1.判決
請求棄却。
2.取消事由
(1)本願明細書と本願の優先権主張の基礎となつている米国出願明細書とを対比すれば,本願明細書中の「臭素」の記載は,米国出願明細書中の「boron」の語を,正しくは「硼素」と翻訳すべきものを,英語「bromine」の訳語に該る「臭素」と誤訳したことに基づくことが明らかである。このような場合には,本願明細書中の「臭素」の記載を「硼素」と補正することは,明細書の要旨を変更するものではなく,単なる誤記を訂正するものとして,許されるべきものである。
(2)仮に(1)の主張が認められないとしても,本願明細書を当業者が読めば,そこに「臭素」と記載されているものは全て「硼素」の誤記であることを容易に認識できるものであるから,本件補正は単に誤記を訂正するものとして許されるべきである。
3.判断
「一 請求の原因一ないし四の事実は当事者間に争いがない。
二 そこで,審決にこれを取り消すべき違法の点が存するかどうかについて判断す
る。
1 Xの取消事由の主張1について
パリ条約は,工業所有権の保護,規制について属地主義を採用し,各国特許独立の原則の上に立つものであるから,同条約に基づく優先権を主張しての特許出願であつても,わが国における特許の成否は,国内法による出願書類(願書並びにこれに添付される明細書及び必要な図面)によるべきことはいうまでもなく,右の出願に際して特許法第43条第2項の規定により提出される第1国出願の明細書は,たとえそれが願書の提出と同時に提出されたとしても,わが国における出願手続上は,いわゆる優先権証明書として優先権の有無を判断するための資料としての効力を有するものにすぎず,この提出をもつて出願人に対しわが国において特許を得ようとしている発明の内容を開示させるとの機能は法制上全く予定されていないのであるから,優先権証明書として提出された第1国出願の明細書がわが国における出願書類としての明細書としての効力を有し,あるいは,これを補足する性質を有するものでないことは明らかである(当庁昭和52年(行ケ)第46号昭和53年6月27日言渡判決参照)。
してみれば,Xの主張は,結局のところ,わが国での本件特許出願に際して出願人であるXにおいて出願の対象であると主観的に認識していた発明の内容を,本願明細書に開示されたところのものとは別に,明細書以外のものをもつて確認できるところに従つて確定したうえ,両者の間に差異が存する場合には,これを明細書の誤記として補正を許すべきことを主張するものに帰する。しかしながら,特許出願の対象となる発明は,願書に添付した明細書及び図面の記載によつて特定されるものであり,明細書又は図面を補正することによつて,当初出願の対象となつていた発明が別の発明になつてしまうものと認められるときは,その補正が当初出願明細書又は図面の記載自体から誤記であることが明白な事項を訂正する意味での補正である場合のほかは,その補正は明細書の要旨を変更するものとして許されないものといわざるを得ず,このことは,出願人の主観においては,当初から,原出願明細書に記載された発明とは異なる発明について特許を求める意思であつたものであり,そのことが明細書又は図面の記載以外の優先権証明書等の証明によつて認められ得るとしても,同様であるところ,優先権証明書として提出された米国出願明細書の記載により本願明細書中「臭素」とあるのは「硼素」の誤記であることは明瞭であるから,本件補正は許されるべきであるとするXの主張は到底採用することができない。Xは,X主張のように解してもなんらの弊害はなく,また,その方が衡平の原則にもかなう旨をるる主張するが,出願に際して明細書に必要な事項を記載しなかつたものが,その期待していた利益を得られないということは当然であり,その結果第三者が利益を得ることがあつても,それは出願人自らの過誤により招来されたものといえるから,これをもつて不衡平ということもできず,結局,Xの右主張は独自の見解に基づくものとして排斥を免れない。
2 Xの取消事由の主張2について
(一)前示当事者間に争いのない事実及び成立について争いのない甲第2号証の2(本願明細書),同第11号証によれば,本件補正は,本願明細書について,特許請求の範囲の欄における前示のとおりの記載(Xの請求の原因の二参照)中の「臭素」を「硼素」と補正するとともに,発明の詳細な説明の欄及び図面の簡単な説明の欄における次のような文脈において次のとおり用いられた「臭素」の記載計13個所(以下該当部分の引用に際し傍点を付す。)をいずれも「硼素」と補正しようとするものであり,右以外には,本願明細書中に「臭素」の語は用いられておらず,他方,本願明細書中に「硼素」の語は全く用いられていないとの事実を認めることができる。
(1)本願発明がスーパー合金に適用される拡散ボンデイングに係ることを明らかにしたうえ,この分野における従前のろう付けないし拡散ボンデイングの技術水準を叙述する中にあらわれた,
@「或るろう付け動作はもとのろう付け温度より高い再溶融温度を有するろう付けされたジヨイントを与える程度にまでろう付け材と基体との十分な内部合金化を可能にする。例えば臭素の如き元素がろう付け材合金中に含まれると,ろう付け材の融点は下がる。
その後ボンデイング動作中に臭素が迅速に基体中に拡散するとジヨイントの再溶融温度は上昇するがこれは均質な拡散ボンデイングジヨイントを与えない。この種の技法の代表例は第一公知文献に示されている。」(本願明細書4頁8行目ないし同18行目)
A「その後の開発で,ろう付け及び拡散ボンデイングプロセスの特徴が結合されたボンデイング法が研究された。例えば第二公知文献を参照されたい。これらの開発では,臭素,炭素又は珪素の融点低下効果及びこれらの高拡散速度が拡散ボンデイングプロセスにおける界面材として用いられ・・・」(同4頁19行目ないし5頁7行目)
B「これらの開発中に用いられた多くのろう付け用合金の式は比較的簡単な化学式であり従つてスーパー合金を特徴づける強化機構をあまり含んでいないが,接合されるべきベース金属合金に臭素等の融点低下剤を所望の融点を与えるに十分な量だけ添加してなる界面合金を用いたろう付け/拡散ボンデイングの結合した方法が他の者により開発されたことが報告されている。」(同5頁12行目ないし同19行目)
(2)従前技術の説明を終えるに際し,従前の技法によつては結局満足すべき結果が得られなかつたことを叙述する中にあらわれた,
C「種々の方法を所謂高度のスーパー合金に適用することは示唆されている程には簡単ではない。問題の一例として,臭素,珪素,マンガン,ニオビウム,チタン等の示唆されている種々の融点低下剤は事実中間層合金に満足な融点を与えるが,拡散中の有害な相の形成のためにニツケルベーススーパー合金には殆んどが使用できない。」(同6頁2行目ないし同9行目)
(3)従前の技法に対し,本願発明では,「特定の組成の薄い中間層合金が接合されるべき表面間におかれる如き拡散ボンデイングプロセスが述べられる。」(同6頁12行目ないし同14行目)として,先ずその概略を説明するに当たり,中間層合金の組成についての結論を,右結論に至る理由の説明をしないままとりあえず提示する叙述の中にあらわれた,
D「薄い(代表的には0.00127〜0.0127cm)中間層合金は接合されるべき金属の化学式と実質的に対応する化学式で表わされる。但しアルミ,チタン及び炭素は例外であり,又5重量%までの十分な臭素が,金属基体が有害な効果なしにさらされる温度まで中間層合金の融点を下げるために存在する。」(同7頁4行目ないし同10行目)
(4)本願発明を詳細に説明する中で,その「最もクリテイカルな特徴は中間層合金の組成及び特性である。これはベース金属が有害な効果なしにさらされる温度において融けなければならないが,組成及び厚さに関しては,固化がその温度で起り且つ実用的な処理時間内で化学的及び微少構造的均質性が得られるようでなければならない。」(同10頁10行目ないし同16行目)として,本願発明における中間層合金の組成が選ばれるに至つた理由を叙述する中にあらわれた,
E「臭素,珪素,マンガン,ニオビウム,チタン等の種々の融点低下剤が調べられた。これら元素のいくつかの組合せは満足な融点を有する中間層を与える。しかし高度のニツケルベーススーパー合金では,臭素以外のすべてはジヨイント界面に望ましくない安定相を生じる。従つてTLPボンデイングプロセス(本願発明のボンデイングプロセスを指す。―本判決註。)では臭素しか用いられない。融点とその後の均質化の容易さとの間に最適のバランスを得るように臭素含有量が制御される。全体の中間層合金の化学式に関しては,合金は接合されるベース合金に対する化学式に密接に一致するように表わされるが,ただ望ましくない相形成問題のために,アルミ,チタン及び炭素は除外される。」(同10頁17行目ないし同11頁11行目)
(5)本願発明の実施例を説明して,その接合されるニツケルベース合金の組成を叙述する中にあらわれた,
F「TLPボンドが次の公称組成(重量%)の加工したニツケルベース合金の二つの表面間に作られた。15%クロム,18.5%コバルト,3.3%チタン,4.3%アルミ,5%モリブデン,3%臭素,バランス量のニツケルよりなる。」(同11頁17行目ないし同12頁1行目)
G「一つのテストで,加工された合金Aが次の公称組成(重量%)を有する鋳造された合金Bに接合された。14%クロム,4.5%モリブデン,2%ニオビウム,1%チタン,6%アルミ,0.01%臭素,0.08%ジルコン,バランス量のニツケル。」(同13頁1行目ないし同6行目)
(6)図面の簡単な説明として,「ボンデイングの準備が整つたアセンブリ」を図示した第1図を説明する中にあらわれた,
H「第1図は実線で示された臭素の如き容易に拡散しうる材料を含む中間層合金が接合されるべき表面間にはさまれている図,」(同13頁20行目ないし同14頁3行目)
(二)右のとおり,本願明細書によれば,本願発明はニツケル基スーパー合金に対する拡散ボンデイングプロセスを提供するものであつて,種々存する融点低下剤の中から「臭素」を選択して,これを中間層合金の必須の構成成分とすることを発明の眼目の一つとしているものである。しかして,本願明細書における「臭素」の記載中,これを本願発明において融点低下剤として採用された元素を指称するものとして使用されているものは,特許請求の範囲における「臭素」の記載のほか,前示D,E及びHの部分における「臭素」の各記載であつて,これらの間においては,Eの部分が右「臭素」を選択した理由に関するものであり,その余はEの部分に理由が記載されていることを前提として単に「臭素」が用いられることを記述しているにすぎず,また,右6の部分以外には,本願明細書において本願発明が「臭素」を選択したことの理由を開示する部分はないものである。これに対し,本願明細書における「臭素」の記載中,これを合金のろう付けないし拡散ボンデイングの技術分野で従前から融点低下剤として使用されていた元素を指称するものとして使用されているものは,前示@ないしCの部分における「臭素」の各記載であり,また,前示F及びGの部分における「臭素」は,本願発明のプロセスを実施した事例における接合された合金の公称組成成分の一つを指称しているものである。
したがつて,Xの主張するとおりに,本件補正が本願明細書の記載上明らかな誤記を単に訂正するにすぎないものとして許されるということができるためには,当業者において本願明細書の記載に接したときに,本願発明において採用された元素としての「臭素」の記載,とりわけ,右採用の理由を示した前示Eの部分における「臭素」の記載が,正しくは「硼素」とすべきものの誤記であるものと,本願明細書の記載に即して,容易に,しかも,他の任意の元素ではなく「硼素」の誤記であると一義的に認識できるものであることが必要であるというべきである。
(三)そこで,右の観点に立つて,本件補正が本願明細書上自明の誤記を単に訂正するにすぎないものかどうかについて検討する。
成立について争いのない甲第9号証(【A】鑑定書)によれば,臭素は,常温で液状を呈し,沸点が摂氏58.8度と低く揮発性が強く,また,金属研究の分野では合金素地の溶解用薬品として用いられるように,鋼やニツケル合金などを腐食,溶解する作用を強く有するものであつて,このような臭素をニツケル合金中に添加するようなことは技術常識上考えられず,仮にこれを添加する必要があるとしても,その方法は技術的に極めて想定しにくいこと,臭素を含むニツケル合金や,ニツケルと臭素との二元系平衡状態図に関する文献は相当の調査によつても発見できるものではないこと,そのようなことからみて,ニツケル基スーパー合金に対する拡散ボンデイング用中間層合金に添加する融点低下剤として臭素を採用することは,全く技術常識に反するものであると認められる。しかして,前掲甲第2号証の2によれば,本願明細書にも,本願発明が右のとおり技術常識に全く反して臭素を用いたとするならば記載があつて然るべき右臭素の採用の理由や,添加方法の開示等が一切なされていないことが認められる。しかしながら,一般に,発明は従前の技術常識に反する技術を用いるところにも成立しうるものであり,明細書も,出願に係る発明が従前の技術常識に反する技術を採用した点に新規性,進歩性がある旨の記載を欠くことも往々にしてあるから,本願明細書中に,本願発明は,ニツケル基スーパー合金に対する拡散ボンデイング用中間層合金に添加する融点低下剤として臭素を採用した旨の記載があるからといつて,そのことから直ちに,本願明細書に接する当業者が,本願発明において用いるとされている「臭素」の記載が正しくは他のなんらかの成分を記すべきものを誤記したものと認識するものということはできない。
仮に,本願明細書における右「臭素」の記載を右認定の事情から誤記ではないかとの疑念をもつて当業者が本願明細書に接するとしても,本願発明において融点低下剤として添加される「臭素」が正しくは「硼素」とあるべきものの誤記であると,本願明細書の記載に即して一義的に認識することはできないものというほかない。すなわち,前掲甲第9号証によれば,ニツケル基耐熱合金の融点低下剤としては,炭素,けい素及び硼素がよく知られたものであることが認められるところ,前示のとおり本願明細書中の従前技術の説明部分において,融点低下剤としての炭素及びけい素には触れるところがありながら,硼素についてはなんらの記載がないのは不自然であること,また,成立について争いのない甲第4号証(第一公知文献),同第5号証(第二公知文献)によれば,本願明細書において従前技術の例として引用された第一及び第二公知文献には,いずれも臭素を融点低下剤として使用することはなんら記載されておらず,硼素を使用する技術は記載されていることが認められることに照らせば,本願明細書に接する当業者は,その従前技術の説明部分において用いられている「臭素」の語が,正しくは「硼素」とあるべきものの誤記であると認識できなくはないものと認められる。しかしながら,前示E部分で用いられた「臭素」の語が右のとおり「硼素」の誤記であると認識されることもありうる本願明細書の前示@ないしCの部分の「臭素」の語と同様「硼素」の誤記であるということが認識しうるものということはできず,Xの主張するように,本願発明が採用した「臭素」は従前慣用の融点低下剤としての炭素,けい素及び硼素の中から選ばれたとする根拠も,本願明細書中に見出すことはできない。本願明細書の前示Eの部分においては,なんらの限定を施すことなく,融点低下剤として「臭素,珪素,マンガン,ニオビウム,チタン等」を調べた結果,「臭素」以外は排斥されるに至つた旨が記載されているにすぎず,金属に他の元素を添加すると融点が低下することは技術常識に属するから,右の「臭素」は,たとえこれが誤記であるとの前提に立つてみるにしても,これを特定的に「硼素」の誤記であるものと認識しなければならないことにはならず,他に多数の元素をもつて置換して理解することが可能であるというほかない。
(四)したがつて,本件補正が本願明細書上自明の誤記を訂正するにすぎないといえないことは,すでに明らかである。
3 以上のとおりであるから,本件補正は,出願当初の明細書において本願発明の中間層合金の必須の構成成分とされていたものを,なんらそこに開示されていなかつた別の成分をもつて置換しようとするものというほかなく,かかる補正は明細書の要旨を変更するものとして許されないとした審決の判断は相当であり,審決にX主張のような違法の点はない。
三 よつて,Xの本訴請求は失当としてこれを棄却することとし,訴訟費用の負担及び上告のための附加期間の定めについて行政事件訴訟法第7条,民事訴訟法第89条,第158条第2項を適用して,主文のとおり判決する。」