Rail Story 14 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 14 

 大師線の謎

京急川崎駅大師線ホームの1000型電車京急川崎から小島新田までを結ぶ京浜急行大師線。この路線こそが京浜急行の始祖であることは知られているが、隣接する路線やバスとも深い関係があった。それだけではなく、淡い運命にあった路線の名残を留めているという、興味深い歴史をも持ち合わせている。

明治32年1月21日、大師電気鉄道は六郷橋-大師(現在の川崎大師)間1.8kmを開業する。関東地方では初の電車が走り出した。ただし当時の「電車」とは現在のような高速電車ではなく路面電車を意味しており、この大師電気鉄道も同様であった。しかも最高速度はたったの13km/h、今の京浜急行とは想像もつかないのんびりムードだった。
もっとも大師電気鉄道が川崎駅ではなく六郷橋を起点としていたのは、それまで川崎大師への参詣客を運んでいた人力車や乗合馬車の業者からの反対があり、川崎駅からのアクセスを残した形を採ったためだった。また大師電気鉄道には東京と横浜を結ぶ計画が開業前からあったのも事実で、川崎での東海道本線連絡にこだわらず、むしろ独立した自社路線の延長を優先したためとも言われている。

路線の開業にあたっては、川崎駅-六郷橋間の人力車との連絡キップも発売され、大師電気鉄道は予想を上回る営業成績を得る事が出来たという。翌明治33年4月25日には会社名を「京浜電気鉄道」と改称、同年11月28日には品川-川崎間、明治34年11月2日には川崎-神奈川間の路線特許も得られ、計画が実現に向けて進んでいく。それに前後して当初単線だった大師線は明治33年11月20には早くも複線化される。
明治38年12月24日、京浜電気鉄道は品川-神奈川間を全通させる。大師線はこの時支線という扱いにはなったものの、既に開業していた穴守線(現在の空港線の前身)と並んで穴守稲荷、川崎大師への参詣客輸送はもとより、電車の機動性を生かした列車の運転本数の多さと途中駅の数の多さで、東海道本線を圧倒する。

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いっぽうその頃、沿線の観光需要にも応えようとした京浜電気鉄道は、生見尾支線の建設計画を打ち出す(当時鶴見は生見尾村だった)。これは大森付近から羽田、川崎大師を経由して現在の鶴見付近へと繋ぐもので、東京湾沿いの遊覧路線という性格を持たせていた。いわば屋形船のような電車にするつもりだったかは判らないが、東京-横浜間に並行した競合路線がつくられることを懸念した京浜電気鉄道が、他社牽制のためいわば先行投資として計画したという話も残されているようだ。
一旦は路線特許申請に至った生見尾支線だったが、もともと実現性に乏しいものだったことは確かで、大正5年にはもう一度申請がなされているが却下されている。

やがて第一次世界大戦後の好況で京浜工業地帯の工場が増え、従業員輸送も必要と考えた京浜電気鉄道は生見尾支線の計画を捨てられず、計画自体を大師線川崎大師駅から海岸沿いに進み鶴見付近へ結ぶものに変更、別会社「海岸電気軌道」の名で路線を申請して大正8年12月、ようやく路線特許を得た。ただし当時の神奈川県知事の副申には「会社の首脳陣が京浜電気鉄道と同じというのはいかがなものか」と、訝るものがあったという。
翌大正9年12月25日、海岸電気軌道は会社創立に漕ぎ着け早速工事が進められていくが、その頃には既に鉄道省の貨物線が川崎から浜川崎へと延びており、浜川崎からは西に鶴見臨港鉄道の建設が進められていた。両線は工場との貨物輸送を行うためにつくられたものであるが、後に海岸電気軌道の運命を握ることになろうとは…。

海岸電気軌道 地図大正14年6月5日、海岸電気軌道は鶴見側の総持寺と富士電機前の間で部分開業する。ちなみに総持寺駅は京浜電気鉄道との乗換駅で、現在の京急鶴見と花月園の間に存在した。ここから線路は工業地帯へと延びていったことになる。同年8月15日には浅野セメント前-川崎大師間が開業、10月16日には残る富士電機前-浅野セメント前間が繋がって海岸電気軌道は全線開業した。

晴れて開業した海岸電気軌道だったが、富士電機の職員はよく電車を利用してくれたものの、他の工場の従業員は近くに居を構えたり、また社宅が工場に近く自転車通勤がなかば常識で、あえて電車通勤をするまでもなかったといわれる。加えて昭和恐慌もあり肝心の工場も業務縮小が相次いで、海岸電気軌道の業績は泣かず飛ばず…。

さらに追い討ちを掛けたのは、貨物輸送に専念するはずの鶴見臨港鉄道(現在のJR東日本鶴見線)の旅客輸送参入だった。
鶴見臨港鉄道は海岸電気軌道のような路面区間などなく、始めから高速電車としてつくられていたため、輸送力の差は決定的。しかも両者はほぼ並行した路線であり、鶴見臨港鉄道に対しては海岸電気軌道が買収を求めてきた場合はスムーズに応じるよう条件がつけられていた。結局海岸電気軌道は鶴見臨港鉄道に身売りし、昭和5年3月29日、たった5年足らずで同社の軌道線として再スタートすることになった。

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しかし沿線の需要が希薄な上に並行して二つの路線の存在は、鶴見臨港鉄道にとって頭の痛いところだっただろう。昭和12年11月30日をもって軌道線はあえなく廃止されてしまう。路面区間だった県道は軍需産業の進出とともに交通量が増えることが予想されていたため、軌道線の線路は撤去、道路も拡幅され今に至る「産業道路」として整備されることになった。そもそも海岸電気軌道に路線特許が下りた時に神奈川県が訝ったのは、こんな結末となることを暗示していたのか…。ともかく、軌道線廃止の代替として11月18日には鶴見川崎臨港バスが設立され、電車はバス転換されることになる。

今度はそんなバス路線に買収を持ちかけてきた会社があった。東横電鉄(現在の東急東横線)である。東京西郊のバス路線を次々と手中に収めていた東横電鉄は、当時川崎を中心にバス事業を行っていた川崎乗合自動車の株の4割を手中にし、発足したばかりの鶴見川崎臨港バスもその脅威にさらされることになる。そこで鶴見川崎臨港バスの親会社である鶴見臨港鉄道と、鶴見臨港鉄道に買収された海岸電気軌道の親会社である京浜電気鉄道はタッグを組み東横電鉄に対抗する。これが功を奏して川崎乗合自動車は東横電鉄の買収を逃れ、代わって鶴見臨港鉄道の傘下となり昭和13年12月1日に合併、社名を川崎鶴見臨港バスと改めたが、この頃から世相は戦時体制へと傾いていく。
鶴見臨港鉄道の路線は国に買収され昭和18年7月1日からは鉄道省鶴見線となった。また軍需産業の進出により大師線は延長されることになるが、昭和17年5月には陸上交通調整法により京浜電気鉄道は東横電鉄を主体とした東京急行電鉄(現在の東急)に合併させられており、昭和19年6月1日にかつての海岸電気軌道の線路跡の一部を利用して川崎大師-産業道路間を開業した時は東急を名乗っていた。同年10月1日には入江橋へ、翌昭和20年1月7日には桜本まで開業する。
また川崎市も軍需産業の足として市電の建設を決め、昭和19年10月14日には川崎駅前-渡田5丁目間を開業、これは着工からたった5ヶ月という早さだったが、市電が桜本まで延び大師線と接続を果たしたのは昭和20年12月6日で、もう戦争は終わっていた。
戦後すぐに東急は解体され、元の京浜電気鉄道は湘南電気鉄道と一つになり京浜急行電鉄(以下京急)として昭和23年6月1日に発足する。半年後の12月21日には川崎鶴見臨港バスに資本参加し、京急の系列下とした。

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京急最初の駅である六郷橋駅は駅間の距離が近いため昭和24年6月30に廃止、その京急大師線と川崎市電、それに鉄道省改め国鉄に変化が現れたのは、それからまもなくの昭和24年7月16日のことだった。
国鉄の貨物輸送のため川崎市電の日本鋼管前-桜本間、それに続く大師線鈴木町-桜本間は線路の内側にレールを1本増設した3本レールとし、レール幅の違う国鉄貨車の直通を可能にした。ちなみに大師線鈴木町駅には隣接して味の素の工場があり、貨車の運行は京急の終電後に行われていたという。また鈴木町駅も昭和19年10月20日までは「味の素前」を名乗っていたが、贅沢は敵だという当時のご時勢から改名を余儀なくされていた。

こうして川崎市電と京急大師線は妙な形で線路が繋がってしまったが、川崎市側には大師線を買収して市電と繋ぎ、川崎市による循環路線をつくる計画があった。しかしこの計画は京急側が難色を示し、結局塩浜-桜本間2.0kmの譲渡という形で決着する。昭和27年1月1日からは京急に代わって川崎市電の電車が塩浜まで足を伸ばすが、その後再び国鉄が絡んで大師線、川崎市電共に変化してしまう結果に。
というのも、国鉄の貨物線拡充に伴い、塩浜には貨物駅の塩浜操駅(現在のJR貨物川崎貨物駅)が建設されることになり、大師線は昭和39年3月25日から小島新田-塩浜間を運転休止、同日国鉄の塩浜操駅が開業している。小島新田駅はこの時300m程産業道路駅側に移転、大師線は現在の形となる。なお大師線小島新田-塩浜間の正式廃止は昭和45年11月20日だったという。
また川崎市電も塩浜操駅の操車場拡大を受け昭和42年5月31日をもって池上新田-塩浜間を廃止、この頃には利用客減少に歯止めが掛からず昭和44年3月31日、川崎市電は全線廃止となった。

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すっかり記憶の彼方に走り去ってしまった海岸電気軌道の足跡は、意外に多く残されている。

海岸電気軌道が開業したのは鶴見側の総持寺からだったが、京浜電気鉄道時代の昭和19年11月20日に廃止されている。これは戦時中、駅間距離の短い区間は駅を統廃合して加減速を控え、極力電力の節減に努めなければならなかったためで、路面電車スタイルでスタートした京急の歴史をも物語っている。また全国各地の路面電車などでも停留所を省いた急行運転を行っていた例は多い。
現在京急本線には総持寺駅の跡はないが、駅から海側の通りを少し西へ進むと小さな公園がある。この本山前桜公園が総持寺駅を出て左にカーブした海岸電気軌道の線路の跡である。

本山前桜公園 総持寺駅跡
本山前桜公園 公園の先は総持寺駅があった

現在の産業道路は海岸電気軌道の線路跡をトレースしている。途中の出来野からは線路跡は産業道路から外れ左にカーブしていくが、ここも道路として姿を留めている。やがて線路跡は大師線産業道路駅に繋がっており、この先は川崎大師駅まで海岸電気軌道の廃線跡を利用したことを伺わせてくれる。

出来野付近の線路跡 路地になった線路跡 産業道路駅 京急1500型電車
大師線へと続く線路跡 線路跡は路地に 現在の大師線産業道路駅 産業道路駅の1500型電車

もう70年以上も前に廃止された海岸電気軌道だが、代替として走り出したバス路線に現在も継承されている。それも川崎鶴見臨港バスはもちろん、市電による循環路線が実現しなかった川崎市も市営バスで参入して今に至っているのは、大師線を取り巻く極めて複雑な経緯の果てなのだろうか。その歴史を見届けながら、京急大師線は今日も走り続ける。意外にも国鉄時代からの貨物列車の乗り入れは、平成9年まで続いたという。

産業道路 出来野バス停
産業道路 出来野バス停

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京急川崎駅の大師線ホームは、本線が高架化された後もずっと地平ホームに残っている。乗り換えには階段を上り下りしなければならないが、これも京急の歴史を語るものの一つなのだろう。


京急最初の路線、大師線には路線の長さに反比例する複雑な話が隠されていました。普段は地味な性格の路線ですが、正月の初詣の時には福を願う多くの人で賑わうのです。

次は意外な宿命を負った電車の話です。

【予告】 湘南特急の宿命(前編)

―参考文献―

鉄道ピクトリアル 1998年7月臨時増刊号 <特集>京浜急行電鉄 鉄道図書刊行会

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