現実政治に対する関心

2016.4.20.

「政治について何事かを欲しなければ、政治について何事かを認識できない。しかし他面、政治についての偉大な洞察はしばしば実践家としては挫折した思想家によってなされた。マキアヴェリ、マルクス、トクヴィル、ウェーバーなど。彼等は彼等自身欲しない実践からの引退によって古典的な著作家となったのである。四八年の革命が挫折したことと、われわれが「資本論」を持っていることと、いづれが人類にとって幸福であったか。……しかしそこには単に外的な条件以上の何ものかがある。彼等の認識と経験はつねに一定の直接的な目的から発していた。しかし同時に、彼等の精神のなかにはつねに、直接的な目的をこえて、多様な観察から一定の理念型を導き出し、「出来事」の関連に規則性を見出し、状況を典型にまで高めようという内的なドラングが作用していた。」(対話 pp.51-52)
「日本では「下から」の発想というのは、個人(自我)からの発想だということを徹底させなければならぬ。マルクシズムも官僚的学問もともに上からの発想だ。集団の立場からでなく、俺が状況に働きかけ、状況を操作するのに役立つ政治学-それが唯一つの有効な政治学だ。「政治」のワクをとりはらうこと。」(対話 p.54)
「行為の法則。 一、現在の瞬間瞬間が絶対である。現在が相対と考へ、うつらふものと考へたら行為出来ない。あとから何故あんなことに夢中になつたんだらうと思ふのが人間である。恋愛などにそれが最もよく現はれる。だから行動は無に面した冒険である。それを後からふりかへる時に因果の系列にあみ込まれる。  二、現実の複雑な価値のニュアンスの系列が単純化される。善と悪、美と醜、真と偽等に両分される。それでなければ行動出来ない。たへずニュアンスを享受してゐる人間は最も非行動的な人間だ。ニュアンスを全く知らない合理主義者は最も行動的である(徳田球一)。  入学試験→現実は一〇〇点から〇点までの系列があるのを、六〇点で断ち切って、合格、不合格を決する。  三、従つて行動は対象への何等かの暴力を加へることなしには可能でない。行動には必ず無理がともなふ。」(記載時期不詳 「折たく柴の木」執筆は昭一八から二一までと「凡例」に記載あり。対話 p.23)
「党派性の問題
 ある特殊なグループから喝采を博しようという心秘かな願望、"言葉"による自慰への衝動-そうしたものへの屈伏が、いかに屡々「党派性」という便利なスローガンでごまかされ、隠蔽されていることか。「人民」との無雑作な同一化!  真実であっても、それを言わないで伏せておく方が「誰か」にとって都合がいいという配慮-これをわれわれの日常生活から完全に駆逐出来ないことは、厳粛な悲劇だ。その悲劇の存在を頭から否定することも、その悲劇性に陶酔することも容易だ。が、そのいづれも学問的精神とは矛盾する。(真実の認識への)義務と傾向性との間の緊張関係は決して単に個人倫理の問題ではない。それこそ学問と生活を全面的に貫通しているパラドックスだ。  「敵」にたいしてはウソも許される。しかし「敵」とは?  ブルジョワジー、よろしい。その同伴者?よろしい。では君の周囲の組合、職場でそれを判別しうるか?それと、大衆の信頼をうることとは両立するか?実際はグレードの差しかない。」(対話 pp.36-37)
「realismなりdetachednessなりが、観照者と結びついているのが日本の悲劇だ。本居宣長-(荻生徂徠)-福沢諭吉-中江兆民。」(『対話』p.38)
「私は学者でもなければ思想家でもない奇怪な化物だと評された(吉本隆明)。それはある意味では当っている。しかしそれを奇怪としか見ないということは、私を貫いている大きな問題関心が、批判者の関心には全く登場して来ないということでもある。私が雑誌に書きちらして来た対象的には実に雑多な論文の方法論的資格は、どうしたら日本的な「認識の客観性」についての因襲的なイメージと、思想やイデーについての同じく根強いイメージをこわし、両者がきりむすぶ場を設定するかという点にあった。認識の客観性とは、「クソ実証主義」とも、またたんなる論理的整合性とも異なること、認識することは自己の責任による素材の構成という契機をめぐって不可避的に思想と価値判断の領域にふみ入ることを自覚しなければならない。しかし他方、「思想」というものは、決してそれだけで学問的認識の代用をするものでもなければ、それより何か本来的に尊いものでもない。自己のアスピレーションを外に投射するだけの思想、自己表白と感慨の吐露にすぎない思想がいかにハンランしていることか。一方、主体的なコミットメントを欠いた「認識」に安住する学者にも満足できず、他方、思想、世界観等々をどんな美しいコトバで表現しようと、ザハリヒな認識、鉱物質のようにつめたい認識への内的情熱をほとんど理解しない思想家たちにも左袒できない私は「化物」たらざるをえないではないか。
 もしいくらかでも私を「理解」できる人間がいるならば、それは、私と長く附合っていて、しかも評論家でも大学教授でもなく、一般社会の職業についている、名声への野心なしに書を読む人間だろう。」(対話 pp.248-249)
「私はこれまでも私の学問的関心の最も切実な対象であったところの、日本に於ける近代的思惟の成熟過程の究明に愈々(いよいよ)腰をすえて取り組んで行きたいと考える。従って客観的情勢の激変にも拘わらず私の問題意識にはなんら変化がないと言っていい。…漱石の所謂(いわゆる)「内発的」な文化を持たぬ我が知識人たちは、時間的に後から登場し来ったものはそれ以前に現われたものよりすべて進歩的であるかの如き俗流歴史主義の幻想にとり憑かれて、ファシズムの「世界史的」意義の前に頭を垂れた。そうして今やとっくに超克された筈(はず)の民主主義理念の「世界史的」勝利を前に戸惑いしている。やがて哲学者たちは又もやその「歴史的必然性」について喧(かまびす)しく囀(さえず)り始めるだろう。しかしこうしたたぐいの「歴史哲学」によって嘗(かつ)て歴史が前進したためしはないのである。
 我が国に於て近代的思惟は「超克」どころか、真に獲得されたことすらないと云う事実はかくて漸く何人の眼にも明かになった。…しかし他方に於て、過去の日本に近代思想の自生的成長が全く見られなかったという様な見解も決して正当とは云えない。…私は日本思想の近代化の解明のためには、明治時代もさる事ながら、徳川時代の思想史がもっと注目されて然るべきものと思う。しかもその際、…儒教乃至(ないし)国学思想の展開過程に於て隠微の裡に湧出しつつある近代性の泉源を探り当てることが大切なのである。思想的近代化が封建権力に対する華々しい反抗の形をとらずに、むしろ支配的社会意識の自己分解として進行し来ったところにこの国の著しい特殊性がある。」(集③ 「近代的思惟」1946.1.pp.3-4)
「政治の領域に見られるかくの如き「中間期」の頽廃性-ムッソリーニやヒットラーによる「権力政治」の再登場はその最も露骨な表現にすぎない-はまた思想、文化の面に於ても覆わるべくもない。この二十年間には新しき創造の準備をなすような思想家や作家は一人も現われていない。…なにより問題なのは、この時期の知識人が大衆から遊離し、時代の最高の社会的闘争の外に超然としながら、むしろ逆にそうした孤高性に矜恃を抱いている事である。…そうした文学に共通するものは、新しき信仰と勇気の欠如であり、現代世界の終末と頽廃を認識しながら、決然として新しき秩序の形成に赴こうとせず、知られざる未来の世界の前に尻込みする臆病さである。
 ラスキの骨を指す批判は転じて学界に及ぶ。…この二十年間の学界をもって、まさに歴史とのたわむれとして弾劾する。そこには旧態依然たる範疇の使用と叡智の欠乏が特徴であった。その原因として、ラスキは、学問の過度の専門化と学者の不偏不党の崇拝(cult of impartiality)を挙げている。…最近の五十年間、とくにこの二十年間に於て、学問と生活との乖離は著しくなった。学者はもっぱら他の学者に向って説いた。学者は専門化を極度に押し進めた結果、学者の著作は普通の知識を持った人間には無意味となった。」(集③ 「西欧文化と共産主義の対決」1946.8.pp.46-48)
 「方法の問題が対象の問題と不可分にからみ合っているのが政治的思惟の特質なのであって、純粋な、対象から先験的に超越した方法というものはこの世界では意味がない….そうした研究が究極には、われわれの国の、われわれの政治をどうするかという問題につながって来ないならば、結局閑人の道楽とえらぶところがないであろう。要はわれわれの政治学の理論が日本と世界の政治的現実について正しい分析を示しその動向についての科学的な見透しを与えるだけの具体性を身につけることであって、このことをなしとげてはじめて、未曾有の政治的激動のさ中に彷徨しつつある国民大衆に対して政治の科学としての存在理由を実証したといえるのである。政治学は今日なによりもまず「現実科学」たることを要求されているのである。」(集③ 「科学としての政治学」1947.6. p.144)
「われわれが行動する時には必ず一つの決断を持たなければならない。しかし、われわれがほんたうに良心的に考へると、決断といふのはいつも或る程度は目をつぶつて飛び込むといふ要素はあると思ふ。…現実に日々われわれは個々の問題に決断してゆかなければならない。さういふ矛盾の中に生きてゐる。しかもさういふ矛盾を飛び越えて行動せざるを得ないといふパラドクシカル(逆説的)な関係が成立してゐる。決して直接的に結合してゐるわけではない。理論と実践とのパラドクシカルな結合関係といふものを皆がもう少し考へなければならないと思ふんですね。」(手帖58 「現代の学生生活を語る」1948年11月3日 p.19)
「これまで僕は、…当面の政治や社会の問題についての多少ともまとまった考えを殆んど新聞や雑誌に書かなかった。…しかし去年 (一九四九年) の秋あたりから最近にかけての日本をめぐる内外情勢の推移や新聞の論調などをじっと見ていると、何かしらこれ以上、そうした問題について沈黙しているのに耐えられなくなって来た。…ただ僕一個の気持として黙っていることに心理的な、いや、殆んど肉体的な苦痛を覚え出したのだ。…敗戦後、数年ならずして再び僕に…あの時代の気持と表情を甦えらせようとしているものは果して何か…。」(集④ 「ある自由主義者への手紙」1950.9.pp.314-315)
 「現在知識人は好むと否とに拘らずそれぞれの根本的な思想的立場を明らかにすることを迫られていると思う。…真に自由の伸長と平和の確保とを願う人々の間に出来るだけ広汎かつ堅固な連帯意識を打ちたてる前提としていうのだ。もはや平和や自由というそれ自体誰も文句のつけようのない「言葉」の下に、それぞれ「下心」を秘めた人々を結集させて表面のつじつまをあわせるのが「共同戦線」を意味した時期は過ぎた。…自由人をもって任ずる無党派的な知識人もその主体性を失わないためには無党派的知識人の立場からの現実政治に対する根本態度の決定とそれに基く戦略戦術を自覚しなければならない段階が来ているということだ。」(集④ 同上pp.317-318)
「今までは政治学はいわゆるアナリティカルなアプローチですませていた。権力とか、世論とか、政党とか、いろいろな政治現象をいわゆる「客観的」に分析して、政治の運動法則を明らかにする。それが政治学の科学性を確立する所以だということでやって来たわけですね。ところがこういう危機の時代になると、やはり政治学者は原子物理学者と非常に似た立場に立っていることをアメリカでも意識しはじめた。原子爆弾をだれが何時いかに使うかということに原子物理学者が無関心であっていいかどうかという問題が最近やかましくなった。政治学者も自分の研究が何に奉仕するかということに無関心である事は許されない。政治学者はこれまで政治学の科学性を確立するためには、どちらかと言うと、政治的手段を多く問題にして来た。例えば、政治権力が大衆を獲得する形態にはこういう類型があるとか、権力の変革過程にはこういう種類があるとかいうことを冷静に分析して来た。ところがそういう政治的手段は、例えば革命を鎮圧する目的にも使われるし、また革命を起す目的にも使われる。…だから、単に客観的分析だけでいけないのじゃないかという反省が政治学者の中に起って、アナリティカルなアプローチだけでなくてマニピュラティヴなアプローチをしなければならぬ。マニピュラティヴな研究というのは、一定の価値(ヴァリュー)を実現するに有効な手段の研究です。政治学が仕える目的は人間の尊厳(ヒューマン・ディグニティ)ということで、それをいかにして維持し、もしくは高めるかということを根本的に探究するものでなければならぬ。それでなければ政治学の研究が暴虐な政治的目的に使われるという結果になりかねないというわけです。」(手帖69 「社会学とその周辺」 『社会学評論』第3号 1950年11月30日 p.155)
「とくに日本のように、組織や制度がイデオロギーぐるみ輸入されたところ、しかも政治体制の自明性がなく、その自動的な復元力が弱いところでは、政治の問題が思想の問題と関連して登場して来るいわば構造的な必然性があると考えられる。一方ではイデオロギー論が過剰のように見えながら、他方では「思想」の形をとらない思想が強靱に支配し、思想的不感症と政治的無関心とを同時に醱酵させているこの国で、イデオロギー問題を学問的考察から排除することは実際にはその意図する科学的な見方の方向には機能せず、むしろ「いずこも同じ秋の夕暮」という政治的諦観に合流するであろう。したがってわれわれは「価値から自由な」観察と、積極的な価値の選択の態度を、ともに学びとらねばならぬという困難な課題に直面している。」(集⑦ 「現代政治の思想と行動第二部 追記」1957.3.p.31)
「そもそも現代というのはどういう時代なのかという根本的な問題に行き当らざるを得ないと思います。‥私たちは私たちの毎日毎日の言動を通じまして、職場においてあるいは地域において、四方八方から不断に行われている思想調査のネットワークのなかにいるというのが今日の状況であります。…こういう状況のなかで私たちは、日々に、いや時々刻々に多くの行動または不行動の方向性のなかから一つをあえて選びとらねばならないのです。…しかもおよそ政治的争点になっているような問題に対して、選択と決断を回避するという態度は、まさに日本の精神的風土では、伝統的な行動様式であり、それに対する同調度の高い行動であります。(集⑧ 「現代における態度決定」1960.7.pp.303-306)
 「認識することと決断することとの矛盾のなかに生きることが、私たち神でない人間の宿命であります。私たちが人間らしく生きることは、この宿命を積極的に引き受け、その結果の責任をとることだと思います。この宿命を自覚する必要は行動連関が異常に複雑になった現代においていよいよ痛切になってきたのです。」(集⑧ 同上p.309)
 「ゲーテはこういうことをいっています。「自分は公正であることを約束できるけれども、不偏不党であるということは約束できない。」‥世情いわゆる良識者は対立者にたいしてフェアであるということを、どっちつかずということと混同しているのではないでしょうか。…問題は、偏向をもつかもたないかでなくて、自分の偏向をどこまで自覚して、それを理性的にコントロールするかということだけであります。」(集⑧ 同上pp.309-311)
 「政治行動というものの考え方を、‥私たちのごく平凡な毎日毎日の仕事のなかにほんの一部であっても持続的に座を占める仕事として、ごく平凡な小さな社会的義務の履行の一部として考える習慣-それが‥デモクラシーの本当の基礎です。…私たちの思想的伝統には「在家仏教」という立派な考え方があります。これを翻案すればそのまま、非職業政治家の政治活動という考え方になります。…つまり本来政治を職業としない、また政治を目的としない人間の政治活動によってこそデモクラシーはつねに生き生きとした生命を与えられるということであります。」(集⑧ 同上pp.314-315)
「西欧諸国が文明と言ってアジアに対して何をしているか。具体的に日本に来た西欧人が何をしているか。そういうことの直接の見聞に基づく感情、痛憤、そういう心情がいかに痛切であったかということは、今日ほとんどこれも追体験することは困難であります。もしこの心情を直接無媒介に発露すると、反西欧主義になるわけです。
 しかし福沢は逆です。問題は原体験を思想に昇華させる力になるわけです。だからこそ独立のために西欧文明を摂らなければならない。最大最強の敵から学ばなければならない。しかも西欧文明を摂るというのは、その結果でなくて、それを生みだしている精神から学ばなければならない。こういうことを言うわけです。
 西欧文明と言ってもいろいろあります。そこでプライオリティがあるわけです。…現状の日本で何が必要で、何が欠けているか。好悪を超えて、それを摂ることの難易を超えて、易きにつかないで、この課題を解決するために、どんなに苦しくともそれを優先していくということになります。最も欠けていて最も必要なもの、これを最優先に学ぶということであります。これを福沢は、無形においては人民の独立の精神、有形においては数理学、これが東洋になくて西欧にあるものであり、西洋の今日の強大を来した基本的な源泉であると彼は言っております。」(手帖57 「福沢諭吉」1968年9月14日 pp.14-15)
「私のなかにはヘーゲル的な考え方があります。つまり"自分は何であるか"ということを自分を対象化して認識すれば、それだけ自分の中の無意識的なものを意識的のレヴェルに昇らせられるから、あるとき突如として無意識的なものが噴出して、それによって自分が復讐されることがより少なくなる。つまり"日本はこれまで何であったか"ということをトータルな認識に昇らせることは、そうした思考様式をコントロールし、その弱点を克服する途に通ずる、という考え方です。…哲学はいつもある時代が終幕に近づいたころ、遅れて登場し、その時代を把握する。"ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ"という有名なヘーゲルの比喩がそれです。ヘーゲルの場合は非常に観照的で後ろ向きです。つまり哲学が時代をトータルに認識できるのはいつも「後から」だ、というので、ヘーゲル哲学における保守的要素の一つになるわけです。ところがマルクスはこれをひっくりかえして読んだ。ある時代をトータルに認識することに成功すれば、それ自体がその時代が終焉に近づいている徴候を示す。こういう読み方なんです。‥資本制社会構造の全的な解剖に成功すれば、それは資本制社会が末期だということの徴候なんです。そういう「読みかえ」ですね。…その流儀で"ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛びたつ"という命題を、日本の思想史にあてはめれば、‥日本の過去の思考様式の「構造」をトータルに解明すれば、それがまさにbasso ostinatoを突破するきっかけになる、と。認識論的にはそういう動機もあります。」(集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1979.10.pp.222-223)
「日本政治思想史でも、例えば何といってもわれわれの現在の生活というのは、明治維新というのが非常に大きな転機ですから、明治維新から話を始めて現代に来てもいいじゃないか、その方がわれわれの現代の生活に直接近い話になるじゃないか、という疑問が出るかも知れません。私も事実、非常に昔の頃-昭和二十五年頃までは、大体、幕末から今度の戦争ぐらいまでをテーマにしていたのでありますけども、「それではいけないんだ」ということをだんだん気がつくようになったのです。…
 というのは、‥現代に時間的に近いものほど何か私どもに直接かかわりがある、時間的に遠いものほど私たちの現在のものの考え方なり感じ方なりから遠い、縁が薄いのだ、というイメージがあるんじゃないか。‥時間的に近いものを論ずれば、それはわれわれに切実なもの。時間的に遠いものを論ずると、何か縁がないことを論じている。はたして本当にそうだろうか、ということをもういっぺん尋ねてみる必要があるんじゃないか。
 これはあらゆる領域でそうなのですが、特に思想と文化の領域ではそうなのでありまして、むしろそういう領域では、時間的に遠く離れて距たった見えるものが、実は意識しないで-深層心理学の言葉を使うならば-深層、下意識のレベルでわれわれを深く規定しているのではないか。…一見、現代の生活に縁のないように見える千何百年前の記録に見えるようなものの考え、思考様式、あるいはその中に現れている発想というものが、実は深く私たちのものの考え方の底辺に横たわっている、生き続けている。ただそういうものが昔あったというだけじゃなくて、現在生き続けている。必ずしもわれわれはそれを意識していない。思想としては意識していない。思想というと大変ハイカラなものを意識する。しかし実はそのハイカラなものを受けとる受けとり方の中には、われわれが意識しないで、何千年の昔からわれわれの意識の底に沈んでいるものがあるんじゃないか、ということであります。」(手帖2 「日本の思想と文化の諸問題(上)」1981.10.17.pp.5-7)
「僕の考え方がヘーゲルの考え方から基本的に影響を受けているのは、ヘーゲルは認識と実践とをなんとかして架橋しようとしたわけです。ヘーゲルの立場からいうと、トータルに現実を認識すれば、自分が現実から隔離されるわけです。自分が現実から隔離されると、アリストテレスのいうテコの規準じゃないけれど、地球の外に立てば、地球を動かせるといってたでしょ。あれと同じなんだ。つまり、トータルに現実を認識できるということは、現実を変革できる条件ができるということなんです。そういうヘーゲルの読み方に非常に僕は影響を受けた。なんとかして、少なくとも過去の日本をトータルに認識できないか。そうすれば、現代の日本を変革できるという……。」(手帖9 「丸山眞男自主ゼミナールの記録 第一回」1983.11.26.p.24)
「マルクスが‥どうして、あんな『資本論』のような、スコラスティックな分析に取り組んだのか。つまり、資本制社会を全体的に解剖すれば、それは資本制社会が末期に近づいている証拠だという、そういう読み方。
 僕はこれに、電撃的なショックを受けたわけです。そこで、今までの日本思想史の構造を、僭越だけれども、全体的につかまえれば、自己認識になるわけです。自己認識ということは、自分を対象化することですから、これぐらい難しいことはないわけです。[それでも何とか]自分を全体的に対象化すれば、そこから「俺はこれかな、これはいけないんだな」ということになる。それはレントゲン写真を見せられるようなもんです。「お前、ここに病巣があるぞ」ということになるわけですから。」(手帖19 「早稲田大学 丸山眞男自主ゼミナールの記録 第二回(上)」1985.3.31.p.21)
 「皆さんが僕の文章を読んでいて、‥そのなかでたった一つでも、「あ、これは、いまの問題なんだな」と思ったら、僕の意図は達せられるんです。昔のことじゃなんだなと。そうすると、それが、持続する契機になるわけです。自分で意識しないけれど、「あ、そうか。俺もそうだった」ということが一つでもあれば、僕の目的は達せられる。無自覚なものを自覚化させるということが、一つあるわけです、[僕の]モティーフのなかに。自覚化すると、これは自覚する前とは違うんです。…
 だから、昔のことは昔のことじゃない、済んだことじゃない。逆に、昔のことを済んだこととするのが、日本人の盲点です。過去を過去のこと、過去との対話がないということ。過去が自分のなかに住んでいるという意識が希薄なこと。俺は現代に住んでいるんだ、江戸時代とは無関係だと。そうではありませんよ、江戸時代どころか、『古事記』の時代、あなたのなかに『古事記』が住んでますよという、ちょっと意地の悪い意図が[僕のなかに]あるわけです。一つでもそういうものを感じたのなら、僕としては成功なんです。それは、さっきいった問題意識ということです。」(手帖19 同上pp.27-28)
「そんなことをやって何の役に立つんだという卑近な実用を断つところから、学問的認識は始まる。「面白いな」という、‥それが学問の出発点だということ。しかし、同時に、社会科学的認識は自分に必ず還ってくるんです。その意味では実践に関係してくる。自分に還ってこない社会科学的認識というのは、どこかおかしいところがある。…
 ああ、そういえば、俺のあの時の、あれは、こうだなっていう、自分に何か還ってくる要素が社会科学にはある。というのは、自分が社会の構成員であり、同時に、社会を認識しているわけでしょ、自分は主体であり、同時に客体ですから。社会科学は、その意味では実践的性格を帯びる。自分に還ってくるということは、自分の行動に何らかの影響を与える。しかし、それを目的としたら、駄目だということを言いたい。非常に難しいんですけれど。答えはありません、永久の問いですから、プラトン以来の。
 だから、僕は僕の時代によって制約されている。…みんな時代の子なんです。だから、自分自身を相対化するために歴史を勉強する必要があるということは、それなんです。自分も歴史的時代の子だということが分かる。現代というのは、どうやって今のような時代になったのかということは、やっぱり、どうしても歴史を勉強しなければいけないわけです。突然にきたわけではないんですから。みんな深く時代の刻印を帯びているわけです。」(手帖21 「早稲田大学 丸山眞男自主ゼミナールの記録 第二回(下)」1985.3.31.p.9)
「私は論文を書く時には、自分の経験、自分の生きてきた時代、それから得た自分の直感、そういうものに非常に大きく左右されます。「忠誠と反逆」というと抽象的な論題ですけれど、何を言いたいのかは簡単なんです。それは「忠君愛国」です。小学生の頃から忠君愛国を教えこまれてきた。それで「忠君愛国」ということを特に日本の国民として、あるいは当時の言葉で言えば、日本の臣民としてどう考えてきたか、また、どう教えこまれてきたのか、そのことを反芻することなしにはないんですね。そもそも忠君愛国とは何か、忠君愛国を切り離せないんです。…
まず自我と自我を超えたものとの関係について。…自我と私の外にあるもの-外にあるものというのは、外面的という意味じゃないですよ、私の内にあってもいいんですよ-に対する、それとの関わりですね。自分と、自分への客観的規制でも何でもいいですけれど、そういうものとの関わり。…
 …伝統的な言葉で言うならば、道に対する忠誠か、あるいは人間に対する忠誠か、ということは、問題になり得ると思います。インパースナルなイデーに対する忠誠か、それともパースナルなものに対する忠誠か〔ということが〕いちばん大きく、私の頭を初めから支配しています。なぜかというと、「忠君」というのはパースナル、「愛国」というのはインパースナル、-国に対する忠誠ですから。忠誠と言ったって、インパースナルなものに対する忠誠と、パースナルなものに対する忠誠があるじゃないか、と。で、この関係はどうなるんだ、というのが、初めから問いとしてあるんです。良い悪いは別ですよ。この論文のモティヴェーションを言っているわけです。」(手帖36 「『忠誠と反逆』合評会 コメント」1993.4.24.pp.4-6)
「純粋な客体としての学問というものに対して、初めから不信を持っているということです。つまり、そこにあるものについて何か書くのが学問ではない。逆に言えば、学問とは必ず自分にはね返ってくるものだ。何かを書くとすれば自分にはね返ってくる。ということは、現実に対するコミットメントなしに、いかなる精緻な論文もあり得ない、というドグマです、私の。それは時代の激変と、激変の中に漂う人々。それから今度は、抽象的レベルで言えば、はっきり申し上げますが、それは、やっぱりマルクス主義です。
 マルクス主義が「党派性」という、非常にどぎつい言葉で言ったことは、私を震撼させました。つまり、対象の客観的認識なんていうことは言えないということ。主体の関わり方なしには、対象の認識なんてできないんだということ。…それはやはり、主体の世界または社会への関わり方が、そこでは問われている。つまり、オーバーに言うならば、いわゆる実践とは違いますけれど、その研究を通じての現実へのコミットメントがある、自分の。そういう考え方です。それが全部を貫いている。これは、ドグマと言われたらドグマなんです。それから離れてはあり得ない。」(手帖36 同上pp.20-21)
「欠如理論というのは、日本ではマイナス・シンボルに使われる。日本にはこれがない、あれがない、とばかり言って、ないないづくしじゃないかと、だいたい悪口として言う。けれども欠如しているからこそ、ますますそれを強調しなければいけない。本来あるものなら、放っておいても生長するから大丈夫です。もし日本を豊かにしようとするならば、欠如している、あるいは不足している面を強調しなければいけない。本来もっている自然的な傾向というのは言わなくてもいい。むしろそれは自家中毒を起こしやすい。…
 要するに福沢の言動というのは、そういう意味で、いつも役割意識というのがつきまとっている。彼が教育者として自己規定したというのも、この役割、この使命感ということに密接に関係しています。つまり、教育というのは、長期的な精神改造なんだ、自分は政治家ではないから、政治にコミットしない、ということの対比において、彼はそういうことを言っている。ロングランの精神改造というものに彼は賭けているわけです。」(集⑮ 「福沢諭吉の人と思想」1995.7.pp.305-308)