Rail Story 13 Episodes of Japanese Railway  レイル・ストーリー 13 

 殴り込み事件っていったい何?

阪急神戸線と阪神電鉄。両社は長い間ライバル関係にある。平成18年10月1日に阪急と阪神が経営統合したのは記憶に新しいが、これは合併というより、むしろ隣接する路線同士の業務提携という意味合いが強く、従ってライバル関係は今も続いているようだ。

しかしこの永遠のライバルが同じ線路を走り、駅でも並んでいるのは良く知られている。
神戸高速鉄道線内ではごく日常のこと。以前は阪急が山陽電鉄の須磨浦公園まで乗り入れ、マルーンの車体が海沿いを走る光景が見られた。現在は需給バランスの都合で阪急の乗り入れは新開地までとなっているが、なおもライバルの並びは続いている。

ただし、阪急と阪神の並びが実現したのはもっと以前のことだった。

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阪急の前身、箕面有馬電気鉄道が最初に路線特許を得たのは明治39年12月22日だった。現在の宝塚線と箕面線、それに今津線はこの時歴史が始まっている。まずは宝塚線と箕面線が明治43年3月10日に開業したが、残る今津線(当時は西宝線と呼ばれていた)の開業は神戸線開業から遅れること約1年、大正10年9月2日まで待たなければならなかった。まずは宝塚-西宮北口間で開業、続いて大正15年12月18日に西宮北口-今津間が開業して今津線と改称した。ちなみに当初特許を得たときの計画では終点は今津ではなく、阪神の香枦園駅近くを想定していたという。

阪神はこれに呼応して翌日今津駅を開業する。阪急今津線は阪神線に対しほぼ直角に出来たため、両社の今津駅も当初は現在と同じく、別々の直角に位置していた。のち阪急の駅が手狭になったようで、それを機会に線路を延長し直角を急カーブで凌いで阪神の駅に隣接することになった。

ところが駅が出来上がってみると、阪急のホームは阪神の大阪方面行きホームと完全に並行するどころかくっついてしまい、柵1枚が両社を隔てただけ、見た目では同じ構内のようだった。事実そのホームを挟んで阪急と阪神の電車が並び、ホームの端には改札口も並んでいた。ライバル意識はこの駅に限っては和解ムードにも感じられたが、改札口の前には「←阪急電車のりば」「阪神電車大阪方面行き→」という看板がこれまた並び、駅へやってくる客を二分するには十分な威厳を保っていた。

こうして神戸高速鉄道開業よりずっと前に、阪急と阪神の並びは実現した。ただこの時点で両社が同じ線路を走ることはなかったが、後にとんでもない事件を巻き起こすことになる。

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戦時中に軍部から「非常時に備えて線路を結べ」という命令が下った。前話の神戸市電と山陽電鉄が須磨で接続したのもその一つで、以前紹介した京都市電と京阪京津線が仁王門電停付近で接続したのも同じだった。この他にも今では信じられないような接続があちこちでなされたが、むしろ戦時中から戦後にかけては電車の融通に使われた例が多い。
線路の接続が本来の意味を持ったのはもっぱら戦後の話で、京都市電と京阪の接続などは物資の輸送に役立っている。なお京阪の丹波橋駅へ奈良電(現在の近鉄京都線)が乗り入れたのもこの命令によるもので、後年まで続いた唯一の例と言えるだろう。

その接続の一つが阪急今津線と阪神だった。今津駅同士が並んだ両社の線路だったが、結局これも軍部の目にとまりレールの接続を余儀なくされてしまう。ただこちらは全く電車が行き来することなく終戦を迎え、意味をなさないまま放置されていたが…。

昭和21年12月13日、とうとう「事件」が起こってしまった。

この日、阪急今津線の600形2両編成の今津行き電車が、一つ前の阪神国道駅を発車してまもなくブレーキが故障してしまった。電車は終点今津駅を「通過」してしまい、そのまま阪神の大阪方面行き線路に入ってしまう。なおも電車は惰力で走り続け、一つ先の久寿川駅に達したところでホームに車体が接触、火花を散らしようやく停止した。当時阪神は小型車ばかりで、一回り規格の大きかった阪急の電車は走れなかったのだ。
急を聞いた阪急は後続の今津線電車(920形)を阪神へ救援に出し、暴走電車を大急ぎで連れ帰ったとか。
戦前から「待たずにのれる」がキャッチフレーズの阪神だったが、たまたま前後の電車が無かったのか、それとも阪神が電車を停めたのかは今となっては判らないが、追突事故などにならずに済んだのは不幸中の幸いと言えようか。ともかく電車はスゴスゴと阪急の今津駅に戻ってきたようだ。

阪神久寿川駅ホーム
阪神久寿川駅大阪方面行きホーム

この事件は翌日の新聞紙上を賑わし、ある紙の見出しには「阪急、阪神に殴り込み?」と書かれていたという。

命令とはいえ接続した線路が原因で事故が起こってしまい、結局レールを数メートル切断、その上には砂利が盛られ万一電車が停まれなくても相手側の線路に入ることがないようにされている。終戦直後の混乱が如実に表われた事件だった。

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昭和43年4月7日の神戸高速鉄道開業で、今度こそ両社の電車が同じ線路を走ることになったが、その後も阪急と阪神の今津駅は仲良く並び続けた。

あの「事件」から半世紀以上が経過、阪急今津線は隣接する県道の整備を受け高架化されることになった。同じく阪神も踏切の廃止などもあり同じく今津駅を含んだ高架化を始める。途中で阪神大震災が発生したものの平成7年12月16日、阪急今津駅は高架化と同時に完成、約200m後退して最初につくられた駅の場所に戻り直角の急カープは姿を消した。翌平成8年3月3日、阪神も高架化が完成して駅は現在の姿となるが、今度ばかりは阪急から1日遅れとはならなかったようだ。

阪急今津駅 阪神今津駅
現在の阪急今津駅 同じく阪神今津駅

両社の今津駅は何事も無かったかのように、再び直角に位置している。お互い少し離れてしまったが駅同士はペデストリアンデッキで繋げられ、乗り換えの便が図られている。

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阪急と阪神。両社には「ライバル」という言葉がつきまとう。やがて経営統合がその言葉を過去帖入りさせてしまうのかもしれないが、かつて阪神に殴り込んだ阪急の電車が久寿川駅ホームで飛ばした火花は、ライバルの両社間で飛び交っていた火花そのものだったのだろうか。ともかく今後は、そんな火花など飛ばさず、両社仲良く走り続けて欲しい…そう願うばかりだ。


「好敵手」とも訳されるライバルですが、両社のその意識はむしろ「敵同士」だったのかもしれません。その名残が今もなお、しかも全く別の形で今も存在しているのです。

次はそんな名残についての話です。

【予告】 陸橋は残った

―参考文献―

鉄道ピクトリアル1998年12月臨時増刊号 <特集>阪急電鉄 鉄道図書刊行会
関西の鉄道 1997年陽春号 阪神間ライバル特集 関西鉄道研究会
関西の鉄道 2003年初夏号 もう1つのアーバンネットワーク 関西鉄道研究会

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