個人史

2016.4.19.

冒頭説明

ここでは、まず『丸山眞男回顧談』(上・下)及び『自己内対話』で丸山が述べていることから、彼の思想形成とかかわっていると判断される部分を抜き書きして紹介します。その上で、『丸山眞男集』、『丸山眞男手帖』さらには『自由について 七つの問答』などで丸山が言及している思想形成と関係する発言を、発言が行われた時間の順序にしたがって紹介します。

(1)『回顧談』

中学生時代

「ぼく自身は中学生ですから、とくに思想的立場みたいなものはない。ただ、左のほうには長谷川如是閑がいたし、右のほうには伯父(井上亀六)が『日本及日本人』でいましたから、知らないうちに、非常に浅い意味ですけれども、一種の思想的な洗礼を受けたとは言えるでしょうね。父は、‥学校というものを全然ばかにしていましたが、「お前たちが学校を出たら、共産主義者-共産主義者という言葉を使いました-になろうが何になろうが、お前たちの自由だ。ただ、日本という国は学校を出ていないとえらく損をする」と言っていました。これは親父の実感なんです。親父は東京専門学校出で、まだ早稲田大学でもない。当時は、帝大出だということが大変な肩書になる時代です。それを身をもって体験しているわけです。自分では学校なんて何とも思わないというイデオロギーなのだけれども、自分の息子たちだけには少なくもそんな目にあわせたくない。‥これは、当時としては非常にリベラルな考えです。共産主義という言葉さえ使ったのですから。」(上 pp.41-42)
 「(「いつごろから新聞をお読みになっていますか」)父親と伯父は一種の政論記者です。ですから、政論というものに、知らないうちに関心があるのです。おふくろや伯父を揉みにくる按摩が政治狂いで、「眞男を面白がって議論相手にする」と、おふくろが言っていました。」(上 p.44)
一高時代
「(「一中時代のご自分について、嫌だという気持ちをお持ちになったのは、いつごろからですか。」)大学のころからですね。非常に早かった。だから、一中の会には、ずっと出なかった。一中そのものも嫌いだし、一中にいる自分というのが嫌いという感じ。そういう自己嫌悪感は一高〔第一高等学校〕についても多少あります。一高といっても寮生活についてだけど。…一高の一年のとき、東寮一二番というので大分裂を起こして、途中で中寮一番に移るんです。大分裂というのは、感情的なものが入っているのですが、結局、イデオロギー的なものです。ぼくははっきりアンチ左翼なんです。…
(「自己嫌悪感が生じたということは、先生の人格の成長史のひとこまということなんでしょうか。それだけ自分を相対化なさるようになったということでしょうか。」)決定的なのは留置場体験です。全然予期しなかったでしょう。自分を左翼ともなんとも思っていなかった。ぼくはもちろん右翼ではなかったけれども、左翼運動に対して生理的な反発をもっていた。左翼学生には、非常に厳しい教育を受けた、軍人の息子なんかが多いのです。それが高等学校に入り寮に入ると、いきなり自由になる。それで急速に左翼化するのです。こっちは中学のときから、非常に素朴なものだけどなまじっか思想的洗礼を受けているから、急激に左翼化した連中に対して、なんだあいつら、という気がするわけです。‥そういうことで、一高の左翼運動には、あまりいい感じを持たなかった。
二年のときは昭和七(一九三二)年ですが、東寮一二番から中寮一番を経て、朶寮四番に移っていたから、寮の生活は快適だったけれど、左翼運動の最高潮の時代です、イデオロギーの対立がいちばんひどかった。四〇人のクラスは、左右の対立で暗澹たる空気です。お互いにほとんど口をきかなくなってしまった。その左翼運動に対する弾圧の集中的なものが、文乙・独法のクラスに朶寮五番という部屋があって、ここが大弾圧を食ったんです。ここに宇野〔脩平〕がいた。後からわかったが、宇野が一高全体の共産青年同盟のキャップなんです。‥ぼくは朶寮四番にいたからその時は免れたのです。
‥この事件の後、ぼく自身が逮捕された時、宇野は、別の房からどんどん信号を送ってくる。‥ぼくは元気どころじゃなくて、ボロボロ涙を出しているんです。一高に落ちたときと違った意味での挫折感です。生意気な口をきいていた自分がこういう目にあったときに、日ごろの読書とか知性とか、そういうものが何も自分を支えない。だから、一中時代の自分という自己嫌悪の感情は、そのときのだらしなさから逆に遡ったのかもしれない。取調べの最中に、あんまりすごいんで、特高の前でも泣き伏してしまった。
(「すごいというのは暴力ですか。」)暴力ではなくて、取調べが峻烈ですから、「お前、君主制を否認しているんだろう」と言うのです。結果的に、まずかったのですけれど、第一書房から出している手帳みたいな日記があって、キザだけれど、「心の日記」と題していた。寮ではプライバシーがないので、寮には置かず、ポケットに持っていたのです。検束されて、そのまま見られてしまった。そこに読書日記が綿密に書いてあるから、何を読んだということまで全部特高にわかってしまう。‥「ドストエフスキーの作家の日記より」とあって、いちばんやられたのはそこなんです。「わが信仰は懐疑の坩堝の中で鍛えられた」という言葉を引用して、「日本の国体は果たして懐疑の坩堝の中で鍛えられているであろうか」と書きつけた。国体という言葉です。「貴様! 君主制を否定するのか!」と。否定したら治安維持法第一条なんです。‥そうなると、弁解の余地もなんにもなくなる。
(「留置場経験をくぐって深刻なアイデンティティー・クライシスにおちいるというところは、ミル『自伝』に描かれる「精神的危機(メンタル・クライシス)」に通じる面もあるようにも思いましたが。」) あまり相手がでかいから比較されるのもおこがましいのですけれど、精神的危機の背景が決定的に違う。ミルの親父は偉すぎて、『自伝』を読んだかぎり、あの精神的重圧は無理ないです。ミルがそれから必死になって脱却しようというのは、よくわかるな。ぼくの場合には、そういうのは全然ない。その点、親父(丸山幹治)は全くリベラルです。家庭では、おふくろに対して実に横暴で、天皇制中の天皇制、暴力もふるう。だから、子供たちはアンチ親父になってしまう。だけど、社会的には少なくもリベラルで、子どもにもなんにも押しつけないのです。しかも、親父は離れていて、ぼくら兄弟は、ほとんどおふくろに育てられたようなものです。京城にいたり、大阪にいたりしましたから、親父と一緒に過ごしたことは非常に少ない。ですから、そういう精神的重圧みたいなものは感じなかった。
(「あえて「精神的危機」を持ち出したのは、先生の留置場経験は、私が想像した以上に、重い意味を持っていたのではないかと思われたからなのです。アイデンティティー・クライシスを通じて自己認識が変わったというだけではなくて、人間観一般にも影響するということがあったのでしょうか。印象に残っているのは、「唯物史観と主体性」論争の中で、先生と林健太郎さんたちの間にやりとりがあって、宗教をどう考えるか、という問題です。先生の「ぼくのようなテンダー・マインデッドのものは、科学だけで人間の問題を覆いうるとは思えない」〔丸山座談一〕という言葉が印象に残っています。そういう人間観の転回につながるようなご経験があったのではないでしょうか。」)それは確かにそうです。自己分析というか自己批判の結果、自分のだらしなさというか、自分の弱さというか……。それは、正直なところ、中学の時はあまり感じていなかった。後から顧みて「さぞ、いやな子に映ったろうな」ということで、その当時ではないのです。」(上 pp.48-53)
「(一高)二年のとき、ぼくにとってもう一つ大事なことは、寮の委員に選ばれちゃったということです〔一九三二年五-九月〕。…ぼくが寮の委員のときに起こった大事件が‥ストーム禁止案が総代会で可決されたことです。…これは、ぼくにとっては非常に大きな傷になった。ちょっと極刑(退寮・退学)はひどいじゃないかと思いながら、副委員長のまくし立てるのに押されて、ノーと言わなかった。後でいろいろ聞いてみると、寮の委員や総代会の議長になって、そういう意味で精神的に傷を受けたのが多いのです。ティーンエージャーの子どもにとって、セルフガバメントというのは、あまりに重い課題なんです。  数年前、寮の委員の同窓会をやろうということになって、当時の寮の委員が集まったことがあります。‥そのときに、あの大騒動の思い出話になった。ぼくは「あれは非常に大きなショックだった。勢いに押されて、自分がノーと言えなかった。それが実は後世、自分が研究者になる一つの隠れた動機になった」という思い出話をしたのです。というのは、学問というのは決断をしなくていい。無限のプロセスだから。その時の経験で、自分が社会に出て決断する立場になったら、自分は臆病だから、どういう間違いをするかわからない。研究者になれば学問の論文だから、イエスかノーかはっきりしなくてもいい、また先に延ばしてもいいわけです。それだけでは勿論ないけれども、それが伏線になっているという話をしたのです。」(上 pp.59-64)
「全く予期しない別のことから、二年の終わりに検挙された。それが唯物論研究会の事件なのです。…
留置場の最初の日というのは忘れられない。ぎゅう詰めだから、重ならないと眠れないのです。四畳半ぐらいの感じだったけれど、そこに何十人です。当時の留置場はシラミだらけです。みんなシャツを脱いでシラミを取っているのです。長くいるやつはシラミ取るのに馴れている。ぼくは新参者だから、シラミがみんなたかってくる。そのときやっぱり、涙を出した。
平生、全く出会わないものと会うということ。軍隊もそうだけど、留置場体験の一つは、そういうことなのですね。
コソ泥もいました。感心したのは独立運動の朝鮮人です。学生は拷問がいちばん軽いんです。なかでも一高と東大の学生がいちばん軽い。ほかはどうか知りませんが、本富士署ですから。いちばん酷いのは朝鮮人。取調べのたびごとに半殺しです。‥ちょっとすごいですね、こういう人は。いままで経験しなかった、いろいろな人と同じ房になったというのは、非常に大きな経験です。…
ぼくの名前は、学校だけじゃなくて警察および憲兵関係の思想のブラックリストに載せられているということなんですね。そこらへんに目があって、ジーッと自分のほうを見ているのではないかという、それが実感です。だから戦後、特高警察がなくなったというのは、ぼくにとっては解放感だった。」(上 pp.64-74)
「小学校の終わりから中学、高等学校まで、映画に耽溺した時代は、観ていないのを数えたほうが、早いくらいです。一週間に何回というふうに行きましたから。本当は放課後に行ってはいけないし、父兄同伴が規則です。もちろん、そんなことなしですから非合法になるわけです。こういうのはぜんぶ兄貴の影響なのです。だからぼくは、亡くなった兄貴に非常に感謝しているのです。もし兄貴なかりせば、ある意味でぼくは非常に平凡な、府立一中のあんまり秀才でもないけれども、模範生だったかもしれない。それが拗ねてしまって、一中に対しても反抗し、校風に対しても反抗した。兄貴の影響で、悪いことは全部兄貴に教わった。その悪いことは探偵小説をはじめとして、みんな人生にとって非常にプラスになっています。」(上 pp.92-93)
東大時代
「(ラスキの)『危機に立つデモクラシー』(Democracy in Crisis, 1933)は、(大学)二年のときの緑会の懸賞論文が、蝋山先生が出題した「デモクラシーの危機」。これを書いてやろうと思って、デモクラシー関係の書物をずいぶん読んだとき、まさにそのときに、ラスキが『危機に立つデモクラシー』を書いたわけです。ラスキがマルクス主義かどうかは怪しいのですが、ある時期から、自分ではマルクス主義と思っていた。ラスキがそういう意味でマルクス主義になってから以後の本ですね。『危機に立つデモクラシー』は明白にブルジョア・デモクラシーの批判ですから。ぼくはマルクス主義に対する関心と、国家論を問題にしていたという意味で、ラスキを読んだのです。…
 (「ラスキにはどういうことで関心をお持ちになったのですか。」)よく覚えていませんが、覚えているのは蝋山先生の講義に出てきたことと、やはり如是閑です。それはただ名前だけですけれども、如是閑はドイツ観念論がいちばん嫌いで、イギリスのラスキ、コールなどを読まなければいけないと言いました。…
 (「先生がポリティカル・セオリーへの関心を養われるのに肥やしになっている思想家は、どういう人だっただろうかという関心から、ラスキについてうかがったのです。ラスキに打ち込まれたのは、大学時代に初めてラスキをお読みになったころから、すでにそうだったのか、あるいは、もう少し後になってからなのか。」)戦後の話になってしまうけれども、敗戦の年の一一月に青年文化会議が結成されました。青年文化会議で順番に報告することになっていて、ぼくが、『信仰・理性及び文明』を読んだばかりだったものだから、報告したのです。あの本は、ファシズムの重圧から解放され、可能性をはらんだ希望に満ちた未来というか、そういうことから、ぼくに非常に訴えました。戦前の学生時代に読んだときよりも、むしろ戦後の日本の状況の中で、ぼくに波長が合いました。…要するにラスキの言っているのは、古いアカデミズムに対する攻撃なのです。くそ実証主義であって、それ以上なんにもないという例として言っている。アカデミズムの堕落を、あの中でずっと言っているわけです。戦争中の大学は何をしていたのかという、ぼくの感じと波長が合ったということは確かでしょうね。だから、ラスキに感激したのは、ずっと前から読んでいたにもかかわらず、むしろ戦後でしょうね。一つは、学生時代は生意気だから、ラスキのマルクス主義の理解なんて浅薄なものだという感じのほうが強かった。ただ、反ファッショですから、そういう意味では共感がありました。…
 (「先生は『信仰・理性及び文明』に共感を示されていますけれど、その共感関係というのは、どこまで遡ることができるのでしょうか。学生時代にはそんなに感心しなかったとおっしゃる事情はわかりました。そうしますと、逆にうかがいたいのは、先生が大学をお出になってから、あるいは、出る前から、先生の政治の信条としてのリベラリズムを培っていたものは何であったろうという問いが出てくるのですが。」)なぜ『信仰・理性及び文明』に惹かれたかというのは、彼はそれまで文明論を書いていないのです。多元的国家論とか階級国家論とか、狭いのです。(「それは、日本のマルクス主義理論を知っていれば、あまり面白くない、ということになるわけですね。」)面白くない、国家理論としてみると。『信仰・理性及び文明』はものすごく広くて、ある意味でジャーナリスティックな本でしょう。現代文明の根本的な腐敗というものを、文明論的に書いているでしょう。それは、ぼくにとっては初めて読むラスキです。国家論や政治論のラスキではなくて。この本がなぜぼくに訴えたかと言えば、その素地はぼくには前からあったと思います。その素地はなにかと言えば、さっきのケルゼンに帰るのですけれど、認識と価値判断を峻別することに対する懐疑がいつもあった。社会科学は、価値判断を完全に排除して成り立つのかというのは学生時代からの疑問で、従って南原先生に対する疑問でもあった。これは南原先生に対する誤解なのだけれど、南原先生の依拠している新カント派に対する疑問なのです。当為と存在の峻別に対する疑問。当為を峻別した完全な認識というのはできるのかという、まさにぼくが南原先生に提出した論文で言っている疑問です。社会科学では、認識主体と認識客体とは分離できないのではないか。認識すること自身が一つの実践になるのではないか。その宿命を負っているのではないか。影響といえばマルクス主義の影響になってしまうのかもしれませんけれども、その問題は学生時代から、ずっとつきまとっています。
 それでラスキに来るでしょう。そうすると、実証主義の権化みたいに見えたラスキが、単なる科学的認識、単なる実証的認識の腐敗を痛烈にやっつけているわけです。それが、ぼくにとっての新しいラスキだったと思うのです。なにもラスキに限らないのだけれど、価値判断の問題を、文明論の中でですけれど、大胆に入れてきたということです。」(上 pp.135-144)
「二年のときの、ぼくにとっての大きな思い出は、蝋山先生出題の「デモクラシーの危機を論ず」という緑会懸賞論文です。…面白いから懸賞論文を書こうと思って、このときに集中的にデモクラシーに関する本を読んだ。すでに、高等学校三年のときにナチが権力をとっているでしょう。そこで英米ではデモクラシーの危機ということが、さかんに言われた。コミンテルンの人民戦線の時代に入っていますから、ファシズムに対する統一戦線という意味もあって、デモクラシーが盛んに論じられたわけです。論文は、結局は出せなかったのですが、ラスキの『デモクラシー・イン・クライシス』と『理論と実際における国家』と、ラスキについてはその二つを読みました。…
 三年のときに、二年のときに書けなかった緑会の懸賞論文が、こんどは南原先生が出題して「政治学に於ける国家の概念」です。それに応募したのです。…
 そのころ、二年と三年のときに、一生懸命勉強して緑会の懸賞論文を出そうとしたことは、ぼくにとって非常によかった。国家論と政治学は、ほとんどこの機会に読みました。英語またはドイツ語、および日本語も含めて。その後、日本政治思想史をやっていたから、漢文の勉強のほうが忙しくて、なかなか政治学の勉強ができないのです。だから、学生のときにそういう勉強をやっておいたのは、非常によかった。‥政治学といっても、アメリカ政治学ではなく、ラスキやなんかは別として、むしろドイツの国家論が主ですけれど。…
 このころの勉強は、極端に言うと、こんど福沢を書く場合にも役に立っています。国際社会の組織化過程。国際連盟規約の第一六条、第一項の画期的意味というのは、学生のころ覚えて、まだ覚えているので『「文明論之概略」を読む』の第二〇講に使った‥。制裁条項ですね。日本の満州の軍事行動に対する国際連盟の制裁。そのまえエチオピアの制裁があったから、制裁というのは時論としても鮮明だったけれど、そのことの意味です。国際社会の組織化とともに国家主権が制限されてきて、主権国家の行為が国内犯罪と似たような扱いを受けることになる。それが国際連盟による主権国家に対する制裁です。
 この点、フェアドロスが非常に面白かった。戦争というものは決闘に当たる。つまり、紛争解決方法としては、どこの社会でも、当事者同士の解決が初期の段階であって、復讐とか決闘が紛争解決の方法になってくる。それが、社会が組織化されてくると、より上級機関が紛争解決をするようになる。それを国際社会の発展過程に適用したのです。ぼくは非常に面白い、なるほど戦争はこういうふうに見るものかと思いました。学生時代の勉強は、何十年たっても役に立つものです。」(上 pp.155-160)
(「それにしても「日本資本主義発達史講座」というのは偉大な効果を持っていたわけですね。ふつうだったら、たいてい日本のことなんか勉強しないわけでしょう。あれが出たから勉強する人が出てきた。」)それはそうです。画期的です。刊行しはじめたころから、左翼の学生が、必読文献と言っていましたから。あれは日本資本主義の特性でしょう。労農派では面白くないんだ。資本主義の一般法則を日本にあてはめただけだから。半封建的な土地所有関係を基礎にして始めて非常に早期に独占資本主義ができたというのは、ぼくにとっては、他にない斬新な見解に思えました。
 東北へ一夏行ったことも役立ちました。‥実に見事に耕地整理が行われている。地主はほとんど隣の白石の町にいる。だいたい銀行経営で不在地主なのです。農民は全部小作で字が読めない。その代わり一種の自治区で、一票五〇銭で容易に買収される。取り締まろうとする駐在所の巡査が、夜中に農民に襲われて田んぼに放り込まれてしまう。そういう意味では農村共同体が強くてどうにもならない。その中のインテリは‥村長と巡査とお寺の坊さんと小学校の先生くらい。ぼくはびっくり仰天した。そうすると、講座派の分析が余計ピンとくるのです。封建的地代をテコにして、日本の資本主義は急激な高度成長が可能になったと。」(上 pp.161-162)
「二年のとき、経友会の講演でぼくが印象が深いことが二つあるのです。一つは、‥自由主義をテーマにした講演会〔六月一一日〕。…もう一つは、やはり経友会が尾崎顎堂を呼んできたのです〔同年五月二日、題は「日本の前途」〕。…電撃のごとくぼくを襲ったのは、顎堂が「われわれの私有財産は、天皇陛下といえども、法律によらずしては一指も触れさせたもうことはできない。これが大日本帝国憲法の主旨だ」と言ったことです。ぼくは目からウロコが落ちる思いがしました。ぼくは社会主義の洗礼を受けているから、なんとなく私有財産というのは悪という感じでいるわけです。ところが、天皇陛下といえども、法律によらずして、私有財産に一指も触れることはできないと言う。そういう議論は聞いたことはないのです。‥いかなる権力も侵すべからざる権利としての私有財産というのはヨーロッパ的ですね。なるほど、そういうものかと思ったので強く印象に残っています。顎堂というのは本当の自由主義者、数少ない自由主義者だと思いました。」(上 pp.169-170)
大学助手時代以後
「ぼくの大学時代は、すでに高等学校のときから滝川事件が起こり、国際連盟脱退があり、かなりファッショ化しているのですけれども、後の時代から比べると、まだよかったなという気がします。というのは、ある意味では僕の悪い先入見かもしれないのですけれども、‥日本のインテリというものが、そんなにファッショにコミットしていない。積極的に抵抗はできなくっても、コミットしてはいないという印象を持ったのです。それが、大学を卒業した年の夏に盧溝橋事件が起こり、日華事変と呼ばれるようになりました。これが大きな転機ですね。国家総動員法とか新体制とか、その後の基本的な動向はぜんぶこの事件を契機にして進行していく。実際に三木清といった人たちも含めて翼賛運動にどんどんコミットしていくようになる。
 近衛文麿首相が、国民再組織ということを言います。国民の再組織とはどういうことかというと、議会政治はもう機能しなくなったということなのです。そこで、左翼の洗礼を受けていた人がむしろ、議会政治をブルジョア議会主義といって批判していましたから、時局の圧力と近衛の動きと両方で、新体制運動や翼賛運動に肯定的になってくる。そのころから、インテリ層の気分が非常に違ってきたと思います。逆にいえば、ぼくは助手時代のほうが、時代に対して孤立感が深くなった。学生のときはまだ、学生のあいだに、経友会が尾崎顎堂を呼んできたり、自由主義的な気分が一般的で、軍部や右翼、またドイツやイタリーのファシズムに対する反感がありました。
 インテリが新体制への動員にコミットするようになったのが昭和一二年(一九三七)以降だと思います。そこで日本のインテリ層のあいだで分岐が起こった。その分岐がとくに甚だしいのは左翼インテリです。分岐点の一つは、ファシズムの国際的な勃興をどう見るかということです。ドイツやイタリーのファシズムが国際的に勢いを伸ばして世界新秩序をいう。日本も東亜新秩序と言いはじめます。ニュー・オーダーです。左翼インテリの一方にはこれが歴史の新しい潮流と見えてくるのです。一方で、ブルジョア自由主義に対する悪口をさんざん読んだり聞いたりしている。そうすると、ブルジョア自由主義の古い時代はもう終わって、世界史の新しい段階がきているように見えてくる。英・米・仏などが中心になった自由主義の世界秩序は没落し、世界史の新しい段階が始まっているという時代認識が、必ずしも京都学派だけでなく、インテリ層のなかにも共有されるようになるのです。ただ、こういう動きは、ファッショそのものではないのです。そういう基本的な情勢認識の上に、新体制運動のなかに入って、それをできるだけよいものにしていこうとする人々もいる。‥
そういう方向に対して、マルクス主義の自由主義批判の部分を引っ込めて、むしろ自由主義的な諸価値を評価して反ファシズムで戦線を建て直そうとする動きが出てきます。そのころ日本には、共産党は実際にはいなくなっていますが、左翼と自由主義が組んで、ファシズム対反ファシズムという対抗の構図で、日本および世界の動向に対処してゆこうという動き。この二つの傾向に鋭く分岐していくのです。
 だから、転向とひとくちに言いますけれども、昭和八年の佐野学、鍋山貞親の転向と、この新体制以後の転向とは意味が違うと思うのです。佐野、鍋山の時代にはじまる転向は、日本への回帰といいますか、祖国とか、皇室も入るのですが、そういうものをマルクス主義ないし社会主義がネグレクトしていたことを反省するわけですから、世界史の一般的な動向の問題ではないのです。ところが一九三六年以後になりますと、いまや自由主義から全体主義へという動向が世界史の必然であるという考え方が広まり、強くなってくる。そうすると、マルクス主義を歴史的必然論で捉えていた人は、割合スムースにその方向に流れていくのです。
これがドラマティックに高まるのが独ソ不可侵条約です。平沼内閣が欧州情勢は「複雑怪奇」と宣言して辞職するくらいの青天の霹靂だった。昨日まで諸悪の根源のように言っていたソヴィエトと提携する条約をナチが結んだんですから、世界中が瞠目したわけです。戦後、ヨーロッパやアメリカに行ってみてわかったのですが、知識層に対する独ソ不可侵条約の衝撃は非常に大きいのです。あのとき、共産党からの大量脱党がオックスフォードでもケンブリッジでも起こっています。一夜にしてイギリス共産党の言い方が違ってくる。とてもついていけないというわけです。
日本の場合は共産党がなくなっていたから、そういうことはない。ただ、ますます自由主義から全体主義へ、あるいは国家社会主義への動向が世界史的必然だということがはっきりしたという見方とショックを受けて、ナチと結ぶソ連を非難していく考え方とに分かれた。ぼく自身を含めて後者はきわめて少数だと思うのですが。‥
それから二年後、ナチが突如として、再びソ連に侵攻します。独ソ開戦の報が伝わった日のことをよく覚えています。なんか、ふっきれないものがふっきれたという感じなのです。ぼくは家でバンザイを叫びました。ぼくの頭の中の図式に独ソ不可侵条約はどうしてもうまく収まらない。ドイツがソ連と開戦した。ソ連は直ちに英米と同盟を結んだ。そうすると共産主義を含めた自由主義対国際ファシズムという図式で割り切れるようになった。曖昧になっていたファッショ対反ファッショという図式がはっきりしたわけです。」(上 pp.190-193)
「(「顎堂の話をお聞きになって、先生はそれまでマルクス主義の影響下で、ブルジョア自由主義というのを、ネガティヴな評価をなさっていた。それがブルジョア自由主義のポジティヴな価値に開眼なさったというふうにうけとめたのですが。」)そうなんですけれども、そのとき、なぜショックだったかというか、ある意味では、目からウロコが落ちる思いがしたというのは、難しく言えば、自然権としての私有財産権、つまり国家以前の権利。そういうことがらはマルクス主義のなかには出てこないのです。すべて歴史主義的思考で、ブルジョア自由主義も歴史のなかに生まれたものとして見る。自然権という考え方はない、自然法という考え方もないから。顎堂の講演から受けたショックはそこなのです。私有財産は自然権だから、天皇陛下であろうと、一指も触れられないという。
歴史主義的に捉えますと、天皇陛下以前の権利みたいなものは‥考えられないです。私有財産権のようなものは、国家の発達とともにできてきたものとして考えるので、自然権なんていう発想がないわけです。そこが日本の自由主義の弱さだと思うのです。自然法を持たなかったことが、したがって、自然権という考え方がずっとなかったことが。一種の日本的な歴史主義の上に、マルクス主義の歴史主義がそのまま続いてしまって、一切のものが歴史的だという見方。ぼく自身がそうでした。
顎堂の講演については、そんなに学問的反省をしたわけではないです。学問的に反省させられたのは南原(繁)先生です。これは自然権ではないけれども、新カント派でしょ。新カント派というのは非歴史的なのです。非歴史的なものの持っている強みというのかな。時代がどうだからというのではなくて、絶対的なある価値に照らして正しいかどうかということが、まず来るわけです。非常にはっきり、時代のほうが間違っているのだ、時代は間違った方向に歩みつつあるということを、当たり前のこととして言えるわけです。圧倒的に、時代がある方向に向いていますと、歴史主義だと、これが歴史の動向なんだという主張にかなわないのです。南原先生を通してうけたのは、歴史主義に対する反省でしょうね。
顎堂についても、ブルジョア自由主義を価値として認識したということでは必ずしもないのです。マルクス主義の立場に立っても限界はあるとするけれども、価値としては認識しているわけですから。
(「結局、総力戦体制に向かう動向のなかで、それに抵抗しうる思想的拠り所がどのようなかたちで存在したかということに関心があります。‥それでうかがいたいのですが、‥他にはそれと同じ意味をもつ経験をなさったことはありますか。」)積極的な意味では、ちょっといま思い当たりません。消極的な意味で言いますと、‥高等学校時代に捕まったときに、留置場というのは絶対な孤独の世界です。ぎっしり詰め込まれているんですけれども、精神的には全く孤独でしょ。国家権力と自分しかいないという。そういうときに、オーバーに言えば、絶体絶命の危機に臨んだときに、学問とか知識とかいうものが、自分を支えるのに足りないという経験です。消極的に言うと、高等学校のときに学んでいるわけです。‥ぼくが自分の経験を通して学んだのは、経験的な科学を超えた、なにものかへのコミットメントがないと、時代に対する抵抗もできないし、たんなる経験的学問では自分を支える精神的支柱にもならないのではないかということです。そのころはそれ以上には出ませんでした。
重臣自由主義というものに、親父も広く言えばぼく自身も含めて、深くコミットしていたことに対する反省が、戦後の一つの出発点になっています。反ファッショ一本槍で続いていたのではなくて、ぼく自身が重臣自由主義にコミットしていた。なぜそこが問題かというと、さらにつき詰めると、尾崎顎堂の演説に関連して触れた自然権の問題に行きつくと思うのです。重臣リベラリズムは、自由とか人権の原則に立ってはいない。立憲主義的配慮というのは、天皇に責任が及ばないようにするための配慮なのです。…重臣リベラリズムは内閣という制度を認めて、いっさいを内閣の責任にして、天皇を無答責にするところまでは行く。そうすれば、完全に天皇に責任が及ばない体制になるわけです。明治憲法だと、天皇に責任が行くようになっている。天皇に責任が行かないようにするというのが、一つの最大の動機になっていて、国民の自由なり、人権の保障というのが原則になっていない。だからこそ、天皇にどうしたら責任が行かないようにするかという配慮のために、現実には状況にずるずる引きずられていく状況追随主義になってしまうと思うのです。ぼくは、親父も含めて、重臣リベラリズムの本当の限界は、敗北とともに学んだのです。
そういう意味では、ぼく自身も「転向」をしているわけです。変な話だけれど、‥「超国家主義の論理と心理」〔丸山集三〕は、ぼくの自分史にとっては画期的でした。前から考えていたことを、言論が自由になって発表したということでは決してないのです。敗戦の翌年の三月ごろに執筆し、発表したのは五月号です。一気に書きましたけれども、しかし、敗戦からは半年たっているわけです。その間、迷いに迷いました。あそこで書いたことを自分の考えとするには。あそこでは、ポツダム宣言と同じ思想、つまり、国民が自由に発表した意志が日本の最終の政治形態を決定するという考え方を表明しているわけです。それは決してぼくの元からあった思想ではない。それまではもっと天皇と一体化したような国民という考え方でした。‥
戦争直後に、治安維持法撤廃、獄中一八年組の釈放は、だらしのない話だけれど、僕は全く予期しない出来事でした。非転向組というのが強烈だった。なぜ彼らは非転向だったのか。彼らは獄中にいたために、彼らにとってマルクス主義が自然法になってしまった。マルクス主義は、およそ歴史主義だから、自然法とは相容れないのだけれども、獄中にいて世間との接触がないために、マルクス主義が超歴史的な自然法的な真理になってしまった。世の中がどう変わろうとマルクス主義で貫く。そこで非転向が出てくる。戦争直後にそう考えました。非転向の問題はそれだけ重かった。よく、あの時代に耐えられたという感じが一種の自然法および自然権ということを改めて思い出させたのですね。同時代的には、マルクス主義の転向・非転向という問題は、蔵原惟人の話なんかはよく伝わって来ましたけれども、それは節操があるかないかということで語られるだけでした。ぼく自身それ以上、転向・非転向の思想的根拠についてはあまり考えなかった。とくに歴史主義的思考との関係についてもそうです。南原先生がヘーゲルは危ないよと言われる意味もその当時はわからなかった。
ぼくは、自分がマルクス主義者と思っていなかったこともありますが、マルクス主義がどうなったかにも関心はあったけれども、むしろ、日本に自由主義はあるのかということが気がかりでした。天皇も含めて後の言葉でいえば、重臣リベラリズムというものには致命的な限界があるということがだんだんわかってきた。逆に言うと、親父の影響を受けていましたから甘かった。親父の影響を受けて、立憲主義的君主制に対するコミットメントが強くありました。」(上 pp.199-205)
「(「『文明論之概略を読む』‥では、古典との対話ということを非常に重視なさっています。先生の思想史で、そういう契機はいつごろから出てきたのか。」)歴史的相対主義の問題と、実際はもう一つ、ぼくの中にはいつも、いわば哲学的相対主義の問題があるのです。ケルゼンが『デモクラシーの本質と価値』のなかで、相対主義的世界観という言葉を使っています。独裁制と対比して、民主主義は、はじめてそれで基礎づけられると。マンハイムも、歴史的相対主義のなかに入るといえばそうなんですけれども、この問題で非常に苦しんでいます。レラティビズムだとぜんぶが相対化されてしまう。そのかわりに、彼はレラツィオニスムス、相関主義という言葉を発明した。
そのころからぼくは、絶対主義対相対主義という問題とは、別の次元で捉えられないかと、一生懸命考えました。結局「あらゆる経験的理論は部分的真理を出ない。パーシャル・トゥルースだ。しかし、部分的には絶対的真理に参与している」と、ぼくのむかしのノートに書いたのです〔『自己内対話』pp.35-36に記される一九五一年の手帖への記入を参照〕。参与している限りにおいて、それは絶対的真理であって、相対主義とは言えない。ただ、それは部分的真理なのだ。つまり、いかなる経験理論もトータルな真理をつかみえない。トータルな真理をつかむのだと自称したら、それは嘘になる。問題は、全体的真理と部分的真理との関係にある。部分的真理も、その部分に関する限りは絶対である。絶対的真理に参与している。そうでないと、単なる相対主義になってしまう。単なる相対主義だと、自らの真理性自身の誤謬に対して説得できないではないか。‥
(「それをノートにお書きになったのはいつごろのことですか。」)戦後です。‥部分的真理と相対主義とを区別する必要がある。あらゆる理論は、トータルな真理ではなくて部分的真理しか語れない。しかし、その部分に関する限りは絶対だ。これを単に相対主義とは言えない、というような意味のことを書いてあるのです。正確には忘れたけれど。
マンハイムは相関主義。ちょっと同じようなことを言っています。すべての人は階級的に制約されている。知識人も階級的に制約されるけれども、知識人の本質というのは、自由に浮動することにある。自分の出自の階級を超えて、他の階級の立場を理解できるというのが知識人の特権だと言うのです。ぼくはそれを面白いと思うのです。各々が階級的に制約されているというだけだと、それぞれの制約で、どうにもしょうがない。違った階級利害による制約を、知識人が媒介する役割を果たす。マンハイムは、マルクス主義に深く影響されながら、知識人による綜合を、彼のイデオロギー論のなかで言っているのです。これは相対主義ではない。違った立場というものを関連させる相関主義‥。そのことによって、絶対的真理に近づかせる。‥
知識人の責務は何か。自分の階級的存在を、自分の階級的出自を超えることにある。知識人というのは普遍的知識の追求という課題を持っているということなのでしょうね。…
(「先生の、全体的真理と部分的真理というお話は、いままで断片的にせよ、うかがったことがないように思います。戦後にそういうことをお書きになったということは、さっきの歴史的相対主義への反省の問題と同じように、敗戦という状況が背景にあるわけでしょうか。」)敗戦が背景にあるというよりは、マルクス主義との対話です。戦後に、ものすごい勢いで復活して、歴史なんかはマルクス主義によってほとんど独占される状態なのです。したがって、マルクス主義者は、どうしても歴史認識における階級的制約および歴史的条件による制約ということを言うでしょう。そういうものを無視するのはブルジョア普遍主義だという立場でしょう。そうすると、プロレタリアートの立場に立たないと、全体的認識ができないということになる。マルクス主義の立場に立てばそうです。
一生懸命考えたのは、党派性ということなのです。党派性というのは、そんなにプラスだけなのかと。プロレタリアートも、自分の党派的立場に制約されて、認識を誤るという可能性があるのではないか。ブルジョアジーが支配階級として現実を美化したり、都合の悪い面を隠蔽したりする。それと同時に、プロレタリアートないしプロレタリアートの立場にある政党も、たとえば革命の到来を非常に近いことと期待したり、マルクスも含めてそういう希望的観測によって認識が歪められるという可能性があるのではないか。そうすると、党派性というのは、マルクス主義が言うほど、ぜんぶプラスではないのではないかということです。マルクス主義との対話、それがいつでも非常に重くあったということです。マルクス主義は歴史主義ですから、相対主義に近いのです。にもかかわらず、プロレタリアートの立場における全体的認識というのが出てくる。それを認識論的に、いちばん見事にマルクス主義の立場から説明したのはルカーチだと思います。ルカーチの階級意識論。彼は、社会のトータルな自己認識、という言葉を使っています。社会を客観視して見るから、社会を全体として認識する立場というのは、どこにもないのではないかという疑問が出てくるのだ。社会の自己認識は誰ができるか。プロレタリアートのみが、つまり社会から完全に疎外されているプロレタリアートのみが、社会の自己認識ができる。それは、プロレタリアートの自己認識と同じことになるわけです。自己認識という言葉は、ヘーゲルなのです。‥ぼくは、『歴史と階級意識』の考え方というのは、マルクス主義の立場に立つかぎり見事だと思います。」(上 pp.237-241)
「自由主義の問題について、〔尾崎〕咢堂のインパクトと、その前に、南原先生から受けたものについてお話ししましたけれど、ぼくは咢堂については、まさに文字通り自由主義の再評価なのです。…咢堂は文字通りオーソドックスな自由主義です。自由民権から直接きたような、社会主義的な内包を少しも持たない自由主義でしょう。ぼくはまさに、そこに感銘したわけです。
南原先生から受けたものは多様ですから、‥あまり大きすぎて、影響という言葉を使えば、影響が大きすぎて一言では言えないのです。ウル・カント〔原カント〕というのか、新カント派ではなくて、カントそのもの、つまり人格の自立ということ。それは自由主義の一つの要素であるかもしれない。‥だけど、南原先生は、もっと内面的な人格の自立ということで、レッセフェールとは関係ないのはもちろん、原子論的個人主義とも異なり、啓蒙的個人主義とも啓蒙的な理性とも異なる。ある意味では原プロテスタンティズムと言ってもいい。つまり、神と直結したような個人の良心の問題です。ぼくはもちろん信仰はないけれども、ぼくが圧倒的な影響を受けたものを、しいて概念化すれば、そういうものの持っている強さということです。強さというのは、周辺の情勢、自分の周りから、日本のあるいは世界の状勢や動向というものに左右されない内面的な確信です。…
…個人主義に対して南原先生は批判的なのです。つまり社会主義ですから。ぼくは逆に、マルクス主義の洗礼を経て南原門下になったわけですから、先生のなかに個人主義ないし自由主義を見たことは事実です。顧みて、ぼくは個人主義とか自由主義を再評価したのは事実だけれども、直接のお師匠さんの南原先生を、個人主義者、自由主義者と言ったとしたら、南原先生は「いやとんでもない」とおそらく言うでしょう。人格的自立といった方がいいでしょうね。」(上 pp.245-252)
「尾崎咢堂の演説を聞いて愕然として考えたのは、自然権ということです。前国家的権利、実定法以前の権利としての私有財産権、個人の自由権というもの、いわゆる天賦人権説です。ホッブスから、ロック、スピノザ、ルソーにずっと伝わってくる自然法の考え方。カトリック自然法や中世スコラ的自然法と違った近代自然法ですが、咢堂は、そういうものの直接的な系譜として、非常に新鮮だった。自然権とか自然法というものはないのだというのが、エンゲルスが『アンティ・デューリング』に書いているようにマルクス主義の立場です。歴史的に形成されたものであって、したがって、現実の自由は階級的に制約されている。歴史的現実を超えた超歴史的な権利とか法とかいうものはないのだと。ぼくも、そういう考え方のなかで学生時代は育ってきたから、咢堂の演説は全く思いがけなかった。さりとてぼくは、南原先生なり田中先生なりから、自然権という言葉は一度も聞いていないのです。‥個人の自然権という思想は全く近代の自然法で、カトリック自然法とは違う。まさにギールケが『ヨハネス・アルトジウスと自然法的国家理論の発展』のなかで書いているとおりで、アルトジウスからはじまっている個人の自然権という考え方です。これは近代の啓蒙自然法の特色です。
咢堂の演説だけで、そんなにびっくりするというのはおかしいのですけれども、それが頭にあったということなしには、軍隊でポツダム宣言を読んだときの背筋を走った電撃というのは、理解できない。「基本的人権の尊重は、確立せらるべし」。ファンダメンタル・ヒューマン・ライツという言葉は英語では読んでいましたけれども、ほとんど日本語では言わなかった。自由主義の立場に立つ人も、個人の侵すべからざる権利とか言っていたけれども、基本的人権という言葉は言わなかった。ぼくにポツダム宣言の基本的人権がすぐピンときたのは、咢堂の講演が背景にあったからではないかと思う。それが、ポツダム宣言では「言論、宗教及思想の自由」に続くのです。
(「先生のお話は非常によくわかりますけれども、帝国憲法の解釈としては、尾崎咢堂の解釈は当たっていないのではありませんか。公的解釈は天賦人権の否定で、臣民の権利は、帝国憲法をまってはじめて成立するのであって、尾崎咢堂は我流の解釈をしているのではありませんか。」)…言われることは正しいのだけれども、ぼく個人について言うならば、大学二年のときと三年のときの緑会雑誌懸賞論文のための勉強で、自然法の近代的な発展を論じたギールケのものを読みました。‥そういうもので知るのですが、「ナトゥーアレヒト」の持っている二義性、自然法と自然権との関係。「ナトゥーアレヒト」という観念のなかに自然権というのが、当然「レヒト」ですから、含まれるわけです。ぼくの教養目録のなかには、そういうものがありました。‥英語でいうと、「ナチュラル・ロー」と「ナチュラル・ライト」と、言葉が違ってしまう。ドイツ語で言うとどちらも「ナトゥーアレヒト」で、同じになってしまうわけです。
(「その点で、徳川思想史の研究対象、たとえば徂徠とか宣長からご自分の思想的養分を吸収したかということの関連ですけれども、儒学のなかにある自然法的なもの、そこから、研究の対象として以外にポジティヴに、ご自分の思想的養分を吸収したということは、あったのでしょうか。」)その場合に頭にあったのは、スコラ自然法です。スコラ自然法と儒教の自然法とがパラレルになるのです。その解体過程を、ボルケナウなんかの影響で問題にしている。その場合の自然法は、むしろネガティヴな要素です。解体していく要素です。だから自然法から実定法へという過程。実定法というのは、誰か人間がつくったものだということでしょう。自然法は人間がつくったものではない。規範というものが自然に存在するのだという考え方から、人間がつくったのだという考え方へ転換する、これが近代なのだという。それを下敷きにして見ると、朱子学的自然法の解体ということが出てくる。ですから、ネガティヴな考えで、のちに関心となった自然権とは全く結びつかない。…
(「儒教のなかにある自然法的な要素ポジティヴな面に注目されたのは、やはり戦後の「近代日本思想史における国家理性の問題」〔丸山集四〕あたりがはじめでしょうか。」)伝統的な自然法に近いものの考え方としては、そうでしょうね。むしろ戦後でしょうね。ただ、いまでもそうなのだけれど、儒教には自然権という考え方は決定的に欠落していると思うのです。儒教にそれはあるか。ぼくはないと思います。全儒教の歴史のなかで、前国家的、前社会的権利という発想自身がないと思います。権利という発想自身がまごうかたなく西欧の産物です。儒教には自然法思想はあるけれど、自然権という考え方はないと思います。」(上 pp.253-261)
(「聖断」前後)
「いわゆる聖断をめぐる重臣の動きについては、ぼくは広島にいたから全く知らない。ただし広島の船舶司令部自身が決起しそうな状況でしょう。あれは君側の奸がやったことであって、陛下のご意志ではないという参謀がいるわけです。不穏な空気が漂っていましたし、間もなく東京から、いろいろな決起部隊のニュースが伝わる。そのとき、ぼくは軍隊のなかで考えました。国体の持っている両面性、アンビヴァレンスが非常によく表れている。‥ぼくはあれは軍隊のなかで会得した。ということは、終戦直後の反応を見て考えたのです。
一つは、承詔必謹という形式主義。承詔必謹は十七条憲法から出ています。詔を承(うく)れば必ず謹む。というのは、天皇の大詔には内容によらず絶対服従する。天皇が戦争しろと言えば、戦争をする。天皇が戦争をやめろと言えば、やめるというのが、承詔必謹なのです。これは臣民の道の一つの不可欠の要素です。だから承詔必謹というほうに重きをおけば、絶対服従しなければいけない。君側の奸なんて言ってはいけないわけです。国体論のそういう側面に対して、国体論の内容的、実質的な側面の問題がある。皇統一系もそこに入るわけですが、皇統一系は当時、問題になっていません。当時、問題になっている言葉で言うならば、神州の尊厳性です。有史以来、土足で汚されたことがない。これが国体論の重要な要素だった。蒙古は撃退するし、外国に侵略されたことがないでしょう。神州を土足で汚すような決断をする天皇は、国体に反しているのではないかという解釈がありうるわけです。敗戦のときの決起将校は、まさにそれなのです。
遡れば、そういう考え方は二・二六事件までいくわけです。国体に反する決断を、個別的天皇がした場合には、その天皇は国体の伝統に反している。だから、昔だったら場合によっては廃しているのです。二・二六のときも決起将校派による秩父宮の擁立は可能性としてはあった。国体護持のために、個々の天皇の決定に反対するという要素は、可能性としては出てくる。それは国体の持っている両義性なのです。天皇自身が外国軍隊の占領を許したということで、国体の不可分の両要素が分裂したということを、そのとき思いました。‥
(「それは先生の場合、天皇を含む重臣リベラリズムに対する評価の変更ということと関係があるのでしょうか。」)いや、そこは直接は結びつかないです。そうではなくて、‥江戸時代に、そういう意味での国体論が、すでに盛んに出ているわけです。‥中国に対する日本の卓越した伝統を何に求めるかというと、いろいろな要素のなかの一つに、中国は王朝が頻繁に変わるとか、中国の場合は外夷の侵入を許しているが、日本は古来、許したことがないということが入っているわけです。それから、藤原氏なんかの行動をめぐって、陽成天皇の廃立とか、そういうことをやってけしからんという見方が『大日本史』以来ずっとあるのです。臣下として、天皇の廃立とはなにごとかという議論は、江戸時代の国体論にはすでにある。それが近代日本では隠蔽されていたわけですが、敗戦のときに、いろいろな要素が露呈したとぼくはとったのです。まだそのときは、ぼくにとって、天皇制の存否そのものの問題とは直接結びついてはいないのです。…
…連合国のなかに天皇制について二つの考え方があるということは、情報としては知っていたのですけれど、終戦直後には、天皇制がどうなるかということはぼくは思い浮かばなかった。
一つは、そこがぼくの甘いところで、なんとなく天皇は、軍部のようなやり方には本当は反対なのだと思っていた。だから、天皇にすべての責任があるというふうにいかないのです。そのときの考え方は、天皇の問題にすぐに直結しない。ただ、承詔必謹という立場と内容主義とが分裂したのだということは、軍隊のなかでぼくははっきり意識しました。
お前は国体に対してどう思うかと言われると、国体否定ではないのです。しかし、国体論はかなわんという感情は非常に強い。‥国体論と国体とは区別しなければいけない。国体論に対する反感はあったけれど、それは国体の否定にまでは決していかない。‥いま横行しているような国体論が、国体を滅ぼすという考え方です。
あの小さなエッセー〔「海賊版漫筆」丸山集十二〕で書きました、‥ぼくが国体と民主主義は両立すると言ったときには、国体護持のほうに力点があるのではないのです。参謀に、ご安心なさいと。民主主義を受け入れさせるためには、民主主義と国体とは相反するというのでは話にならないわけです。もちろん、ぼく自身が反国体ではないけれども、積極的に国体を護持するというよりは、なんとかして民主主義の方向に行かせたい。そうすると、その障害になるものはなるべく取り除きたい。その障害になる一つは、民主主義と国体とは相容れないという考え方であるということです。国体と民主主義の両立といったのは、そういうふうに理解してください。」(下 pp.19-24)
「(「軍国支配者の精神形態」が『現代政治の思想と行動』に入ったおりの補註ですけれど、岡田啓介の回想録を引かれて「たとい戦争による破滅を賭しても、「内乱」の危険(=国体損傷の危険)だけは回避するというこの考え方こそ、上述した既成事実への次々の追随を内面的に支えた有力なモラルであり、それは国体護持をポツダム宣言受諾のギリギリの条件として連合国に提出したその時まで、一本の赤い糸のように日本の支配層の道程を貫いている」という認識を示されています。重臣の行動について、こういう認識に達したのはいつごろでしょうか。」)やっぱり、戦争のあとですね。戦争中は、そういう考え方はなかった、結局既成事実を容認していくことになるという自覚はなかった。戦後になってそのように書いたのは、ぼく自身も含めた戦前リベラリズムに対する反省です。
(「これは「軍国支配者の精神形態」ではすでに出てきていますけれど、「超国家主義の論理と心理」のころにはどうだったのでしょうか。」)それを、あそこで書くことによって決断したわけです。書くことによってですから、だんだん考えていったということです。知識人の自己批判も含めて、どこがまずかったか。知識人の自己批判になると、もっと早いのです。青年文化会議とか、三島の庶民大学とか、そういうのは昭和二〇年末の段階です。後にぼくが使った言葉にすれば、悔恨共同体です。
青年文化会議の創立宣言は川島武宜さんが書いた。「戦争とファシズムを阻止しえざりしオールド・リベラリストと訣別」という勇ましい言葉があります。‥あれは、ある意味では非常に不毛なのだけれど、戦後世代論の最初の提起なのです。われわれは兵隊にとられたという、被害者意識です。オールド・リベラリストたちは空襲ではやられますけれども、兵隊にはぜったいに行かないし、その点は安全なのです。もちろん特高経験がない。そういう思想問題の経験がない。…
世代論をやれば、そういうのはぼくらの世代のことであって、その前のリベラルには全くわからない経験なのです。…一兵卒として召集された上限は、おそらく大岡昇平でしょう。あれより上になったら、もう安全です。少なくとも赤紙をもらうことはない。そういう被害者意識があるから、ついそれが「戦争とファシズムを阻止しえざりしオールド・リベラリスト」となる。そこでオールド・リベラリストという言葉を使っているのが面白いのです。もはや戦前のリベラリズムではダメだという共通認識があるのです。
みんなマルクス主義をくぐっていますから、リベラリズムというものに対して非常に厳しい。ファシズムが起こってきたときには自由主義派になったのだけれど、それは、ある意味では戦術的ですから。そういう意味では、コミンテルンの人民戦線と同じなのです。ファシズムに対しては、自由主義者と一緒になってやろうということですから。そもそも自由主義という言葉で言われるものに対しては、かなり厳しいのです。…
オールドと言うときには、世代論的発想とくっついているのです。‥南原先生はいつでも、プラトンからはじまっている。プラトンの正義の観念は正しい。これは絶対評価する。政治の究極的価値は政治的正義にあるということでしょう。これをプラトンがはじめて提示した。先生に言わせると、東洋だってそうだ。論語〔顔淵〕の「政は正なり」というのは、ぼくはちょっと過大評価だと思うけれど、プラトンと同じだと南原先生は言うのです。先生はいつも全面否定はしない。プラトンはこの面は正しい、ここは間違っている。アリストテレスはこうだと。だから、自由主義に対して全面否定は決してしない。功利主義も含めてそうです。先生のは、政治哲学的考察として、自由主義の主張した自由の価値を認めるということであって、ぼくらのはもっと直接的なんだな。自由がないと、自分が捕まってしまうというのか……。先生のは、そういうのとちょっと違うのです。やはり一つの思想なのです。ぼくらは自分を思うということと、自由というものを擁護するというのは同じなのです。自己とか個人というときに、個人のなかにあるエゴイスティックなものとそれを超克する要素とは、どう関係するのかというような問題は、南原先生を通じて教わったのです、個人主義万々歳では必ずしもない、ということを。
(「「超国家主義の論理と心理」の冒頭で、自由民権論者を素材にして、日本的な自由を批判なさっています。個人的自由が良心に媒介されないという問題を提起されています。それは、いまおっしゃった南原先生から受けたものにつながってくるのですか。」)それはそうです。決してマルクス主義ではないです。逆に、マルクス主義からは良心の自由という考え方は出てこない。
(「私は以前は、「超国家主義の論理と心理」で、いわば戦前的なリベラリズムとの訣別があって、戦前的リベラリズムからの離脱はそこで完結したのだと考えたのですけれど、さっきの先生のお話ですと、ある決断があって、それが「超国家主義の論理と心理」であって、離脱はそこから始まっていったという面もあるのですか。」)それは非常にあります。その後いろいろ考えたことも、客観的に言うと、その前のものと続いているというのは、それとは別問題です。心理的には、あそこで書くことで、そこで自分が決断した。」(下 pp.25-30)
(戦中戦後の自由主義)
「(「「重臣リベラリズムなるものの限界を身に沁みて感得する」にいたったのは、「超国家主義の論理と心理」〔丸山集三〕に示されているということでしたが、重臣リベラリズムの問題が、「「重臣」其他上層部の「自由主義者」たち」といった表現で端的に示され、「いわゆる重臣イデオロギーの分析はそれだけとり出して論ずる価値と重要性をもっている」といわれるのは、一九四九年五月発表の「軍国支配者の精神形態」〔丸山集四〕で、「超国家主義の論理と心理」から三年余り経っています。先生の重臣イデオロギー批判は、「超国家主義の論理と心理」で完結したのではなくて、そこからなお持続したという印象を持つのですが、どうでしょう。‥」)重臣リベラリズムなるものの限界を身に沁みて感じたというのは、感じのほうだけは実感なのですけれども、どうしてそうなったか、論理的過程とかいうことになると、正直のところ、あまり考えつかないのです。…
ぼくは、そんなに論理的に考えているわけではないのですけれど、重臣リベラルについては、事実この目で見ていて、しょうがないなと思った。現実にただ流されていく。しょうがないな、しょうがないなとブツブツ言いながら流されていく。そのだらしなさに対する焦燥感が根底にありました。
いま言われて、ちょっと思い出すのは陸羯南です。自由主義が最も評判が悪かった時代に、ぼくは羯南の「自由主義如何」を読みました。‥羯南のあの論文はナショナリズムの立場から、自由主義をある意味で強く肯定しながら、その限界を指摘しているのです。昭和一〇年代、一般に、欧米自由主義を一括してしまって、それを、けしからんと言っていたわけでしょう。羯南のような論はなかった。羯南のは時流よりもっと成熟した自由主義批判だった。…
それが戦後に尾を引いて「陸羯南」〔丸山集三〕を書くことになりました。蝋山正道先生が『中央公論』の編集にかかわっていて、今度日本の思想家を順々に取り上げるから、明治の思想家について、誰かやってくれないかと言われたのです。羯南と特定されたのではありません。そう言われてぼくは羯南を取り上げようという気になったのです。…
副島道正さんとか牧野伸(のぶ)顕(あき)とか、西園寺さんまで入れてもいいのだけれども、そういう重臣リベラリズムは西欧志向型なのです。‥日本の歴史的展開のなかに自由主義を位置づけるというような発想は、ほとんどないのではないかと思います。そういう意味では、ぼくには羯南は対照的に思えました。‥やはり自由民権運動を踏まえて書いてるわけです。正確な言葉は忘れたけれど、後進国ではナショナリズムと自由主義とが結合するという考え方が羯南には出ています。ぼくは大したものだと思った。彼の日本主義に対する賛否は別として、やっぱり本物だと思った。西園寺も『東洋自由新聞』をやったわけですから、本当はそうだと思うのだけれど、どうも忘れてしまったのではないか。自由民権運動からまた続いてという要素は非常に少ないのではないかしら。歴史の蓄積というよりは、世界の大勢がデモクラシーになったとか、そのときそのときの横の影響で自由主義とか民主主義ということが称揚されるようになる。戦後もそうですね。
重臣リベラルの限界を今から根拠づけるならば、羯南なんかと重臣リベラルの西欧志向との対比です。つまりファッショの方はナチに志向していますし、それに反対する重臣リベラルはイギリス志向。ヨーロッパにおけるナチ対イギリスみたいなものです。それが日本に再生産されているというだけで、日本の土壌のなかでというのではないのではないかと思うのです。あの人たちはみんな生まれはいいし育ちはいい。副島さんも、ケンブリッジだったかオックスフォードだったか忘れたけれど、出ていますし、そういう教育ですから、無理はないといえば無理はないのですけれど。
ぼくらの盲点かもしれないけれど、清沢洌とかは尊敬する。時局に対して徹底して批判した日本では数少ない本当の自由主義者です。だが重臣リベラルはやはり、ヨーロッパ帝国主義に対しては甘いと思うんだな。福沢じゃないけれど、アジアに対して何をしたかということについて、西欧の美化になってしまっているとぼくは思うのです。」(下 pp.36-41)
「ジョン・ロックとの出合ということなんですが、四七年の「日本における自由意識の形成と特質」〔丸山集三〕は短いものですが、これは四八年の「自由民権運動史」〔丸山集三〕にほとんど内容的に続くのです。その当時、ぼくは、戦後の現象を、第二の開国ということで、ぜんぶ明治維新と重ねて見たのです。明治維新の過程を見ると、わりあいよくわかるなと思った。ぼくは戦争中、明治文庫に入り浸っていたから、明治一〇年(一八七七)ごろのものを手当たりしだいに見ていたのです。そうすると、エロ・グロ・ナンセンスがひどいんだな。言論が完全に自由な時代です。幕藩体制が崩れたあとは野放しの解放なのです。‥それが戦後のカストリ雑誌なんかとダブル・イメージになった。このままいくと、また行き過ぎだということになって抑える動きが出てくるのではないか。そうすると、同じことの悪循環ではないかという気がしたものだから、ロックを念頭において、規範的自由が本当の自由であって、感覚的な解放だけではどうにもならんのではないかと強く言うことになったのです。
ぼくの勉強の系列からいうと、よく勉強していたのはロックよりもホッブスなのです。学生時代からわりあい読んでいて、面白くてしょうがなかった。カール・シュミットと似ているところがあるのです。カール・シュミットはホッブスにいかれるでしょう。ホッブスは非常に鋭くて論理的で、どこへ行ってしまうかわからない。極端な個人主義から出発して、国家絶対主義に行くわけです。
それに比べるとロックは穏健で、ホッブスのような面白さがない。戦前には、ロックは『トゥ-・トゥリーティーズ』Two Treatisesぐらいしか読みません。それから、An Essay Concerning Hman Understandingが、岩波文庫で『人間悟性論』というタイトルで翻訳が出ていた。それくらいです。「ジョン・ロックと近代政治原理」〔丸山集四〕は、尾高朝(とも)雄(お)さんに命じられて、前にやりかけていたのをまとめて『法哲学四季報』で発表したものですが、フーフー言って、書いてはまた読んで、ということで、苦労しました。発表は「自由民権運動史」のほうが早い。根本のモチーフは、日本の自由民権運動の批判です。規範的自由という要素のなさ。ロックではそこが見事に出ているということです。
ホッブスは唯物論だから、それがないのです。自然権というのは、文字通り人間の持っている自然の性質そのままでしょう。だから、万人の万人に対する闘争になってしまう。ロックの場合にははじめから人間を自己規制のきいている動物として見る。そこに人間観の違いがある。だから自然状態の叙述がホッブスと反対になってしまうわけです。
(「『トゥ-・トゥリーティーズ』は、いつごろお読みになたのですか。」)カール・シュミットの『レヴィアタン』‥というのがあります。これをぼくは、政治学研究会で報告したのです。ホッブスは学生時代からやっていましたけれども、これもものすごく面白かった。それまで、ホッブスは原典に当たっていたけれど、ロックは『ヒューマン・アンダスタンディング』を除いてはそれをやっていなかったので、『トゥ-・トゥリーティーズ』はそのときに読んだのでしょうね。いつだったかは記憶していないけれど。「ジョン・ロックと近代政治原理」を書くときに、改めて『トゥ-・トゥリーティーズ』だけを読み返しました。(下 pp.49-52)
(戦後の出発)
「(「リベラルの要素がだんだん希薄になってデモクラシー優位になっていく。ですから新体制へずるずるいってしまう。先生は、それとは非常に異質なものを持っておられた。それは何かということなのですが。」)それは南原先生からだな、まさにそれこそ。でも、ぼくは元来の系譜から言うと南原先生とは違うのです。(「お父さまの系譜からいうと。」)そうそう。まさに南原先生的な、象牙の塔的学問を、ぼくはどっちかというと軽蔑していたでしょう。その南原先生に咫尺(しせき)の間(かん)に接した。時代批判の厳しさというか、時代の潮流に対して少しも動かされない、その確固としたもの。‥宗教があるかどうかは別として、南原先生のそれはむしろ実存的なものだから、学者というより、人間としてしっかりしていて、右顧左眄(うこさべん)しない。世を挙げて翼賛時代でしょう。だから、そのこと自身、大変なんですね。‥ぼくはかつて、存在と当為を峻別するなんてと、容易に新カント派を批判していたし、南原先生の立場を批判していたのだけれど、いずくんぞ知らん、存在と当為を結びつけるヘーゲルなんかをやっているのは、京都学派も含めて、ぜんぶ時代に流されてしまった。ぼくが学問的には批判の対象とし、資質的にも馴染まなかった、カントばかりやってる人のほうが、ちゃんとしていた。…
激動期だったけれども、そのときに得た一つの教訓は、どういう人間を信用するかということです。‥ぼくは、人を信用するかしないかについては、いざというときにこの人間はおれを裏切るかどうかという判断が、ぼくの唯一の基準だと言いました。右とか左とか、そういうことではないと。…自分が助かりたいために、手段を選ばないというのは、本当に恐いです。悪いといえば権力のほうがもっと悪いのだけれども。」(下 pp.70-74)

(2)『自己内対話』

「アカハタ非合法時代のセイサンな記録、Sturm u. Drangの継続だ。だが、ほとんどそれと別世界のように、多くの小市民の平凡な静穏な生活がくりひろげられていた。
 僕がつかまって、あと解放されたとき、灯のともった本郷通りを歩いたときの感想! バナナ屋は相変らず、バナナを人々の前にぶらさげてたたき売り、ゴモク屋の前には人だかりがしてみな言葉もなく、ゴバンの「問題」をみつめている。そうして、本富士署の壁一つ隔てたあのなかでは、すさまじい拷問がいま行われているのだ。政治の世界とその「外面」性。」(p.40)
「「人間の事、棺を蔽うてはじめて定まる」とは私の他人評価にも自己評価にも、いつも念頭をはなれない格言である。だから私はどんなに、ある人が異口同音に賞讃され、あるいは非難されても、その人の全人格と全業績についてのカテゴリカルな判断を留保する。自己についての毀誉褒貶を気にしない-すくなくとも気にしないようつとめる-心構えもここから生れる。」(p.65)
「「アカハタ」の非合法時代を読むがいい。何というセイサンな世界か。それは終始、シュトルム・ウント・ドラングの連続だ。しかしそれと全く別世界のように、同時に、圧倒的多数の国民の平凡で静かな、毎日(「アズ・ユージュアル」の)生活が続いていた。
 私が最初に留置場から釈放されて、街灯のついた本郷通りを出たときに私の頭を瞬時にかすめたものは、本富士署の壁一つへだてた「内」と「外」との二つの世界の極端な対照だった。内では凄惨なゴウモンと悲鳴、外では寮歌のひびきと、バナナ屋が客を呼んでいる陽気な声!
 一七八九年七月一四日のパリにも、いや、一九一七年冬宮の襲撃の日にも、大多数の市民の生活はアズ・ユージュアルにいとなまれ、市民はいわば「パチンコ」に興じていたのではないか、という私のなかの執拗な固定観念はおそらくここに根ざしている。」(pp.65-66)
「「死以外のあらゆる事柄には仮面がありうる。……だが死とわれわれとの間に演ぜられる最後の芝居では、もはや見せかけるものは何もない。そこでは(古典語でなく)フランス語をしゃべらねばならぬ。壺の底にある掛値のないところをはっきりと見せねばならぬ。
 ……だからわれわれの生涯の他のあらゆる行為は、この最後の行為を試金石として試さねばならない。」(cf.契沖「勢語臆断」)」(pp.85-86)
「転向。
 自分が国民の中の、あるいは世界のなかの本当のマイノリティになって離れてしまった、あるいは今後ますますなってゆくと感じた時、転向への誘惑がもっとも大きい。暴力や権力の圧力がどんなにはげしくても、無数の「人民」の見えない支持が背後にあると信じられる間は決して転向しない。」(pp.96-97)
「名誉と名声または有名。
 名誉感(sense of honour)は貴族社会に適応し、有名性の高い評価は、逆に「身分」がなくなった、トクヴィルのいう意味での、平等な民主社会に適応する。アメリカは封建制をもたなかったので、相対的に有名性(celebrity)が名誉感に優越する傾向が強かった。(cf.ライト・ミルズ「パワー・エリート」)
 日本はサムライの衰滅とともに名誉感は失われて行ったが、戦後の平等社会は急速に有名性の価値をのし上げ、いまや「名誉」の意味さえ理解されないようになった。名声や功名がもっぱら他人の評価に依存するのにたいし、名誉はヨリ個人に内面化された価値である。(むろん「良心」のように純粋に内面的価値ではないが……) マス・コミによってつくられる「有名性」が圧倒的に人々のあこがれの対象となるのは、画一化社会にふさわしい現象だ。それに反比例して「権威」は権威を失う。
 Self-respectは名誉感に近い。
 社会的に無名の武士も名誉感をもつ!
 福沢における「名」・「名利」の意味解釈の困難さ!」(p.150)
「知識層の役割。
 社会の異議申立て人(dissenter, contester, opponent)であること→(イ)社会の普遍的問題についてであって、個別的利益をそのまま反映した異議ではない。
 (ロ)サルトルの定義には、革命的知識人と抵抗的知識人との区別がない。知識人の一般的かつ、第一義的課題は後者にある。
 (ハ)知識人は社会的・政治的関心が例外的に高い階層である。逆にいえば管理社会の「ピアノのキイ」であることに甘んぜず、また支配的な、供給された情報や、マス・カルチュアに埋没することをこばむ階層である。いつの時代でもそうだが、現在ではますます「前衛」が知識層から出て来る。発展途上国だけでなく、先進国でもそうだ。(アメリカにおけるヴェトナム反戦指導、ウォーターゲイトの活躍、エルスバーグ。ソ連・韓国の「反体制」知識人。フランスのように知識人が伝統的に反権力であるところはいうまでもない。)
 (ニ)文化統制、マス・コミ統制がもっとも成功しないのは知識人だ。
 (ホ)教育による価値体系のインドクトリネーションは初等教育において、もっとも効果的であり、高等教育において、もっとも不成功である。
 このことは、知的エリートの社会的優越の承認ではない。むしろ知的エリートが管理者のなかにくみこまれる傾向がますます一般的であればこそ、「異議申立て」階級としての知識層の役割は大きくなる。それも、社会を「動かす」には大衆運動との結合が不可欠だ。知的指導なき大衆のエネルギーは盲目であり、大衆のエネルギーに支えられない知的指導は空転する。とくに中小企業者、未組織又は充分に組織されない労働者との結合が重要である。」(pp.152-153)
「孤独ということはイデオロギー的立場とムカンケイだ。僕は進歩派を以て自任しているが、しかも孤独だ。(一九五五年の手帖から)」(p.154)
「東大紛争を通じて私の目に映じたいやらしいインテリ。もしくはインテリの卵。…
 〇最後に、結局はこういうことしか書けない「教官としての」丸山。
 -ということは、結局日本に住むことがいやになったということかもしれない。」(pp.174-175)
「「東大」と私-一つの回顧-
 私は「東大」でどのような特権を享受し、どのような「権威」を東大教授の名において行使して来たかを、できるだけ「公正」をつとめながらふりかえって見よう。こういう事自体、気のすすまない作業だが、東大紛争はやはりそうした反省を私につきつけねばやまない。‥
 まず私の助手時代、つまり俗にいえば「無名」時代である。この間、「東大法学部研究室」はまぎれもなく私にとって「国内亡命」の場であり、日本国内に当時、これにまさる亡命の場はなかった。私はまさに東大の特権によって庇護されて安全を得た。研究室に足を入れた瞬間に私は自由の空気を呼吸した。…私はたしかに東大法学部の「抵抗」の消極性にいらだたしいものを感じるときがなかったわけではない。しかし、私個人にたいする特高・憲兵の監視、さらに、原理日本社同人の毎号のような法学部への攻撃、日比谷公会堂において主催された「東京帝大法経学部撲滅国民大会」、最後に、憲兵隊の尋問を通じて知らされ、これほどまでと思わなかった東大法学部への「当局」の嫌疑-そうしたもろもろの契機は、私に東大法学部研究室を、闇一色にぬりつぶされた日本のなかにともっている蛍のようなかすかな光のように映じさせたことも事実である。「東大」とはいわない。「東大」には平泉が傲然と日本思想史を講じていたし、経済学部はあの体たらくだったし、さらに自然科学部門にいたっては、ほとんど軍学協同の体制に編成されていたと想像されるから……。ただ、東大法学部の研究室は-日本帝国主義のもっとも正統的な高等教育機関といわれた東大法学部の研究室(!)は、今から考えても、別世界のようにリベラルであったし、私はこの僅かに残されたリベラルな空気を酸素吸入器をあてられたようにむさぼり吸いながら戦時をすごしたのである。…(一九六八年暮)」(pp.175-178)
 「私自身は高校では、東寮十二番における陰うつな「左翼的」雰囲気にたえられないで、明朗な中寮一番に移ったほど、高校の学内の左翼的動向とは無縁であった。‥しかし、クラス内の思想的対立はクライマックスに達した。‥私は寮委員としては、寮内の非合法左翼運動の「取締」に一役買いながら、本富士署につかまった友人たちへの手拭などの差し入れに奔走した。こうした「矛盾」は、二年の終り、つまり、一九三三年三月、ホッケー合宿中に、本郷仏教青年会館で開かれた唯研創立記念講演会に出席して逮捕された事件で一挙に私の内部で噴出したといえる。私は不覚にも一睡もできない留置場で涙をながした。そのことがまた、日頃の「知性」などというものの頼りなさを思いきり私に自覚させた。‥この留置場での、感化院を数回脱走した不良少年、あるいは、不渡手形を出した会社社長-しかも、奥さんがいまにも出産しようとしており、二たこと目には看守にその心配を訴えていた社長とか、自分の名前さえ明かそうとせず、凄惨なリンチを受けて房に帰ってくる朝鮮人運動者とか、「しっかり」している東大細胞のキャップらしい松山高校出身の学生(ほとんど大人(おとな)に見えた!)とか、いろいろの人種との「つき合い」は、軍隊体験にまさるとも劣らぬ深い人生についての経験をまだ満二十歳にも満たぬ私に植えつけてくれた。ただ、釈放される前に、東京高校の寡黙な学生から依頼されたルポをことわったことは、私の心の奥底の傷としていまでも残っている。
 本郷通りの夕暮れのバナナ売りの光景のことは前にのべた。‥あまり記憶が定かでないが、ほとんど本能的なまでのナチぎらいになったのは、大学入学以後のことだったように思う。
 大学に入って間もなく、学生課に呼び出しを受け、石井学生課長から大学自治の「限界」について一時間あまり説教を受けた。‥
 だから、私は、大学時代は、はじめから監視付の身であることを覚悟しなければならなかった。‥こういう不気味な監察状態は、ほとんど兵隊に召集されるまで続いたように思う。簡閲点呼の際は、数千人の壮丁のうち、ただ一人、あとに残されて、背広姿の憲兵の訊問を受けたこともあった。‥しかしこういう経験のなかで、だんだん度胸がすわって来たことも事実である。…
 しかし東京帝大の助教授という「地位」は大したものだった。さきほどの大東亜戦争勃発直後のハプニング-あの事件は私の前歴とは関係なかった-をのぞくならば、それまで定期的につづいていた、特高ないし憲兵隊の「御訪問」はバッタリと途絶えた。…」(pp.180-184)
 「私のあらゆる発言は、とくに(後述するような)日本の事情の下では、一個の丸山という人間の発言としてはきかれないだろう。必ずや東大教授丸山、あるいはせいぜい政治学者丸山の発言として、おそらくは、もっとも蓋然的にはその両者の資格の合体としてしか受けとられないだろう。たんに一般人だけでなく、「文化人」やジャーナリストによってさえ、いなむしろそういう人々によって一層、私は「著名な東大教授」もしくは「有名な政治学者」としてしか取扱われない。(つまり記事にならない)。‥まさにこういう否定すべからざる現実の状況こそ、いよいよもって、私の発言意欲を削ぐものなのだ。ああ、この悪循環よ!
 むろん、私の言動が、‥東大法学部の教授という私の立場によって制約されており、それなりの偏見に貫かれていることを私は寸毫も否定しない。ただ、そういう資格、そういう立場からの発言としてしか受けとられないということ、しかも日ごろマス・コミを蔑視する批評家諸氏が、‥そういうマス・コミの眼-もう一度いえば著名東大教授としてしか丸山の言動を見ないような眼-をそのまま自分の眼として批評しているということが、おどろくべき現象であり、日本の「論壇」なるものにほとんど私を絶望させるゆえんなのだ。…どうして「東大教授であろうがなかろうが、劣悪は劣悪であり、正当さは正当さだ」という当然の基準が通用しないのか!通用させるように、マスコミが努力しないのか。」(pp.187-189)
 「私は、教育の理念にも制度にも、本来的に興味を示して来なかった。教育ときいただけで、何かウンザリしたものを感じる。‥叱られるのはもっともだ。私自身、過去三〇年ちかく、研究とともに、職業としての教育に従事して来たのだから……。にもかかわらず、私の「教育」への冷淡な感情もまた消しがたい事実なのだ。そうしていま-まさに東大紛争において私は、こうした私の性向にたいする手痛い懲罰を受けている。私はこの懲罰にたいして誰をも恨むことはできないだろう。
 しかし果して本当に私は教育がきらいなのか。私の「指導」を受けた人々のなかには、この問いにためらわずにノンという人もいるだろう。私がきらいなのは実は教育よりも、教育の名における「インドクトリネーション」であり、また、意識的な教育熱心であり、また「子分づくり」なのだ。本当は、私はひとと会話する瞬間に、教育者になっているのだ-と。たしかに私のなかには矛盾した二つの面があるのかもしれない。
 今度の紛争を通じて、私は学生と論争する機会を数多く持った。‥そのなかで私の胸にぐさとつきささった数少い批判の一つは、「先生は東大をやめて丸山塾をひらくべきなのです」、あるいは、「先生の言葉は、丸山塾の塾頭としてなら納得します。が東大教官としては……」というたぐいのものであった! 私は軍人としての死期を失した乃木希典のような姿で、「東大教授」として今日までとどまって来た。いまその不決断のむくいが来たのだ。 一九六九年三月十六日(於武蔵野日赤)」(pp.191-192)
「(後記)
 戦後の「理念」に賭けながら、戦後日本の「現実」にほとんど一貫して違和感を覚えて来た私の立場の奇妙さ! それは悲劇だか喜劇だか知らない。むしろたずねたいのは私は根本的に時代を表現しているのか、それとも反時代的なのかという事なのだ。私の実感としては後者としか思えない。  理念は自然的傾向性の「流れにさからう」ところにこそ存在意義があるという私の確信はゆるぎそうもない。」(p.246)

(3)『丸山眞男手帖』『丸山眞男集』『自由について 七つの問答』

「変に図太い自信はできましたね。
 つまり、世の中みんな狂っているわけですね。僕なんかとっても気が弱いし。…左翼全盛時代から右翼全盛時代まで急激に、三、四年の間に変わるのを見ているでしょう。だから余計、大正時代というか明治の末期に育った人のような、本質的に強いものってないわけですよ、自分の中に。『方丈記』じゃないけれど、世の中は移ろいゆくものである、という感じの方が強いわけでしょ。だから一所懸命自分を支えているわけなんだけれど。
 そしてインテリ罵倒論が流行るでしょ、あの頃。知識階級は無力であるとか、インテリはろくでなしの観念的であるとか何とか言って。それで、この野郎! と思ってじっと我慢していたら、結局その戦争が終わってみると、いわゆる罵倒されていたインテリが考えていたことは間違っていたことは一つもなかった、という点で何か図太い自信みたいなものができていますね。つまり勘みたいなもので、こういうのは無理だなっていう、-安保じゃないけれどね。どこか無理があると思う時には、やっぱりその無理は通らないという感じね。どんなに勢いを得ていても通らない、まぁスターリンもそうだし。歴史というものは無理はやっぱり通らないっていう、そういう一種の感じというのは何か得たような気がするんです。」(手帖47 「丸山先生にきく 生きてきた道 その2」1965.10.15.pp.2-3)
「政治的なものっていうのは、僕は面白いと思うんですよ‥。無限に拡散していて、しかも拡散しちゃったら、政治的なものってないでしょ。だから僕は領域-政治的なるものっていうのは、結局、経済とか学問とか教育とか、それから文学とか、そういう人間活動の領域があって、それをどこかの断面でサァーッと切ってゆくものじゃないかと思うんです、人間活動のあらゆる面を。つまり全部にわたるでしょ、政治というのは。だからこいつが、こう縦に膨張しちゃうと、人間の全生活が政治になっちゃいますね。これが全体主義だと僕は思います。
 つまり政治に二つの危険があるんで、一つは政治が人間のあらゆる営為にまたがる故に、縦に膨張しちゃって全生活を呑み込んじゃうという政治主義。政治主義の危険、あるいは全体主義の危険。もう一つは、つまり政治というものが経済とか教育とか文化とか、そういうものと並ぶ政治になっちゃうということ。つまり、特殊領域になっちゃうということ、政治が。特殊領域になっちゃったら、これまたお終いだと思うんです。
 しかし、さっきのようなイメージができたのは、一つは戦争直後。やっぱり僕も堕落してきたんだと思うんです。つまり、戦争直後の十何年間というものは、何と言うのかな、全面的な自己批判ですよね。そういうものが非常に苛烈だった。今までの学問じゃダメだ。今までというのは、生産主義ですね。それは非常に熾烈だった。だから、例えば真面目主義が出てくる、今までの政治学を批判する。ここで日本をたたき直さなければ、腐りきっていると。そういう気持ちは、若いしね、青年将校じゃないけれど。‥
 だから過去の政治学にも否定的。あんなものは何の役にも立たないという気があるんですよ。もちろん、天皇制に対しては、オール否定。‥それも根本的に叩き直さなければダメだと。ここで日本の精神革命がなければ、日本という国はもう存在価値がないと……。
 まぁ、今でもそう思っているけれどね……。今でもそう思っているけれど、ただ、少し波長が長くなって、のんびりして、こりゃあなかなかできねぇから、まぁ、百年ぐらい〔のタイム・スパンで〕考えようと思うようになった……。‥
 しかし、〔戦争直後は〕切迫感を持っていた。だから、最も広義のイデオロギー批判をやらなきゃいけない、という気分があったわけですね。だから、そういう点では少し、大衆社会状況に流されたかもしれないね。まぁ、元来やっぱりあるんですよね、そういうものが。遺伝的なものだろうな。」(手帖47 同上pp.14-15)
「福沢はやっぱり心の支えでしたね。戦争中を通じて心の支えでした。繰り返し、繰り返し、読みました、福沢は。…
 ああいう〔福沢の〕思考方法というものを、できるだけ体系化してみようというふうに考えたのは、戦後でしょう、恐らく。
 戦争中はむしろ、痛快、痛快という気持ちで読んでいたんだから。武士の権力はゴムの如くってね。接する者にしたがって、膨張したり収縮したりすると。で、強いやつと向かうとへこんで、弱いやつに向かうと膨らむなんてね。全く痛快、痛快ですよ。〔福沢の言う〕武士ってのは、そのまま〔戦争中の〕軍人なんだ。だからそういう非常にイデオロギー的な見方です、むしろ戦争中は。福沢の儒教批判もそうですしね。〔福沢によって〕儒教と言われているものの中には、当時〔戦争中〕の国体論みたいなやつが入っているわけですから。」(手帖47 同上p.20)
 「〔僕の場合は〕価値意識自身が分裂しているんですよ。価値意識自身がドイツ的な自由な人格という観念と、アングロサクソン的な経験的な自由の考え方と二つありますね。〔ドイツ的な〕いわゆるInnerlichkeitという考え方-内面性という考え方と-と、それから非常にアングロサクソン的な個人の自由という考え方と、二つあります。簡単に言えば、外的拘束からの自由という非常にplain〔平易〕な定義と、それからInnerlichkeit、内面性という考え方と。…
実存主義というのは、どうも〔僕の〕盲点ですね。実存主義的人間観というのは恐らく盲点ですね。僕も勉強してないし。‥つまり、自分の中にそういうものがないから、これは盲点ですね。アングロサクソン的な個人というようなもの、また、〔ドイツ的な〕Innerlichkeitっていうのも分かるんですけれど……。…サルトルの言う「歴史を撥無するような個人」というのは、どうも実感として分からないな。
ただ、実存主義じゃないけれど、いつかドーアと話をしていたら、ドーアが、それは非常に実存主義的だって言った〔ことがある〕んだ。‥留置場から解放された時、もう夜なんですけれど、本郷通りでバナナ屋がバナナを売っているんですよね。その隣には賭け碁の屋台が出ていて、人たかりしている。本郷通りにずーっと夜店が出ているんですよ。‥で、本富士署から釈放されて、トボトボと寮に帰って行くわけですけれど、そこをずーっと帰って行くわけ。すると、五〇銭! なんてやっているわけですね。あの時の感じは忘れられないなぁ。
物凄い世界から出て来たんですね。拷問されると、もう血みどろになって、顔中包帯してまた帰って来るという、本当に陰惨な世界ですよ。僕は全くその意味では実に平凡な普通の家庭に育ったわけですから。‥それがパッとそういう世界に出て来る。壁一重のあそこでは、今でもあの拷問が行われているというのに、ここでは何事もなかりし如くに、バナナを売っているわけですね。そこから来る実感というのは僕の中に非常に深く入っている。一種のニヒリズムですね。…
二つのナチの暴圧。「現代における人間と政治」(『丸山集』第九巻)にもちょっと書いたけれど、ああいうことです。つまり、ナチの暴圧と言ったって、民衆は、暴圧もヘチマもなくて呑気に暮らしているじゃないかという。‥何か、そういう国家権力もむなしいけれど、国家権力を打倒するとか、革命とか、何かそういったむなしさというか。そういうことを上の方でちょこちょこやっていて、民衆というのはいつもただ、バナナを売ったり、パチンコしたりしているじゃないかという、そういう感じですね。
それがどこから出て来たかというと、どうもあの実感は、留置場から釈放された時の、壁一つ向こうではあれだけのことが行われている。朝鮮独立の奴もいるわけです、朝鮮人のね。これなんかも凄いですよ、半殺しです、取り調べから帰ってくる毎に。ほとんど気を失って帰って来るけれど、爪抉(えぐ)られて。ぐるぐる包帯してね。それでも名前も言わないんですよね。‥凄いもんだなぁと思ってね。左翼の奴は、凄い奴がいますよ、東大の奴でも。悲惨なところがちっともないんですよね。留置場の中で冗談ばかり言っているんですよ。そりゃ看守が来れば、みんなパッと止めちゃうけれど、向こうへ行っちゃうとエヘラエヘラしているんですね。そりゃ凄い闘士でしょう。やっぱり凄いな、僕なんかとってもああいう人間にはかなわないな、と思った。」(手帖47 同上pp.22-25)
(「吉本隆明氏が先生への批判の中で、先生の民衆に対する考え方について触れていましたけれど」という問題提起に答えて)「ものの考え方によるでしょうね。ある意味ではそうですね。民衆に入っていけないというより、民衆というのはね……。‥さっきの狂気の世界ですよね。みんな大熱狂でしょう。要するに非常に素朴というか。だから、ダメだなって。
民衆というのは、インテリも含めて、ダメだなぁという不信感というのは、正直言ってありますね。普通に言えば、今日ヨーロッパのフィルムを観たって、みなこれでしょう〔「ハイル!ヒットラー!と右手を挙げるポーズをする〕、独裁者に対して。そういう頼りなさ。安保の場合だって、変な反共の奴が言うんじゃないけれど、何か信用しねぇというのは、ありますね、たしかに。…
さっき言ったような意味の「民衆不信」は正直言ってありますね。当てにならないものだという感じはあります。だから「土着」というのはかなわないという気がする、土着趣味というのは。いわば民衆美化はかなわんという気がする。あるいはそういうものが、自分の中にあるからかも知れない。特別に美化するというんじゃなくて。…
民衆というのは現実にある民衆ですね。現実にある民衆っていうものについては、もちろんコンプレックスを持ったのはこっちですね、軍隊に行った時。それは本当にコンプレックスを持ちました。というのは、実にみんな器用なんですね、日本の民衆諸君は。‥僕なんかできないですよ。‥そういう点では民衆と遊離していたかもしれません。」(手帖47 同上pp.25-27)
 (「先生はuniversalisticだと思うんですけれども、そういうことはいつごろから自覚なさいましたか」という問いかけに答えて)「それは、全然自覚しませんでしたね。外国へ行って自覚しました。つまり外国へ行くまで自覚しなかったんです。‥  つまり、僕は外国へ行って自信をつけて、非常にコスモポリタンな人間になったと思うんです。‥ロンドンの地下鉄の中を歩いている感じと東京の地下鉄の中を歩いている感じが同じなんですよね、感覚として。俺は異郷にいると思ったこともないし、日本にいると思ったこともない。‥つまり自己意識がないわけですよ。人生至る処青山あり、というあの実感は外国へ行って感じた。だけど好(ハオ)〔竹内好〕なんかは偉いね、それをずっと前から言っていたんです。好さんに、なんだか面倒くさくってね、と言ったら、大丈夫だよ、同じ人間が住んでいるんだよ、と彼は言っていたんだけれど。彼は中国だよ、やっぱり。僕はそういうこと、実によく分かった。‥(「丸山先生のお帰りになった姿を見て、‥第二の開国に居合わせた人で、この人は和魂洋才なんだな、と思いました」と言われたのに答えて)洋魂なのかね。外国人から言われることで、非常に面白いと思うのは、実にwesternで、しかも徹底的に日本人的だって言うんです。」(手帖48 「丸山先生にきく 生きてきた道 その3」1965.10.15.pp.43-44)
「学生時代から研究室の生活にかけてひきつづき私の頭に重くのしかかっていたのは、ほかならぬマルクス主義の思想と学問でした。こういうと、戦前の知識青年を「風靡」したマルクス主義という、お馴染みのイメージのなかに、私の場合もすっぽりと入ってしまうように見えます。‥しかし、私がここで私の学問的足跡についてマルクス主義から叙述をはじめるのは、右のような一般的な位置づけよりもむしろ狭い意味において、なのです。なにより、私が本格的にマルクス主義の社会科学(史学をふくむ)について勉強をはじめた大学生時代(一九三四-三六年)には、マルクス主義はすでに「実践」から切断された一つの知的体系としてしか、見はるかす光景のなかに事実上存在しませんでした。‥左翼華やかなりし時代が先輩の昔語りと化してから、マルクス主義文献と本格的にとり組むようになった者にとっては、戦後に通俗化し、現今でも流通している、マルクス主義をめぐる戦前の思想的構図‥にはどうしても違和感がつきまとうのです。その図というのは、日本共産党(あるいはコミンテルン)という核が真中にあって、その「本尊」の周辺に後光のようにマルクス・レーニン主義の思想圏が照りわたり、そのなかに、いわばいくつもの同心円を描いて「同伴者的」知識人がちりばめられていた、といった類のものです。‥そうした星座を、あるいはもっと非ロマンティックな比喩を用いれば、「党」を台風の目とする暴風圏を、戦前マルクス主義の天気図として当然のことのように目の前に示されると-良し悪しの評価の問題としてでなく-まさに個人の精神史的「事実」の問題として、「いやちがう、そうじゃなかったのだ」と叫びたい衝動を抑えることができません。私の精神生活のなかにマルクス主義の「学問」ががっしりと根を下ろして行ったその同じ時期に、私はコンミュニズムからリベラリズムまでの昭和初期の「イデオロギー」が目の前であわただしく後退してゆくザラザラした感触を素足の裏に覚えていたのです。」(集⑩ 「思想史の方法を模索して」1978.9.pp.316-317)
 「マルクス主義の学問については、あまりにその「影響」が大きいために、むしろ逆の面から、つまりそれほどの「重圧」の下にあったマルクス主義の学問について全面的にコミットすることを私の思惟の内面で拒みつづけたものは何だったのか、という自問を発して、そこから考えた方がよいように思います。マルクス主義の基底にある思惟方法のなかでどういう点に私は違和感を感じ、その違和感にどう対応したでしょうか。‥能うかぎり記憶を反芻しますと、次のような諸点に思い当るのです。
 第一は、私が高等学校時代に、ヴィンデルバントとリッケルトの著作をかなり熱心に読んだ、ということです。つまり私はマルクス主義の原典ととり組む前に、新カント派それも西南ドイツ学派の哲学に、ある程度親しんでいました。…
 動機はともかくとして、私の記憶に鮮かな印象をとどめているのは、リッケルトの『認識の対象』‥を‥読んだ日々です。あの書物は、いってみれば電気掃除機で頭の中に溜っているゴミを一気に吸いとらせるたぐいの爽かな明晰さを具えています。「対象の認識」ではなくて、「認識の対象」というタイトルの付け方自体にも著者の周到な用意があるのを知って無邪気に感嘆しました。この読書がきっかけとなったのだと思いますが、今度はヴィンデルバルトに向いました。‥購入して丁寧に読んだといえるのは、『プレルーディエン』の二冊本‥です。…
 この論文によって私が触発され、‥私のなかに持続的な作用を及ぼしたのはおよそ歴史的成立や歴史的発展のプロセスから事物を説明する仕方の「限界」ということでした。事実のつみ重ねから純帰納的に特定の命題が引出せるというようなドグマに立っている「実証」史家にたいする私のどうしようもない不信感の一つの源泉は疑いもなくここにあります。これに比べて、マルクス主義史学にたいする場合にはもっと話がややこしくなります。西南ドイツ学派による著名な歴史的「個体性」と自然科学的「法則」との対比から私は私なりに示唆を受けましたが、その歴史哲学をそのまま受入れるべく、私はあまりにもマルクス主義的な発展段階説の、また、やや後にはヘーゲル哲学の、影響下にありました。ですから、右のヴィンデルバルトの論文の「後遺症」というのは、「批判的方法」への積極的なコミットメントにあるよりはむしろ広い意味での「発生的方法」への警戒心だったといえるでしょう。「実証」史学とちがって、自己の「公式」への依拠を自覚している筈のマルクス主義者も、実際の歴史の叙述になると、しばしば歴史的過程における「進歩」とか「反動」とか「停滞」とかをたんなる「変化」のなかから見分け、区別する規準自体を「事実史」のなかに解消する方法的混乱が見られました。こうした場合、「おや」という疑問をその都度私の脳裏によびおこしたのは、遡るならば右の論文のいわばオリの刺戟に帰せられます。…  …いずれにしても、マルクス主義的な社会・国家理論の全面的受容から私をつとに沮んだ認識論的側面の一つが右の問題にあったことは否めないように思われます。」(集⑩ 同上pp.318-323)
 「マルクス主義の方法論への私のコミットメントに対して、「水をさす」役割を果した点で、西南ドイツ学派の批判にもまして大きな意味をもったのは、大学生時代にカール・マンハイムの知識社会学を知ったことでした。いやこちらの方は「水をさす」というような消極的表現では到底尽せません。それはなにより、マンハイムの知識社会学が認識論をも包括する社会理論であったからです。つまり、大学に入って、マルクス経済学理論や日本の近代史の勉強‥が進んだ頃には、新カント派とマルクス主義とは、魅力と不満との在り場所がちょうど裏腹の関係に立って私の精神のなかに共存していたのですが、マンハイムの知識社会学がまさにカント的認識論とマルクス主義のイデオロギー論との双方にたいする、いわば二正面的な「挑戦」を内包していたために、私の「中ぶらりん」の精神状態との間に一種の共鳴現象が起ったわけです。…大学の三年生のときにマンハイムの『イデオロギーとウトピー』を読んだのです。…この『イデオロギーとウトピー』や、ひきつづいて読んだ前掲『社会学辞典』のなかの「知識社会学」‥さらには「知識社会学の問題」‥などは、その後私の思想史・精神史へのアプローチに決定的に「影響」した著作でした。…
 マンハイムとの出合いが、あくまで世界観・哲学・宗教・芸術といった、観念形態の歴史的発展をつかまえるための模索の途上で起ったことであって、「社会学」をそれ自体として勉強し、その中でマンハイムを位置づけるというつもりはそもそもなかった、という事情が却(かえ)って、彼の「影響」を私の精神のなかで持続的なものにしたように思われます。…思想史あるいは精神史の方法にたいしてマンハイムが投げかけた問題ということに着目すれば、それは一方では、新カント派的な、因果連関と価値妥当との二元論にたいして、他方では、マルクス主義‥のイデオロギー論にたいして、見事に盲点をついたものでした。…
 私に目からウロコが落ちる思いをさせたのは、彼の理論における遠近法的な見方です。「ペルスペクティヴィスムス」という認識方法の裡に、私は新カント派とマルクス主義とが(方向は正反対ですが)共有しているような対象と認識との一対一の対応関係をつきくずし、精神史を社会史の文脈の中におきながら同時に、精神史特有の発展形態を明らかにする鍵を見出したように思いました。精神史特有の発展形態の一つとして、先行する思惟形式や体系からの継承が、いわゆる加算的綜合‥として単線上で起らないで、問題設定の移動-思惟を組織化・体系化する際の中心点の移動として起る、ということがあります。ですから、過去の思想は後続する思想によって「のりこえ」られたり(こういう発想自体が単線上の継起を予想しています)、吸収され尽すのではなくて、逆に「のりこえ」られた筈の思想が、歴史的変化とともに再評価されたり、「何々にかえれ」というような「復古」運動が精神史上にしばしば起るわけです。しかも、そうした問題設定の移動は、先行する思惟様式・諸範疇を継受しながら、その意味転換が行われるという二重の過程を伴います。同じ範疇が存続しながら、思考を組織化し体系化する(狭い意味の理論「体系」をいうのではありません)中心が異るために、いわば「配置転換」が起って、遠近法的な位置づけが違ってくるわけです。
 マンハイムは、同時代におけるさまざまな世界観の分裂と、歴史的変動による精神構造の変動とを共に景観‥という独特の比喩で解明しようとしました。社会的な「立地」‥の変異は、遠近法的な視野の変動-これがつまり問題設定の変化です-をもたらしますが、その際、大事なことは一定の「景観」のなかにおさまる個々の樹なり湖なりは即自的(アン・ジヒ)には存在しつづけるのに、遠近法的な位置づけが異って来るために、全体としての展望は変化するということです。ある視野からはあれほど大きく目を惹いていた同じ樹木群が、他の景観では片隅に押しやられ、あるいはまるで存在しないかのように無視されます。それは、そもそもが湖の反対側からの展望だったり、あるいは次の「段階」で観察地点が丘の上に移ったりするからです。逆に長い時間的経過ののちに、同じ樹木群が、あたかも突如出現したかのように、映像に浮び上り、あるいは認識主体が意図的にそこにスポットを浴びせて「再評価」を迫ることも十分ありえます。しかしそれは一定の歴史的連関の中の「立地」からの照射、しかも認識主体の生活意欲と結びついた展望ですから、どんな「何々にかえれ」運動でも、原物はすでに配置転換されております。その意味で‥思惟主体の社会的立地が思惟内容に構成的に浸透するということが、ここにもあてはまるわけです。整序された普遍妥当的な認識か、それともカオスかという二者択一のかわりに、いまやプルーラルで、しかも動的な展望が現れます。それはそれぞれの仕方で実在に関与していて、「真」の認識対「虚偽意識」という絶対的対立はありません。けれども問題設定の多元的な可能性を容認すること自体を「相対主義」と呼ぶのではないかぎり‥、泥沼のような無差別の相対主義はそこからは帰結しないのです。
 思想史における思惟範疇の内在的な連続性と、後続する思想における同じ範疇の意味転換(非連続性)とを、どうしたら統一的にとらえることができるか、さらにまた、社会史的な「反映」論と、実体化された「精神」の自己発展論とのディレンマをどう脱出するか、という問題に苦慮を重ねていた一人の青年にとって、右のような視座構造の理論がどれほど大きな比重を持ったかは、およそ想像がつくと思います。‥ここで申したいのは、それ(右にのべた受けとり方)が思想史の方法論のための方法論として私の頭の中で浮遊していたのでなく、論文構成の具体的過程のなかに-良かれ悪しかれ-沈澱する結果になったということです。…年月の経過から言っても、マンハイムからのこうした暗示は、ほとんど下意識のレヴェルで作用していた、といった方がよいかも知れません。」(集⑩ 同上pp.323-335)
 「研究室に入って東洋政治思想史を専攻するようになって間もなくのころ、南原先生は雑談のなかで、「存在拘束性という考え方じゃ、君、思想史はダメだな」と念を押されました。‥先生が「存在拘束性」という考え方で意味していたものは、おそらくマンハイムの知識社会学だけでなく、広くマルクス主義の「存在が意識を決定する」という命題一般を含んでいました。‥けれども、‥初期マルクスの著作を読み、さらにマンハイムのソフィストケートされた(正統マルクス主義者の用語でいえば修正主義的な)イデオロギー論に接していた私は、‥学問的方法としては必ずしも先生の立場に従わずに来た‥。しかし他方において、当時の学者の、激しく動く「時局」にたいする現実の態度決定を見たとき、私は別の意味で先生の忠告をいくたびか噛みしめずにはおられませんでした。マンハイムはナチの権力獲得後、まもなくイギリスに亡命しましたが、広い意味で存在拘束性と歴史主義的立場に立っていた‥社会学者は、ズルズルとナチズムに追随して行きました。南原先生は、また私のヘーゲルへの傾倒ぶりを見て、「ヘーゲルは危ないよ、ドイツを見てごらん。ヘーゲリアンはほとんどナチの陣営に行ってしまった。頑張っているのはカント派の方だ」ともいわれましたが、‥傾向としては正鵠を射ていました。眼前にする日本の知的光景においても、知識社会学者からマルクス主義者にいたるまで、その知的転向は、おおむね「階級」を「民族」に置きかえることによって、歴史的存在による意識の拘束性という同じ命題を掲げながら進行していたのです。そうして、時潮や「世界の大勢」に押し流されずに「われここに立つ」という内的確信をあの時代にアカデミーの世界で貫きとおしたのは、方法論の次元でいえば、存在拘束性論者やヘーゲリアンから「非歴史的」と批判されていたカント主義者とか、カトリック自然法論者の間にヨリ多く見出されました。  …けれども、さきのような南原先生の「警告」が、いかに「実践的」に思い当ったにしても、そうした「非歴史的」もしくは「超歴史的」な立場が態度決定のうえで実証した強みを、思想史をふくむ歴史的アプローチのなかに学問的にリンクさせるすべをついに見出せないまま、私は一九四四年に、応召によって研究生活から引き離されることになりました。」(集⑩ 同上pp.339-341)
 「現代の若い学問世代は、この回想から、自明の事柄に辿りつくのに何というまわりくどい路を経たものかという感想を持たれるかも知れません。あるいは、マルクス主義に「方法論的に」もせよ、そんなにこだわりつづけたこと自体が、世代を問わず「しらけた」目には奇妙に映るでしょう。感想は自由です。ただ、私自身はこの「迂路」を経たことには、それだけの意味はあったと思いますし、マルクス主義にしても単なる一時停車駅ではなかったと思います。‥まともにマルクス主義をかいくぐった者は、マルクス以後派(post-marxist)ではあっても、マルクス無視派にはなれません。それは思想史という学問領域でも同じことです。」(集⑩ 同上pp.343-344)
「中学校で習志野に軍事教練に行ったときのことです。宿舎で何かいたずらの騒ぎをおこして先生から集合を命ぜられたことがありました。その時、先生は「首謀者は前に出ろ」といいました。私はまぎれもなく首謀者-すくなくともその一人でしたが、先生の形相がこわくて出そびれてしまいました。そのかわりほかの生徒が先生に主犯と目せられ、実は大した役割をしていなかったのに、可哀そうに大目玉を喰ったのです。すくなくとも十何人かの級友はこの光景を目撃しています。どんなに彼等の目に私はずるがしこい卑怯者と映ったことでしょう。私はいまでも中学のクラス会にあまり出たくないのは、このときだけでなく、中学生時代の自分自身について後々までむかつきたくなるほどの嫌悪感をもよおす思い出があるからです。…
 けれども、『君たちは……』(丸山:昭和十二年に『日本少国民文庫』の一冊として新潮社から出た『君たちはどう生きるか』)の叙述は、過去の自分の魂の傷口をあらためてなまなましく開いて見せるだけでなく、そうした心の傷つき自体が人間の尊厳の楯の半面をなしている、という、いってみれば精神の弁証法を説くことによって、何とも頼りなく弱々しい自我にも限りない慰めと励ましを与えてくれます。…自分の弱さが過ちを犯させたことを正面から見つめ、その苦しさに耐える思いの中から、新たな自信を汲み出して行く生き方です。この後の方の意味でも、私には思いあたる一連の出来事があったのです。
 高等学校二年生の終りごろ、私はまったく思いがけなく、本富士署に逮捕される目にあいました。…そのときの私はまさしく不覚をとったのです。…今後どういう運命が待っているかまったく可測性のない思想犯の烙印を押された自分は一体どうなるのか、このことが親に知れたら……といった、さまざまの思いが混乱した頭の中で飛びかう第一日の晩に、私の頬をポロリと涙が伝いました。‥「不覚」をとって涙をこぼした自分のだらしなさ、しかもそのことを同じ房につかまっている-このほうは本物の-思想犯の学友に見られたことの恥しさの意識は、これまた長く尾をひいて私の心の底に沈澱しました。けれどもそのときのだらしなさと恥しさの意識が、何ほどかその後の私をきたえたこともまた事実です。戦中のあの状況では、どんな事態が突如自分を襲うかもわからない、という心構え-つまり「不覚」と反対の心構えがいつしか身についたせいもあるでしょう。どんなに弱く臆病な人間でも、それを自覚させるような経験を通じて、モラルの面でわずかなりとも「成長」が可能なのだ‥。」(集⑪ 「「君たちはどう生きるか」をめぐる回想」1981.6.25.pp.377-379)
「私の思想へのマルクス主義の影響がいかに大きかったにしても、それを全面的に受け入れることに対しては、「大理論(グランド・セオリー)」への私の生得の懐疑と、それから人間の歴史の中で働いている理念の力への私の信頼との両者がつねに牽制要因となった。他方、唯名論の方へどんなに引き寄せられても、そのことが、有意味な歴史的発展という考えをまったく私から捨て去らせるまでには至らなかった。私は自分が十八世紀啓蒙精神の追随者であって、人間の進歩という「陳腐な」概念を依然として固守するものであることをよろこんで自認する。私がヘーゲル体系の真髄とみたものは、国家を最高道徳の具現として賛美した点ではなくて、「歴史は自由の意識に向っての進歩である」という彼の考え方であった。…私は歴史における逆転しがたいある種の潮流を識別しようとする試みをまだあきらめてはいない。私にとって、ルネッサンスと宗教改革以来の世界は、人間の自然に対する、貧者の特権者に対する、「低開発側」の「西側」に対する、反抗の物語であり、それらが順次に姿を現わし、それぞれが他のものを呼び出し、現代世界において最大規模に協和音と不協和音の混成した曲を作り上げている最中である。」(集⑫ 「「現代政治の思想と行動」英語版への著者序文」1982.9.pp.48-49)
「価値体系っていうのはむずかしい哲学をいうんじゃなくて、何を何より重んずるかという、その価値の序列が価値体系なんです。人によってそれぞれ価値の序列が違うんです。…価値のスケール、価値の序列ですね。序列の多様性を認めて、その多様性を認識する能力がないとわからない。…  つまり、俗な言葉でいえば、生きがいです。‥僕はそういう哲学的な、坊さんみたいなこと[を言うの]は嫌いなんだけれど、しいて言うならば、死ぬ時に「俺はやることはやった」という、そういう思いがあればいいんです。ところが死ぬ間際になって、俺は一体何のために生きてきたのかというのは、僕は不幸だというんだ。」(手帖11 「早稲田大学 丸山眞男自主ゼミナールの記録 第一回(下)」1983.11.26.p.9)
「(唯物論研究会の講演会に出かけて捕まったとき)特高が言ったのは、「如是閑なんていうのは、戦争が始まったら真っ先に殺される人間なんだ」って。‥昭和八年ですね、ぼくが捕まったのは。殺されるという意味はね、決して死刑になるとかそういうことじゃない、虐殺なんですよ。特高がそう言うときには。国家のためには虐殺してもいいということなんです。ぼくはね、子どものときから如是閑を知ってるでしょ、目の前が真っ暗になりました。‥殺されるというと、ぼくはすぐ大杉栄を連想した。」(自由 1984.10.6.pp.85-86)
 「(関東)大震災のとき、ぼくは小学校四年で、「恐るべき大震災大火災の思出」というのがぼくの書いた最初のルポルタージュで、そのあと付録でいくつか書いたんだけどね。その五番目には大杉栄の問題っていうのがあるんだけど、そこは空白で。……いくらぼくが生意気でもね、小学校四年生でね、大杉栄のことを書けるはずがないですよ。だけど非常なショックだったから。暴利取締令とかね、いろんな項目があるんだ。暴利取締令は何か書いたけど、最後は大杉栄問題とだけ書いて、何も文章は書いていない、空白です。だけど、頭に非常にあった。おふくろなんかは、(大杉の)甥っ子まで一緒に殺されたことで、「ひどい」って言って、小学生の時だけど覚えています。」(自由 同上pp.86-87)
 「その時はそのまま済んでたんですけど、一年か一年半くらい経って、いきなり特高がウチへ来たんですね。それでまいっちゃったわけです。おふくろが泣きだしちゃうしね、それで実は捕まったんだと言った。ぼくはもう東大に入ってまして、そのとき白状したんですけども。それから盆と暮れは必ず特高です。このごろ何してんだとか言ってね、兵隊にとられるまで。…
 助手になってからも牛込憲兵隊へ「何月何日、出頭されたし」と、呼び出しがある。当日行ってみると、何しろ帝国大学助手ですからね、判任官です、お茶なんか出してきてね。それでね、ま、さすがに憲兵だな。もちろん私服で、、お茶おあがんなさいなんて言って。
 その前年(一九三六年)でしたか、社会大衆党が十何人か当選して、二・二六の前かでね、反ファッショの民衆の現れだなんて言われたことがあるんですよ。‥憲兵が、「私たちも、社会大衆党から何十人も出るようになったら、あんた方について社会主義の勉強しなくちゃなんなくなりましたなあ」なんて言ってたんだ。要するに、お前の動向は一挙手一投足ちゃんと見張ってるぞということですよ。その嫌な気分たるやね、忘れられないなあ、ぼくは。つまり、どこにいたって、こうやって話してたってね、どこかに盗聴器が仕掛けてあってみんな分かってるというようなことでしょ。今の日本からは想像がつかないですよ。あのいやな気分といったらないですよ。
 だから、軍隊へ行って、はじめてホッとした。特高が来なくなったから。それまでは、もう永久監禁みたいなものだから。必ず、盆、暮れには特高か憲兵。しかも、牛込憲兵隊の呼び出しのときはまだいい、お茶が出てきて、向こうも丁寧な言葉つかって言うけども。簡閲点呼というのがあるんですね。その日一日は大元帥のもとに入って、一日だけ兵隊になるんです。ぜんぜん待遇が違う。憲兵の態度が。杉並小学校の校庭二千人以上集まって、点呼司令官が、連隊区司令官ですが、「本日はご苦労であった、解散!」と号令かける。すると、そこに小さな紙もってくる。と、「ちょっと待った、丸山シンダンというの、この中にいるか、いたら手を挙げろ」ってね、「お前だけ残って、あとは解散!」。しょうがないから、ぼくは連隊区司令官のところへ行くと、運動場の隅へ行けという。で、そこへ行くと、牛込憲兵隊がいるわけですよ。そのときは待遇がまったく違う。それは統帥権のもとに入っているからですよ。こっちは二等兵になるわけでしょ、向こうは憲兵だからずっと上だ。「お前はこの頃どんな本を読んでいるんだ」ガラッと態度が違う。」(自由 同上pp.89-93)
「(「先生のお話を聞いていますと、おばあさんやお母さんからの幼児の、子供の頃の宗教的環境といいますか、教育的環境が先生の意識の底に……」という問いに答えて)大きいですね。大きくなってバイブルを読んで感応するところがあるわけです、キリスト教徒にはならないですけれど。また普段南原先生を見ているとか、いろいろなことが。そうすると、もしこの目に見えない何者かを信じなければ、あの時代に、ルッテルじゃないけれど、「我ここに立つ」という勇気は出てこないんじゃないか。周りがみんな敵になっちゃっても、「我ここに立つ」。わたしはこれ以外にしかたがない。ヴェーバーも引用しているけれど、周りが全部非で、自分はここに立っている、いくら考えてもこれ以外やりようがない。満天下を敵として、神様のバックがなければできないですよ。総転向の時代でしょう。神様でなくてもいいんだ、何かそういう眼に見えないものを信じなければ、目に見えるものに引きずられる。それが多数であろうと、世論であろうと。目に見えるこの世の力に人間というのは弱いものだという、抜きがたい僕の戦中体験があったわけです。
 それから、マルクス主義者の非転向はほとんど獄中組でしょう。あれはつまり、世の中との接触がないから頑張れたの。一種の自然法なんだ。「我ここに立つ」で、みんな獄中にいたからできるのであって、毎日〔外界と〕接触していたら、ああはいかない。あれは「歴史の必然性」というのが信仰なんだ。歴史は必ずこういう方向に進むということ、それ自身が信仰なんだ。マルクス主義の歴史観からの、資本主義社会の行く末に対する信仰があったからなんだ。だから最後に自分を支えるものは、神様じゃなくてもいいんですね。どうしてもそういう考えになっちゃう。」(手帖52 「丸山眞男先生を囲む会」1988.6.19.pp.44-45)