最終更新日;2005年05月20日

太宰府天満宮 [2003/03/02]

飛び梅を見に行こう!

岩国I.C. - → 山陽、中国、九州自動車道 → 太宰府I.C.

 梅が見頃との噂をもとに、太宰府まで梅見に行きました。 太宰府はかねてから嫁さんが行きたがっていたところでもあります。
 移動は車で約4時間、隣の県で近いようですがやはり結構な時間がかかります。 おまけに、ちょうど「曲水の宴」が開催された日でもあり、太宰府に近づくと駐車場に入るの待つ車で周辺は大渋滞でした。
 なんとか駐車場に車を止め、参道沿いに天満宮へと向かいます。 途中、西鉄の太宰府駅の前を通り、写真を取りました。 写真で見ても判るように、参道は人出で一杯でした。

西鉄の太宰府駅
駅前の漏刻(水時計)
参道は人で一杯

 お昼も過ぎていたことですし、お腹もすいていたので腹ごしらえをしてからお参りすることにしました。 参道を二三度行き来して良さそうなお店を見つけてお昼を頂きました。 残念ながら店の名前を失念してしまいました。 食事をしてから、お土産に梅が枝餅を買いました。

心字池に架かる橋

 心字池に架かる橋を渡って、境内へと進みます。

太宰府天満宮
太宰府天満宮は菅原道真公の墓所の上に社殿が造営された神社です。
 延喜三年(903)2月25日、菅公は謫居(たっきょ)の地、南館(榎寺)において清らかな御生涯を終えられました。その後、御遺骸を牛車に乗せて進んだところ、間もなくその牛が伏して動かなくなりました。これは、菅公の御心によるものであろうとその聖地に御遺骸を葬りました。京より追従した、門弟味酒安行(うまさけのやすゆき)は延喜五年ここに祠廟(しびょう)を創建、次いで左大臣藤原仲平は勅を奉じて大宰府に下って造営を進め、延喜十九年に御社殿を建立しました。

 予想通り境内には多くの人がいます。 「曲水の宴」だけではなく広場では全国の利き酒大会が催されていました。 車でなければ飲めたのに、とちょっと残念です。

 
「うそ」です。本当に!
麒麟さんです。

梅が満開

 拝殿右側の飛び梅はまだ五分咲き位でした。 お参りをした後は、梅園の方を散策する事にしました。 梅園の方は所々に茶店が出ています。 また、大道芸まで演じられていて園内はお祭りムード一色でした。 そんな事とは関係なく、梅は想い想いに咲き乱れていました。 たくさんの種類が咲き競っていましたが、残念ながら事前勉強が不足していて、どの梅が何と言う名前か判らないものも幾つかありました。
 梅園から太宰府園の方に移動し始める頃に和服姿の女性が目立つようになり、どうやら「曲水の宴」が終わったようでした。 我々も太宰府を後にして、次へ移動することにします。

拝殿の左側の梅
拝殿の右側の梅(有名な飛梅)
めじろ (拡大出来ます)

 梅の木にめじろが来ていたので、何気なく写真を撮ったところ、めじろがばっちりと写っていました。 めじろは梅の花を食べに来ているようです。

観世音寺

太宰府天満宮 → ( 15分) → 観世音寺

 今回は、天満宮の周辺も併せて観光する予定にしています。 駐車場の横の川に猫が落ちたらしく、消防車などが駆けつけて大騒ぎしてるのを横目で見ながら、駐車場から裏道のようなところを15分程歩くと観世音寺の裏側に出ました。 写真を正面から撮ろうとしたのですが、ど真ん中に石灯籠が立っていて撮影の邪魔です。

観世音寺
『源氏物語』にも登場する観世音寺は、御母斉明天皇追悼のために天智天皇が建築を発願され、80余年の歳月をかけ、奈良時代(天平18年)に完成しました。当時は南大門・中門・五重塔・金堂・講堂・鐘楼・経蔵など、七堂伽藍を備え、九州の寺院の中心的存在でした。現在は、江戸時代に再建された講堂と金堂(県指定文化財)のニ堂が残っており、往時の大きさをしのばせる日本最古の梵鐘(国宝)、平安時代から鎌倉時代にかけての仏像(全て重要文化財)も数多く残り、境内で見学することが出来ます。

  

戒壇院

観世音寺 → ( 1分) → 戒壇院

 観世音寺のすぐ横が戒壇院です。 元々観世音寺の一部だったそうなので、当然かもしれませんが。

戒壇院
奈良時代に観世音寺に置かれ、奈良の東大寺、下野(しもつけ・栃木県)の薬師寺と並ぶ天下三戒壇のひとつです。西日本で仏門に入る人はここで戒(かい)をうけて僧尼となりました。本尊の盧舎那仏(るしゃなぶつ)は平安末期の作で、重要文化財です。 江戸時代に観世音寺を離れ、現在は禅寺となっています(平成6年に修復)。

 ここでも本堂の正面に石灯籠があります。 写真を正面から撮ろうとすると非常に邪魔な存在なのです。 この石灯籠にどんな秘密が隠されて居るのでしょうか。
 ところでここの石灯籠には干支が刻まれていました。

ねずみ

大宰府政庁跡

戒壇院 → ( 10分) → 大宰府政庁跡

 太宰府天満宮は「太」という字を使いますが、土地の名前の時は「大」という字を使うそうです。
 所々に礎石が残る広い空き地の中央部に大宰府政庁跡であったことを示す石碑が立っていました。 政庁が当時のものとしてはかなり大規模だったことを伺わせます。 今はこの界隈の方にとっては絶好の犬の散歩コースになっていると見え、様々な種類の犬たちが楽しそうに遊んでいました。

大宰府政庁跡
7世紀後半、大和朝廷は那の津の官家(みやけ)をここに移し、奈良・平安時代を通 して、九州を治め、わが国の西の守り(防衛)、外国との交渉の窓口となる役所(太宰府)としました。太宰府は南北22条、東西24坊の都市計画があったという学説があります。その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものです。万葉集には”遠の朝廷(みかど)”と詠まれ、その規模をしのばせる立派な礎石が残り、そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡等が整備されて公園となっています。

帰宅の途に

太宰府I.C. - → 九州、中国、山陽自動車道 → 岩国I.C.

 大宰府政庁跡から太宰府天満宮の駐車場まで来た道を歩いて戻り、帰宅の途に着くことにしました。 太宰府天満宮の駐車場を出て、国道3号線に戻る途中、またもや道を間違えてしまいましたが、カーナビのお陰で何とか無事に家まで辿り着く事が出来ました。
 太宰府への二度目の訪問になりましたが、今回は太宰府の周辺を知ることが出来て、楽しい一日を過ごせました。





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