「原爆体験の思想化」

2016.4.20.

「戦争の破壊性が恐るべく巨大なものとなり、どんなに崇高な目的も、どのような重大な理由も、戦争による犠牲を正当化できなくなったという厳粛な事実に否応なく世界の人々を直面させたのは、いうまでもなく第一には、原子爆弾、水素爆弾などのいわゆる超兵器(superweapons)の出現であった。…現代戦争の内包するこのようなパラドックスは決して忽然として生じたのではない。それは、近代産業及び交通通信手段の発達が、一方において全世界を一体化し、各国家各民族を密接な相互連関の関係に置いたと同時に、他方において、もろもろの政治権力の集団的な組織化を高度にし、その相互の軋轢(あつれき)をいよいよ大規模なものにしたという歴史的過程によって齎らされたものである。現代戦争が国際的には世界戦争(global war)として現れ、国内的には、全国民を動員する(total war)という様相を帯びるのは、その必然な結果にほかならない。したがって、戦争の破壊性が戦場における武器による直接的な破壊性に限定されなくなったということこそ、何にもまして重要なことである。…最も惨憺たる被害を蒙るのは、家を焼かれ、近親を失って彷徨する無辜の民衆であるのが、皮肉というにはあまりに痛ましい現代戦争の実相なのである。しかも、戦後に待ち構えているのは、経済的政治的荒廃、大量的失業、飢餓、暴動であり、深刻な道徳的頽廃がこれに加わる。」(集⑤ 「「三たび平和について」第1章・第2章」1950.12.pp.8-9)
「内村(鑑三)の非戦論が単にキリスト教的福音の立場からの演繹的な帰結ではなく帝国主義の経験から学び取った主張であったということは、彼の論理に当時の自称リアリストをはるかにこえた歴史的現実への洞察力を付与する結果となった。彼は近代戦争がますますある目的を達するための手段としての意義を失いつつあること、いいかえれば、戦争の精神的物質的コストの異常な増大は、いわゆる「正義の戦争」と「不義の戦争」の区別をますます非現実的なものにして行く傾向をすでに鋭く指摘している。「人類が進むに従て戦争の害は益々増して其益は益々減じて来ます、随て戦争は勝つも負けるも大なる損害たるに至ります、戦争は其代価を償はず、其目的に達せざるに至ります、……斯かる場合に臨んで最も慧き国民は最も早く戦争を止める国民であります。…」(戦争廃止の必要、明四一・八)。「若し戦争はより小なる悪事であって世には戦争に勝る悪事があると称へる人がありますならば、其人は自分で何を曰ふて居るのかを知らない人であると思ひます。戦争よりも大なる悪事は何でありますか、……若し無辜(むこ)の人を殺さなければ達しられない善事があるとならば、其善事は何んでありますか、……悪しき手段を以て善き目的に達することは出来ません。殺人術を施して東洋永久の平和を計らんなど云ふことは以ての外の事であります」(平和の福音、明三六・九)。戦争と軍備によって平和が生れるというのは、「日本国の政治家のみならず世界万国の政治家」の最大の迷信である。戦争は他の何かをもたらすことがあろうとも平和だけは決してもたらさない、「戦争が戦争を止めた例は一ツもない、戦争は戦争を生む、……世に迷想多しと雖も軍備は平和の保証であると云ふが如き大なる迷想はない、軍備は平和を保障しない、戦争を保証する」(世界の平和は如何にして来る乎、明四四・九、傍点原文)。こうした内村の論理がその後の半世紀足らずの世界史においていかに実証されたか、とくに原爆時代において幾層倍の真実性を加えたかはもはや説くを要しない。」(集⑤ 「内村鑑三と「非戦」の論理」1953.4.pp.321-322)
「産業革命を境としまして社会の空間と時間は一変しました。蒸気力の利用をみ、ひいては原子力の解放に至るこの巨大なテクノロジーの進歩の為、今までの歴史とそれ以後の歴史とは全く質的な相違が出来てしまった。その進歩があまりに巨大な為に、われわれがこの進歩の真只中にいる為に、それが一体どういう意味を持っているかということを測定しかねているというのが現在の姿ではないかと思います。」(集⑥ 「現代文明と政治の動向」1953.12.pp.18-19)
 「テクノロジーを縦横無尽に駆使する現代戦争が、第一次大戦当時、あるいは第二次大戦当時とも、ある意味では殆ど様相を一変させてしまうということ、…物的な、人的な、戦争による消耗の巨大さが殆ど想像もつかないということは、第二次大戦と、現在の朝鮮戦争と比べてみても解るわけです。…軍事費も、ジェット機の製造とか、原爆、水爆の製造によってこれまた桁違いに上昇し、…つまりテクノロジーの進歩によって、われわれの生活環境は非常に目まぐるしく変動しているにも拘らず、政治や社会を判断するわれわれの「ものさし」は、どうかするときのうのテクノロジーを前提においている。そこからいろいろな悲喜劇が生れてくるのであります。」(集⑥ 同上pp.21-22)
「以上、三つの要因(丸山:テクノロジーの発展、大衆の勃興、アジア民族の覚醒)は、‥単なる社会的事実であって、それ自体は必ずしも価値を内包してはいない。それ自体は、進歩的意味を持っているとは必ずしもいえない。価値に拘りなく、価値中立的、社会的事実であります。だからこそよい目的にも、悪い目的にも、積極的、建設的目的にも、破壊的目的にも使われる。これは戦争の武器とか、原爆や水爆の例をみても明らかであります。」(集⑥ 同上p.57)
「アウシュヴィッツもまた、ヒロシマやスターリングラードやダンケルクと並んで大戦によって象徴化した名称の一つである。」(集⑥ 「記録映画「夜と霧」について」1956.7.p.205)
 「空前の残虐行為のかどで戦犯に問われたあるSS隊員の一人が、彼を訪れた記者に対して、「われわれは通常(ノルマール)の義務を遂行したこと以外に何をしたというのでしょう」と語ったという話や、ラーヴェンスブルック収容所で拷問の悪名をとどろかせ、戦後絞首刑を言渡された政治班長なぞは、親戚友人の証言によると、日常生活では親切で愛すべきルートヴィヒと呼ばれ、動物を可愛がり、蛇やとかげを踏みそうになるとあわてて飛びすさった、というような記録を読むと、やはり底知れない不安が湧いて来る。ここにあるのは少くも日常行動様式においては決して「異常」な人間ではない。原爆を広島に落した搭乗員が感想を問われた時の答えは、同じく「職務を完遂しただけです」ということであった。この義務感とSS隊員の義務感とには一点の共通性もないといえようか。」(集⑥ 同上pp.209-210)
「現代は人間と人間との間に厖大な組織や機械が介在し、そこに人間的なものの直接的接触の感覚が失われている。非人格的なメカニズムの厚いカベを通して残虐を加える。だから、ここでは人間の加害者としての"罪の意識"は消える。「道義的に少しでも反省の必要を認めない」というナチの収容所の職員の言葉と、原爆を落とした飛行機の搭乗員の言葉が似ているのも不思議ではない。ボタンを押すことと原爆の実際の被害とは、搭乗員にとって何の関係もない。そこには命令されて飛行機に乗りボタンを押すという客観的な職務の遂行があるだけなのだ。」(集⑦ 「現代の政治」1957.11.1-2.p.187)
「見えない無数の世論の力が、案外巨大な力を振うということは、国際的な原水爆実験の禁止運動一つを見ても分りますよ。日本の原水協にしても、杉並の奥さん達が、その発端だったというように。…
 政党でない、つまり政治団体でない集団の政治活動というものが、実際は、日本のデモクラシーの地盤になっているのです。母親大会とか子供を守る会とかは、みな元来政治団体ではなく、何か他の具体的な目的を持って集って来た団体なのです。原水爆禁止運動にしても、それは政治と言えば政治ですが、何も権力を獲得するとか、そういう目的の運動ではないのです。‥これを、抽象的な言葉では「非政治的団体の政治的活動」といいます。
 これがデモクラシーにとって一番大切な一般国民の自発性を呼び起すポンプの誘い水のような役割をするのです。非常に大きな日本のデモクラシーを支える根となってきている。‥だから我々は、いろいろな団体作りをやって、その団体の目的を実現させるため、あるいはその目的の妨害を排除するためという、その限りにおいて政治にタッチするというような習慣をつけていくことが大切です。」(集⑯ 「私達は無力だろうか」1960.4.22.pp.23-24)
「日本はむかしから、自然的・地理的な境界が同時に国家なんですね。で、どうも「自然状態」っていうものがイメージとして浮かばないんですね。もし浮かぶとすれば共同体ですが、共同体的自然状態ではこれまた、暴力の制度化という必要の切実さがでて来ない。そういう日本の歴史的条件だけから見れば、僕のいう無数の内乱状態と制度との二重イメージがひろがるということは、絶望的に困難なように思われる。ところが逆に、核兵器の飛躍的な進歩とか放射能の問題の方から考えると、一人一人の人間が国家などは超越したものすごい暴力に直面しているという状況に、またなってきているんじゃないかしら。国家あるいは政治権力に人々がともかく服従しているのは、結局生命財産を保護してくれるという期待があるからです。ところが、世界中でだんだん、もはや国家頼むにたらず、という状況になってきつつある。だから、ぼくは日本でも生き生きした自然状態のイメージが出てこないとは必ずしもいえないと思いますね。」(集⑯ 「5.19と知識人の「軌跡」」1960.9.19.p.33)
「人智の進歩が政治をヒューマナイズするというのがかつて啓蒙哲学者の確信であった。ところがヒロシマとアウシュヴィツを経験した現代においては、「文明」は政治を人間化するよりも、むしろ非人間化するのではないかという危惧が知的世界の通念になろうとしている。」(集⑨ 「「人間と政治」はしがき」1961.9.p.7)
「イギリスのCNDを中心とする核武装の一方的廃棄運動は今年の二月に至って、アメリカのポラリス潜水艦の基地貸与協定にたいする嘗(かつ)てない規模の抗議集会にまで発展し、デモ隊はトラファルガー広場から行進して国防省前に坐り込み、数百の逮捕者を出した。…この著名な哲学者(バートアンド・ラッセル)の述べるところによると、「たとえば日刊新聞のなかでいちばん公平だと考えられているある新聞の労働党関係の通信員は、一方的核廃棄論に対する反対こそが「正気の声」だ、と述べた記事を書いた。私はそれに答える手紙を書いて、むしろ逆に、正気は一方的核廃棄論者の側にあり、廃棄論反対者の側こそヒステリーにおちいっている、と論じたのであるが、この新聞はそれを印刷することを拒否したのである。ほかの一方的核廃棄論者たちも同様の経験をもっている」。つまり、言論の自由の祖国でも、一方的核廃棄論は、気狂い沙汰というイメージを通じてしか大多数の国民の耳目に入らず、また入ることを許されないというわけである。アメリカでも、広島の原爆投下に関係したクロード・イーザリーが、罪責感からはじめた核兵器反対のための行動が「その筋」によって狂人扱いされ、精神医学者の「証明」付でついに精神病院に入れられたが、これまたラッセル卿によれば、イーザリーが自分の動機を説明したいくつかの声明は、完全に正気であり、すくなくも、原爆投下の正当性をあくまで弁護する当の責任者トルーマンよりは、はるかに正気なのである。こうしてラッセルは沸々とした憤りをかれ独自のソフィスティケーションにまぶして投げつける-「今日のさかだちした世界では、人類全体に対して生殺与奪の権を握っている人たちは、名目上は出版や宣伝の自由を享受している国々のほとんどすべての住民に、誰れであれ人類の生活をまもることを価値ある事柄と考える人は狂人でなければならぬということを、説得するだけの力をもっているのである。私は私の晩年を精神病院で過ごすことになっても驚かないだろう-そこで私は人間としての感情をもつことのできるあらゆる人たちとの交際を楽しむことになるだろう」‥。(集⑨ 「現代における人間と政治」1961.9.pp.15-16)
「戦争の方はどうかというと、…すでに第二次大戦における、都市への無差別な空爆、艦砲射撃、ロケット攻撃、そうして原爆投下に象徴されておりますように、戦争はいよいよ戦闘員間の戦争に限定されず、かえって一般非戦闘員の損害が飛躍的に増大している。…
 日本国憲法が、政府の行為によって再び戦争の惨禍がおこらぬよう、人民主権の原則を確定すると言っているのは、もちろん直接には、第二次大戦の経験が背景になっているわけですが、そこにはもっと広く現代戦争の傾向をふまえた思想的意味を読みとることができると思います。」(集⑨ 「憲法第九条をめぐる若干の考察」1965.6. pp.265-267)
「昭和二十年十一月二十四日の官制で「戦争調査会」が設置され、その第一回の総会が翌年の三月二十七日に開かれました。これは時期からいうと、政府の憲法改正草案が発表された直後のことです。幣原さんは首相としてこの調査会の総裁になっていたわけでありますが、こういう挨拶をされた。「先般政府の発表いたしましたる憲法改正草案の第九におきまして」といって、後の第九条になった趣旨を読み上げ、「斯(かく)の如き憲法の規定は、現在世界各国何れの憲法にもその例を見ないのでありまして、今尚(なお)原子爆弾その他強力なる武器に関する研究が依然続行せられておる今日において、戦争を放棄するということは、夢の理想であると考える人があるかもしれませぬ。併し、将来学術の進歩発達によりまして、原子爆弾の幾十倍、幾百倍にも当る、破壊的新兵器の発見せられないことを何人が保障することができましょう。若し左様なものが発見せられましたる暁におきましては、何百万の軍隊も、何千隻の艦艇も、何万の飛行機も、全然威力を失って、短時間に交戦国の大小都市は悉(ことごと)く灰燼に帰し、数百万の住民は一朝皆殺しになることも想像せられます。今日われわれは戦争放棄の大旆を翳(かざ)して、国際政局の広漠たる野原を単独に進み行くのでありますけれども、世界は早晩、戦争の惨禍に目を覚し、結局私共と同じ旗を翳して、遙か後方に踵(つ)いてくる時代が現れるでありましょう」と、こう言っているわけです…。ここに現われている思想は、…熱核兵器時代における第九条の新しい意味を予見し、むしろ国際社会におけるヴァンガードの使命を日本に託したものであります。」(集⑨ 同上pp.270-272)
「八月十五日についてなにかしゃべれといわれますと、そういう個人的な体験をぬきにしては私としては語れない感じがいたすのであります。
 私は戦後、なにかの折に「ああ、おれは生きているんだなあ」とふっと思うことがあります。というのは、なにか私は間一髪の偶然によって、戦後まで生きのびているという感じがするのです。それはあの苛烈な戦争をくぐった国民の方々でおそらく同じような感じ方をなされる人も少なくないと思います。私もその一人であります。私の場合とくにその実感を支えておりますのは、なんといっても敗戦の直前の原爆であります。私のおりました広島市宇品町は原爆投下の真下から約四キロのところにありました。そのときの状況をお話すればきりがありませんし、またその直後に私がこの目で見た光景をここでお話する気にもなれません。ただ私は非常に多くの「もしも」-もしもこうであったら私の生命はなかった、したがって私の戦後はなかったであろうという感じ、いわば無数の「もしも」のあいだをぬって今日生きのびているという感じを禁じ得ないのであります。
 宇品町は広島市の南端にあります。そこで、たとえば海上から侵入してきたB29の原爆搭載機に乗っていたアメリカの兵士が、もう一分、早くボタンを押していたら、その瞬間に私の体は蒸発していたかもしれません。…翌々日、私は外出してみて、宇品町でも死傷者が多いのにおどろきました。しかも私は放射能などということに無知なものですから、その日一日爆心地近辺をさまよい歩いたりしました。その他、その他の「もしも」を考えますと、私は今日まで生きているというのは、まったく偶然の結果としか思えない。ですから虚妄という言葉をこのごろよくききますが、実は私の自然的生命自身が、なにか虚妄のような気がしてならないのです。けれども私は現に生きています。ああ俺は生きてるんだなとフト思うにつけて、紙一重の差で、生き残った私は、紙一重の差で死んでいった戦友に対して、いったいなにをしたらいいのかということを考えないではいられません。」(集⑨ 「二十世紀最大のパラドックス」1965.10.pp.287-289)
「いまかえりみて、いちばん足りなかったと思うのは、原爆体験の思想化ですね。わたし自身がスレスレの限界にいた原爆経験者であるにもかかわらず。ほかの、たとえば、戦争中の学問思想に対する抑圧についてのわたし自身の経験とか、あるいは、さかのぼれば震災体験ですね。九つのときですから、戦争体験よりもむしろ強烈なんですよ。あのとき、ルポルタージュを書いたんです。…
それくらい震災体験は強烈なんです。それとか軍隊とか、そういう体験を思想化しようと自分では努めてきたつもりですけれど、ところがそのなかでどう考えても欠落しているのは原爆体験の思想化なんです。
「平和問題談話会」で、わたしは、朝鮮戦争のあと、「三たび平和について」という報告の序論の部分の原案を書いたんです。それで、なんとかして平和共存論の理論的基礎づけをしようとした。そのときに、原爆でこれまでの戦争形態がすっかり変わった。原爆の出現によって、どんな大義名分のある戦争でも、現在の戦争は手段のほうが肥大化しちゃって、目的に逆作用する可能性がひじょうにつよくなった、ということを述べたわけです。けれども、それは一つのグローバルな「抽象的」観察なんで、わたしが広島で原爆にあい、放射能も浴びたという体験とは結びつかない。現在、日本人がヒロシマを重い経験として感じている。そうして大江健三郎さんとか、最近の井伏鱒二さんとか、作家がその重みを作品に結晶化しようとしている。そういう意味での原爆体験というものを、わたしが自分の思想を練りあげる材料にしてきたかというと、してないです。その点が、自分はいちばん足りなかったと思いますね。(「何がその思想化を押しとどめたんでしょうか。」)解らないですけどねえ、それ。
…目をそむける光景をさんざ見てるわけですねえ。それでいて原爆の意味ということを、今日になって考えるほどには考えなかった。やっぱり、戦争がすんで、やりきれない時代が終わったって感じのほうがつよかったです。
それから、もう一つは、わたしは兵隊で、使役やなんかは一般の兵隊といっしょにやっていましたけれど、所属は情報班ですから。…そこでいろんなことを知ったわけですよ。たとえば、ハンブルグの爆撃、ドレスデンの爆撃。あの絨毯爆撃というのは残虐きわまるもんでね。正確な数字は覚えていないけど、死者何十万です。東京の五月の空襲でも何十万と死んでるでしょう。そうするとね、原爆だけが、とくに残虐だというか、そんなふうに思えなかった。じゃ、ハンブルグやドレスデンはどうなんだってことになるわけでね。おそらく戦争一般の残虐性ということのなかに、原爆の問題も解消しちゃったんでしょうね。戦争というのはこういうもんだ、戦争すればしかたがないというとおかしいけど、戦争に必然的にともなうものだという感じとして、当時は受けとっていたんだと思います、おそらく。
しかし、とにかくなぜだかわからないですね。原水爆戦争が共滅戦争だということは抽象的には考えてきましたよ。だけど、ほんとうの自分のなかの体験に裏づけられているとは言えないんだなあ。ふつう、観念的といわれている民主主義とか基本的人権とかはね、わたしはほとんど生理的なものとして自分のなかにあると感じています。しかし、原爆はそうじゃなかった。少なくとも、ビキニの問題が起こってくるまではそんなに深く考えなかった。まあ、わたしの懺悔(ざんげ)ですね。そのうしろめたさがあるから、いまさら、自分も被害者でございという顔で被爆者運動に参加するのをためらう気持ちがある。」(座談⑦ 「普遍的原理の立場」1967.5.pp.106-109)
「情報班にいたので、連合軍上陸徹底抗戦という最高方針のあることをよく知っていた。ポツダム宣言受諾の情報がはいったとき"戦争が終わった"とホッとした。その感じが最も強かった。それに個人的事情だが、この十五日に母が死んだという電報を十八日受け取り、ショックだった。踵(くびす)を接した大事件で、正直なところ原爆それ自身に対する気持ちが薄れた。」
「あの時、爆心地から離れた宇品(約五キロメートル)にいたんだから、正確に被爆者といえるかどうか。しかも兵隊だから、被爆した市民に対して傍観者みたいな立場にいた。そういう後ろめたさがあるから、自分も被爆者だというのはおこがましくて、広島について語るのをためらっていたんだな」(集⑯ 「二十四年目に語る被爆体験」 中国新聞1969.8.5,6.pp.362-363))
「酒井中尉に率いられて、報道班員二人と二日後(浅井注:後で丸山自身が9日だったと訂正)に外出して、被爆地中心地を一日中歩き回った。わたしは、相当放射能を浴びているんです。」(手帖6 「24年目に語る被爆体験」1969.8.3.p.5)
 「ピカドンとは、本当によく言ったものですね。誰が言い始めたのかな。あの直後、僕らはピカドン、ピカドンと言いました。(八月六日、その日にですか)その日じゃなかったですね。外出したころには、もう。八日にはピカドン、ピカドンと言ってました。」(手帖6 同上p.6)
 「(「よく助かった」という話は、四年前の(一九六五年)八月一五日記念集国民集会でなさいましたね)そうです。九段会館のときに、そういうことを言ったんですけどね。あれはあっち(司会)から、指名してきたわけですからね。あれが、ほとんど初めてです。原爆体験を公に話したのは。…
 何か、あまり語りたくない。それが、いっぺん話してしまうと、こういう風にね。おかしなものでね。割合気軽に。それから、後は気軽にいろいろな人に話すようになりましたけどもね。
 アメリカへ行って、原爆に遭った話をすると、とたんにみんな真剣になりますよね。寄って来ますよ。どうだ、どうだ、というので。こればっかりはね、アメリカ人共通のあれですね。相当右翼的な人でも、原爆の話をすると、イチコロですね。うーん、イチコロです。
 原爆について、日本がどんなに強い主張をしても、日本人が、われわれがどんなことを言っても反駁しませんね。かなりやってみましたけれども。日本人が、そう発言するのは、もっともだということは共通の認識ですね。だから、その点については、まだ自己主張が足りないのでしょうね。(ジュネーブで、浅海(浩一郎)大使が、日本は唯一の被爆国だ、と発言された、というので問題視されていますが……)当たり前ですよ。それを泣き言だ、というのはね。あるいは、過去のことをいつまでも言うのはおかしいと言うことこそ、おかしい。むしろ、発言するのは義務じゃないですか。」(手帖6 同上pp.7-8)
 「その日(八月六日)一日、何をしたのか全く記憶ないですね。面白いものです。僕は、その後、あの一週間を思い出そうとしたら、六日一日中何をしていたのかというのは、全くおぼえていないのです。悲惨な、広場がいっぱい埋まった光景を見たというのが最後の記憶です。記憶喪失になっちゃったんですね。
(一日中、船舶司令部の中でしたか。市中へ出られませんでしたか。)もちろん、船舶司令部の連中は、一歩も外へは出られない。ただおぼえているのは、夜になって、広島市内中の火で真っ赤に。ちょうど東京の大空襲のように、あるいは関東大震災のを思い出しましたけれどもね。その日は、そのまま過ぎたのです。
 (次の日、八月七日からは、どうなりましたか。)兵隊に総動員がかかって、死体片付け、市内の清掃。あそこ(広島市)には第二総軍と第五師団、それから船舶司令部と、三つあったわけです。時間的に早く、その七日です。第二総軍参謀長指示によって、これからは船舶司令部が広島市の治安維持の責めに任ずる、と言われたのをおぼえていますよ。
 救護及び死体収容のため、兵隊は全部出動しろ、というあれが下ったわけです。本来なら僕は、これに行くはずなんですけれども、情報班長が「お前は留守で残っていろ」と。それで、一人留守になっちゃったのです。そのとき出ていたら、もっと悲惨な光景を見ていたわけですけれども、まさに火が収まった直後、翌日の朝ですから。
 その日一日、兵隊が、生々しい死体を片付け、破壊の後片付けをやったところは全く知らないのです。僕が出た時には、少なくとも通り、大通り、つまり電車通りはきれいに清掃されていました。(迅速だったのですね。)迅速だったです。帰ってきた兵隊の話を‥あの兵隊の中からも、相当放射能に当たって発病した人いるんじゃないでしょうか。直後ですから。話を聞いたところでは、救護順序としては、将官を第一にする。それから、市民。兵隊が最後なんです。兵隊は、もう絶対の被爆者、実にみじめだったでしょう。ほとんど放置されていた。すぐにはやれん。あとになるのですから。
 (留守の司令部は、どういう状況ですか。)私は、短波をいじっていたわけですよ。これは普通、兵隊は情報班でも聞けないのです。将校でないと聞けないのです。ただ、短波を専門に聞く特別な兵隊がいまして、その人はアメリカで生まれた人だ、と言っていました。だけど、みんな出ちゃったものですから、私は、短波をいじっておったのです。
 それは全く偶然なんです。短波をいじったら、トルーマンの放送が入ってきたんです。それは何時ごろだかおぼえていないのですが、八月七日の。…トルーマンの声が入ってきて「歴史上最初の原子爆弾を投下した」ということで、これがこれか、と。まあ、名前だけは聞いていたけれども、僕は、何も実態は知らないんですよ。
 その後、(トルーマンは)原子爆弾の製造・実験の由来を話しました。ヒアリングが不十分でよくわかりませんでしたけれども、ドイツで開発されたという由来ですね。それをずっと話してました。
 僕は、とりあえず、爆弾は原子爆弾だという放送があったことをメモにすぐ書いて、参謀室に持っていったのをおぼえています。」(手帖6 同上pp.10-12)
 「仁科(芳雄)さんが来られたのは、八日ですか。そうしますと、九日ですね、私が市内を歩いたのは。仁科さんが縄をはっていたわけだから。その日、一日中歩いたのを記憶していますから、九日でしょう。
(どの辺りを歩かれました。)報道班長の酒井中尉が「丸山、見に行こう」って。将校ですから自由ですね。われわれは勝手に出られないけど。将校にくっついて行った。それで報道班と。情報班は私だけで。別に、それは命令が出たのではなくて、酒井中尉が、まあ中心部に行ってみよう、と。それで写真を撮る人と一緒に出ましたね。
 もちろん歩いて行くわけです。道々凄まじい光景を見たわけですね。しかしこういう風に(現場写真を提示)きれいになっているでしょう。これは兵隊が掃除したんですね。…(この写真は、どういうふうに使われたのですか。)全然使っていないんです。酒井中尉から「これやる」と言われて、もらったんですけど。‥一応一組、僕も一緒に行ったから、くれたんだろうと思うんですけれどもね。しまっておいたのですけど、ちょっと嫌だから、あまり人には言わなかったんです。…
(先生の場合は……)あれに完全に汚染されて……。それは、もう一日、朝から晩まで歩きましたからね。晩までというか、多分五時ごろまでに帰ってこなければいけなかったからですが、少なくと夕方まで歩きましたよ。
それで、私は必死になって、一つには、毎日の記者を探していたのです。というのはね、うちに連絡するのに、私は無事だということを、とにかくうちに伝えようと思って。そして、やっと毎日新聞の腕章を巻いた若い記者に会えました。…急いで、私、「毎日の方ですか」「そうです」「すみません。私は丸山幹治の息子ですけれども、ご伝言いただけますか」と言ったら「いいですよ」ということです。
第一に、私は無事だということ。
それから、そのときには、すでに次の原爆投下予定地を向こうが放送してたのですね。数カ所ありましたが、その中に十何日かに東京が入っていたのです。一二日か一三日が東京だ、となっていたのですね。私は、放送で聞いて知っていたものですから、原爆の自分の経験を記して、原爆が落ちるかもしれないから、次のような措置をとってくれ、と。
絶対に体を露出してはいけない。暑くても、シャツは袖口まであるものを着て、外出しないように。
もう一つは、爆発したと感じたら、とにかく大きなテーブルとかベッドの下に潜り込むのが一番いい、と。
(被爆体験から得た対策ですね。)経験知なんですね。みんな教えられたわけではなくて、いろいろな人の話を瞬間に聞くわけですね。そのわずか二日の間にですよ。実際、それは合っているのですね。‥だから、原爆を投下される恐れがあるから、、こういうことに注意しろと、東京の家族に伝えようと、記者に託したのです。
とにかく、私は無事だ、ということだけは、東京の親父に通じたのです。あとの方は、どうも通じなかったようです。」(手帖6 同上pp.12-16)
「私、どうして原爆の意味というものを、もっと考えなかったことは懺悔ですけれどもね。いろいろな原因があるのでしょうけれども、そのうちの一つは、やはり、その後に、原爆にひき続いて、日本の降伏、アメリカ軍の上陸、日本自身がどうなるかわからないという、そういう事態が踵を接して、輻輳してきましたからね。そちらの方に注意が奪われちゃったのですね。
例えば、原爆、そのことは私自身のことなので……、それとも、私の八月一五日は、やっぱり戦争が終わって、本当に救われたというか、私は当然(アメリカ軍が)上陸してくると思っていましたから、徹底抗戦するものと思っていましたから、救われたという感じはありました。
その後、三日ばかり後に電報が来ました。「ハハシス ソウギバンタンスンダ チチ」という電報が来たんですがね(命日は一五日)。全部吹っ飛んじゃいましてね、その喜びが。東京に帰っても母に会えないのだという、死に別れちゃったわけですからね。
そういうショックでもって、原爆それ自身のことを、私に考えさせなかったということがあるんじゃないかと、いまから(すれば)思うのです。
それと、人間というのは、悲惨とか、むごたらしい光景というのに無限に深い不感症になる。本当に怖いという気がします。すぐ慣れてしまう。
私も子供(九歳)のときに、関東大震災に遭い、死人も見ました。広島の片付けられた後であるとはいえ、あのどうも数え切れない死体。船舶司令部の前の広場に横たわった何百という人の悲惨な唸り声が、いまでも聞こえるようですけれどもね。
にもかかわらず、さっきの考えは、念頭にないのか、あるいは意識の下に、それを無理に追い落とそうとしたのか、それは自分でも分かりませんけれども、『思想の科学』でも言ったようにね。戦争後に、あれだけ「戦争」については論じたのですけれども、「原爆」ということのもつ重たさというものを論じませんでした。
(いまは、どのようにお考えですか。原爆体験が、思想形成に意味あるものになっていますか。)こればっかりは、もう無理に意味をでっちあげてもしようがないことで、やっぱり自分の中にズーッと、こう……発酵させていく。たまっていくものを発酵させる以外に、本当のものは出てきませんからね。もう少し記憶を、その当時の人、戦友なんかと会って、話し合えたら「ああ、そうだったな、そうだったな」ということで、もっと思い出すこともあると思うのですけれどもね。
(そういった機会はおありですか。)やはり放射能の問題。そういうことを考えるようになったのは、放射能だって、ビキニの問題以後。それは、実際自分でも気がつきませんでした。現に、目の前でどんどん毛が抜けていく人を見ていますからね。われわれ兵隊も冗談に、朝起きると、髪を引っぱって、大丈夫、大丈夫と言っていましたからね。その程度の知識は、経験的な観察から得ていたのです。
原爆症というのは不思議なものだということも、幼稚ながら、実際の観察に基づいて分かっていましたね。というのは、背中がペロッとはげたような人は案外生きていて、そして、腕に小さなダンゴぐらいの火傷をしていた人が三週間ぐらいで死んだりした。そうすると、全く予測つかない。非常にひどい火傷を負った人が意外に生きてて、ほとんど外から見たら、小さな火傷に過ぎないような傷を負っていた人が、僕が復員しないうちに死んだりしました。しかし、そういうことについての知識は、ずっと後になって知りました。
(まだまだ、広島については、分からないことが多い…….)私は、広島にしても、長崎にしても、これまで語られたことというのは、実際に起こったことの何千分の一、何十万分の一ほどだ、と思ってね。何十万人の人が、同時的に、それぞれの場所で、それぞれの体験をしたわけですけどね。それを一人でも多くの人間、ごく些細な路傍の石の体験でも合成していかないと、まだまだほんとの断片に過ぎないんじゃないか、今まで語られていることは、という感じがします。
‥僕は、至近距離からの傍観者に過ぎないんですけど、ほんとに路傍の石に過ぎないんだけども、そういう意味で、お話したい気になったんですけどね。
戦争の惨禍の単なる一ページではないんですね。もし、戦争の惨禍の単なる一ページだとすれば、まだ今日でも新たに原爆症の患者が生まれて、また長期の患者とか、あるいは二世の被爆者が今日でも白血病で死んでいるという、現実ですね。戦争は二四年前ですけどね(その「現実」は今も続いている)。
東京なんかだったら、もう全く過去の戦争の惨禍なんていうでしょう。それが毎日々々起こっているわけでしょう。毎日々々原爆は落っこってる。
だから、変な連想ですけれど、『神皇正統記』に「天地の始は今日を始とするの理なり」という有名な言葉があるんですね。それをもじって言いますと、「広島は今日を始とするの理なり」。広島の二十何年前に、ある日、起こった出来事ではなくて、広島に限らず毎日々々新しく起こっている。新しくわれわれに向かって突きつけられている問題なんです。
(その問題、広島の意味を聞かせて下さい。)いやいや、(笑い)そううまく整理されていないですよ。つまり、戦争の惨禍の一ページではないということですよね、二四年前の。単なる戦争の惨禍の一ページということだったら、今日に至っても新たに原爆症患者が、なお生まれつつあるということ、また長期患者あるいは二世の被爆者が、今日でも白血病で死んでいるという現実を、一体、どう説明するか。それは戦争のアトピーというか、あまりに生々しい現実が、いわば、毎日原爆が落ちているんじゃないか。だから、広島は毎日起こりつつある現実で、毎日々々新しくわれわれに問題を突きつけている、と。
単なる体験なんかじゃないと思います。ほかにないでしょ。こういう風にまだ毎日死んでいる人がいる。毎日といっても極端な表現ですけど、新たに原爆病が発生している。
僕だって分かんないですよね。ただ、医学が発達して、それは変わっているんですけれどね。多分、僕の肝臓だって分からないですよ。もちろん、直接にはくたびれちゃったということですけれども、結核になったときにも、よく知っている人は「原爆が関係あるんじゃないの」なんて言います。分からないですけどね。白血球なんかは、今でも少ないです。
(被爆者手帳をお持ちですか。先生の場合は、特別被爆者手帳が受けられます。)いや、いや。被爆者手帳交付の申請をしていないんです。先ほど言いましたように、私は広島で生活した人間というよりも、至近距離にいた傍観者なんですからね。」(手帖6 同上pp.17-20)
「アメリカとソ連は相手の国を完全に破壊するのに必要な核武装の何十倍の核武装をもっているんです。それでもなおナショナル・セキュリティを保障できないということは、今や核時代に入ると、武装力がかつてのように国家を防衛する機能をもたないということを暴露しているわけです。だから両国ともSALTで一生懸命になってる。軍備は相対的ですから、競争になれば、これで安全という限界はない。結局、実際の必要の何十倍の核をもつというバカバカしい結果になっているわけです。そうすると軍備にたよって国の安全を守るという観念が実は古くなってしまっている。われわれの思考のほうが現実よりはるかに遅れている。」(集⑪ 「日本思想史における「古層」の問題」1970.10.pp.216-217)
「この三十二年の間、一度もここ(広島)には参りませんでした。自分でも分かりません。機会はいくらでもあったにもかかわらず、何故広島に来なかったのか。正直なところ本当に分からないのです。廃墟から立ち直った広島-立ち直ったどころか、日本の高度の経済成長を象徴するかのように繁栄しております広島-を見ることに対する恐れ、それから"見たい"と言う気持ちとが、何か自分の心の中でいつもせめぎ合っていたというより他ありません。それ以上はほとんど言葉になりません。…
私は昭和二十六年から三十年にかけまして二度ばかり非常に重い肺結核になりまして、左の肺の大部分を切除しました。肋骨を七本とりました。一九六九年から慢性肝炎という今でも医学的によく分からない病気になりまして、現在なお血液検査をしょっちゅう受けているという、そういう体です。どういうものか、昨年の八月三十一日にアメリカから帰って来ますと、同世代の親しい友人が相次いで世を去りました。なんとなく、自分が動けるうちにもう一度広島に来なければいかんと思っておりました矢先に、関教授を通しまして、広島の平和科学研究センターに気楽に来ないか、という勧誘を受けたわけであります。
そういういろいろな条件が重なりまして、広島を訪れることに対する、今まで持っておりました、説明のつかない一種の心理的な抵抗感というものにケリをつけるように、自分の心に言い聞かせる絶好の口実ができたという感じがいたしました。こうして私は三十二年ぶりに皆様の前に参ったわけであります。」(手帖4 「一九五〇年前後の平和問題」 1977.5.25.p.2)
「日本は本当に不幸だったけれども原爆を体験しましたので、核という武器が出現したことによって、戦争が一変したということが割合まだ実感として残っている。あれは単なる武器じゃないんだ。普通の爆弾を大きくしたものじゃない、ということが感覚として分かる。今日まで放射能で死んでいく人がいる。放射能の害がいつまでも残るというのは今までにない。他の国々は知らないわけです。まだ核を通常兵器と同じように武器として見ている。したがって核を中核とする将来の戦争に対する危機感というのは非常に薄いです。今までは、戦争というのは、何かの目的の手段であったが、核を使ったらすべて吹っ飛んでしまう。つまり今まで武器は手段ですが、核という武器は手段じゃない。使ったら最後、おしまいになっちゃう-人類絶滅。人類絶滅を正当化するような、いかなる戦争目的もないでしょ。核の段階に武器が達したということでまた、戦争概念が一変した。」(手帖7「丸山先生と語る会-岩手県東山町-」1977.10.22.pp.7-8)
「(「個々の体験それぞれが違うことを踏まえますと、普遍化そのものを拒絶する傾向にどうしてもエネルギーが向いてしまうのではないか‥。そうした時に体験そのものを普遍化して、日本のいわゆる歴史意識といったものを変えていくというのは、むずかしいのではないか‥」という問いに答えて)それはつまり、認識論で言いますと、「純粋帰納論というのはあり得るか」ということです。これはもう現在の哲学で完全に否定されています。純粋の帰納というのはないんですよ。だから、事実をいくら積み重ねてみても、そこから命題は出てこないんです。こっち側に何らかの原理を持っていて、それを事実に照らすんです。そこから個別的事実をまとめていくんです。つまり、事実をまとめていく原理があらかじめあるんです。それは何かということなんです。…何らかの普遍的な原理にコミットすることによって体験に意味付けを与えていくことができる。その原理に当たるものがデモクラシーだったり、ソシアリズムだったりするわけです。まぁ、分かりいいからそういう例で言うんですが、キリスト教でも何でもいいんです-そういう普遍的な原理を前提にしないと、体験自身に意味付けができないんです。ぼくに言わせれば、体験自身に意味が内在しているように思っているのは、自己欺瞞です。何かにリファーしているんです。つまり何らかの引証基準があって戦争体験に意味付けをしているんです。体験自身は全部人によって違います。‥一年違えば体験も違うわけです。個別的に兵隊体験と、たとえば刑務所体験とがつながっている人もあれば、つながらない人もある。一方だけしかない人もある。どうしてそれから「戦争体験」が普遍化ができるんでしょう。分からないんだなぁ、そういうのは。
 …(「戦争体験といったものをまったく無視もし得ない‥時には、実際どのような作業を行えば-西欧的な歴史意識が必要だとすればという観点にたっていますが-歴史意識を変えていくことができるのかということが、分からないのです。」という問いに答えて)「戦争体験」という言葉を使っている限り、それは非常にむずかしいし、無理だと思うんですよ。…
 敗戦を経験したということの契機は-戦争体験というのは、敗戦体験ですね-非常に大きいけれど、それはぼくは全日本の歴史の文脈の中で捉える。歴史の文脈の中でそれがどういう意味を持っているのかというのを捉えるのであって、ぼくは戦争体験というのは、非常に狭いのではないか、と。大事なのは第二次大戦が日本の全体の歴史の中で持っている意味なんです。
 そうすると、歴史を勉強する-歴史を勉強することは、何も戦争を現実に体験したからどう、体験しないからどうということではない。体験した人がいかに戦争から学んでいないかということは、‥明らかではないですか。あれだけの民族的な破壊を経験しながら‥"何ごとも学ばず何ごとも忘れず"というのが横行しているではないですか、その辺にも。むしろ全然戦争を体験していない世代の中から本当の民主主義の-まぁ少数かもしれません。しかし、人権と自由の感覚というのを、本当に身につけた世代が生まれているではないですか。私はそう思います。甘いかもしれない。少数です。どんな場合でもそれは少数です。逆に戦争を体験した古い世代で、「のど元過ぎれば熱さを忘れる」で、何ごとも学んでいないのがワンサカいますよ。あの驚くべきカタストロフから何ごとも学んでいないこと自身、驚くべきことです。"古き夢をもう一度"というのが、ワンサカいるではないですか。そういう意味で、私は戦争体験それ自身からの普遍化というのは、あまり意味がないと言うんです。「歴史から学ぶ」というごく平凡な問題が重要なんです。」(手帖50 「日本思想史における「古層」の問題 補遺 慶應義塾大学 内山秀夫研究会特別ゼミナール 第一回」1978.12.2.pp.46-52)
「私にとって現在秘蔵の原書は何かということになると、これが海賊版なのである。E.H.Carr, Conditions of Peace, Macmillan, London, 1942がそれである。…数あるカーの著作のうち、なぜ『平和の諸条件』を-しかもその海賊版を-私が秘蔵本とするかが以下の主たる話題である。簡単に結論をいえば、この一本を見付け出したのが、私の最後の軍隊生活の場所となった広島の一古書店であり、その思い出が原爆投下直前の、宇品にある陸軍船舶司令部での私の日々と離れがたく結びついているからである。…
 私は日曜日の外出でたまたま書店の棚にこの書物を見出したとき、ほとんど信じられぬ思いで即座に購入した。というのはこの著作について当時の私に若干の予備知識があったからである。私の勤務する東大法学部の研究室で定期的に開かれていた小さな研究会で、矢部貞治教授(政治学担当)によってこの書物が紹介されたのを、私は応召の前に聴いていた。…私などは報告をききながら、むしろ戦争の真只中にこれだけ自国を中心とする「味方」の歴史的過誤を鋭く剔抉するイギリスの自由の伝統の底力にひそかに驚嘆の念を禁じえなかった。
 当面の私の海賊版に話を戻そう。これも写真版印刷で、一体どこで作られ、どういう径路で広島の一古書店-ああ、あの店も原爆で跡かたもなく吹き飛んでしまったのだ-の書棚におさまったのかは知るよしもない。…巻末の見返しの遊び紙につぎのような私の鉛筆書きがある。何か身構えた調子に照れ臭い思いがするが、全文を左に写しておく(旧仮名はそのままにしたが、漢字は新字体に改めた)。
  此の書は私の広島に於ける軍隊生活(自昭和二十年三月至同年 月)の余暇に読んだ。是によって受けた感銘は船舶司令部に起居した半年の間のさまざまの思ひ出、その間に起つた世界史的な事件-ドイツの敗北、国際憲章の成立、英労働党内閣出現、ソ連の対日宣戦、原子爆弾、我が国のポツダム宣言受諾-等々の生々しい記憶と共に永く私の脳裏から消え去る事はないであろう。昭和二十年九月
右の括弧の中の至……以下の数字が空白になっているのは、おそらくこの時にはまだ私の復員時期についてのメドがたっていなかったからであろう。そう思ってみると最後の昭和二十年九月という文字も、本文と鉛筆書きの太さがちがっていて、どうやらべつの時に誌したもののようである。本文をめくってみると、いたるところに私が引いたアンダーラインがあり、行端に数行にわたる縦線や波形線がひかれ、その傍にところどころ小さな書入れがある。右に例示されている「世界史的な事件」が広島の軍隊生活とともに、今日まで「永く私の脳裏から消え去」っていないことは事実であるが、さりとて下線をひいたり書き入れをした折の個々の記憶は、あれから三十四年余という歳月がほとんど拭い去ってしまった。…
私の広島での軍隊生活は、平壌での初年兵時代にくらべればむろんはるかに楽であったとはいえ、外国書の所持を許されるという処遇は、こうした逆の「特別視」(丸山:「私の職業もその程度には斟酌された」)によってバランスされる、という奇妙な性質のものであった。
八月十五日という歴史的な日の翌日に、私は突然、T参謀少佐に呼び出された。‥T参謀は「明日から一週間、自分に満州事変以来の日本の政治史、およびこれからの日本と世界の動きについて話して貰いたい。その間、君に一切の使役(しえき)を免じ、かつ完全な言論の自由を与える」といった。‥こうして始まった、机をはさんだ差向いの「講義」で、戦後世界の建直しの方向についてアンチョコとして私にもっとも役立ったのは-それが極東についてほとんど触れていないにもかかわらず-ほかならぬ私の海賊版「平和の諸条件」だったのである。」(集⑫ 「海賊版漫筆」1983.3.pp.67-74)
(道高道也往信)「先生は、広島市宇品の船舶司令部で終戦を迎えておられますが、『戦中と戦後の間』を拝見いたしますのに、戦後最初の論文「近代的思惟」以後の同書に掲載されている論文には、「内村鑑三と非戦の論理」に「戦争は平和だけは決してもたらさないことが原爆時代の自明の理」と簡単に触れられている以外、全く原爆に触れられておりません。このことは私に少なからず奇異な感じを抱かせます。
 先生の政治思想史への関わり方のなかで、原爆は無縁のものだったのでしょうか。「近代的思惟」の冒頭の「私はこれまでも私の学問的関心の最も切実な対象であったところの、日本に於ける近代的思惟の成熟過程の究明に愈々腰をすゑて取り組んで行きたいと考へる。従って客観的情勢の激変にも拘はらず私の問題意識にはなんら変化がないと言っていい」という昂然たる断言と、「あとがき」の「敗戦後、どういう状況のなかで、私が本来の専攻である日本政治思想史の研究に集中するかわりに、現代政治の諸問題について広く店を張る始末になったか、についてもこの際、一切自慰的な弁解はしない」と述べられていることとの間の、精神史的ギャップと原爆の問題-先生の被爆体験、並びに核を中心とした世界の政治の思想的展開。それらをかたくなに無視していると思われる先生の姿勢-とあるいは無関係ではないのではないかと推測することは、私の誤解でしょうか? 原爆は先生にとって一体何だったのでしょうか? 私は今、原爆についてのいろいろな文献を漁りながら、『戦中と戦後の間』を再読して、とても気になることとなってまいりました。
 或いは私が先生の原爆についての著作を知らないためかもしれませんし、プレスコードのためかもしれません。是非ご教示いただきたいと思います。」
「拝復、ヨーロッパに出かける前なので失礼ですが簡単にお答えします。(プレスコードとは無関係です。ただし、私は原爆体験をすでに思想化していると思うほど不遜ではありません。)
小生は「体験」をストレートに出したり、ふりまわすような日本的風土(ナルシズム!)が大嫌いです。原爆体験が重ければ重いほどそうです。もし私の文章からその意識的抑制を感じとっていただけなければ、あなたにとって縁なき衆生とおぼしめし下さい。なお、私だけでなく、被爆者はヒロシマを訪れることさえ避けます。私は六年前、勇をこして、広島大学の平和科学研究所に被爆後はじめて訪れ、原爆と平和の話をしました。しかし被爆者ヅラするのがいやで、今もって原爆手帖(ママ)の交付を申請していません。」
(平和科学研究所とは平和科学研究センターのこと。)
(手帖6 丸山のはがきの投函日付は1983.7.11.pp.30-32)
「僕の肺切除の結果は実に良かったからね、張り切ってた。そしたら六十代の終わりになって、そういう、手術のマイナス面が出てきた。…外から見るとなんともないけど、片肺ですから身体障害者でしょ。原爆をうけたから原爆手帳も貰えるんだけど、貰ってない。ただ、ああいうの貰っておくと便利なんですね、満員の列車なんかで車掌に示すと席を確保してくれる……
 (「貰ったらいいじゃないですか」)そうは思うんですけれどねえ……。だけど広島へも数年前(一九七七年)、初めて行った。原爆以来、行く気しないわけ、どうしても行く気しない。広島ってとこはね、被爆してない人が行って騒ぐところなんだ、あれは。ほんとに被爆した人間はとうてい行く気しない。それを、やっと勇を鼓して行った。広島の研究会が、平和問題談話会の成立のときの話を聞きたいというのでね。ある意味で、ぼくは矛盾しているわけ。行きたい気持ちとそうでない気持ちとがあって、それで断然、決心して被爆以来はじめて行きました。
 だけど、もう全然わからない。町並から何から全部変わっているでしょ。入営当時、女房が面会に来て泊まった宿屋なんか、もちろん跡形もないしね。今の原爆ドームは、あの頃は遠くから見えて高い建物だったけれど、今はその両側に高層ビルが建ってしまったから、もう小さくなっているわけね。すっかり、幻滅ですけど。」(自由 1984.10.pp.10-12)
「どうもぼくが申しわけないと思っているのは、体が弱いせいもあって、中野さんの、とくに晩年の沖縄問題とか原水禁問題とかいった、アクチュアルな面で、ほとんど中野さんと運動上の接触がなかったことです。‥実践的な平和運動家としての中野さんを語るとなると、ぼくはまったく落第生です。…僕は原水爆禁止問題とかそういう市民運動のほうはさぼって出席せず、遊ぶ時だけ一緒になるので、中野さんは内心「この野郎」という感じをもったんじゃないか(笑)と、ひそかにうしろめたい思いがしました。」(集⑫ 「中野好夫氏を語る」 1985.8.4.p.171)
「これ(浅井注:ポツダム宣言)を受諾することで果して国体が維持されるかどうかで最後まで解釈が分れ結局最後に、天皇が自分は護持されたと解釈する、という「聖断」を下したので終戦が決まるわけですが、宣言の解釈がきまらず、御前会議でもめている間に原爆が投下されたのですから、ずいぶん大きな犠牲を払ったものです。」(集⑬ 「文明論之概略を読む(上・中)」1986.p.157)
「今日核戦争による人類共滅の可能性は、すくなくも頭の中では世界の万人によって理解される現代の危機です。けれどもどんなに顕著で巨大であろうと、それは「西欧的国家体系」を基礎とした現在の世界秩序の危機の表層に位置します。この危機の地殻をほりさげて、‥本当の「世界新秩序」が具体的に構想されたとき、そのときはじめて私たちは福沢の「最後最上の目的」‥に向かって、それはもはや論理的にのみならず、歴史的にも超克されたものだ、と安んじて宣告を下すことができるのではないか、と思います。」(集⑭ 「文明論之概略を読む(中・下)」1986.p.326)
「平和と戦争を自由に主権国家が選択できるという前提が、国際連盟で初めて崩れたんです。それで戦争観が大転換したんです。それが不戦条約でさらに確かめられた。つまり、国策の手段としてやる戦争は国際的に見ると不法な戦争なんです。これは一九世紀には全然通用しない。帝国主義の真っ只中だからね。アヘン戦争はどうなんだ、清仏戦争はどうなんだ、と。同じことやったじゃないか、と。それは自民党が言っている議論です。日本の悲劇は、あまりに遅れて古典的帝国主義をやったことなんです。‥警察行動以外の、自分の国家の利益を増進するための戦争に訴えてはいけないというのが、不戦条約以後、国際規範になっちゃったんです。日本国憲法に始まったんじゃないんですよ。それを徹底して条文に規定したのは、日本国憲法が初めてなんです。しかも原水爆時代が現実でしょ。すると昔の意味での軍事的な勝者と敗者がもはやない。これくらいはっきりしたのは、ないんですよ。今、地球が破滅する何十倍だか何百倍だかの原水爆を持っている。ところが、軍備というのはやっぱり手段なんです。昔の観念がなかなか打破されないわけ。ところが「三たび平和について」‥に書いたんですが、手段じゃなくなったわけです。自己目的になっちゃって、地球を破滅させる道具になっちゃった。それを相変わらず国家の手段と思っているわけですよ。世界中、英米仏も含めて、程度の差はありますが。」(手帖56 「「楽しき会」の記録」1990.9.16.pp.22-23)
「核は画期的だと思うんです。初めて国家を越えた軍事力ができたということ。矛盾だらけなんですね、核だけをとっても。核拡散防止なんてのは、けしからん話で、持っているやつのエゴイズムですから。そこを今北朝鮮が突いているんですね。北朝鮮というのは、別の意味で始末の悪い国家だけれど、論理に無理はない。核拡散防止とはなんだと。核保有国のエゴじゃないかと。これには反駁のしようがない。(「彼らにしてみれば。自分を守るための開発だということもありますからね」との発言を受けて)そう。だから、国家を中心とした自衛権の否定までいかないと、片づかないんです。それが日本国憲法なんです、そういう意味では。国家を中心にした自衛権の否定ということになる。
 日本は、有史以来、ある意味で、擬似的に国家だったからね。文化的統一体、言語的統一体、領土的統一体、中は分かれているけれど、よく他の国から言われるのは、他の国は戦争に勝ったり負けたりしているけれど、〔日本は〕一ぺん負けただけで、あんなに懲りるんだと。大国の言うのはみんなそれなんです。懲りすぎなんだと、第二次大戦から。まぁ、懲りて、ちょうどいいんだけれど。しかし、それももっともなんだ。普通の主権国家から言えば、戦争に勝ったり負けたりするのは当たり前で。一度負けたからと言って、戦争がいかんと言っている日本の平和というのは分からない。だけど、それだから〔日本は〕国家の防衛そのものがだんだん意味を失ってくるということを、最も強力に言える立場にあるということですね。…
 人間の想像力なんて貧弱なものだから、イマジネーションがなくて、過去の経験を絶対化するんですね、どうしても。だから、軍事的な防衛力なしに国家の独立はないというのは、非常に根強い。」(手帖42 「丸山眞男先生を囲む会(下)」1993.7.31. PP.30-31)
「太平洋戦争が侵略戦争であったかどうかという問題と、広島と長崎に核兵器を使った問題とが混同されているんです。どうせ侵略戦争だからということで……。それこそ中世以来、戦争の正義性と、戦争における正義性との区別というのがあるんです。戦争自身が正義であるか、戦争手段が正義であるか、-これは厳密な区別。」(手帖5 「伊豆山座談(上)」1994.8.10.p.51)
 「戦後の僕の実感-嫌な言葉だけど-はね、つまり、あのとき死んでもおかしくなかった。だから丸儲けだという説。戦後丸儲け説。別に死が怖くない-そういう意味はなくてね、そういう感じですね。だって、部屋の中にいても危なかったけれども、早い話が[B29が]広島湾から来るでしょ。と、五秒早くボタンを押していたら木端微塵ですからね。[投下したのは]かなり広島の北なんですよ。宇品は一番南の端でしょ。
 放射能の問題ね。これがドレスデンやなんかと……。僕はヨーロッパで議論した。ドレスデン爆撃の犠牲者は三十万ぐらいですね、一晩で。‥僕は珍しく興奮したな、やっぱりあの時は。"なにそのうち原爆体験もだんだん忘れられる、風化する-日本の言葉で言えば-"と。僕は"通常兵器と原爆とでは質が違う"と。今でもそうですけれど、[彼らには]分からない。つまり、巨大なる破壊をする爆弾-それだけなんです。"You know still today people die"-これがないんだ。ドレスデンがいかにひどくたって。後に発病するということはないですよ。これが全然違うんだ、今までの兵器と。
 今でも巨大な爆弾という認識しかない。アメリカのマジョリティ-九〇%以上がそうだ。学者でも。いつ原爆症になるか分からない。こういう問題がいったい普通の爆弾にあるか。原爆症ということそのものも分からない。僕だって明日なるかも知れない。これはやっぱりショッキングですね。日本政府がいけないんだな、そういうことをもっと宣伝しないのが。
 僕が復員したのは九月の一四日だから一カ月ちょっとしかいなかったでしょ。それでも分かった、そのことは。というのは[いつ発病するか]予測がつかないんですよ。僕ら兵隊が教えられたのは、朝起きたら髪の毛を引っ張れ、と。ズルズルッとなるともうだめ。それぐらいの知識しかなかった。」(手帖5 同上pp.52-53)
「真珠湾と広島という問題だけど……。たしかに法的にいえば宣戦布告前の奇襲であったが、しかし政治学的にいえば全くノーマルな状態にあった国家間で突如軍事的攻撃をかけるのが奇襲だ。日米関係というのはどういう状態にあったか、いつ戦争が始まってもおかしくない状態が少なくとも一年は続いている。そうすると、いつ軍事的攻撃を受けるかも分からん、というのが政治的指導者なんですね。それを攻撃を受けたから、というのは全く法律学的概念であって……。
 朝鮮戦争もそうだと思うのだけれども、そういう時に、どっちが先に奇襲したとか、どっちが先に手を出したかというのはあまり意味がないわけね。…マイケル・ヴァルツァーの言うのはまた面白いんだ。真珠湾は奇襲かも知れないけれども、正義に反するかどうかは問題である。むしろ広島の方がはるかに問題になる。何故かというと、日本軍の目標は軍艦と軍の施設に限られていた。真珠湾は。ホノルルを爆撃するという意図は全然なかった。
 流れ弾が何発かホノルルに落ちたことはあっても。広島は非常に綿密に計画して軍都全体を目標にしている、と。
 もう一つ[彼が]言っているのは、戦争を終らせるために、もし広島に原爆を落とさなかったら、何百万のアメリカ人及び日本人の人命を失ったであろう、という議論についてです。‥たとえば、日本が原爆を持っていてアメリカを脅して降伏を強要する、といった反対の場合も想定していて、これも面白いのだが、彼はドレスデンの場合もそうだが、報復だからといって国際法上違法な手段をとっていいということはない。つまり、一切の他の手段がとれなかったという証明をしなきゃいけない、やる方は。それを全然していない。ドレスデンの場合、無差別爆撃以外にドイツに対する報復の手段はなかったのかどうか-それを全然していない。広島もそうだ。原爆を落とす以外に日本を降伏させる手段はなかったのか-軍事手段でいいんですよ-それを全然していない。報復のためには一切が許されるという論理を許すとすれば別だが、そんなことはキリスト教の論理から言ってもあり得ない。」(手帖6 「伊豆山座談(下)」1994.8.10.p.59)
「ぼくもだんだんですね、原爆投下について、あの許すべからざることというのは。だんだんでした。広島にいたということで、かえって離れて見ていた。ぼくは鶴見(俊輔)君に、どうしてもっと原爆について言わないのか、と言われました。何かよく自分でも弁解できないけれど、〔広島に〕もちろん行く気がしないというのは強かった。地獄を二度と見たくない、と。それで、意識的に行かなかったということはある。しかし、それと別問題です、原爆問題をもっと取り上げるべきだということは。例えば、褒められているばかりの、「三たび平和について」(一九五〇年、『丸山集』第五巻)でも、核問題ということは言っているけれど、広島原爆・長崎原爆、ということは言っていないんですね。核問題、戦争は絶対悪になった、ということは、あそこに書いてあるんですけれど、やっぱり抽象的です。ぼく自身が広島に行く気がしないというその気持ちと、いまや核問題が最大の問題になった、とあそこで書いたのと繋がっているかというと、必ずしも繋がっていない。平和問題を考えるとそうなるのです。核は普通の武器じゃない。武器というのは戦争の手段だけれど、一旦核を使ったら、それは手段と言えない。自己目的、つまり共滅だから。
 (「戦争自体が成立しない、ということをおっしゃっていましたね。」)思想としてそう考えていた。だけど、日本における、安井(郁)さんが始めた運動に、ぼくは熱心だったとは言えないですね。いやだったという気持ちもあります。〔一方で〕地獄と一緒になっちゃって、忘れたいと。〔一方で〕絶対、平和は重要なんだな。矛盾していると言えば、矛盾している。のちにいろいろな議論が世界で出てくるでしょ。ぼくがハーバードに行った頃(一九六一年一〇月~六二年六月)は、すでに大議論しました。というのは、破壊のことだけを言う、ドレスデンその他の。ドレスデンの爆撃は本当にひどいんですよ、絨毯爆撃で。一晩で〔死者が〕三〇万人ぐらいじゃないですか。その破壊力のひどさと言うと、程度問題になっちゃうんです。程度問題になっちゃうと、戦争である以上、という話になっちゃう。原爆の本質はと言うと、放射能なんです。放射能は現在でも続いていて、現在の問題なんだ。それが本当に理解されない。それを徹底して世界に、特にアメリカに強調しなかったことは、ぼくは自己批判しています。原爆はけしからん、ということは言っても、放射能のことは言わなかった。そのあとでオックスフォードに行った時(一九六二年一〇月~六三年三月)に、ほかのカレッジの若いヤツが、なに戦争体験は風化すると。核爆発なんて言って騒いでいるけれど、そのうち風化すると。ぼくはその時、激高して自分のカレッジに帰ったのを覚えています。何十年経ってもまだその原爆のために死んでいる。その放射能の問題〔についての理解〕がないんだな。自分のことを言うわけじゃないけれど、ぼくだってわからないです、こうたびたび病気するのは何故だか。証明もできない。放射能を受けたという証明ができない。
 (「爆風は受けたんですね。」)それはもう。死傷者がたくさんいますから。連隊の塔がぼくを救ったようなものです。爆風を直接は受けなかった。宇品橋はすぐ傍ですが、歩いていた人は全部即死です。川というのは障害が何もないから、爆風がバーッとくるんです。だから運悪く宇品橋を歩いていた人は内臓破裂です。あの塔なかりせば、ぼくも〔生死が〕ちょっとわからないです。火傷も大変だけれど、火傷だけじゃないです。熱と爆風による内臓破裂がすごく多いです。…三日目に文字通り爆心地へ行きましたけれど、焼けなくて電車の中で骸骨みたいになって死んでいる人がいる。やっぱり内臓破裂です。宇品の司令部のガラスが一枚残らず割れたんです。そのくらいすごい。熱ではなく爆風なんです。
 爆風というのがあまり知られてないでしょ。地下に潜った人は、熱を受けないだけじゃなくて、爆風を直接受けないんです。だから〔原爆の〕真下にいる人で何でもない人がいます。宇品は四キロちょっと離れていますが、それで相当死傷者が多いですから。」(手帖66 「「丸山眞男先生を囲む会」最後の記録」1995.8.13. pp.32-34)
 「われながら悪運が強い面もあるんですね。さっきの原爆がそうでしょ。…飛行機が広島湾から北に向かって入ってくるでしょ。ここが宇品で、ドームはこの辺ですね。だから、一〇秒か二〇秒早く〔原爆投下の〕ボタンが押されていたらアウトでした。ただ、こっちは湾だから、海での爆発は損だから、なるべく破壊を大きくしようとして、ズーッと入って来たんですね。…
 「坊主丸儲け」と言うけれど、「戦後丸儲け」。(笑)原爆の時に死ぬんだった。…」(手帖66 同上p.44)
「(朝鮮戦争に関する平和問題談話会での)争点は、結局、日本の立場です。‥対立する両陣営のいずれに与することも避けるために、スイスみたいな永世中立論という立場がでてきた。
 僕も、結論は中立論なんだけれども、スイスの中立と日本の中立とは意味が違うのではないかと、途中で意識しましたね。スイスの永世中立というのは、主権国家である以上、戦争というのは異常な事態ではなく、戦争か平和かを主権国家は自由に選び得るという前提に立って「おれは中立だ。ほかの国はしたければ勝手に戦争をしろ」と、極端に言えばそういう中立論なんですね。しかし今日のグローバルな問題では、一義的にはやはり核の問題がある。核兵器がある以上、ほかの国は勝手に戦争しろとは言えない。つまり、あらゆる戦争が核戦争になる可能性をはらんでいて、それを避けるためには、スイスの中立論では不十分だということをそのころ勉強した。僕が報告で主張した中立とは、軍事同盟を避けるという意味での両陣営からの中立です。」(集⑮ 「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・60年安保」1995.11.p.329)
「(女房は広島に)一回しか来なかったけれど)二回目は、空襲で来られなくなった。そのとき来ていたら原子爆弾で女房は吹っ飛んでいたでしょう。女房が泊まるはずだった宿屋はこっぱみじんで、跡形もなくなっていたのですから。…
 全く個人的な話になるけれど、終戦というのは、ぼくは躍り上がるほど嬉しかった。‥そしたら一六日ごろ、「おい丸山、電報だ」と言うのです。見たら「ハハシス ソウギバンタンスンダ チチ」と書いてある。まいったな、あのときは。…あのニュースぐらい空しいことはなかった。柔道場がとなりにあって、そこで転げまわって泣いたな。誰も見てませんから。」(回顧談・上 1988.4.-1994.11.pp.14-17)