最判平成3年3月8日(民集45巻3号123頁(昭和62年(行ツ)第3号))

(原審:東京高判昭和61年10月29日(昭和58年(行ケ)第142号))

<事案の概要>
 X(原告,被上告人)は,特許請求の範囲の記載を「リパーゼを用いる酸素的鹸化及び遊離するグリセリンの測定によってトリグリセリドを測定する場合に,鹸化をカルボキシルエステラーゼ及びアルキル基中の炭素原子数10〜15のアルカリ金属−又はアルカリ土類金属−アルキル硫酸塩の存在で実施することを特徴とするトリグリセリドの測定法。」とする特許出願の出願人である。Xは,本件特許出願について拒絶査定を受けたため,拒絶査定不服審判を請求したところ,特許庁は,本願発明は進歩性を有しないとして,Xの請求を不成立とする審決をした。
 なお,本件特許出願の発明の詳細な説明には,以下の記載がある。
 (1)「本発明はグリセリドを鹸化し,かつこの際に遊離するグリセリンを測定することによってトリグリセリドを測定するための新規方法及び新規試薬に関する。」
 (2)「公知方法によれば,差当りアルコール性アルカリでトリグリセリドを鹸化し,次いで生じるグリセリンを測定することによりこの測定を行なっている。」
 (3)「この公知方法の重大な欠点は,エタノール性アルカリを用いる鹸化にある。この鹸化工程は,さもなければ個有の精密かつ容易に実施すべき方法を煩雑にする。それというのは,この鹸化はそれだけで約70℃の温度で20〜30分を必要とするからである。引続き,グリセリン測定そのものを開始する以前に,中和しかつ遠心分離しなければならない。」
 (4)「この欠点は,1公知方法で,トリグリセリドの酵素的鹸化により除去され,この際,リゾプス・アリツス(Rhizopus arrhizus)からのリパーゼを使用した。この方法で,水性緩衝液中で,トリグリセリドを許容しうる時間内に完全に脂肪酸及びグリセリンに分解することのできるリパーゼを発見することができたことは意想外のことであった。他のリパーゼ殊に公知のパンクレアス−リパーゼは不適当であることが判明した。」
 (5)「しかしながら,この酵素的分解の欠点は,鹸化になおかなり長い時間がかかり,更に,著るしい量の非常に高価な酵素を必要とすることにある。使用可能な反応時間を得るためには,1試験当り酵素約1mgが必要である。更に,反応時間は30分を越え,従って殊に屡々試験される場合の機械的な実験室試験にとっては適正が低い。最後に,遊離した脂肪酸はカルシウムイオン及びマグネシウムイオンと不溶性石鹸を形成し,これが再び混濁させ,遠心しない場合にはこれにより測定結果の誤差を生ぜしめる。」
 (6)「従って,本発明の目的は,これらの欠点を除き,酵素的鹸化によるトリグリセリドの測定法を得ることにあり,この方法では,必要量のリパーゼ量並びに必要な時間消費は著るしく減少させられ,更に,沈でんする石けんを分離する必要性も除かれる。」
 (7)「この目的は,本発明により,リパーゼを用いる酵素的鹸化及び遊離したグリセリンの測定によるトリグリセリドの測定法により解決され,この際鹸化は,カルボキシルエステラーゼ及びアルキル基中の炭素原子数10〜15のアルカリ金属−又はアルカリ土類金属−アルキル硫酸塩の存在で行なう。」
 (8)「リパーゼとしては,リゾプス・アリツスからのリパーゼが有利である。」
 (9)「本発明の方法を実施するための本発明の試薬はグリセリンの検出用の系及び付加的にリパーゼ,カルボキシルエステラーゼ,アルキル基中の炭素原子数10〜15のアルカリ金属−又はアルカリ土類金属−アルキル硫酸塩及び場合により血清アルプミンからなる。」
 (10)「有利な試薬組成物の範囲で,特に好適な試薬は次のものよりなる:リゾプス・アリツスからのリパーゼ 0.1〜10.0mg/ml」

 X出訴。
 原審(東京高判昭和61年10月29日(昭和58年(行ケ)第142号))は,次のとおり認定判断し,審決を取り消した。
「1 本願明細書の発明の詳細な説明中の前記(4)記載の方法は,リゾプス・アルヒズス(リゾプス・アリツスと同義)からのリパーゼ(以下「Raリパーゼ」という。)によるトリグリセリドの酵素的鹸化により遊離するグリセリンを測定するトリグリセリドの測定方法であるところ,これは,Raリパーゼを使用してトリグリセリドを測定する方法に関するX出願の昭和45年特許願第130788号の発明の構成,すなわち,その特許請求の範囲に記載されている,「溶液,殊に体液中のリポ蛋白質に結合して存在するトリグリセリド及び/又は蛋白質不含の中性脂肪を全酵素的かつ定量的に検出するに当り,リポ蛋白質及び蛋白質不含の中性脂肪をリゾプス・アルヒズスから得られるリパーゼを用いて分解し,かつ分解生成物として得られるグリセリンを自体公知の方法で酵素的に測定することを特徴とする,トリグリセリドの定量的検出法」との構成と実質的に同一である。そして,本願明細書の発明の詳細な説明の記載による限り,本願発明は,(4)記載の測定方法の改良を目的とするものであるから,Raリパーゼを使用することを前提とするものということができる。
 2 本願明細書の(4)の記載によれば,本願発明の発明者は,Raリパーゼ以外のリパーゼはRaリパーゼのように許容される時間内にトリグリセリドを完全に分解する能力がなく,遊離グリセリンによるトリグリセリドの測定には不適当であると認識しているものと認められるから,発明者が,右のようなトリグリセリド測定に不適当なリパーゼをも含める意味で本願発明の特許請求の範囲中の基本構成に広く「リパーゼ」と記載したものと解することはできない。
 3 本願明細書の発明の詳細な説明に記載された「リパーゼ」の文言は,Raリパーゼを指すものということができる。
 4 そうであれば,本願明細書の発明の詳細な説明の記載により前記(4)記載の測定方法の改良として技術的に裏付けられているのは,Raリパーゼを使用するものだけであり,本願明細書に記載された実施例も,Raリパーゼを使用したものだけが示されている。
 5 そうすると,本願発明の特許請求の範囲中の基本構成に記載された「リパーゼ」は,文言上何らの限定はないが,Raリパーゼを意味するものと解するのが相当である。」

 Y(特許庁長官。被告,上告人)上告。

<判決>
 破棄差戻。
「三 ・・・原審の・・・判断は,にわかに是認することができない。その理由は,次のとおりである。
 特許法29条1項及び2項所定の特許要件,すなわち,特許出願に係る発明の新規性及び進歩性について審理するに当たっては,この発明を同条1項各号所定の発明と対比する前提として,特許出願に係る発明の要旨が認定されなければならないところ,この要旨認定は,特段の事情のない限り,願書に添付した明細書の特許請求の範囲の記載に基づいてされるべきである。特許請求の範囲の記載の技術的意義が一義的に明確に理解することができないとか,あるいは,一見してその記載が誤記であることが明細書の発明の詳細な説明の記載に照らして明らかであるなどの特段の事情がある場合に限って,明細書の発明の詳細な説明の記載を参酌することが許されるにすぎない。このことは,特許請求の範囲には,特許を受けようとする発明の構成に欠くことができない事項のみを記載しなければならない旨定めている特許法36条5項2号の規定(本件特許出願については,昭和50年法律第46号による改正前の特許法36条5項の規定)からみて明らかである。
 これを本件についてみると,原審が確定した前記事実関係によれば,本願発明の特許請求の範囲の記載には,トリグリセリドを酵素的に鹸化する際に使用するリパーゼについてこれを限定する旨の記載はなく,右のような特段の事情も認められないから,本願発明の特許請求の範囲に記載のリパーゼがRaリパーゼに限定されるものであると解することはできない。原審は,本願発明は前記(4)記載の測定方法の改良を目的とするものであるが,その改良として技術的に裏付けられているのは,Raリパーゼを使用するものだけであり,本願明細書に記載された実施例もRaリパーゼを使用したものだけが示されていると認定しているが,本願発明の測定法の技術分野において,Raリパーゼ以外のリパーゼはおよそ用いられるものでないことが当業者の一般的な技術常識になっているとはいえないから,明細書の発明の詳細な説明で技術的に裏付けられているのがRaリパーゼを使用するものだけであるとか,実施例がRaリパーゼを使用するものだけであることのみから,特許請求の範囲に記載されたリパーゼをRaリパーゼと限定して解することはできないというべきである。
四 そうすると,原審の確定した前記事実関係から,本願発明の特許請求の範囲の記載中にあるリパーゼはRaリパーゼを意味するものであるとし,本願発明が採用した酵素はRaリパーゼに限定されるものであると解した原審の判断には,特許出願に係る発明の進歩性の要件の有無を審理する前提としてされるべき発明の要旨認定に関する法令の解釈適用を誤った違法があるというべきであり,右違法は原判決の結論に影響を及ぼすことが明らかである。この点の違法をいう論旨は理由があり,その余の上告理由について判断するまでもなく,原判決は破棄を免れない。
 よって,更に審理を尽くさせるため,本件を原審に差し戻すこととし,行政事件訴訟法7条,民訴法407条1項に従い,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。」