Rail Story 12 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー12

 都営新宿線乗り入れものがたり

京王新宿駅が地下化されたのは昭和38年4月1日のこと。この時京王線と地下線の歴史が始まったが、実は京王の地下乗り入れはこれよりもっと以前に計画されていた。

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前にも話したとおり、京王は現在とは想像もつかない路面電車スタイルの路線だった。戦後まもなくカーブが多く路面区間さえ存在した笹塚-新宿間の改良と電車の大型化が本格化するが、これは既に郊外電車への脱皮や高速化を行っていた京王にとっては遅れていた部分の一つで、戦前の昭和12年8月には初台付近-新宿間の地下線「新宿急行線」が計画され、特許申請までされていた。「急行線」と名乗る位なので、既存区間はそのままとして、別のトンネルを掘る計画だったのだろう。ただし当時の日本は戦争国家へと変わりつつあり、この計画は日の目を見なかった。
同じ頃京王は、他の私鉄同様に山手線の内側の都心部を目指す新たな地下路線を計画していた。それは両国線といわれるもので、新宿から神田を経由して両国を目指す予定だった。これも新宿急行線同様、世相にまぎれて実現しなかったが、おそらく両方の路線は接続されることになっていたものと思われる。しかしこれらがもし実現していたら、今の京王新線-都営新宿線の直通運転と似た形だったのは驚くばかりだ。

さらに戦争が激化、今の東京メトロ銀座線浅草-新橋間の前身、東京地下鉄道が同じく新橋-渋谷間の東京高速鉄道の親会社、東横電鉄(のちの東急)に吸収合併されかかった時に、当時の鉄道省や都心部地下乗り入れを希望していた東急・東武・西武・京成の私鉄各社が出資して、私法人「帝都高速度交通営団」つまり営団地下鉄が発足し、戦前におけるこの話の歴史は終わる。

戦後、昭和26年3月31日に営団地下鉄は私法人から公的法人に変わることになり、私鉄各社が保有していた営団株は営団自身と国、東京都が買い取ることになった。これは私鉄各社の都心部乗り入れが白紙になったことを意味し、数年後各社は改めて地下鉄路線の申請を行う。京王も再び両国線及び上野支線の申請を行うが、各社の足並みが揃わず営団、都も路線建設を打ち出したこともあって、運輸省(現在の国土交通省)の諮問機関、都市交通審議会が東京、大阪など大都市の鉄道路線について答申することになる。

この時点で5つの路線が東京の都心地下部を走ることになったが、京王の両国線・上野支線は答申に含まれていなかった。

後に審議会は5路線を追加、その中の都市計画路線9号線が京王の申請を受けたものだったが、思惑は少し外れ芦花公園から分岐して西永福、方南町、新宿を経由、その先は市ヶ谷・錦糸町・州崎を経て麻布へ向かうものだった。
この計画では、あの新宿急行線とは目的が異なり、直接京王線の増発とはならない…。京王は審議会に対しせめて芦花公園-新宿間を京王線に並行出来ないかと主張、結局9号線は継続審議となり棚上げされてしまう。後に10号線が京王の乗り入れ線となり、笹塚-新宿間はそれに対応した「新線」として建設されることになる。

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昭和38年、南多摩丘陵一帯に人口40万人の巨大住宅街計画が持ち上がる。現在の多摩ニュータウンで、そのアクセスとして京王は多摩川支線を延長する申請を昭和39年1月20日に行った。これは小田急、西武との競願となったが、調整の結果京王と小田急が進出することになり同年3月18日に再申請、続く6月3日には京王多摩川-稲城中央(現在の稲城駅から少し先の地点)までが免許された。

多摩川の砂利運搬線だった多摩川支線は一躍通勤路線「相模原線」として生まれ変わることになり、昭和46年4月1日の京王多摩川-京王よみうりランド間の開業をはじめに、昭和49年10月18日に京王多摩センターまで、昭和63年5月21日に南大沢までが開業、平成2年3月30日に橋本まで全通した。途中の昭和55年3月16日には都営10号線改め新宿線の新宿-岩本町間が開業して、京王線を介した相模原線との直通運転が始まっている。前話で述べたように、京王線全線のホーム延長など改良が間に合わず、都営線直通運転は初めから相模原線系統との繋がりを強めていった。

ところが相模原線は多摩ニュータウンよりもずっと先まで延びる予定があった。最終的な免許区間は昭和41年7月13日に相模中野までが得られており、観光路線としても期待が掛けられていたようだ。そればかりかさらに山中湖まで路線をつくる構想も存在したようで、最高速度160km/hの高規格路線で考えられていたという。
結局これはただの案に終わり、京王は昭和63年4月1日付けで橋本-相模中野間の免許を失効している。山中湖へは後に開通した中央自動車道を走る高速バスがデビューしたのはご存知のとおり。

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昭和53年12月21日、都営地下鉄三番目の路線となる10号線岩本町-東大島間が開業する。この線を走るために作られた電車、10-000系は試作車が昭和47年5月、既に姿を見せていた。開業まで6年以上もあるというのに、どうして電車が先行して出来ていたのだろう。走る線路すらないのに。

この10-000系試作車は当時最新のメカニズムを搭載し、長期試験を目的としていた。その内容は自動列車運転装置(ATO)、半導体を多用したモーター制御装置(電機子チョッパ)、自動放送装置などだった。それ以上に地下鉄車両として始めて冷房が搭載されていた。地下鉄の冷房といえば大阪が先のように思えるが、車両としての搭載例はこの東京都10-000系試作車で、実用化が先だったのは大阪ということになる。試験運転は10号線が出来ていないため、6号線(現在の三田線)で行うことになり、足回りだけは三田線仕様でつくられていた。
6号線で約2年間行われた試験運転の結果、ATO、自動放送装置はまだ実用化段階ではないと判断された。試作車はやがて量産車がつくられると仕様を統一する改造がなされ、足回りは6号線の電車に転用される。ただし肝心の目玉商品、冷房装置は何と「時期尚早」ということで取り外される始末…。

ところで、都営新宿線のレールの幅は、京王と同じ1,372mmである。この時点で東京都の電車は浅草線の1,435mm、三田線の1,067mm、荒川線(都電)の1,372mmが混在しており、路面電車の荒川線は別としても、地下鉄路線が各々別のレール幅というのは珍しく、かつ経費も掛かるのは明白だ。計画当時、都としては10号線を浅草線と同じ1,435mmとしたい意向があったのは事実で、また京成も乗り入れの意向を明らかにしたこともあったという。
かつて浅草線(当時は1号線)に京成が乗り入れた時は京成のレール幅を1,372mmから1,435mmに改修する大工事を行ったこともあり、京王も同様に工事が必要となるところだったが、直通運転が決まった時点で京王の電車運転本数は加速度的に増えていた時期、とても京成の時のような工事は無理だった。結局監督官庁も調整にあたって京王の1,372mmで新宿線が建設されることに決まったというが、大阪で地下鉄堺筋線をめぐって阪急・南海・大阪市で似たような話があったのは興味深い。しかも多摩ニュータウンと千里ニュータウンという大規模な住宅団地を控えていたというところまで…。

もっとも京王も昭和30年代、将来的にレール幅を1,435mmに改修する計画があったという。線路の工事そのものは全く具体化しなかったが、「グリーン車」のうち最終製造車の2010系、また名車5000系の初期製造車は改造を考慮した足回りを採用していた。どうやら都営線との直通運転はこの時期から考えられていたようだ。もっとも終戦直後に1,372mmいう本来路面電車のレール幅が地方鉄道法適用になったのが、こんな後になって都営新宿線のレール幅にまで影響するとは…歴史とは思わぬ結果を生むものである。

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昭和55年3月16日には都営10号線改め新宿線新宿-岩本町間が開業、京王新線とレールが繋がり直通運転が始まった。京王が戦前から夢見てきた地下鉄への進出がようやく叶ったのだ。翌昭和56年9月1日の朝、京王多摩センターを発車した10両編成の通勤快速が岩本町を目指したが、当時の終点、東大島までは走れなかった。
というのも、計画時点で都営新宿線は10両編成運転が求められる程の規模とは考えられておらず、6両での運転が妥当とされていた。ところがこれではどうにも需要には追いつかなかったようで都は8両に変更したものの、京王の乗り入れが近づくと、あの10両編成の乗り入れ話が持ち上がった。これは工事中の地下鉄のホームを延ばす必要があったが…意外なことに都はすんなりと受け入れたという。

それは多摩ニュータウンが都の主導もあって開発されたものであり、そのアクセスとしての重要性を認めたことによるが、もしかしたら、かつて京王新宿駅がつくられた時、地下駐車場のスペースを譲らなかったばっかりに苦悩した京王への借りを返す意味もあったのかもしれない。まずは新宿-岩本町間を10両対応で建設、後に全駅を10両編成対応に改修することになったものである。

平成元年3月19日、都営新宿線は全通し京王の電車が千葉県の本八幡まで直通した。

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さて京王といえば、名車5000系が製造途中から通勤タイプの電車としては日本初の冷房車を導入しており、都営線直通用につくられた6000系も、もちろん全車が冷房搭載でデビューした。ところがいざ直通運転が始まるとなった時に都は冷房車の導入を諦めており、京王6000系はやむなく新線新宿駅で冷房を止める処置を取らざるを得ず、これは浅草線と直通運転している京急・京成も同様だった。。
しかし当時既に世間は夏季の冷房が当たり前となっており、サービスの面で地下鉄も冷房車を走らせないと無理な状況となった。都は昭和61年に10-000系に冷房装置を搭載開始、平成8年度までに新宿線全車の冷房化を行った。一旦は冷房装置を降ろした10-000系試作車も再び装置を載せて走り出した。一方の京王は昭和62年の5000系初期車引退で一足先に完全冷房化を達成していた。

神奈川県-東京都-千葉県という長い距離を走ることになった京王と都営新宿線の直通運転は、平成9年12月19日の都営大江戸線全線開業と同時にダイヤ改正が行われ、地下鉄路線としては初の急行運転が始まった。これまで優等列車といえども地下鉄線内では各駅停車というのがセオリーだったが、とうとうそれを打ち破ったことになる。
かつて日本初の地下鉄、東京地下鉄道が上野-万世橋間を延長開業した頃、地下鉄には急行運転の計画があったという。これを聞きつけた松坂屋は最寄り駅である上野広小路を通過駅にしないよう東京地下鉄道と協定を結んだ。結局東京メトロ銀座線となった現在も急行運転は行われていないが、ずっと沈黙を守ってきた地下鉄の「急行」が初めて走ったという事実だった。
翌平成10年11月18日には京急空港線が羽田空港まで延長され、成田空港とを結ぶ「エアポート快特」が走り出したが、これも都営浅草線内は「快特」のまま、一部駅通過となっている(現在京成線内は快速)。

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都営新宿線の開業以来ずっと走り続けた京王6000系、東京都10-000系にもそろそろ疲れが見え始めた。どちらも初期車から引退が始まっているが、都が送り込んだ新車10-300系は、時代を反映したといえばそれまでだが、あっと驚く電車だった。

それはかつて紹介した「異母兄弟」。JR東日本のE231系とほぼ同じ車体だ。車幅の関係から東京メトロ東西線直通用のJR東日本E231系800番台や、東京メトロ半蔵門線・東武伊勢崎線直通用の東急5000系などがその「兄弟」にあたるが、見た目に違うのは足回りと車体に巻かれた帯の色、正面のデザインくらいのものだ。

東京都10-000系 東京都10-300系
従来から活躍している東京都10-000系 こちらは新車10-300系

いっぽう京王が準備している9000系は、これまた車両メーカーである日本車両主導の標準車体で、既に名鉄、京成などにもドアの数などは違うものの「兄弟」が走っている。都の10-300系はJR東日本と東急車輛の提唱によるものであり、いわば異母兄弟のさらに従兄弟同士が同じ路線を走る…ということになるだろうか。ともかく、京王と都営新宿線の直通運転は、今後もますます目が離せない。

―あとがき―
昨年夏、前作「レイル・ストーリー11」をリリースしてはや1年近く経ちました。今回ももっと早くリリースすべきだったのですが、ともかくこんなに時間が開きましたことをお詫びいたします。
今、ボクの住む金沢では、金沢駅周辺の再開発が盛んです。かつて「国鉄」だった頃の面影はもう殆どないと言っていいでしょう。もっともこれは北陸新幹線開業を見越した特需景気のようなもので、新幹線の金沢開業の時期などまだ全く判らないのですが、ともかくクルマ社会の北陸で、少しでも鉄道復権に繋がれば…と思う次第です。

さて、そろそろこの話も書き上げようとした頃になって、阪急と阪神の合併騒ぎが舞い込んできました。

一部マスコミはろくに調べもせずに興味本位の記事を書きたてていましたが、それは早計というものでしょう。JR西日本の「アーバンネットワーク」は私鉄各社には脅威であったばかりか、このような再編話まで至ったようですが、それは単なる「吸収合併」や「再編」ではなく、私鉄同士争っていたのは過去の話、お互いスクラムを組んで不況・少子化なども含めて対応していこう…という姿勢ではないかと思います。

そんな中、ちょっと気になったのは「誰が最前線で働いているのか」という点です。
鉄道には安全が最優先であることは論を待ちませんが、電車を整備し、運転し、駅で乗客を迎え、本当に汗を流しているのはこんな現場の方々なのです。金に物を言わせ、情報を流して株価を吊り上げ、挙句に売却益を得ようなどというのは、お客様など眼中に無く、あるのはPCのモニターだけ。こんな金に目が眩んだエセ経営者に、お客様を顧みることはおろか、最前線で働く人や創業者の思いなど理解出来るはずがありません。
お客様のために、こつこつと働く鉄道マン…鉄道に限らず、全ての職種でも同じです。今、早ければ学生の内からマネーゲームに手を染め、働かずして儲けようと思えば出来る時代になったというのには異論を覚えますが、働くことの喜びを必ずしも良しとしない風潮があるのは確かです。こんな目先の儲け話や、くだらない娯楽や情報の垂れ流しばかりではなく、もっと世の中が真面目になる時期ではないでしょうか。

長くなりました。この辺でペンを置くこととします。また次回作でお逢いしましょう。

ご乗車ありがとうございました。
平成18年初夏

―参考文献―

鉄道ファン 1998年6月号 特集:地下鉄ネットワーク 交友社
鉄道ファン 2001年11月号 大手私鉄の多数派系列ガイド11 東京都交通局10-000系 交友社
鉄道ピクトリアル 2003年臨時増刊号 【特集】京王電鉄 鉄道図書刊行会
鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄 鉄道図書刊行会

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