科学としての政治学

2016.4.21.

「「政治学だけに興味がある政治学者、いや、政治学にもっとも興味がある政治学者でさえ、-そういう人々の「政治学」には、政治学として致命的に欠陥がある。」(対話 p.76)
「持続的関心とものへの好奇心と、これが学問を支える二つの柱である。前者だけで後者を欠くと、停滞と自家中毒がおこる。後者だけで前者を欠くとディレッタンティズムに陥って学問的人格が解体する。」(『対話』p.241)
「認識することは対象に暴力を加えないではできない。認識への情熱とは、対象(あるいは体系)を美的に享受して陶酔することとはまったく無縁であり、むしろ相手を理解しながら同時に強姦するよろこびである。」(『対話』p.250)
「「体系」は世界の一切を解釈し理解することへの断念からのみ生れる。科学的体系についてはいうまでもない。どういう問題をどういう角度から解こうとしているかということを問うのが「体系」理解のための第一の前提である。形而上学的体系でさえも何ものかを考察から排除することによって成立つ。つまり排除されたものは自明の事柄として前提されているのである。」(対話 p.250)
「混沌への陶酔でもなく、秩序への安住でもなく、混沌からの秩序形成の思考を!  底辺の混沌からの不断の突き上げなしには秩序は停滞的となる。けれども秩序への形成力を欠いた混沌は社会の片隅に「異端好み」として凝集するだけで、実は停滞的秩序と平和共存する。」(対話 p.251)
「一般に、市民的自由の地盤を欠いたところに真の社会科学の成長する道理はないのであるが、このことはとくに政治学においていちじるしい。…一般に「政治」がいかなる程度まで自由な科学的関心の対象となりうるかということは、その国における学問的自由一般を測定するもっとも正確なバロメーターといえる。なぜなら政治権力にとって、何が好ましくないといって己れ自身の裸像を客観的に描かれるほど嫌悪すべき、恐怖すべきことはなかろう。逆に、もしそれを放任するだけの余裕をもつ政治権力ならば、恐らく他のいかなる対象についての科学的分析をも許容するにちがいない。したがって政治に関する考察の可能性はその時代と場所における学問的思惟一般に対してつねに限界状況を呈示する。いわば政治学は政治と学問一般、いな広く政治と文化という人間営為の二つの形態が最大緊張をはらみながら、相対峙する、ちょうど接触点に立っているわけである。」(集③ 「科学としての政治学」1947.6.pp.136-138)
 「のみならず、…方法の問題が対象の問題と不可分にからみ合っているのが政治的思惟の特質なのであって、純粋な、対象から先験的に超越した方法というものはこの世界では意味がない….そうした研究が究極には、われわれの国の、われわれの政治をどうするかという問題につながって来ないならば、結局閑人の道楽とえらぶところがないであろう。要はわれわれの政治学の理論が日本と世界の政治的現実について正しい分析を示しその動向についての科学的な見透しを与えるだけの具体性を身につけることであって、このことをなしとげてはじめて、未曾有の政治的激動のさ中に彷徨しつつある国民大衆に対して政治の科学としての存在理由を実証したといえるのである。政治学は今日なによりもまず「現実科学」たることを要求されているのである。」(集③ 同上p.144)
 「けれどもここで忘れてはならないことがある。政治学が政治の科学として、このように具体的な政治的現実によって媒介されなければならぬということは、それがなんらかの具体的な政治勢力に直接結びつき、政治的闘争の手段となることではない。…学者が現実の政治的事象や現存する諸々の政治的イデオロギーを考察の素材にする場合にも、彼を内面的に導くものはつねに真理価値でなければならぬ。…たとえ彼が相争う党派の一方に属し、その党派の担う政治理念のために日夜闘っているというような場合にあっても、一たび政治的現実の科学的な分析の立場に立つときには、彼の一切の政治的意欲、希望、好悪をば、ひたすら認識の要求に従属させねばならない…。
 ところが、…政治事象の認識に際してつねに一切の主観的価値判断の介入を排除するということは口でいうより実際ははるかに困難である。…ここにおいて政治的思惟の特質、政治における理論と実践という問題に否応なく当面しなければならない。…ここでは主体の認識作用の前に対象が予め凝固した形象として存在しているのではなく、認識作用自体を通じて客観的現実が一定の方向づけを与えられるのである。主体と対象との間には不断の交流作用があり、研究者は政治的現実に「実存的に、全思考と全感情をもって所属している」。…未来を形成せんとし行動し闘争する人間乃至人間集団を直接の対象とする政治的思惟において、認識主体と認識客体との相互移入が最高度に白熱化する事実から何人も眼を蔽うことは出来ない。この世界では一つの問題意識設定の仕方乃至一つの範疇の提出自体がすでに客観的現実のなかに動いている諸々の力に対する評価づけを含んでいるのである。…
 政治学者は自己の学問におけるこのような認識と対象との相互規定関係の存在をまず率直に承認することから出発せねばならぬ。それはいいかえるならば自己を含めて一切の政治的思惟の存在拘束性の承認である。政治的世界では俳優ならざる観客はありえない。ここでは「厳正中立」もまた一つの政治的立場なのである。その意味では、学者が政治的現実についてなんらかの理論を構成すること自体が一つの政治的実践にほかならぬ。
 かかる意味での実践を通じて学者もまた政治的現実に主体的に参与する。この不可避的な事実に眼を閉じてドラマの唯一の観客であるかのようなポーズをとることは、自己欺瞞であるのみならず、有害でさえある。…一切の世界観的政治闘争に対して単なる傍観者を以て任ずる者は、それだけで既に政治の科学者としての無資格を表明しているのである。
 …価値決定を嫌い、「客観的」立場を標榜する傲岸な実証主義者は価値に対する無欲をてらいながら実は彼の「実証的」認識のなかに、小出しに価値判断を潜入させる結果に陥り易い。之に対して、一定の世界観的理念よりして、現実の政治的諸動向に対して熾烈な関心と意欲を持つ者は政治的思惟の存在拘束性の事実を自己自身の反省を通じて比較的容易に認めうるからして、政治的現実の認識に際して、希望や意欲による認識のくもりを不断に警戒し、そのために却(かえ)って事象(ザッヘ)の内奥に迫る結果となる。…」(集③ 同上pp.144-151)
「さきほど、ユネスコが世界各地から社会科学者を集めて平和問題を討議させましたが、その際の共同声明…のなかに、平和の基礎としての社会的洞察を民衆に与えることが、人間の学(The Sciences of Man)としての社会科学の重大な役割だ、と述べているのを見て、私は今更のように感動しました。…人間と人間の行動を把握しようという目的意識につらぬかれている限り、映画を見ても小説をよんでも、隣りのおばさんと話をしても、そこに広くは学問一般の、せまくは歴史の生きた素材を発見出来るはずです。そうした日常生活のなかで絶えず自分の学問をためして行くことによって学問がそれだけ豊かに立体的になり、逆にまた自分の生活と行動が原理的な一貫性を持って来ます。」(集④ 「勉学についての二、三の助言」1949.5.pp.166-167)
「科学が非合理的な世界を扱うときには、非合理的な世界を合理化してはいけないんです。非合理的な世界をどこまでも非合理的なものとして、合理的に見ることなんです。これが科学なんです。
 ‥何も学問のためにわれわれは生きているわけではない。しかし学問するためには一定の約束に従う。その約束がとっぱらわれたら、何が何だかわからなくなってしまうわけです。‥学問をする以上、学問には学問の約束があるのであって、その約束のもとに下意識の世界なりなんなりを扱う。ただ今度は下意識の世界を意識にしてしまったらいけないんです。下意識の世界を下意識の世界として、しかし手続きは合理的に扱うわけです。‥学問である以上は学問の約束に従わなければいけない。非合理的なものを非合理的なものとし、学問の約束である合理的な操作に従って取り扱わなければいけない。そうでないと、学問と宗教、芸術との区別はなくなってしまうわけです。…
 あくまで対象化して、自分はこっち側にいて眺めていないとだめなんです。対象と同一化したら学問にならないんです。よく、感性の解放とか復権とか言う人がいますけれど、そういうことを言う人は、逆に自分の中にある感性というのが非常に乏しいんじゃないかと私は思うんです。‥自分の中にある感性、あるいは自分の中にある非合理的なものを本当に自分で知ったら、どんなにそれがおどろおどろしきものであり、どんなに怖いものであるか。
 福沢に私が感心するのは、そんな感性があるからです。人間は"理性が二分で感情が八分"とかいろいろな言葉を使っていますけれど、人間は決して理性的な動物じゃないんですよ。だいたい九九パーセントまで感情的動物なんです。わずか毛筋ほどの一パーセントで人間は動物と区別されるんです。そのぐらい感性的なものの牽引力というのは強いんですよ。それで、わずかにその一パーセントに賭けて、科学は発達してきた。だからそれはある意味では、非常に不自然なものです。感性の野放しの解放ということだったら、むしろ動物と同じになってしまう。それと感性自身の陶冶ということは別の問題なんです。‥感性自身の陶冶、それから開発ということは非常に必要なんですね。粗野な感性から洗練された感性へ。そうでないと芸術的な感覚とかは出てきませんから。しかし、それと感性の解放というのは全然別です。感性を解放したらえらいことになってしまいますよ。本能も含めて、われわれを突き動かす非合理的なものの力というのは、ものすごく大きいんです。いわんや、これがパニックになりますとみんな理性がマヒしますから、まったくその道具になってしまう。これがいわゆる群集心理といわているもので‥そういうもののおどろおどろしさというものに対する感覚が少しでもあったら、感性の解放というのは、おっかなくて言えないはずです。わずか一パーセントの理性でそういうものをかろうじてコントロールしているんですよ。」(手帖10 「内山秀夫研究会特別ゼミナール 第二回」1979.6.2.pp.28-30)
「政治学が、他の隣接諸科学に対して自分独自の学問の存在理由をもっているということを証明するということは、いわば垣根をつくることであります。垣根をつくるということは別に絶対に出入を禁止するというのではありません。隣接科学は隣接科学です。しかし、政治学の自立性ということは、政治学が他の学問の上に乗って寄生しているのではなくて、それ自身持続的な存在であるという証明ですから、どうしても垣根をつくるということになるわけです。…  ところがマルクス主義を社会科学の側面で申しますと、これは垣根を取っ払う学問であります。非常に総合的な学問体系であります。つまり、経済を基礎としまして、その上に上部構造としての政治、あるいはさらに文化各領域というものを、土台としての経済との相互関係において考察するという方法ですから、それは総合社会科学であります。そうしますと、政治学は、マルクス主義が垣根を取っ払う方向にあるのに対して一生懸命垣根をつくる、そこにいわばすれ違いという状況が生まれるわけです。これは政治的意味でマルクス主義に反対するとか、あるいは賛成するとかいうことと全く独自の問題、-政治「学」が直面した問題です。」(手帖1 「大山郁夫・生誕百年記念に寄せて」1980.11.20.p.5)
「下意識のものをコントロールするってのは、例えば、よく近代人が、-僕は、それは非常に一方的だと思うけれども-近代のそういった考え方の中にある、ある科学主義の考え方は、僕はやっぱり、神を僭称するんだと思いますね。神を僭称するってのは、下意識的なものを、合理化しようとするんです。というのは、非合理的なものを人間から駆逐しようとするんです。これは、人間が神になる、神を僭称しようとしてるんです。だから、科学的精神と科学主義とは非常に違うんです。僕に言わせれば、科学的精神とは、科学の限界を知ることなんです。科学で万事解決できるというのが科学主義。これは人間が神を僭称することなんです。…
 これは、宗教との違いなんです。宗教はあらゆる問題に答えなければいけない。それが宗教のつらいところ。宗教と学問の違いはそこにあるんです。宗教は人間の悩みにすべて答えなければならない。学問は逆なんです。学問は、これは私は答えられます、逆に言えば、これは答えられませんという、その限界を意識しているということです。」(手帖11 「早稲田大学 丸山眞男自主ゼミナールの記録 第一回(下)」1983.11.26.pp.17-18)
「科学というものは、人間が感覚だけで行動していたら、環境をコントロールする度合いは動物の段階を脱しないんだというところから出発してるんです。自分の感覚を超えたもの、それが理なんです。そういうものを信じることによって、つまり普遍的な法則性ですね、そういうものを認識すれば自分の感覚を超えて環境を理解できる。それによって病気とかも退治してきたし、ペストがあんなに流行して何千万人死んだっていうのが今どうして起こらないんですか‥。科学のおかげですよ。科学を否定したら、それは原始状態に帰る以外にないです。…
 …第三世界では、毎日何千人と死んでいるんですよ。毎日餓死してるんです。何とかして近代の医学で伝染病を退治し、死者を少しでも少なくする、まだその段階なんです。…
 しいて思想史的に関係づけるならば、人間ってのは、環境に対して意味を付与しながら生きていく動物なんです。動物の方が幸福なんですよ。やせたソクラテスと太った豚というミルの問いは、そこから生まれました。‥俺はやせたソクラテスを取るというのは、ある意味では、やっぱり人間の尊厳と関係してるんです。
 [人間は]環境に意味を付与することによって生きていく存在なんです。思想は大きくいえば環境への意味付与なんです。‥ただ、いちいち意味を付与してると、これはもう、面倒くさくってしようがないでしょ。それでルーティーンというのを作るわけです。‥そうすると、意味を付与しないで済むわけです。…
 だから、状況がしょっちゅう変わると、意味付与[の必要]が増大する。維新とか幕末にいろいろな思想家が出て来たのは、それなんです。昨日のごとく今日もないもんだから、ルーティーンが効かなくなっちゃう。ルーティーンが効いてる間は、意味付与なんてしないで生きてりゃいいわけですよ。環境から投げ出されると、そこで初めて意味付与の必要が生じてくる。思想というのは意味付与ですが、意味付与は、いいとか悪いとかの価値判断だけじゃないんです。認識も意味付与なんです。…
 環境と自分との間に、われわれは動物も人間も含めて環境からの刺激に対して反応しながら生きてるんです。これをSR方式といいます。Sはstimulus[刺激]です。Rはresponse[反応]。人間も動物も含めていえば、全部、刺激-反応-刺激-反応、こういう過程なんです。SとRとの反応の速さは、動物のほうが速いです。本能で反応するから。人間は「考える葦」であるっていう、その間に何かモタモタがあるんだ。‥刺激に対して意味付与をして初めて反応が出てくる。…考える葦だから、やっかいなんだ。やっかいだけれど、そこに人間の尊厳を認める。
 つまり、人間として生まれて人間の人間たるゆえんを認める以外に生き方がありますか、ということなんですね。‥動物は生きがいなんて考えなじゃないですか。生きがいなんて考えなきゃ、楽だっていえば楽ですよ。だけど、人間である以上、考えざるを得ない。」(手帖11 同上pp.19-23)