政治的リアリズム

2016.4.21.

「イデアールなものこそ最もレアールである。」(対話 p.12)
「政治における理念と現実。  ケネディは左手に理想主義の剣を、右手にリアリズム-力の外交-をかざした。その両者が比較的にバランスをえていたことは、彼の政治家的資質がアメリカ政界の水準をはるかに抜いていたことを証している。けれどもやはりある時は左手を使いすぎ、ある時は右手を使いすぎた。彼が時折機会主義者と評せられたのは理由なしとしない。  イギリスの政治家は、理想主義と現実主義のこのような使い分けをしない。彼はいつもそれを同時に重ねて使う。イギリス外交がおそろしく状況適合的な柔軟性を示しながら、そこにいつも一本、筋(原理)が通っているのはそのためである。」(対話 pp.72-73)
「政治的なるものの位置づけ。  政治は経済、学問、芸術のような固有の「事柄」をもたない。その意味で政治に固有な領土はなく、むしろ、人間営為のあらゆる領域を横断している。その横断面と接触する限り、経済も学問も芸術も政治的性格を帯びる。政治的なるものの位置づけには二つの危険が伴っている。一つは、政治が特殊の領土に閉じこもることである。そのとき政治は「政界」における権力の遊戯と化する。もう一つの危険は、政治があらゆる人間営為を横断するにとどまらずに、上下に厚みをもって膨張することである。そのとき、まさに政治があらゆる領域に関係するがゆえに、経済も文化も政治に蚕食され、これに呑みこまれる。いわゆる全体主義化である。(昭三六)」(対話 p.73)
「オポチュニストであることは名誉なことではない。しかしオポチュニストでないということ自体はなんら偉大さを意味しない。とくに、政治家がオポチュニストといわれる危険性を免れているということは、彼が政治家でないことの確実な証明だ。ビスマルク、レーニン、F・ルーズベルトはみなオポチュニストといって一度ならず批判された。彼らの誰も機会主義者ではなかった。(昭二八 手帖より)」(対話 p.76)
「異った要求間の調整の問題。  政策の一つの機能が矛盾する複数的欲求を調整し、あるいはこれに優先順位を与えることにあることはよく知られている。この矛盾する欲求は同じ平面において起る場合とそうでない場合がある。たとえば、住宅への欲求と電気洗濯機への欲求とは同じ平面で競合している。しかしたとえば、家の設計をする場合に、換気の必要と暖房効率とがしばしば矛盾するように、本質的に異った動機から来る要求で、しかも同時に満足させねばならぬ要求が社会に多々存在する。政治が究極的に妥協である理由、したがってまた要求や利害を「相容れない」階級対立に還元しえない一つの理由がここにある。そうして政治的リーダーシップの資質は、こうした意味の矛盾する要求の調整の際にもっともよく発揮される。
 〔例〕教育年限の延長、都市の適正規模、規格化(能率)と個性的需要」(対話 pp.78-79)
「本来は妥協すべきでないが、一時的な戦術から妥協しなければならないような場合の妥協は、相対的意味の妥協である。一歩後退、二歩前進は相対的妥協のケースだ。だが、所詮妥協以外に解決の道が本質的にないような場合の妥協がある。これはいわば絶対的な意味の妥協である。政治的な未熟者には、相対的意味の妥協は理解できるが、絶対的意味の妥協が存在することの理解はむつかしい。
 民主的な機会の平等→一切の身分と特権の否定→すべては「競争」原理によって決せられる。→安定の喪失と、上昇下降のはげしい不平等社会。  「両手に花」「めでたしめでたし」はないというところから、政治の問題ははじまる。」(対話 pp.79-81)
「政治学はいかにリアリズムに徹底してもしすぎる事はない‥。それはどこまでも具体的な日本と世界の政治的現実のなかに根を下ろした学問でなければならぬ[政治過程の下からの考察]。それはいかなる醜悪な現実からも眼をそむけず、これをロマンティックに美化せず、真正面からこれに対決する科学的勇気を持たなければならぬ。デモクラシーの認識はきれいごとであってはならぬ。デモクラシーがきれいごとの様にとかれることは、かえってデモクラシーのために危険である。…デモクラシーは自己の醜悪さをも隠蔽せずに、それを明るみに出して、そのよって来る所を検討しつつ向上する事の出来る唯一の政治形式であり、そこに他のあらゆる政治形態に対するデモクラシーの健康さがある。デモクラシーをきれいごとで修飾するのはこのデモクラシーのもつ最大の長所を自ら放棄するに等しい。とくに政治的世界では悪を知らざる清さはいまだ真の清さでなない。…悪を知りつくしてはじめて真に内奥からの悪との闘争力が生れる。これは倫理の話だが、政治ではなおさら、複雑なテクノロジーの発達によって高度化された政治技術を知らないでは、到底政治をコントロール出来ない。…政治的な世界の中に行われるいわゆる権謀術数を人民が心得ているということによって初めて政治を現実的にコントロールすることができる。…こういう政治的の権謀術数というものをいくら知ってもびくともしないというような、そういう政治的な良心というものがやはり政治の世界において必要となって来る。…国民に真の自主的精神を植えつけるには、この政治的統合の諸手段をあますところなく暴露することが是非とも必要である。」(別集① 「現代政治学の課題」1947.12.5 pp.274-278)
「「理想はそうだけれども現実はそうはいかないよ」というこういういい方というものには、現実というものがもつ、いろいろな可能性を束(たば)として見る見方が欠けているのです。…しかし政治はまさにビスマルクのいった可能性の技術です。…現実というものを固定した、でき上がったものとして見ないで、その中にあるいろいろな可能性のうち、どの可能性を伸ばしていくか、あるいはどの可能性を矯(た)めていくか、そういうことを政治の理想なり、目標なりに、関係づけていく考え方、これが政治的な思考法の一つの重要なモメントとみられる。つまり、そこに方向判断が生れます。つまり現実というものはいろいろな可能性の束です。…いろいろな可能性の方向性を認識する。そしてそれを選択する。どの方向を今後のばしていくのが正しい、どの方向はより望ましくないからそれが伸びないようにチェックする、ということが政治的な選択なんです。いわゆる日本の政治的現実主義というものは、こういう方向性を欠いた現実主義であって、「実際政治はそんなものじゃないよ」という時には、方向性を欠いた政治的な認識が非常に多いのであります。」(集⑦ 「政治的判断」1958.7.p.319)
「単なるあまのじゃくから思想家としての福沢を区別するものは何か…。第一に、認識態度としては左の中に同時に右の契機を見る、右の中に同時に左の契機を見る、こういう見方です。ここで申します左右というのはもちろん一つの比喩です。まぁ楯の反面をいつも見る態度といってもいいでしょう。人が左といえば右というだけなら、ただ左というのを裏返しただけで一面的である点では同じことになります。ものごとの反対の、あるいは矛盾した側面を同時に見るという点が大事です。そしてさらに第二に決断としては現在の状況判断の上に立って左か右かどちらかを相対的によしとして選択するという態度です。この二つの態度が組み合わさっています。したがって、積極的に左を選択し主張する際には、認識態度としては右の方に比重をかけて見る、右に決断する際には、左の側面により注目する、ということになります。こういう精神態度を、あまり適当な言葉ではありませんが、ここではかりに両眼主義、あるいは複眼主義と呼ぶことに致します。」(集⑦ 「福沢諭吉について」1958.11.pp.378-379)
「われわれが政治の世界において、たとえばある政治的な選択をするというのは、こういう外の世界におけるまず状況の判断能力、外の世界からくるいろんな通信、いろんな出来事に対するわれわれの受信装置というものをできるだけ完全にしていくことによって、われわれの政治的選択能力というのは、それだけ高まるわけであります。そうでなくてちょうど政治的な選択を、自分の中にある好き嫌いとか、好悪とか偏見というものを外に輸出する形で政治的選択がなされる場合には、それだけある種の外からくる情報というのは、われわれの受信装置というものに受信できないわけですから、それだけそこから出てくる判断というものが誤るおそれというものが多くなるわけです。これが政治的選択というものにとって、状況の吟味ということ、またわれわれの中にある偏見というものをたえずわれわれの内部から取り出して、吟味するということがどうしても不可欠になるゆえんなのであります。」(別集② 「内と外」1960年 pp.368-369)
 「われわれの政治行動というものは、多かれ少なかれそういう性格をもっている。…いやいやながらの政治行動、現在の状況判断にもとづいて自分の自主的な決定として、自分がたとい政治がきらいでも一定の自分の判断にもとづいて、外の世界に向かってある選択をする、方向決定をするということ、これが本来の政治的な選択の意味であります。
 或る国の政策に対する判断についても、こういうことがいえるわけであります。たとえば一定の状況において、ある国のある政策に反対するということは、その国の政策の何もかも反対するということでもなく、いわんやその国がきらいであるからということとはまったく別の問題であります。外交にしてもそうであります。問題を常に具体的な問題に対する具体的な対処の仕方として、日本なら日本の利害から考えて、日本が現在の状況に対して、現在の状況は何か、日本の利害から考えて個別的、具体的にどう対処していくかということを考える、これが日本の方向決定の問題であります。そうでなくてたとえば、しばしば日本は自由陣営に属している以上、日本の外交方針は云々というようなことがいわれます。これは私にいわせれば典型的に閉じた社会の思考様式であります。…外交政策というものはそういうものではないと思います。」(別集② 同上pp.370-371)
「流動する社会現象は‥一定の道にはまらないという性格が強い。そこでわれわれに与えるイメージはおのずから強烈になる。この強烈なイメージが、したがってわれわれにいろいろな感じを呼び起こさすわけです。
 ‥出来事の意味を調べて、われわれの既存のイメージをそれに従って検討していくという余裕のないところは、それ自身として不愉快なものとして、あるいはもっとはなはだしくなると、起こるべからざるものが起こったとして、それを見ようとするわけであります。そういう政治的状況ほど、制度と反対にわれわれの内部に住みついていないからであります。ところがわれわれがほんとうに批判的であるとするならば、制度による拘束と、状況による拘束というものとに敏感にわれわれの意識を働かせなければいけない。…
 ところが大多数の人はそうではない。制度にのっとった行動は非常にナチュラルに思える。国家の管理が職権を越えて行動する場合には、‥越えた部分は純粋な組織的暴力であります。しかしそういう感じをわれわれは普通にはほとんどもちません。民衆の中における集団運動の行き過ぎは非常に強烈な意味ですぐわかる。…
 これは考えてみれば非常に不思議なことであります。ラスキーがいっているように、この不思議なことをストレンジとみる、あるいは驚くべき現象だということをみる感覚、そこからデモクラシーが育ってくる。…驚くべき現象に対して驚くこと、その驚くことから権力の濫用をチェックしなければいけないということが生まれる。…本来手段である制度というものが目的になる。それが自然のものとなる。…そういうところからわれわれの権力に対する絶えざる問いがなければ、権力の濫用が何時も起こりやすいということが、歴史の教える教訓になってくるのであります。」(別集② 同上pp.374-376)
「めがねというのは、抽象的なことばを使えば、概念装置あるいは価値尺度であります。ものを認識し評価するときの知的道具であります。われわれは直接に周囲の世界を認識することはできません。われわれが直接感覚的に見る事物というものはきわめて限られており、われわれの認識の大部分は、自分では意識しないでも、必ずなんらかの既成の価値尺度なり概念装置なりのプリズムを通してものを見るわけであります。そうして、これまでのできあいのめがねではいまの世界の新しい情勢を認識できないぞということ、これが象山がいちばん力説したところであります。…
 われわれがものを見るめがね、認識や評価の道具というものは、けっしてわれわれがほしいままに選択したものではありません。それは、われわれが養われてきたところの文化、われわれが育ってきた伝統、受けてきた教育、世の中の長い間の習慣、そういうものののなかで自然にできてきたわけです。ただ長い間それを使ってものを見ていますから、ちょうど長くめがねをかけている人が、ものを見ている際に自分のめがねを必ずしも意識していないように、そういう認識用具というものを意識しなくなる。自分はじかに現実を見ているつもりですから、それ以外のめがねを使うと、ものの姿がまたちがって見えるかもしれない、ということが意識にのぼらない。…そのために新しい「事件」は見えても、そこに含まれた新しい「問題」や「意味」を見ることが困難になるわけであります。」(集⑨ 「幕末における視座の変革」1965.5.pp.216-217)
「距離をおいた認識と分析というものが、もっとも必要でありながら、実はもっとも欠けやすいのは激動期の政治的状況についての認識であります。…(佐久間)象山の‥今日でも政治の思考方法として学びうると思われる点の一つは、政治的な好悪を離れて冷徹に認識し、またそのなかに含まれた矛盾した発展方向をつかまえる眼であります。…一つの事象のなかに含まれている矛盾した方向への発展の可能性というものを同時におさえていくということは、‥とくに政治的指導者にとっては、こういう両極性のあるいは多方向性の認識眼が必須の資質になります。そこにはじめて、自分の立場からして、一定の状況のなかにふくまれている、より望ましい可能性を少しでものばし、望ましくない方向への発展可能性を抑えていくような政治的選択-それに基づく政策決定が生まれてきます。政治は「可能性の技術」だというのはそういうことです。それは、理想、あるいは建て前はそうだけれども、現実は……という論法で、現実と理想とを固定的に対立させ、既成事実にただ追随していく「現実主義」とは縁もゆかりもないものです。」(集⑨ 同上pp.235-238)
「ぼくは、政治学を自立的にしたいという欲求があるでしょ。とくに政治学をほかの学問から区別するものは何かという、大きな関心があるわけです。
 そうすると、政治というものから、権力をどけては考えられないんです。それなしには、ほかの社会構造と同じになっちゃうわけです。権力という契機が入ってこないと、政治っていうものをほかの人間行動から区別することができない。権力といっても、国家権力とは限らないんです。テロやなんかも含めて。‥人間を抹殺することを正当化するのは、政治だけです。
 経済は、交換とか、純経済的な動機だけで相手を殺しちゃうっていうことはないでしょ。‥少なくとも、この物理的暴力-つまり、政治を目的じゃなくて手段から定義するのは、ウェーバーも同じです。
 目的から定義するというのは、国民の福祉とかね、秩序の維持とか、そういうところから定義する。そういう目的からの定義と、手段からの定義があるんです。ウェーバーは、徹底的に手段から定義して、最悪の場合には物理的強制を用いて人間を動かす行動が政治だって言うんです。最後の手段としては、物理的暴力を使用する。
 ぼくは、やっぱりそっちですね。目的から定義しない。‥江戸幕府だってなんだって、監獄のない政治がありますか。世界中ないんですよ、そんなものは。いざとなりゃ、捕まえて、ぶちこんじゃう。最後的手段として暴力を行使するのが、やっぱり政治の特色なんじゃないかと思う。
 その上でね、それを手段として何かをやる、それが何か、ということが問題になるわけです。だから、自発的協働とか、公民とかなんとかいうのは、社会行動を一般として論じることはできますけれども、政治を特色づけるメルクマールには、ぼくはならないと思っています。国家を前提とするかどうかを問わず、政治を、教育とか、経営とか、ほかの人間の営みから区別することにはならないんじゃないかと。
 ぼくは、国家を前提としないで、政治を論ずる主義です。その点では、学生時代に国家論の影響を受けたところから、変わりました。人間集団のあるところ、政治あり。したがって、学校政治というものもあります。国家から演繹されて政治があるんじゃなくて、学校というのはひとつの組織体だから。労働組合の中にも政治があります。そして、そこにはやっぱり、殺すまでは行かないにしても、物理的強制が加わる。たとえば除名。そういう制裁を伴わない政治っていうのはないんじゃないかと思っています。」(自由 1985.6.2.pp.162-164)
「自分が政治行動をやってるってことを意識しない政治行動ほど無責任なものはない。たとえば全共闘運動の中のノンポリ・ラディカルと言われてるものは、非常に美化されてる。ぼくは、セクトのほうがはるかにいいって言うんです。
 これは、セクトには自己保存するというエゴイズムがあるからね、政治行動に対して責任を持つんです。だけど、ノンポリ・ラディカルっていうのはね、自分が政治行動してるって自覚がないんです。ないけれど、客観的には政治行動してるんです。これくらい無責任なことはないです、その意味では。
 したがって、政治とは何かということを考えないといけない。ノンポリという名において実際には破壊活動をしているにもかかわらず、自分は政治活動をしていないと思ってるわけ。ぼくに言わせると、自己欺瞞もはなはだしいです。破壊したことに対する責任意識もなく、ほかのことで正当化されちゃう。…
 人間が集団的にある目的のために社会行動をすると、それは必然的に政治的意味を持つ。そのことに対して、心情からして、自分は政治参加をしてるんじゃないと否定するのは、無責任じゃないかということになるわけです。
 つまりね、非常に簡単なんです。アンチ政治主義っていうのは、ぼくに言わせるとオール政治主義の裏返しなんです。」(自由 同上pp.167-169)
 「(鶴見「私の考えはね、政治嫌いの政治行動というのかな。政治行動をなるべく最小限にして、しかも、最短期にとどめたいわけ。」)そうそう。まったく同じだよ。(鶴見「引き足でね、離脱したいんだ。」)だから、それは、人間行動の中のある領域を政治と認めないと成り立たない。ところが、政治ってのはおよそやるべきじゃないとか、俺は反政治的だと言うと、自分の行動の中の政治の位置づけがなくなっちゃう。ということは、あらゆる行動が政治的になる。…
 支配と被支配という考え方を、ぼくは取らないんです。それはマルクス主義の観念なんです。現代の日本を見ててね、どこまでが支配者ですか。ぼくは、そんな線は引けないと思うんだ。中曽根首相は支配者ですよ。けれど、自民党の普通の平党員は、支配者ですか、被支配者ですか。そこが封建社会と近代社会の違いだと思うんです。封建社会は、治者と被治者が非常にはっきりしてる。つまり、武士が支配者で、農・工・商が被支配者。けれど、近代社会になるとね、建前がみんな公民でしょ。
 僕が言いたいことは簡単なことで、まず第一に、政治行動というのは、政治を手段としてしか特徴づけられないということ。つまり、政治という特殊な領域はないということです。
 政治っていうのは、宗教とか学術とか教育とか芸術とか、いろんな人間活動を横断してるんだと。したがって、それがある形態を取ったときに、宗教が政治化し、学問が政治化し、教育が政治化し……という問題であって、政治という領域が宗教なんかと並んであると思ってたら、それは政治というものを政治家に委ねちゃうことになると。
 (「政治についてのそういう定義は、デモクラシーの定義のために、丸山先生が作られたものなんですか・」)そうですね。デモクラシーというより、身分制が廃されて以後の社会のとらえ方ですね。つまり、国家の構成員がみんな公民になった社会。」(自由 同上pp.169-172)
 「物事には実体的定義と機能的定義とがあると、よく先生はおっしゃいますね。いまのお話だと、政治には機能的定義ということになりますね。」)機能的にしか定義できない。(「それなら、教育だって機能的に定義できて、経済の領域にも政治の領域にも、教育的なものは貫徹してるというふうな言い方も、ぼくはできると思うんですが。」)それはできるでしょうね。できますね。できるけれども、価値的にね、教育は永久にあると思うんだ。一方、政治ってのは、最終的には暴力を使うんだから、ぼくに言わせれば、ないに越したことはないんです。その意味では、教育がなくなる世界って、考えられない。政治のほうは、なくなるように持っていくべきなんです。だけど、残念ながら、なかなかなくならない。ぼくの定義する政治は。
 だから、教育や経済と並ぶ価値を、ぼくは政治に置きたくないわけ。人間活動には、もっといろんな文化価値がありますね。これは、南原先生と根本的に違う。南原先生は、政治も文化価値だって言うんですよね。それでぼくは大論争したの。「新カントは、西南ドイツ学派には、そういう考えがあります」って、先生は言うの。ぼくに言わせれば、西南ドイツ学派なんかの考えでは、政治に文化価値なんてないんです。この文化価値が、本来人間にとって価値あるものであって、その中に教育も入るんです。
 南原先生は、「政は正なり」っていう『論語』の言葉で、政治的価値っていうのは一つの文化価値だと言うんです。ぼくは、基本的にそれは違うんだと。政治は、それ自身の固有の価値というのを持たない。ぼくは、やっぱり、アナキズムが理想であって、だけどそれが実現できないから、しょうがなくて、政治というものがあると思う。経済とか教育とか芸術とか、そういうものはしょうがないからあるんじゃなくて、やっぱり将来永久にあるし、あるべきものなんです。政治はだんだん減らしていくべきものだけど、残念ながらなくならない。‥自発的協働だけの社会だったら、そんなものは要らない。政治は必要じゃないんです。つまり、アナキズムっていうのは、人間性をものすごくオプティミスティックに見てる。
 (「人間の存在そのものに政治がからんでくるわけでしょう。」)ぼくに言わせればね。つまり、アナキストほど人間性を楽観視しないということなんです。アナキストほど人間性というものを甘く見たならばね、政治は要らないですよ。ただ、理想として見ればね、やっぱりアナキズムは正しいです。  (鶴見「アナキズムは、たしかにはじめは甘く見るんだけど、だんだん夢破れて、やけくそになるんだ。」)だから、それがノンポリの感覚ですよ。反政治主義ってのがオール政治主義になっちゃう。積極的に政治が位置づけられないから。」(自由 同上pp.172-174)
 「(「先生の究極の目標として、政治をなくすというのは分かるんですけども、しかし、これ、五百年、千年の幅では、政治がなくせるということは到底考えられませんですね。」)はい。(「国家でも五百年くらいは、なくせないかもしれないですね。」)まあ、国家をなんと定義するかですけどね。
 (「そうしますと、我々にとっては、よりましな国家とか、よりましな政治とは何か、ということになると思うんですね。」)…あなたの言われるよりよい政治、より悪い政治というのは、どういうものですか。(「たとえば、人間が二人いれば殺し合うというのも、一つの状態ですね。それをやめてお互いに取り引きをしよう、経済の状態に移っていこうと、それもまた一つの政治だと思うんですね。それを両者が選択するというのは。」)そしたら、その行動は、政治行動であることをやめて、経済行動に移るというだけでしょう。(「いえ、そうじゃなくて、思想としてはね、相手を殴るよりも、経済的取り引きをしたほうが得であるという、そういう思想です。」)それはね、状態から考えてる。事実状態から。ぼくが言うのは、事実状態じゃないんです。つまり、事実として暴力を行使するかどうかは、問題にならない。そうじゃなくて、政治という領域は、極限状態においては殺すということを予想しているということなんです。
 それでないと政治行動とは言わないというだけのことなんです。もう最終的には-殺すという例は極端だけれども-その人の意志に反して、その人に或る行動を取らせるという契機があるのが政治行動の特色だという、非常に単純なことを言ってるんです。つまり、さっきから繰り返し言ってるように、政治行動を他の行動から区別する契機は、それ以外は考えられないわけです。…
 (「先生、こういうふうに訊いてはいけないでしょうか。最終的には暴力、あるいは殺人まで、ということがある。しかし、そこまで行かせないものも、政治のある種の性格に含まれているんじゃないか。」)むしろ、それは非常に大事です。外交がそうでしょ。外交の努力の大部分は、戦争を抑えることにあるわけです。(「それもある種の政治だと。」)ある種どころか、大部分の政治はそれなんだ。しかし、暴力的対立を前提にしてるんです。そうでなければ、政治にね、それを避けるってことすら出てこないんです。いざとなりゃ暴力的対立になるという前提があるから、いかにしてそれを避けるかということになるわけです。それが政治の大部分の知恵になってくる。」(自由 同上pp.174-179)