「歴史感覚」

2016.4.21.

「日本の歴史や思想史の伝統を積極的に生かす途は、ごく少数の「革命もの」をもちan sichな革命的伝統をほじくり出すことによってはえられない。moralistic worshipに陥るだけだ。大多数の思想家や政治家を「反動」の側に押しやることによっていかなるプラスがあるのか。「敵」から学べ。「敵」の強靱なロジックを否定的に摂取せよ。」(対話 pp.37-38)
「一九六八年(一九六七年三月の最終講義)
 今の日本に必要なのは「未来学」ではなくて、「過去学」だ。むしろ、過去学を未来学に読みかえる努力だ。これなしのコンピュートピアからコンミュートピアにいたる、流行の「未来学」は、ただ、「過去」を過ぎ去った自然的時間、したがって「現在」と無縁な時代の「お話し」としか見ない点で、また、その発想がつねに、「水平的」-つまり日本の外の世界における「最近の動向」を血まなこで追っかける-態度において、皮肉にも過去のもっとも悪しきパターンの再生産にすぎない。」(対話 p.252)
(「歴史感覚」)
「過去の思想から今日われわれが学ぶということはどういうことなのか。歴史的状況をまったく無視せずに、しかもその思想を今日の時点において生かすということはどういうことなのか。‥
 百年もまえに生きた思想家を今日の時点で学ぶためには、まず第一に、現在われわれが到達している知識、あるいは現在使っていることば、さらにそれが前提としている価値基準、そういったものをいったんかっこの中に入れて、できるだけ、その当時の状況に、つまりその当時のことばの使い方に、その当時の価値基準に、われわれ自身を置いてみる、という想像上の操作が必要です。…歴史的想像力を駆使した操作というのは、今日から見てわかっている結末を、どうなるかわからないという未知の混沌に還元し、歴史的には既定となったコースをさまざまな可能性をはらんでいた地点にひきもどして、その中にわれわれ自身を置いてみる、ということです。簡単にいえば、これが過去の追体験ということであります。
 しかし追体験だけでは、過去を過去から理解する、いわゆる過去の内在的理解が可能になる、あるいはいっそう深くなるというだけです。次には、その思想家の生きていた歴史的な状況というものを、特殊的な一回的な、つまりある時ある所で一度かぎり起こったできごととして考えないで、これを一つの、あるいはいくつかの「典型的な状況」にまで抽象化していく操作が必要になります。あらゆる歴史的できごとというものはそのままではくりかえされません。が、これを典型的な状況としてみれば、今日でも、あるいは今後もわれわれが当面する可能性をもったものとしてとらえることができます。
 …こういう操作で、歴史的過去は、直接に現在化されるのではなくて、どこまでも過去を媒介として現在化されます。思想家が当時のことばと、当時の価値基準で語ったことを、彼が当面していた問題は何であったか、という観点からあらためて捉えなおし、それを、当時の歴史的状況との関連において、今日の、あるいは明日の時代に読みかえることによって、われわれは、その思想家の当面した問題をわれわれの問題として主体的に受けとめることができるのです。」(集⑨ 「幕末における視座の変革」1965.5.pp.206-208)
(「歴史意識」)
「日頃私が感じておりますことは、‥われわれの歴史意識ということであります。どういうことかと申しますと、日本人の歴史意識というものはいま中心主義であるということです。ということは、逆に言えば、過去というものは済んでしまったことなんです。過去を語るということは、済んでしまった、或る時間的に過ぎ去った過去のことを語る。つまりいまと関係のない過去のことを語る。思い出というものはそういうふうにして話されます。またそういうふうにして聞かれます。
 いつもいまの問題、ないしいま起こっている事柄に興味が集中している。…これは非常に根深い問題であり、必ずしも世代の差というようなことでなく、もっとわれわれを深く規定している考え方ではないか。…
 つまり過去と現在とを二重写しにして見るという眼が、われわれにはいささか乏しいのではないか。これを仮に私は"歴史的直線主義"と称する。過去、現在、未来を線で現す。線で現されますから、過ぎ去った過去は或る線のあっち側にあるわけです。未来はこっち側-反対側にあり、現在はここにある。したがって過去は、もう過ぎちゃったことであります。それでおしまい。‥それは少なくとも現在のこととは何のつながりもない。…
 ですから、われわれとしては、日本人を深く規定しているそういうものの考え方というものを考慮する必要があるのではないか。」(手帖4 「一九五〇年前後の平和問題」1977.5.25.pp.3-5)
「歴史を勉強するということは、自分の中に想像力を養うことなんです。歴史というのはいろいろな状況が出て来るんです。革命の状況も、内乱の状況も、それからものすごい不景気の状況も出て来るでしょ。歴史を勉強するということは、自分の中に想像力-いまじゃない時代に対するイマジネーションを養うこと。そうすると想像力が豊富であればあるほど、そういう時代が来てもあわてない。というのは前から自分の中にそういう状況というのがあるから。そういう、いろいろな状況に対する想像力を豊富にしているということは、覚悟ができている……。」(手帖7 「丸山先生と語る会-岩手県東山町-」1977.10.22.p.21)
「私のいう歴史意識とは「出来事の連関を時間的な連鎖において捉える思考法」です。つまり、ある出来事のほうがある出来事より先で、ある出来事の方がある出来事より後である、というように、時間的な連鎖において捉えながら、そこに意味附与をしていくのが歴史のものの考え方です。…
 時間のプロセスの中で出来事を把握する場合の把握の仕方にどういう特色があるか。その場合にキリスト教的な歴史的出来事の把握の仕方と、それから日本人の把握の仕方はどういう点が共通し、どういう点が違っているか、というふうに考えていった方がいいし、「歴史意識の「古層」」の歴史意識というのは、そういう意味で経験概念として使っている。エンピリカル[経験的]な概念であって、分析概念ではないわけです。」(手帖10 「内山秀夫研究会特別ゼミナール 第二回(上)」1979.6.2.pp.15-17)
「私のなかにはヘーゲル的な考え方があります。つまり"自分は何であるか"ということを自分を対象化して認識すれば、それだけ自分の中の無意識的なものを意識的のレヴェルに昇らせられるから、あるとき突如として無意識的なものが噴出して、それによって自分が復讐されることがより少なくなる。つまり"日本はこれまで何であったか"ということをトータルな認識に昇らせることは、そうした思考様式をコントロールし、その弱点を克服する途に通ずる、という考え方です。…哲学はいつもある時代が終幕に近づいたころ、遅れて登場し、その時代を把握する。"ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ"という有名なヘーゲルの比喩がそれです。ヘーゲルの場合は非常に観照的で後ろ向きです。つまり哲学が時代をトータルに認識できるのはいつも「後から」だ、というので、ヘーゲル哲学における保守的要素の一つになるわけです。ところがマルクスはこれをひっくりかえして読んだ。ある時代をトータルに認識することに成功すれば、それ自体がその時代が終焉に近づいている徴候を示す。こういう読み方なんです。‥資本制社会構造の全的な解剖に成功すれば、それは資本制社会が末期だということの徴候なんです。そういう「読みかえ」ですね。…その流儀で"ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ"という命題を、日本の思想史にあてはめれば、‥日本の過去の思考様式の「構造」をトータルに解明すれば、それがまさにbasso ostinatoを突破するきっかけになる、と。認識論的にはそういう動機もあります。」(集⑪ 「日本思想史におけ「古層」の問題」1979.10.pp.222-223)
「古典を読み、古典から学ぶことの意味は-すくなくも意味の一つは、自分自身を現代から隔離することにあります。「隔離」というのはそれ自体が積極的な努力であって、「逃避」ではありません。むしろ逆です。私たちの住んでいる現代の雰囲気から意識的に自分を隔離することによって、まさにその現代の全体像を「距離を置いて」観察する眼を養うことができます。」(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)」1986.p.20)
「大日本帝国の解体状況は維新直後に似たところがあった。…今まで通用していた価値体系が急速にガラガラと音をたてて崩れ、正邪善悪の区別が一挙に見分けがつかなくなってしまう。途方に暮れてどうやって物事を判断するのか分からないという状況。これは狭い意味での制度の融解からくる政治的社会的アナーキーということに尽きない、精神的アナーキー状況です。…これは‥ほとんど下意識にまで入りこんでいる判断枠組のレヴェルの問題だという点が大事だと思うのです。…思考の枠組自身が分らなくなってしまった状況、これまで当然のことのように通用していた価値体系の急激かつ全面的な解体によって、たとえ瞬時であっても生まれた精神的真空状態-そういう状況を、われわれが、歴史的想像力を駆使して頭の中に描いてみる必要があるのです。」(集⑬ 同上pp.67-68)
「現代では、「歴史における法則性」を云々することは、何か野暮(やぼ)くさく思われます。実際、バックルのように統計学に依拠して歴史の法則性を導き出すのは、今日、あまりにも素朴な議論にみえます。十九世紀の自然科学信仰の好例といえるでしょう。けれども、ここでもやはり歴史的想像力が必要です。ヨーロッパでは、神学と形而上学の魔力から歴史を解放してその科学性を確立するには、必ずしもバックルに依らずとも-非人格的(インパーソナル)な「社会法則」の支配という考え方による鉄火の試練をくぐることが必要でした。東アジアでは、勧善懲悪史観や英雄史観の盲点を明らかにするには、やはり福沢や田口卯吉らの荒療治が必要だったように思われます。」(集⑬ 同上pp.279-280)
「歴史が非常に難しいのは‥歴史のジレンマということなんです。歴史はジレンマの連続なんです。‥ジレンマになっちゃって、どっちもよいけれど、さてどっちをとるかという-絶えずそういう問題、歴史を理解するにはそのジレンマの感覚がないと本当に理解はできない。それがないと善玉、悪玉になっちゃう。日本でいうと、戦前は国体を基準にして-つまり天皇に忠義な方が善玉で、反逆した方が悪玉。したがって楠正行が善玉で足利尊氏が悪玉。‥そういう意味では全部、善玉・悪玉観。マルクス主義は本当はそうじゃないんだけれど-弁証法があるから、弁証法は矛盾の論理ですからね、善玉がいかに悪玉に転化し、悪玉が善玉に転化するか、という歴史があるんですね。ところが、とかく現実の歴史に適用すると、プロレタリアートの立場に立っているのが善玉で、ブルジョアジーの立場に立っているのが悪玉ってことになって、善玉・悪玉観と同じようになりやすいんです。それが一番難しい問題。」(手帖13 「伊豆山での対話(下)」1988.6.4.pp.59-60)
「朝鮮を植民地化しているという意識はほとんどない。日本の国民の意識からするならば、ある朝、目覚めてみたら朝鮮は別になっていた。したがって自分たちが植民地化していたという意識はない。‥大東亜戦争が聖戦であるという理由は、ヨーロッパ帝国主義からアジアを解放したんだ、と。そういう側面がゼロじゃないんですよ。だから問題なんだ。歴史の難しさというのは。‥だから太平洋戦争には‥日露戦争以後つきまとっている-どこまでが侵略で、どこまでが防衛だかわからないという側面が、ヨーロッパに対しては、まだ残っていたわけね。ところが中国と朝鮮については何とも言えないわけですよ。満州のことについていえば、特殊権益っていえますよ。だけど日本が勝手にやっている。同時にそれを毛沢東及び共産党が利用したのは当たり前ですよ、戦争なんだから。結局、西安事件ですよ、画期的なのは。西安事件で国共合作ができたということで、抗日統一戦線ができた。それからあとは日本の方がバカなんだ。うまく罠にはまったという面があるわけです。
 盧溝橋事件と日中一五年戦争とは違うんです。日中一五年戦争をみれば、いかに少数を除いた指導層が侵略的-侵略という言葉を使わなければヘゲモニーだな、つまり東アジアにおけるヘゲモニーをとるということに、いかに周到であり、いかに熱心に、いかに長く狙った計画を持っていたか、ということはいくらでも証拠があります。だから盧溝橋事件がきっかけであったということは何ら説明にならない。…それはやっぱり日本の責任なんです。出先のやったことで中央は知りませんとは国家としては言えない。
 …日本の軍国主義者が日本の歴史を少しでも勉強していたら、日本が不平等条約を打破するために、領事裁判権を打破して対等の裁判権を得るために血のにじむような努力をしているわけですね。安政の不平等条約以来。そうしたら中国の不平等条約撤廃に対して、もう少しわかるはずなんだな。欧米に対しては不平等条約を持ち、朝鮮と中国に対しては不平等条約を押しつけている-そういう矛盾した国なんだ。ところが日本に都合のいい歴史ばっかり教わっているでしょ。だから彼らは本気でそう思っているわけです。盧溝橋事件は偶発的で、それが中国共産党の謀略にひっかかってどんどん、どんどん拡大した、と。」(手帖13 同上pp.61-62)
「「脱亜論」では、結論は「今日の謀(はかりごと)を為すに、我国は隣国の開明を待(まち)て共に亜細亜を興すの猶予(ゆうよ)あるべからず」。隣国とは具体的には李氏朝鮮と清国です。その開明を待って共に亜細亜を興す、そういう暇はないんだ。それが結論になっている。その前に、日本の明治維新のことにも言及して、「近時の文明は日本の旧套(とう)と両立す可(べか)らずして、旧套を脱すれば同時に政府も亦廃滅す可ければなり」。これが宿命なんだと。アンシャン・レジームっていうのは、ヨーロッパ文明に直面すると、倒壊するんだと。そうすると「然ば則ち[政府を保存するために]文明を防(ふせぎ)て其侵入を止めん歟(か)」、そうしたら「日本国は独立す可らず」。なんとなれば、「世界文明の喧嘩繁劇」-この世界文明を喧嘩繁劇と見るのは、実は福沢が後で西洋文明の二重構造ということを述べようと思ったことに関係しているのです-その「喧嘩繁劇は東洋孤島の独睡を-独り眠っているのを-許さざればなり。是に於てか我日本人の士人は国を重しとし政府を軽しとするの大義」に立って-国の方が重いんだ、政府は軽いんだという大義。これが大義名分、大義という言葉は儒教から来ているわけです-徳川政府を倒した。これが明治維新の、福沢の一貫した理解で、王政復古説を採らないんですね。革命、革命という言葉を最後まで使っている。維新を革命と見ている。だから、明治維新というのは「一切万事西洋近時の文明を」これから採る以外にないんだということを言っている。そして「主義とする所は唯脱亜の二字に在るのみ」。
 ところが不幸なのは「近隣の国」である。「一を支那と云ひ、一を朝鮮と云ふ」。自分の見解だと、とてもこれは独立を維持できない。‥幕末以後取り入れたのは「西洋近時の文明」-西洋近時の文明を取り入れる。[ところが]これは、西洋自身も、いわば自分が呼び出したデーモンをコントロールできないんだから、結局、西洋文明を受け入れるかどうかということは、アンシャン・レジームを保持するか、それとも、近代のそういうテクノロジーあるいはコミュニケーションの力というもの、そういうものが発達するのが不可避な中で、人民のエネルギーというものは非常に大きくなるから、政府は必ず転覆するか、どっちかなんだと。政府が自ら進んで入れるか、それとも根本的にそれが倒壊するか、いわば革命が来るのか二者択一だという認識を、中国に対しても朝鮮に対しても持っている。後日必ずその日があるだろうということを言っているんですね。
 こういう西洋文明についての認識と、それから東洋-東においては冊封体制ですね。つまり、朝鮮と中国の冊封体制。近代になると、なるほど昔の冊封体制とは違いますが、主権国家の平等の原則に基づいたwestern state systemに対して、冊封体制は中国王朝の皇帝と周辺諸国の国王との君臣関係により国ごとに違いますから、システムという言葉は使えないんですけれども、英語ではtributary systemと言っています。これは近代的な国際関係というものと根本的に違う。そして根本的に違うだけじゃなくて、到底こういう秩序は、今言った「西洋近時の文明」の衝撃に耐えられないということが一つ。
 それから今度は、冊封体制の側から見ると、これが朝鮮と中国=清国との関係のいちばん核心だと私は思うんですけれども、洋務派のほうがかえって厄介になるんですね。というのは、洋務派は堯舜孔子の道を取ってテクノロジカルにだけ近代化しようとする。そうすると、どういうことになるかというと、伝統的な冊封体制-便宜上体制といいますが-を維持しながら、そこにパワー・ポリティックスが入ってくるんです。冊封体制の政治化なんです。冊封体制というのは礼的秩序、中華を中心とする礼的秩序であって、もちろん軍事的な援護の義務はありますが、それは一環に過ぎない。宗族関係と言いますけれど、近代的な国際法における国際関係では見られない、つまり礼的な秩序です。ところが、それがヨーロッパの圧力を受けると、この宗族関係を維持したまま、これがパワー・ポリティックスになってくる。つまり権力関係的になってくる。‥
 ‥[福沢は]開化派が天下を取っているときには、非常にそれに対して積極的な見解をとっている。そして、今度は事大派が天下を取っているときには、非常にペシミスティックになる。[朝鮮]国内におけるどういう勢力が力を得つつあるか、あるいは、それが失脚したかということによって、福沢の対外政策は、まるで変わるわけです。それとの関連で見ないで、現在の国際関係を見る目で、侵略だとか侵略じゃないとか言うと、私はこれは歴史的事実としては、必ずしも正確じゃなくなると思うんです。…
 ですから、全体を見る、あるいは歴史的に見る場合には、東アジアの十九世紀後半の歴史的変動に対する想像力がないと、非常に誤解を生ずるのではないか。今でもイラン、イラクの問題がありますけれども、それはみんな一応、国際法というものを承認して、その下に国家平等の原則というものも承認して、その上でいろいろな紛争が起こっているわけです。ところが、そもそも冊封の中華秩序というヒエラルヒーの体制というのは、近代的な国際法の国際秩序とは相容れないものです。そうした秩序が音を立てて崩れつつあるところに、帝国主義勢力が殺到してくるという、そういう状況の中で、[福沢が]いろいろな発言をしているということを度外視して、今日の目で見ると-非歴史的な今日の目を歴史に投影すると-評価を誤るんじゃないか‥。」(手帖20 「福沢諭吉の「脱亜論」とその周辺」1990.9.12.pp.20-25)