識人がここに誕生する。‥多様な世界解釈がちょうど商品が市場で競いあうように、思想の自由市場で競いあう時代が来る。これが近代の誕生であり、ヨーロッパでいえばルネッサンス-「デカメロン」の時代です。」(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)」1986.p.45)
「ローマ世界が、首都ローマを中心として、各地の都市自治体をいわばつなぎ合わせて「征服」することによって形成されたこと、つまり帝国の構造の「都市(ポリス)」的性格をギゾーは、中世の自治(コン)都市(ミューン)とならんで、ヨーロッパの自治体および市民集会の伝統の起源として重視します。」(集⑭ 「文明論之概略を読む(中・下)」1986.p.80)
「ギゾーによれば、古ゲルマン族の不覇奔放な「森林の自由」は、古代的自由ともキリスト教的自由とも性質を異にしていました。古代の都市国家の自由は政治的=公民的自由であって、公民から独立した個人の自由というものは知りませんでした。‥ギゾーのいうキリスト教の自由は、一つには教団の自由であり、一つには信仰のために自己の欲求を制御する内面的自由であって、いずれにしても、ここでいう「一身の自由」とはちがっていました。一つの団体の部分としてではない、純粋に個人的な自由と独立へのゲルマン人の愛好は、なるほどキリスト教の精神と制度とによって窒息し、あるいは訓化されたけれども、後々まで永続的な影響を残し、ヨーロッパ文明の根本原理の一つとなった、というのです。ゲルマン的自由感情を、とくにキリスト教の伝統と独立して、ヨーロッパ的自由の源泉の一つに数えたことは、ギゾー『文明史』がキリスト教の歴史的役割に大きな意義を附与しているだけに一層注目に値します。そうして福沢がこうした「自由の複数的起源説」からどんなに学び、それによってどんなに力づけられたかは、語り尽せないものがあります。…
 福沢が‥思い入れたっぷりに謳いあげている「独一個の男子」の「不覇独立の気風」は、やがて‥「日本文明の由来」において展開される「日本の武人に独一個人の気象(インヂヴヰヂュアリチ)なく」云々という、日本の武士の「伝統」にたいする痛烈な批判と、実ははるかにエコーを交し合うことになります。」(集⑭ 同上pp.83-85)
 「福沢がギゾーのキリスト教史の叙述を流れる核心的命題として、霊的権力の俗的権力からの独立と対抗の歴史的意義を読みとることができた一つの要因は、おそらくギゾーが強調したヨーロッパ文明の一般的特徴である、多様な要素の多元的な同時併存の一環として、この問題を受けとめたからと思われます。…
 なお、附言しておきますが、ギゾーは多元的な政治原理の併存を教会の内部組織にも認めております。つまりキリスト教会がそれ自体の歴史的発展のなかで、貴族政的・君主政的、あるいは民主政的な諸原理の実現を経験している、というのです。‥多元的要素の併存という、ギゾーがヨーロッパ文明を特色づけた契機を教会史の内部にも認めていることは、無視できない事柄のように思われます。多元的要素の対抗と併存が、ヨーロッパ文明において幾重にも相似形をなした組織原理をなしているのに対応した構造を、福沢は‥日本文明の「権力の偏重」のうちにも見ようとしているからです。」(集⑭ 同上pp.95-96)
「福沢は近代民主政の歴史的起源を、‥ローマ廃滅後も存続した市民会議における「民庶為政の元素」とならんで二つあげているわけです。
さきの個所でも、この段でも福沢がすでに「市民」という言葉を用いているのは注目すべきことです。とくにギゾーはここで近代ブルジョワジーの発生を論じているからです。‥ギゾーは、封建制と教会とならんで第三の近代文明の要素として、コンミューヌ(自治体)をあげているのですが、同時に、十二世紀の自由都市の市民を、その後裔としての近代ブルジョワジーと対比させて特徴づけており、そこは後段の近代に入ってからの福沢の叙述をヨリ正確に理解するためにも重要だと思われます‥。
 ギゾーは自由都市の市民を特色づけるのに、まずフランス革命勃発当時のイデオローグであるアベ・シェイエースの有名な「第三身分とは何ぞや」‥を引用します。あの「第三身分とは貴族と聖職者とを除くフランス国民(ナシオン)のことである」という命題です。もし、十二世紀自由都市の市民にこの一節を示したならば何のことを言っているのかさっぱり理解できないだろう、とギゾーはいうのです。フランスの「国民」という意味が第一分らないし、第三身分が「主権」‥をもっているという意味もチンプンカンプンだろう。けれども逆に主権を行使するブルジョワジーがこの中世自由都市に入ったら、これまた目をまるくして驚くにちがいない。そこでは市民は武装した要塞のなかにいて、仲間の市民にたいする課税権も刑罰権も首長選挙権ももっていて、市民全員が集会に出席して討議し、それどころか己れの民兵をもって封建領主と戦闘を交えることさえある。都市の中では完全に自治が行なわれ、市民自身が主権者になっている。しかしその一歩外に出ると、自分らに関係した事柄にも彼らは協議に与かるなんらの権利も‥ない。つまりすべてが逆なのであって、ここ-十八世紀末のフランス-においては「ブルジョワジーとしての国民」‥がすべてであって、コンミューヌ‥は「無」であるのに反し、かしこ-十二世紀の自由都市-では、前者が「無」であって後者がすべてである。
 要するに…一七八九年の「第三身分」が政治的にはまぎれもなく十二世紀のコンミューヌの子孫であり、その後継者であったことを‥ギゾーは強調しているのです。」(集⑭ 同上pp.97-99)
「ギゾーは前述のように十二世紀の市民が近代ブルジョワジーの起源でありながら、その相貌に著しい相違があることを指摘し、十二世紀と十六、七世紀-つまり「近代」の端初-との間のこうした巨大な飛躍を理解するためには、‥近代文明の諸々の構成要素およびまさに十二、三世紀ごろから生長する新しい要素としての君主政(モナキー)‥をも加えて、そうした多様な個別的要素がいかに組み合わせられて近代国家の普遍的な要素を生み出したか、具体的にいえば、「一つの国民と一つの政府」という政治的統合にまで立ちいたったか、という問題として歴史過程をたどらなければならない、と‥のべております。」(集⑭ 同上p.101)
「十字軍の歴史的役割について福沢が強調していることは、‥小アジアの異質文明との接触を通じて生まれた、ヨーロッパのヨーロッパとしての自己意識であり、さらに「各国の人民をして各国あるを知らしめた」というネーションの意識の端緒という点です。そうして十字軍が二百年にわたって成功しなかったことが、「宗教の権を争ふは政治の権を争ふの重大なるに若(し)かず」という教訓を各国君主に与え、また人民も「漸く其の所見を大にし、自国に勧工の企つ可きものあるを悟」った、という反面教師的な効果を指摘しているところは、‥すべてギゾーの講義にあります。」(集⑭ 同上pp.102-103)
「つぎの段は「国勢合一」という‥要するにヨーロッパ各国における絶対主義的君主政の興起です。…
 この段で注意すべきことが二つあります。一つは腕力から智力へという「時勢の変革」がちょうどバックルのテーゼと重なっていることです。その智力の優位は、たんに王権の側の問題だけでなく、火器の発達とか活字印刷の発明とかいった例をあげているようにテクノロジーの進歩と結びつき、それが人民によっても担われたことを強調しており、その点でもバックルと重なるのです。‥
 さて第二に注意すべきことは、こうして王権と人民とのはさみうちに合って、「中間勢力」としての貴族の権威が弱まったことが明確に指摘されている点です。‥そうしてこの絶対主義への途の歴史的意義が「国の権力漸く中心の一政府に集まらんとするの勢に赴きたるものと云ふ可し」と総括されるのです‥。
 絶対主義形成において人民の側の役割に目をくばっているのは、やはりギゾーに拠っておりますが、ここで手沢本にもう一つ「人民開化セサレハ国事ニ関ル可ラス」という書き入れをしているのは注意する必要があります。というのは、ギゾーがこの個所で言っているのは、いわゆる絶対主義の時代には、イギリスのような比較的自由な国民(ネーション)でさえ、課税とか国内問題に口をさしはさみ得たけれども、こと外交問題については全く関与できなかった、国際関係にまで人民が干渉できるようになるには人民の知性と政治的習慣がまだ不足していた、という趣旨でした。それを読んだ折に福沢は、必ずしも外交に限定しないで、一般的な国政の問題として右の書き入れをしているのです。」(集⑭ 同上pp.103-106)
「こうしてテーマは宗教改革へと移ります。‥興味あることは、宗教改革の歴史的背景についてはギゾーは相対的には委曲を尽して、しかもかなりソフィスティケートした形で論じているのにたいし、福沢の場合は‥事態をむしろ単純化してのべています。…やはりカトリックの伝統の強固なフランスでの新教徒であるギゾーが宗教改革を論ずる場合とは、そもそもとり組む姿勢がちがってくるのは自然です。すなわち、ここでは福沢は叙述を単純化しているだけでなく、むしろ宗教改革の「原因」を、人間の進歩と懐疑の精神に帰しています。…
 けれども、福沢の論旨は結論的にはギゾーと同じになります。福沢が宗教改革による殺戮の惨禍をのべながら、なるほどコストは大きかったけれども「(新旧両教ともに)教の正邪を主張するには非ずして、唯(ただ)人心の自由を許すと許さざるとを争ふものなり」といっているのは、論旨を単純化はしていますが、ギゾーがまさに宗教改革のもたらした「結果」として認めたところです。ただ、ギゾーは精神的革命の方が政治的革命に先立って獲得され、聖俗二つの領域の「解放」の間に時代的なズレがあることに注意を促しているのですが、この点は福沢の『概略』本文には直接現われずに、フランス革命の段階での手沢本への書き入れに見られます。」(集⑭ 同上pp.106-108)
「ギゾーが十五世紀における国民と中央政府の形成の叙述を「まずフランスからはじめます」と書き入れていることです。なぜこれが注目すべきか、というと、近代国家の形成がなにより領域国家‥の創出にはじまることを、福沢がギゾーの読書を通じて学びとっているからです。日本のように地理的条件によって、国家が人為的な「領域団体」であるという性格-簡単にいえば「国境」の概念に象徴されます-がアイマイなために、あたかも、日本が古代から「国」をなしているかのような表象が生まれやすいところでは、右のことは見逃せないポイントで‥す。」(集⑭ 同上pp.109-110)
「近代国家の基本的前提-中世における多元的または自主的な勢力が、政府と国民という二大要素にまで統合されたこと-はフランス革命までにすでに形成され、英仏二大革命はそのプロセスのいわば総仕上げに当ります。けれどもまだ問題は残ります。‥ヨーロッパ文明の他の世界諸文明にたいする一大特徴-多様な要素、多元的な原理の同時併存とその間の不断の闘争と相互牽制-は、右のような、近代国家が政府と国民との二大要素から成る、という命題とどのように結びつくのか、という問題です。…
 ギゾーはキリスト教会史自体のなかに、民主政的な要素、貴族政的な要素、および君主政的要素が複数的に現われている、と見ます。つまりふつうは狭義の政治原理の類別とされるこうした問題を、ギゾーは聖・俗両権のなかに併行的に見ようとするのです。ですから聖職者団(司教)が教会を統治する段階が、貴族の支配する封建制に対応し、それにつづくローマ教皇庁のヘゲモニーは、霊界における「純粋君主政」の確立とみなされます。そこでギゾーの叙述は十六世紀にいたって一種の歴史的逆説に当面せざるをえません。というのは、‥宗教改革はこの霊界における専制権力の打倒運動として現われ、精神世界に限定されてはいても「自由探求」への途をきりひらくのですが、歴史的には同時期に俗界における、「純粋君主政」の確立が進行するからです。この逆説的な発展が英仏両革命のあり方の重大な相違をもたらします。福沢においては単純に時間的ズレの問題に帰せられ、またギゾー自身も究極的には自由探求の原理と純粋君主政の原理との一大衝突という意味で二つの革命は同じ意味をになうのですが、十七世紀イギリス革命においては、聖俗両世界における自由獲得の企図が同時的に進行した、という意味では、ギゾーによればイギリスはヨーロッパ史における「例外」を構成するのです。
 このイギリスの例外性のなかにギゾーは長短両様の特徴を見ます。この特徴は必ずしも宗教改革の場合にかぎらないのですが、要するにイギリス史を見ると、俗的秩序と霊的秩序、貴族政・君主政・民主政、また地方分権制度と中央集権制度といった異なった原理が併行して発展し、「どんな旧い要素も完全に絶滅せず、どんな新しい要素も全勝をおさめず、特殊な原理が一つとして独占的支配に到達しませんでした」‥。これにたいしヨーロッパ大陸では各々の異質的な原理や要素が、時間的な継起において発展し、いわば自分の出番(トウール)を待って出現した、というのです。してみると、ギゾーがさきに、ヨーロッパ文明の特徴としたところの、多元的な原理や社会要素の同時的併存と拮抗というテーゼを、イギリス文明は集中的に表現しているともいえます。いってみれば、イギリスのヨーロッパ大陸諸国家におけるは、ヨーロッパ文明の他の世界諸文明におけるがごとし、という比例式が成立することになります。ギゾーによれば、イギリスにおける良識と経験的熟練の楯の半面が、抽象観念の乏しさと理論的思考の低さ、として現われます。他の諸原理・諸要素の同時存在によって牽制されるために、どの原理も妥協を余儀なくされ不徹底のままにとどまるからです。この強みと弱みとがちょうど逆の形で発揮されたのがフランスです。「純粋君主政」の原理はスペインの方がフランスより早く生れたのですが、それが純粋に貫徹されたのがフランスでした。またイギリスが口火をきった「自由探究」もフランス啓蒙精神においてもっとも徹底的にあらゆる領域にわたって遂行されました。純粋君主政と自由探究との衝突がフランス革命においていちばん劇烈なぶつかり合いを見せたのは当然の成行でした。そうして人間理性の輝かしい勝利の楯の半面は、理性の無謬性の過信であり、理性の専制と濫用のもたらす害毒でもあったのです。
 近代国家の形成においてギゾーが浮び上らせようとしたのが、政府と国民との二大要素におけるそれぞれのレヴェルでの「多様性の統一」です。多様性と多元性だけでは社会はアナーキーに陥ります。ですから「純粋君主政」は多元的な政治権力を統一国家に集中させた点で大きな歴史的役割があり、それは領域国家に基づいた「国民」の創出の前提でもあったわけです。けれども政治的集中が社会的活動の多様な分野での発揮を伴なわなければ、それは停滞と腐敗を生まずにはおられません。そうして後者は自発的な自主活動ですから、必然的に人民が主役を占める問題になります。民主的原理は人民の政治関与を前提としますから、人民の活動は政府レヴェルと社会レヴェルと二様に及んでいるわけですが、力点の所在は、(国会を含む)政府においては政治的集中にあり、人民においては多様なジャンルかつ広汎な地域に根を下した社会的活動にあります。ギゾーにおけるさきの二つの契機は、理念型としてはこのような形で入り組んで結びつけられているのです。
 …とくに私が注目に値すると思うのは、理性もまた諸権力の一つとして悪徳と濫用の根源になりうる、と‥ギゾーがのべている点です。…こうした諸権力の一つとしての智力という問題意識なしには、‥「日本文明の由来」を貫く福沢の根本テーゼである「権力の偏重」の複数的な意味も十全にとらえることが困難だ、という点なのです。」(集⑭ 同上pp.119-123)