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レイル・ストーリー続編です。ごゆっくりどうぞ。


 ●空港線の謎

羽田空港のアクセスといえばながらく「モノレール」というのが定番だった。それが羽田空港の沖合展開でまずはモノレールが延伸、続いて京急空港線が羽田空港へ乗り入れた。「京急搭乗」という京急の電車が航空会社カウンターに横付けしているポスターが印象的だった。

しかし、今の京急羽田空港駅は二代目。初代羽田空港駅はずっと前からあったのに、空港アクセスしての存在は殆ど認識されていなかった。それもそのはず、空港線はアクセス機能を失っていたからである。

空港線は明治34年6月に部分開通したが、それは本線の全通よりも古い。当時は穴守線と名乗っていた。大正2年12月に今の羽田東急ホテルの近く、穴守駅まで全通。まだ羽田空港は開港前で、戦前はもっぱらその近くにあった穴守神社の参拝客や潮干狩りの客で多いに賑わっていたという。穴守線はそのままなら昭和6年に開港した羽田空港へのアクセスとなっていたはずだったが、日本が第二次大戦の敗戦国となったことで、終戦直後の昭和20年9月23日、羽田空港は米軍に接収され穴守線の線路も今の穴守稲荷駅付近から先の部分も接収、空港のだいぶ手前で寸断されてしまった。

この時空港敷地からは一夜にして全ての日本側財産の撤収が命令されたのは有名な話。穴守神社も今の場所に移転を余儀なくされた。ただ、神社の鳥居だけが空港敷地に残り、接収解除後も空港の駐車場の真ん中に鳥居だけがずっと建っていた。その鳥居が羽田空港沖合展開と共に大掛かりな移動をしたのはまだ記憶に新しいところだ。

さらに米軍は複線だった穴守線の線路の片方も接収、それを国鉄の蒲田駅まで延長して資材輸送用にするためレールの幅まで改修してしまった。昭和27年11月に米軍の接収は部分的に解除され、この時線路は京急の手に戻った。レールの幅も元通りに直したが、穴守線は稲荷橋(今の穴守稲荷)が終点になってどんどん空港からは遠ざかってしまう。ようやく初代羽田空港駅(現存しない)まで延長したのは昭和31年4月の事で、この時空港線と名を改めた。しかし電車がかつて海老取川を渡っていた橋は復活せず、駅は川の手前で羽田空港は対岸だった。今のように地下線で延長する計画も立てられたが実現しなかった。

線路跡

海老取川の手前の、もとの穴守線跡地は現在駐車場になっている。川の堤防辺りは小公園になっていて、釣り舟が太公望達をのんびりと待っている。堤防に上がると、駐車場がそのまま穴守稲荷駅方向に延びていているのが判り、その形はそこがかつて線路だったことを容易にうかがわせる。

羽田空港は日本の玄関口として飛躍しだすが、京急空港線は首都高速1号線やモノレールの開通で空港アクセスとしてのスタートにすっかり出遅れてしまった。終点羽田空港駅から対岸の空港へ向かう直通バス路線も当初はあったらしいが、利用者が極端に少なくのちに廃止されたという。こうして空港線は名ばかりの存在となってしまい、もっぱら付近住民の足として定着してしまった。

昭和53年5月に、羽田空港は国際線が中華航空を除いてようやく開港なった成田空港に移転、国内線用空港として新たなスタートを切った。国内線旅客は国鉄の相次ぐ運賃値上げなどを受けて増え続け、その後ご存知のように沖合展開が本格化して、京急空港線はモノレールと共に新ターミナルビル"ビッグバード"まで乗り入れることが決まった。

天空橋

戦前まで電車が海老取川を渡っていた橋は戦後レールが撤去されただけで、レールを敷けばいつでも電車の運転が出来るほどの形のままずっと残っていた。しかし今度は地下線での空港乗り入れということでようやく撤去されたらしい。現在電車はその直下を走っている。

今はその跡には新たに「天空橋」という名の歩道橋が架けられていて、ここがかつての電車ルートであったことを物語っている。

その向こうは国内線の旅客機が飛び交う日本の空の要所だが、辺りは不思議な位の住宅街だ。

空港線はようやく平成5年4月1日、地下線で羽田空港の敷地内へ乗り入れた。都営浅草線との直通運転も開始された。ただこの時は旧ターミナルビルの頃で空港線の駅名は「羽田」。というのもこの時でさえターミナルビルは駅から離れていてバス連絡だったのだ。この年の9月27日にビッグバードがオープンし、まずモノレールが乗り入れ(この時のモノレールの逸話はこちらを)、京急空港線は羽田駅でモノレールに接続という形で、ビッグバードはまだ遠かった。

エアポート快特 成田空港行き by 京急600系

それから5年余りも要し平成10年11月18日に空港線が延伸され今の二代目羽田空港駅が開業、京急の悲願がようやく達成された。なぜそんなに時間を要したかというと、空港線は現羽田空港の滑走路の下を直交して進んだため、埋め立ててから日の浅い軟弱地盤を特殊工法で掘り進むという難工事だったからだ。それまでの羽田駅は空港と紛らわしいため「天空橋」と改称した。これは初めて羽田空港と成田空港が1本の鉄道で繋がるという快挙でもあった。

羽田、成田両空港を結ぶ「エアポート快特」も走り出したが都営線に追い越し設備がなく所要1時間45分、特急用の電車も使えない今はリムジンバスに劣っているのは否めない。京急の快特用新車2100型はもちろん、京成ニュースカイライナーもその日をずっと待っているというのに…


京急空港線は着実に空港アクセスとしての立場をモノにしています。モノレールとの熾烈な戦いを演じているのも確かです。ただし、地方では京急の存在は殆ど知られておらず、「羽田空港といえばモノレール」という常識がまだまだ通用しているようです。

次は、重ねに重ねた苦労と、ついに実った努力…という話です。

【予告】横浜地下鉄の謎

―参考文献―

鉄道ジャーナル 1983年6月号 成田空港ターミナル発羽田空港ターミナル行 (株)鉄道ジャーナル社
鉄道ジャーナル 2000年1月号 羽田空港アクセスの変 (株)鉄道ジャーナル社

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