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レイル・ストーリー続編です。ごゆっくりどうぞ。


 ●丹波橋の謎

京都にある私鉄のターミナルは阪急が河原町、京阪と叡電が出町柳、嵐電は四条大宮、そして近鉄だけは少し離れて京都(JRと併設)だ。もっとも京阪はながらく三条が終点で、浜大津、坂本、石山寺方面への京津線に接続していたが、本線は七条から三条までの地下化と出町柳延長、それに地下鉄東西線の開通で京津線が御陵から乗り入れを行うようになって、三条駅はすっかり姿を変えてしまい、地上部分はバスターミナルと化してしまった。

近鉄丹波橋付近を行く近鉄京都線

今では想像つかないような話だけど、ずっと前には京阪と近鉄京都線はお互いに乗り入れを行っていたのだ。それも近鉄京都線はもともと近鉄ではなく、奈良電鉄という別の会社だった。

その乗り入れが行われるようになったのは、奈良電鉄(以下略して奈良電)時代の戦後まもなくの頃。現在近鉄京都線と京阪本線は丹波橋が乗換駅となっていて建物で繋がっているが、以前は京阪丹波橋駅に奈良電が乗り入れていた。どちらもレールの幅が同じで、電圧も600Vとこれまた同じだった。当時電車の大きさも似通っていて、その頃は両社の保安装置の違いなど気にするまでもなかったようだ。

それで乗り入れは京阪が宇治から京都へ、奈良電が近鉄の奈良から三条へと決められた。ということで、京都駅には京阪のグリーンのツートンカラーの電車が、奈良電は鴨川ぞいに走って三条駅へ、おのおの乗り入れていたのだ。もっとも奈良電は西大寺から奈良までは近鉄に乗り入れていたから、3社直通運転ということになるのか。

この乗り入れは奈良電が近鉄に吸収合併された昭和37年以降も続けられ、今度は近鉄オリジナルの電車も三条乗り入れに加わったという。この時はまだ両社の電圧は同じで、乗り入れには問題がなかった。

架線の電圧が600Vというのは大手私鉄では問題が起こる。というのはそのままでは変電所の容量が不足してしまい、その変電所もたくさん必要になってしまうので、電車の増発や増結が難しくなってしまうのだ。大手私鉄やJRでは1,500Vが主流。近鉄は奈良線、京都線、橿原線がその600Vで残っていたが、大阪線などの1,500V線区と合わせて特急ネットワークをさらに拡充する必要があったのと、将来の電車大型化の必要もあって昭和43年12月19日をもって電圧を1,500Vに上げてしまった。一方京阪はまだ600V。この時京阪と近鉄の乗り入れは終止符を打った。両社を結ぶ連絡線も撤去されてしまった。

撤去された線路の跡は、今でも残っている。近鉄京都線桃山御陵前駅の京都行きホームの北端から、近鉄線から京阪丹波橋駅に向かって伸びていた線路跡が確認出来る。
その先を辿って行くと道路を跨いでいた橋の跡があったり、部分的に住宅地に転用されたりしているが、ちゃんと京阪丹波橋駅に行きつく。また京阪丹波橋駅の北側に目を移すと、駐輪場のある道路がそのまま坂を下りながら近鉄線に繋がっている。これらが近鉄と京阪を結ぶ連絡線だったのだ。

近鉄京都線桃山御陵前駅から延びていた連絡線の橋台跡

京阪丹波橋駅の接続地点跡

京阪丹波橋駅から延びてきた連絡線跡

道路を跨いでいた橋の跡

京阪丹波橋駅との接続地点跡

近鉄京都線との接続地点跡

その後京阪も同様に電車の増発、増結のため、電圧を1,500Vに上げた。電車の大きさは今では少し異なるものの、条件は同じになった。でも乗り入れが復活することはなく、その乗り入れを知る人も少なくなったようだ。

地上時代の京阪四条駅

京阪ではずっと計画のままだった出町柳延長が後に具体化したが、もともとはその先叡電との乗り入れが予定されていたという。しかし京阪と路面電車のイメージが残る叡電の電車はあまりにも規模が違いすぎ、それは事実上不可能。そこで乗り入れは中止となって出町柳駅の場所も計画より200m程後退する結果となった。ただし乗り入れは出来なくなったものの、当時乗客数の減少に悩んでいた叡電にとってはこの延長は功を奏し、乗客数は倍増して経営も好転したと言われている。

七条から三条まで、鴨川と琵琶湖疎水のあいだを走りつづけた京阪電車は地下化されたが、実は京阪の京都側終点は、開業時は五条だった。その直後に三条まで延長したのだが、この五条-三条間の区間はもともと京阪の路線ではなく、京都市が市電の路線として免許を獲得した区間だった。京都市電は昭和53年9月30日に全線廃止されているが、路線としてはその後も残っていたことになるワケだ。そして京阪の地下化の時に、この区間は正式に京阪のものになったらしい。

もともと京阪本線と大津線は線路が繋がっていて、さらに戦後の一時期、京阪大津線と京都市電はある理由があって東山三条で線路が繋がっていた。同じ頃京都市電と叡電も、これもある理由で線路が繋がっていた。ということは今の近鉄京都線は予想もつかない繋がりがあった…ということになるが、その辺の話はまた別の機会にでも。


京阪本線京都市内地下化以前は、淀屋橋から京阪特急で京都に向かうとJRをくぐって七条から鴨川ぞいに走ったのですが「ああ、京都に着いたな…」と実感したものです。風情がありましたねえ。
今では線路跡は川端通りになってしまって、クルマでこの間を走るとまるで京阪電車になった気分になりますが…(笑)。

次は、琵琶湖のほとりに話を移してみましょう。

【予告】石坂線の謎

―参考文献―

鉄道ファン 1987年7月号 鴨川と京阪電車 美しき川沿いのレールが消える (株)交友社

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