被爆者は私の教師

2007.06.05

4月23日に広島原爆被爆者援護事業団理事長兼広島原爆養護ホーム倉掛のぞみ園園長の鎌田七男氏にインタビューを行った。鎌田氏は、1962年から広島大学原爆放射能医学研究所(原医研。前身を含む)に勤務、1997年から1999年まで原医研所長を務められた。おもな著書としては、共著『爆心地 生と死の40年』、翻訳主宰『DS86線量推定』、共同編集『原爆放射線の人体影響1992』、そして平和学習用教材としてお作りになった『広島のおばあちゃん』などがある。当方としては、鎌田氏の被爆者とのかかわり、平和観、ヒロシマ観の三本柱で質問事項を用意したのだが、以下を読んでいただければお分かりいただけるように、お話しは、最初のテーマだけですでに紙幅を超える内容となった。氏の平和観とヒロシマ観をお聞きし、紹介することについては、また他日を期したいと思う。ちなみに、文中でインタビュー者の質問発言が括弧内の形で現れるが、これは、鎌田氏の発言はもちろんのこと、そのすばらしい人柄についても感じていただけたら、という期待を込めた一工夫として受けとめていただきたい(なお、文中の表現として文部省及び厚生省に統一していることをお断りしておく)。

<被爆者の染色体研究への没頭>

私が原爆放射能医学研究を仕事として選択した動機といえば、直る病気を扱うか、治らない病気を扱うかという選択肢の中で、「治らない病気を直るようにする」という若気の至り。また、検査の結果がすぐ出るものでないと気性に合わない。そこで白血病を選んだ。「なぜ原爆症を?」という点に関していえば、インターンの時は外科医になるつもりだったが、手術時の手洗いを繰り返していると手にかぶれが出て、これではだめだと思って、方向転換を模索していた矢先に、先輩から、研究所ができて入院と外来をやるからこないかと誘いがあった。それが直接のきっかけだった。原爆症ということは、はじめの自分のチョイスには入っていなかったけれども、オファーがあって応じたということ。

1962年4月に研究所に入った当初はとにかく忙しかった。採用されたときは無給の副手だったが、1ヶ月経って有給の助手採用になったのはラッキーだった。夜中の12時頃まで仕事、仮眠をとった後朝5時半から仕事。2ヶ月で慣れてきたけれども、これではいかんと友人と二人で洋書を読み始めた。2時頃まで。だから当時は寝る時間は4時間足らず。外来と研究が続いた。しかし、やめようとは思わなかった。ただの一度もない。目の前のことをどう解決するかで一所懸命だったし、研究が面白くて、面白くてたまらなかった。

被爆者の染色体を調べるというのが最初の仕事。人間の染色体を扱う研究は、病気のレベルでは何処もやっていなかった。はじめはうまくいかなかったが、同年10月20日頃に慢性骨髄白血病の人に染色体異常があることが分かった。11月に長崎で教授が報告するとき、その研究成果を持って行って発表した。それが最初の被爆者の染色体に関する発表です。つまり、研究所に入って半年後に、目に見えるような結果を出すことができたのは、その後の研究に弾みをつける結果となった。

原医研の時代はずっと染色体とのつきあいだった。38年の間に全部で17655例の染色体を扱った。その内の3339例が白血病関連だった。ほかの血液関連の病気が全部で1万件。同時に遺伝子診断もやった。3分の2の症例については、検査後に残った骨髄を凍結細胞、DNAとして保存しており、今でも使われている。コンピューターにはすべてのデータを入れている。ID、染色体番号、登録年月日、被爆の有無、病気診断名、大学病院内のものかほかの病院(日赤、呉国立など)から送られてきたものか、染色体の形なんかも全部。印刷でデータを打ち出すと、合計2冊にはなる量だ。ここまでやる人間はいないだろう。研究者レベルでこれほどの染色体解析をやったものはいないと思う。今もって。業者はお金をもらってやるけれど。

今日では、大学レベル、研究者レベルで染色体をやる人はいなくなっている。全部業者任せ。それは手間暇がかかるし、時間もないから。だから現在SRLやBMLなどの大きな臨床検査会社があり、そこへ出してしまう。大学でさえそこに頼んでいる。何をかいわんやの状況にある。(業者に任せて有意な結果は得られるのですか?)ミニマムな結果でしょう。自分の場合、一人に対し、40個の細胞の分裂を見ていたが、業者は20個だから、異常のバリエーションがあった場合に一部しか取り出してこないということになる。代表的な染色体異常は拾ってくるでしょう。しかし、ほかは置き去りにしてくるわけだから、病気の本体そのものを見ようとした場合、決して良いことではないと思う。

原医研時代には、原爆関係の二つ大きなプロジェクトをやっている。一つは「近距離生存者に関する総合医学的研究」だ。72年発足。研究報告番号がずっと論文になっているので、73年から今29になっている(リタイアしてから3つ発表)。今度発表するのが30本目か。もう一つのプロジェクトは、「造血器腫瘍細胞の細胞遺伝学的研究及び分子医学的研究」ということで、これは染色体と遺伝子を両方調べるものだ。この研究にかかわる論文が全部で81本になっている。私単独のものとグループでやったものと両方が入っている。大学院生が入ってきて、研究テーマを渡して一緒にやったというのもある。

医学研究は金がかかるので、お金を取ってくるのが大変。成果を出して、その成果を基にしてまた新たな研究費を取ってくる。若い大学院生はお金を取ってくることができないから、独立して研究できない。必ず上司について指導を受けながらやっていくということになる。そこらは文系とは違う。研究助成として、癌特別研究とか、国際癌とか、総合研究とか、試験研究とか、厚生省研究とか、いろいろといただきながら、放射線の研究と癌の研究をやった。だから二つのプロジェクトがうまく遂行することができた。とてもありがたかった。中央の方でも、ひいきにしてくださる先生がおられたりして、ありがたい思いをした。私はみなさんの税金を研究に使わせていただいたので、退官してからも社会に還元しなければいけないということで、今も一所懸命やっている。

<原爆医療研究に対する国の姿勢>

(国としては、原爆医療に対して基本的に積極的に関与し、助成するという姿勢はあったのですか?)ありました。原爆被爆者の特別事業ということで。昭和45年頃から。(原爆症認定に対してはきわめて厳しい姿勢なのに、研究そのものに対しては別扱いだったということですか?研究そのものに対しては積極的に助成するということだったわけでしょうか?)私の場合のお金の出所は文部省。学問的価値に対して評価した。厚生省は、議員、国民に対する言い訳というか、質問があったときに「ちゃんとやっている」といえればいい。だから金額が全然違う。時期に関しても、同じ交付でも文部省は、5月には採択、申請すれば7月から使える。正式に来るのは9月ぐらいから。ところが厚生省は、金額が非常に少ないうえ、1月に来れば良いぐらい。それからマウスで実験なんてできるわけがない。しかも3月には報告書を出さなければいけないわけだから。ご承知のとおり、原爆認定は全部厚生省の所管。原医研としてやっているのはあくまでも研究で、これを所管するのは文部省。(それは興味深いことですね?)あなたの問題意識は分かるが、文部省と厚生省との間ではほとんど連絡がないということ。

さらに込み入ってくるのは、病院は厚生省の管轄ということ。同じ教授で小児科診療ということであれば、そこは厚生省レベルの網がかかってくる。しかし同じ教授の研究費については文部省の網ということ。科学研究費でも、厚生省と文部省のと二つがある。厚生省の方は、原爆に関しては重松班というのが昭和56年からあって、地元研究者に研究費を渡していた。これは、昭和55年に重松先生が放影研の理事長として来られた時の手みやげ。地元研究者との交流ということでとってこられた。交流と同時に研究分もあったが、金額は非常に少なかった。長崎と広島の原医研とか医学部の人たちは何十人といるわけだから。放影研は厚生省管轄。(文部省と厚生省とのスタンスが違うというのは非常に面白いことですね。先生はもっぱら文部省の方からの研究助成だったということですか?)そのとおり。文部省には、被爆者特別研究助成というのが、平成18年までという時限であった(平成8年に、10年ぐらいの期限にしなければならないという達しが来た)。私は平成12年に広島大学を辞職したが、今は文部省を含め、国からは何の被爆者用の研究助成もなくなった。しかし、くれぐれも厚生省と文部省とは違うということだけはふまえておいてほしい。(国の原爆症に対する冷たい姿勢は、文部省の助成制度にまで介入・干渉するかと思っていたのですが、そういうことはなかったということですね?)文部省は何も注文をつけるようなことは言わなかった。

<放射線影響研究所(放影研)>

放影研は、プロジェクト本位で成り立っており、厚生省がいう仕事をしなければならない。そうしないと、プロジェクトを止められるわけだから。たまたま被爆二世の問題に関しては、地元の強い要望があり、放影研も協力せざるを得ないということで厚生省も認めた。しかしアメリカの方はそれを認めていない。被爆二世に関する研究費用は、すべて日本側が負担している。アメリカはそんなに人がよくない。アメリカ側がやりたいのは被爆者のどれだけに癌が出るかということであって、それ以外のことについては何の興味もない。放影研の運営費用は、アメリカと日本が50%ずつ負担することになっているが、実質からいうと50対50ではなくなっている。以前は50億ドル(アメリカと日本が25億ドルずつ負担)の総予算だったが、今は総額が減ってきており、仮に今の予算規模が40億ドルとすれば、日本が25億ドル、アメリカが15億ドルということだが、実際にはアメリカは14億ドルしか出さないために、厚生省がさらに1億ドル余計に負担していることになっているはずだ。(放影研が危機感を持っているのは、被爆一世がなくなってしまった場合には、アメリカが関心を失い、放影研の存続自体が危機に瀕すると焦っているのではないでしょうか?)その気配は多少みられる。私の計算では、2035年に被爆者が1万人を切る。2035〜40年でゼロになる。だからその後どうするかは、2025〜30年までには決めておかなければならない。被爆医療関連施設懇話会(5月24日第1回会合開催)で、プロジェクトごとに日米協力の可能性を考えていけば良いではないか、というのが私の提案の趣旨だった。アメリカも興味があるプロジェクト(例えば成人調査)については、双方が金を出し合う。日本側だけが必要と考えるプロジェクトについては、日本側だけが負担する。その方が、事実と建前が違う現実の矛盾を解消するように思った。でも反応はなかった。(放影研のアプローチを見ていると、広島として共感を育みにくいと思いますし、国民的事業として受け入れられないのでは?)それは無理だろう。懇談会の中間報告まで出て、放影研が比治山から降りてきてくださいということが、地元のコンセンサスというかたちで、放影研の上級委員会に出されたわけだけれども、それがどう扱われたかといえば、上級委員会が問題にするかもしれないし、そうでないかもしれない、ということだった。どうも懇談会の趣旨が違うらしい。何を何処までやるかが明確ではない。原医研とか、原爆病院とか、ほかの施設のことも議論する、と言う。原爆医療関連施設全部をひっくるめて、全体像としてどう位置づけていくかということならば、それはそれで考えていくべきことだけれども、当初の話は放影研を広島大跡地に移してほしいということだった。これではいったい何をこの懇談会はやろうとしているのか分からない。みんな集まって話すのも良いが、何を何処までしたいのか、落としどころを考えないと話しようがない。被爆二世は二世で、懇談会のあり方については、別の期待感がある。そうなれば、放影研だけの問題ではない。いずれにせよ、懇談会だから何を言っても良いということなのかと、興ざめしている。(かなりきな臭いことを考えているのでは?)たとえば?(原爆医療関連施設懇話会の設置目的-末尾参照-を読むと、核攻撃を伴う戦争に巻き込まれていくことを想定して、戦争計画の一環として原爆関連の諸施設が生き残りを図ろうとしているのではと勘ぐってしまいましたけれども、そういうことではないのでしょうか?)私はそういうふうなところまでは考えていない。被爆一世の医療面、彼らが苦しい思いをして残した財産をどのように残していくか、そして次の展開にどう持って行くかというレベルで協力を、ということだと受けとめている。核戦争の時に役立つためということであれば、予防研究については緊急ひばく医療体制というのがあり、東では千葉の放射線医学研究所、西では広島大学と位置づけられている機関がある。それらとの絡みで考えていくというのであれば、そういう懸念は大きく出てくる。しかし地元被爆者関連ということにこだわるのであれば、国は入って来にくい。(広島大学は法人化しているけれども、国の予算を確保していくということであれば、放影研としては、他の施設と一緒になって、戦争協力の中で存在理由を確保するという発想が起こってくるのではありませんか?)それは考えられない。そこまで放影研が手をひろげられるだろうか。地元の大学を抱き込む形で核戦争に協力というのは、よほど脱皮しない限り、放影研の能力を超えている。脱皮すれば別ですけど。(脱皮することまで考えたのではないですか?広島の存在を自己否定することを考えているのではないかということが、設置目的には書いてあったと受けとめたのですけれども。)懇話会設置目的には確かにそういう趣旨のことが書いてあったが、そこまで本気で考えているとは思えない。(彼らの条件・能力がそこまで整っていないということですか?)そうです。核戦争があったとしても、被害者を手当てすることすら放影研はやってきませんでしたからね。(そこまでやると言うことによって新たな金を引き出そうとしている、ということは考えられませんか?防衛省も絡ませることは?)放影研は、そのような目的のために防衛省や厚生省が期待できるほどの中身を持っていない。疫学的調査はやっている。しかし、病気そのものについての治療研究はやっていない。一口で言って、被爆者の一生涯でどのような病気が出たかということを調べれば良いわけで、病気を治そうという発想はまったくない。

<被爆者は教育者−その1−>

原医研での印象のある出来事として、被爆者の骨髄細胞に染色体異常があるのではないかという研究をしていた昭和45年に、35名ほどについて調べて被爆者の骨髄細胞に染色体異常はない、という結論の研究をまとめようとしていた矢先に、ある被爆者の骨髄の染色体を見たら異常がワアッとあった。爆心から700mぐらいのところで被爆したMさんという人だった。そこで、今までみつからなかったのはなぜだということで、被爆距離を調べていった。その結果、1.1kmから2kmまでの範囲で被爆した者を被爆者として調べていたことが明らかになった。その時は、がちんと頭が殴られた感じがした。放射線の本当の影響を調べようと思うのであれば、近距離被爆の人を調べなければ何も分からないということだった。それ以来、すべての研究を近距離被爆の人に向けた。1km以遠で被爆した人は見向きもしなかった。放射線の影響というのは、本当にたくさんの線量を受けていないと分からない、ということをMさんが教えてくれたわけだ。

そうこうしているうちに近距離被爆者のプロジェクトがスタートし、昭和42年から45年にかけて、広島大学、NHK、広島市の三者が協力して爆心地の復元調査を行った。その結果、爆心地から1km以内に78名の生存者がいることが分かった。昭和46年に始まったプロジェクトで、その78名の医学的なことを私が担当した。いろいろな出会いがあり、研究をさせてもらえた。被爆者に対する私のいい加減な認識を直してくれたのは、被爆者のMさんだった。だから、被爆者は私にとって大きな教育者、ということになる。どの被爆者の方もいろいろなことを教えてくれた。

<被爆者は教育者−その2−>

被爆者は、私に「入市被爆」ということの意味も教えてくれた。それはどういうことかというと、近距離被爆でないと研究対象にならないという思いこみから、長い間、入市被爆者については目もくれなかったのだが、2年前の6月に、ある公的機関より依頼があり、「2km以遠で被爆しているのに、なぜ、脱毛があるのか」という事について、私の考えを述べるようにいわれた。それから勉強した。原本に戻って。そうしたら、私が考えている「入市被爆者」という概念がまったく間違っていることが分かった。入市者には何ら放射線の影響がないと考えさせられていたのだけれども、当時の資料に立ち戻って読んでみると、入市者にすごい被爆の量があるように書いているのを見出した。

たとえばこのような記載がある。当時の衛生速報に書いてあるのだが、「原爆当日広島市に在住せず、8月6日以後広島市において作業に従事したるもの」云々と書いてあって、彼らにおいて白血球の2300〜5000への減少が136名中89名において認められたと書いている。そして、そういう現象を呈した者に関しては、おおむね8月6日の爆撃後直ちに後始末のために爆心地500m以内に入った者に顕著で、滞在日数の長いものに影響が著しく、爆心地から遠距離にいた者は影響の程度が低いと書いてある。ところが物理の専門家は影響がないといい、『DS86線量推定』でも影響はないと書いている。しかし、当時の原本に当たった結果、一般に言われているのと違う結論が出たので、レクチャーはしないといったんは断った。しかし、依頼してきた担当官から、学問的にあるがままに話してくれればいい、と言ってきたので、それなら話すということで彼らに話した。私は、いくつかの資料に基づいて科学的な根拠のある数字を示した。入市者は被爆しているということを明確に話した。彼らはよく分かった、と言った。彼らもうすうすは感じていたのだと思う。

この件でも入市者に対して目を向けさせてもらった。それまでにも入市被爆者の白血病ということで調査をしていたわけで、入市被爆者の行動も扱っていたので、つぶさに調べてみると、市内の何処で行動していたということが分かるわけだ。だから昨年には長崎での研究会で、入市被爆者の白血病が普通の人より3.4倍も高いということを発表した。今年の研究会では、その理由は、少なくとも一部の人には0.5シーベルト以上の放射線を浴びた証拠が白血球や染色体異常で分かるということを明らかにするつもりである。

染色体異常に関して、なぜ今の時点で分かるか。私が研究をしている500m以内被曝78名の中には、地下壕とか日本銀行、富国銀行などの地下室にいた人が入っている。その人たちについては、直接被爆はあり得ない。しかし、爆心から500m以内にいた人たちだから、彼らを調べると、 0.9, 1.9, 3.3シーベルトなどの量を被曝していた。それは中心から逃げ出したときの二次放射線。初期放射線は、0.3秒ぐらいで消えてしまうから、後は残留放射線というわけだ。だから、白血球の数が3000以下まで減っていれば、0.5シーベルト以上の放射線を浴びたということは、放射線関係者の誰にでも分かる。今のは一例だ。ほかにも、広島市の配給課長が当日1kmぐらいのところに来て仕事をしていたのだが、その人の白血球が3200まで減っている。1ヶ月後には5800まで回復した。あるいは、調査のために京都大学の6人が来ていたが、その人たちの白血球数を調べたら、やはり3人において減っている。このような資料はいくらでもある。

それなのになぜ、物理の専門家は影響がないと言っているのか。『DS86線量推定』を私達が訳したのだが、その本の残留放射線に関する部分の何処を読んでも、マンガン、アルミニウム、ナトリウム、コバルト、スカンジウムという5つの土の構成要素の放射化が500mではどれぐらい、700mではどれぐらい、1kmではゼロとかとなっており、土の成分にしか着目していない。これでは、ネヴァダの実験と同じ結果しか得られない。しかし当時の広島では社会が営まれ、家財道具など金物がすべて放射化していた。人がいっぱいおり、電柱が30mおきにあり、倒れたすべてのものが放射化していた。そういうものの放射化ということは、『DS86線量推定』では一切書いていない。それは、ネヴァダと同じことしか想定していないからだ。初期放射線に関するアメリカのデータは立派なものだ。しかし残留放射線に関しては、砂漠としての想定しかしていない。ところが現実は違う。人間もすごく放射化していた。考えられないぐらいに放射化し、焦げた人間がごろごろしていた。その死体を運び、荼毘に付す。また、市内に入って家族を捜し、放射化した金具を手に取った可能性があり、疲れて30分も座ったり、横になったりすれば、すごい線量が当たることにもなる。だから入市すれば脱毛が起こるのは、あってもよいことだ。
(先生は入市被爆者の問題を2年前にはじめて認識したということですか?染色体異常の研究では入市被爆者は対象ではなかったということですか?)私はあくまでも染色体異常が起きるのは近距離被爆の人だけ、と思っていた。(2年前まではDS86の結果は正しいと思っておられたということですか?)完全に正しいと思っていた。残留放射線に関しては、アメリカ側がいうようにせいぜい20ラードと考えていた。(先生がそう思っておられたということは、ましてやほかの研究者においておや、ということですね?)そういうこと。ある会議で、入市被爆者の線量を出していなかったのは、我々学者の誤りだと話した。(でも、被爆者の方たちは前から言っておられましたよね?科学的にそうだ、といわれたのは先生がはじめて、ということですか?)そうです。

入市してきた人に白血病が多いという問題は以前からうすうす感じていたが、2年前からしっかりした形で研究をまとめた。(原医研をやめられてから、ということですか?)そうです。というのは、コンピューターに資料が全部はいっているから、入市被爆の症例をすぐにでも選出してくることができる。入市関連は全部で113例ある。白血病になったのは、観察期間が10年以内5名、10〜19年が6名、20〜29年が15名、30年以上が3名いる。だから、偶然に白血病になった人を「あなたは入市被爆の白血病」といったわけではない。ずっと15年間とか、30年間観察している間に白血病になった入市被爆者を見ているわけ。彼らが白血病になる前から見てきている。

資料を絞ってみることによって、入市被爆者の場合も染色体異常があることが確認できたということだ。(その研究当時には気がつかなかったのですか?)入市被爆者の場合は発生頻度が高いとはうすうす感じていたけれども、分母自体が曖昧だった。ところが1967年から原医研の個人別のデータ・システムが完成し、29万人の被爆者の資料をコンピューターに入力した。1970年から1989年までの約20年間の分子(白血病患者)を全部キャッチしており、分母(入市被爆者集団)については、29万人の中で8月6日に入市したことを確認できる人がどれぐらいあるかということで調べ出すことができたわけ。明らかに白血病になる人の割合が高い。前から不思議だと思っていたことを、整理してやり直して、コンピューターからデータを出して科学的に証明したということ。

今回は別の角度で、原本の記載に戻ってみた。東京大学の記録、京都大学の記録、軍医学校の記録等があるわけだから、そういうのをつぶさに読んでいったら、どう考えも0.5シーベルト以上浴びていると言える症例がいくつかあるわけ。全員が受けたとは、私は決して言っていない。入ってきた一部の人には明確にこういう例があった、と今回は明らかにしようとしているわけだ。そういう人が白血病になった可能性がある。入市被爆者の放射線関連の白血病と言わざるを得ない。

今までの認定では、症状があろうとなかろうと、入市という時点でほとんどはねられてきた。(最近の一連の判決は、先生の立証によって影響を受けて原爆症認定という判断に達しているということですか?) そのように思われる。特に大阪の裁判の判決を読んでいると、「こういう論文もある」という言い方をしている。私が指摘したことを指している、というくだりがある。(先生の役割はものすごいですね。あれだけ頑迷だった厚労省の立場を突き崩したということだから)今回はさらに、白血病になる確率が高いということだけでなく、線量もこうだ、ということを示すことになる。

<のぞみ園園長としての立場>

(先生は、被爆者を患者という目で見ていた立場から、今は「のぞみ園」という被爆者を丸ごと包み込む立場になっていますね。それは、先生にとってごく自然なことですか?) そのとおり。ごく自然なことです。月給が原医研時代に比べて3分の一になったわけだけれど、私は気持ちの上ですごく満たされている。研究をやっていた時はいろいろな税金をいただいてやってきた。その何分の一でも社会にお返しできれば、気持ちは十分満足できる。。(原医研の時も被爆者が対象、今も被爆者、ということに違和感とか「もういいじゃないか」という気持ちにはならなかったですか?)それはない。近距離被曝の78名の被爆者が年を召されていきますね。私も年をとっていくんですよ。お互い様。その当時は15歳前後離れていて、僕は若いドクターだったかもしれないが、今は年取ったら、15歳なんて問題にならない。今78名の人の内、存命の方が22名、市内や県内におられるけれども、病気にかかったときなんかに電話が来る。電話越しに、足あげて、下ろして、そういう運動をやって下さいということを言っている。

私ものぞみ園に移った平成13年の時にはずいぶん足が悪くなった。車の運転ができなくなった。それでバスで通った。ここに上がってくるのに、途中で1回休まないとどうしても上がってこられない。足がおかしくなった。もう足を鍛えるしかないということで、今は2日に1度ジムに行っている。もう1000回行ったという証明をもらった。(何事にも真剣に取り組まれるんですね?) ここで仕事をやって、2日に1回は定刻に帰る。職員が気兼ねしないようにと思って。そうしないと、職員が帰りにくい。しかし、そうでない時は誰もいなくなるまで仕事をやっている。でないと、仕事がはかどらないからね。ただそれでも8時50分ぐらいまでには終わるようにしている。定刻に帰る日にジムに寄る。家に帰るのは、大体8時50分。9時のニュースを見るように帰っている。ジムに通ったおかげで、今は、階段を見たら、自然に2段ずつ歩く。こういうわけで退屈していない。被爆者を見守ることについて退屈していない。

(ここにおられる被爆者の方は先生にとって患者ではないわけですよね?) 彼等は同僚ですから。あるとき、IPPNWの会議でいろいろな人が来たときに、「お爺ちゃん、おばあちゃんと一緒に暮らしています」と私が自己紹介したら、ある人が私に「住み込んでいるのか?」と聞かれたことがある。朝8時に来て、300名の顔を見て回ることにしている(毎日ではないが、週に1回は見ることにしている)。今朝も検食があって、おばあちゃんたちの食事を食べる様子を見て回った。「どう、食べてる?」「食べれた?」「おいしい?」と尋ねながらね。1フローアに120人いるけれども、各階を見て回る。その後に自分の席に戻って検食した。(300人おられる方は、皆さんお元気ですか?) 寝たきりが2割。認知症が75%。正確に言うと、25%が認知症で測定不能。25%が重症。後の25%が介護するけれど、日によって認知症の程度が違う。正常な人は1割いるかいないかぐらいか。 (全部で事業団の収容数は500人で、入所待機者は1337名だそうですが、その数は増えつつあるのですか、それとも減っているのですか?) どんどん増えている。(入所決定の基準はどうなっていますか?) あります。事業団は国が作って、県と市が管理することになっている。入所決定権は県と市が持っている。市内居住者について言えば、市の保健部が順番がきたと言っていくことになっている。先頭の30名ぐらいの番号に入ったら、重症度を加味して、自宅で介護をすることがむずかしい人を優先的に入れることとなっている。したがって、のぞみ園へは重症度の高い人が来ることになる。園として入所を決定する権利はない。受け入れるだけ。(これだけ待ち数が多いのに、施設が増えにくいというのはどうしようもない、ということですか?)第3番目の100人規模の特養施設が矢野の方に作られたけれど、全然待機人数は減っていない。(結局、被爆者は年々減るが、高齢化とともに施設を利用することの必要な人は増えているということですね?) そう。特にこの2,3年はすごいスピードで増えてくるだろう。入園できない人は、普通の施設に行って介護を受けている。被爆者は食費・居住費を払うけれども、他のものについては市と県が払うことになっている。

(コストの面でここと他の施設では違うということですか?) コストは同じ。(ほかのところからこの施設へ来ることにはどういうメリットがあるのですか?) 施設によっては、おしめ代をとるところもあり、雑費が要らなくなるということかな。行政的にいえば、ここにいる人の条件がよくて、他の施設にいる人は条件が悪い、ということではない。(でも、普通の施設からこちらの施設に移りたいという人はいるわけですね?) います。待機者の中の全部ではないけれども、5分の1から3分の1の人たちはどこか他の施設に入っているだろう。その調査はまだ公表されていない。待機者の中で、自宅にいる人が何人で、病院にいる人が何人、どこかの施設にいる人が何人、というようなことも、こちらには通報が来ていない。例えば、「次の10名の人が対象になる」ということが直近になってくる。その段階で、その人たちがどこの病院から来るのか、というようなことが分かる。自宅から直接というケースは10分の1もない。(結構明朗ではない感じですね?入所基準とかはどうなっているのですか?) いや、それは明朗で、明らかに順番がある。(それは、当事者、家族などが納得できる方法・基準で情報が開示されているのですか?) 個々の人に、「あなたは入所待機の番号が50番目になりました」というような情報が伝わっているかどうかは分からない。こちらには、300人ぐらいの待機者のリストが年に1回回されてくるけれども。入所認定は県と市がやる。今は3年から3年半待ちの状況。

(国、社会に求められているということで、認定の意味、被爆者の正しい理解、入市の意味、施設のあり方などについて感じておられることをお話し願えますか?) 入市の意味ということに関して言えば、入市者の健康障害は「分からないから影響がない」、というのは明らかに飛躍がある。「分からない」ということと「影響がない」ということは別ごと。そこは国にもっと真剣に取り組んでもらわないといけない。昭和55年に原爆被害者対策基本問題懇談会が、被爆者にどう行政的に立ち向かったらいいか、ということについて厚生大臣に「意見」を提出した。そこには、放射線の影響のある方には手厚くすると書いているが、何㌔というようなことは書いていない。影響のある人はしっかり治療しなさいということだった。十分な研究体制も作りなさい、ということだった。それなのに厚生省が2㌔で線を引いてしまっている。そこをもう一度議論してほしいということだ。

(被爆者に対する国、県、市などの取り組みを率直にどう考えておられますか?)市は国に対して遠慮している。こういうことがある。この間、何かをしなければいけない、と私が言ったら、市の方からは、まず市でそれに対して援護して、2,3年実績を積んでから国に要求しましょう、という答えが返ってきた。被爆者に対する援護事業がいろいろあるわけだけれども、それをまず市がやって2,3年経ったら国に認めさせるというのが今までの流れ。だから、いきなり国に要求して、どうこうということはやっていない。これはある種の遠慮だ。

また、被爆者に対しての施策は、県、市が直接地元でやらなければならないけれども、訴訟になって、国が反対することに対して、市は面と向かってもう控訴すまい、ということが言えないところがある。言いたいのだけれども、市は国の命令に従わなければいけないから、思い通りのことはできない。原爆のいろいろな施策、事業についても、国に遠慮する面がある。だから私はいつも言うのだが、言うべきことは言う、と。これは誰が考えてもこうあった方がいい、ということは、現場から現状を市、県に伝える義務は我々にあるのだ、と。一番困るのは利用者だから。

事業団の職員は180人近くいるが、こののぞみ園にいるのは120人ぐらい。歓迎会の時にテーブル毎にみんなの顔写真をとって、全員の顔を覚えた。その後入園者についても全員写真を撮ってもらって覚えた。そうしないと何か起こったときに顔が思い浮かばない。他の2施設の分についても作ってもらっている。神田山やすらぎ園と舟入むつみ園にも年に数回は行っている。他の2施設は100人ずつだから、顔を覚えるのはそれほどむずかしいことではない。

園長になったはじめの頃は、給食の係の人に「豚に食わせるつもりで料理しちょるんか」と怒ったことがある。刻み方が大きすぎたり、異物が入っていたり、4年前には28件ものそういうケースがあった。昨年度分を3月で締めたのだが、結果は8件で、その中の5件が髪の毛だった。多くの問題は注意をはらい、心を込めて料理するということで解決するのだが、髪の毛の問題は防御の仕方がきわめて難しい。

(そういうことは全部先生のところに報告が上がるようなシステムになっているのですか?)ええ。給食に関して一番気をつけているのは安全ということ。食中毒は絶対にあってはならないこと。だから私は、食事に関する資料は全部私のところへ持ってきてもらい、チェックしている。配膳時の温度やご飯がおいしいかどうかもチェックする。おばあちゃんたちがミキサー食を食べない時があった。係に味見しているかと聞くと、していないという。いろいろ調べて分ったことだけれど、セロリなどはミキサーにすると鼻につんと来る。果物だったら、ミカン類は酸味が強くなる。ミキサー食に調理師が関心を持っていなかったということ。

職員の健康診断のやり方も変えた。大事なのは心と肥満。1ヶ月に1回「職員の皆様へ」という手紙を、休職者を含め、送っている。もう60回になった。休職者にも送るのは、復帰してすぐ仕事に慣れ、浦島太郎にならないためです。常に職員の協力が大事だから、職員の心構えなどについても話している。おばあちゃんたちに何か起こったとき(緊急時)に、15分以内に対処の仕方について打ち合わせることが大切だ。去年4月から、毎朝9時前に、各部署の責任者15人に集まってもらって、2分間の打ち合わせをすることにしている。非常に効果がある。人間が絡むことについては間違いがあってはならないから。

被爆医療関連施設懇話会(5月24日開催)で文書で配布された会設置目的には、次のようにある。

「広島県内を含め被爆者人口は年々減少してきており、現在広島県の被爆者は  6万人台となっている。がん死亡率は2020年から2030年にかけてピークに達すると見込まれるなど、今後の被爆者の減少に伴い、被爆医療の推進が厳しいものとなって行くことが予想される。
このような状況を考えると、将来の被爆医療関連施設は従来の被爆者を対象とした研究、臨床のみならず、幅広く放射線の健康影響につき研究を行う責務があると考えられる。例えば放射線影響研究所などの現在までに蓄積された膨大な研究データを活用し、今後起こり得る原子力発電所などの事故ならびに核兵器を使用したテロ・戦争の被害に速やかに対応できるノウハウを提供することも視野に入れた新たな取り組みを目指すべく、今後一層の被爆医療関連施設の連携が求められている。
ついては、それら施設の関係者が一堂に会し、放射線影響研究所の将来構想、被爆医療関連施設間の連携、蓄積された研究データの活用など、被爆医療関連施設の将来展望について協議する「懇話会」を設置するものである。」