Rail Story 11 Episodes of Japanese Railway レイル・ストーリー11

 幻の路面電車 2 (前編)

京王6000系京王電鉄は広義の二路線に分けられる。
一つは京王線で、これには高尾線や相模原線、都営新宿線直通の京王新線が含まれる。レールの幅は1,372mmと珍しいもので、都営新宿線と共に高速鉄道としては全国でも唯一の存在だ。
もう一つは井の頭線だが、こちらはもともと小田急系列の帝都電鉄という路線で、レールの幅は1,067mmと京王線とは異なっている。戦後京王帝都として両線が一緒に東急から独立した経歴を持つが、両路線は生まれも育ちも、もちろん性格も全く違うものがあり、それが混在しているところに京王の魅力があるのかもしれない。

前回は京王新宿駅の生い立ちと現在の京王線のスタイルを確立した5000系電車の話をしたが、今回は京王線黎明期から続く、新宿付近の足跡を探ってみよう。

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京王線は明治43年9月21日に設立された京王電気軌道(以下京王電軌)を前身とするが、実はこの社名は三度目のもので、もともとは明治38年12月12日に新宿-府中間の路線を出願した日本電気鉄道というものだった。
ところがこの社名が漠然としすぎていたのか、早くも翌年8月18日には武蔵電気軌道と改称している。明治40年6月25日には新宿-八王子、府中-国分寺間の路線特許を取得した。ただし新宿-八王子間のルートは現在の京王線とは若干違ったものだったらしく、立川を経由することになっていたという。
ようやく明治43年9月21日に社名は京王電軌に落ち着く。これは現在の西武池袋線の前身、武蔵野鉄道と紛らわしかったのだろう。明治45年6月には調布-笹塚間が着工され、1年足らずの翌大正2年4月15日に同区間が開業した。
この時現在に至るレールの幅1,372mmを採用したが、同時期に開業した玉電こと玉川電気鉄道(後の東急玉川線。現在の東急田園都市線の一部区間の前身)などと同様、東京市電(現在の東京都電)との直通を考慮したものだった。調布-仙川間は併用軌道区間があったという。

続く笹塚-新宿間は、開業当初はバス連絡を余儀なくされていた。これは用地買収に手間取ったためで、結局幡ヶ谷以東で玉川上水や甲州街道などの公用地を利用することになったものの、調布付近同様一部を甲州街道との併用軌道とせざるを得なかった。こまめな部分開業の後、大正5年4月30日に西口ではなく東口の新宿追分まで全線開業。この時点の京王電軌の電車は路面電車然としており、道路上の運行には全く問題がなかったようだ。同年10月31日には府中-調布間が延長開業した。

さて府中以西は多摩川があるため長い鉄橋を架けなければならなかった。そのため一旦工事は見合わされてしまい、京王電軌が取得した府中-八王子・国分寺間の特許は府中延長を前に失効している。京王線は前途を失ったが、のち沿線からの誘致もあって京王電軌40%出資の玉南電気鉄道が設立され、路線の建設は継続されることになった。
ところがこの路線は京王電軌とは違い法規的には軌道ではない(路面区間のない)地方鉄道として免許申請している。というのも当時地方鉄道法が適用されると政府から5年間補助金が交付されたためで、当然京王電軌はこれを目論んでいた。ただし当時の地方鉄道法では京王電軌と同じレール幅1,372mmは認められておらず、仕方なく1,067mmで建設を進めざるを得なかったという。

大正15年3月24日、玉南電気鉄道府中-東八王子間が開業。ただしレールの幅が違うので京王電軌との直通運転は不可能で、当然府中での乗り換えを余儀なくされたことから両社共に乗客は伸び悩み、しかも京王電軌が期待した補助金も「鉄道省中央線と隣接している」という理由で交付されなかった。こうなると玉南電気鉄道の存在理由がなくなり、同年12月1日に京王電軌と合併した。元の玉南線はレールの幅を京王電軌線に合わせることになり、路線免許を特許に切り替えての改修工事が進められることになった。
昭和2年10月28日には路上の新宿追分から新築成った京王ビルに駅を移転、初代京王新宿駅が完成した。翌昭和3年5月22日には新宿-東八王子間の直通運転が始まったが、このように京王線が現在の運行スタイルになるには10年余りを要したことになる。

この直通運転開始にあたっては、府中以東の既存線の改修も要している。玉南電気鉄道の電車は連結運転に対応しており、また京王電軌の電車よりもやや大きく作られていたため、そのままでは直通出来なかったからだ。調布-仙川間の併用軌道区間は線路の移設で専用軌道となり、その他にもホームの嵩上げや高規格レールへの取替え、上下線の間隔の拡大などかなり大掛かりな工事が行われ、路面電車スタイルから高速電車への脱皮が始まっている。ただし幡ヶ谷-新宿間の甲州街道上の併用軌道や玉川上水沿いの急カーブなどはそのまま残ってしまった。

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これでは将来的な京王線の高速化・規格向上には問題がある。昭和11年に一部区間について玉川上水を暗渠にしてその上に線路を移設、専用軌道化を行ったが、半径60mの急カーブが残るなど全面的な改良には程遠かった。
京王はこれを解決しようと昭和12年8月に現在の初台付近から新宿までを地下化する計画を立て、実際に特許申請まで行っている。しかし太平洋戦争の影響で進展せず、陸上交通調整法により昭和19年5月31日に東急に一旦合併、その中で昭和20年7月23日に幡ヶ谷-新宿間は駅が整理・統合されるに留まってしまった。

また戦争の激化により電力事情は悪化、京王線は新宿東口から撤退して西口に移転した。…程なく終戦。その年の10月にはレール幅1,372mmながら前年に改正された地方鉄道法の適用を受ける。昭和23年5月1日、旧帝都電鉄線を井の頭線として仲間に加え、荒廃の中から京王の戦後は始まった。

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京王に限らず戦後の鉄道界は乗客の急増に悩まされる。帝都線改め井の頭線では車庫が爆撃に遭って動く電車はたったの7両、東急時代に東横線や京急線に走らせる予定だった電車を急遽投入してもらうなどしてどうにか乗り切った。いっぽう京王線では電車の被災もさることながら変電所の被災もあったという。それでも路面電車スタイルを残す電車たちは手を繋いで頑張った。そんな中、幡ヶ谷-新宿間の玉川上水沿いの連続カーブは、相変わらず電車の大型化を阻んでいた。

このままでは需要に追いつかない。昭和25年9月に改良が行われて半径60mのカーブは90mに緩和され、少し車体が長くなって郊外電車スタイルを導入した戦後初の新車、2600型の3両編成が区間運転ながら走り出した。昭和28年11月に甲州街道の拡幅が行われた時には新宿駅から西へ向かう併用軌道は道路中央に移設されて、大部分が専用軌道のグリーンベルト状になったが、この間の制限速度は相変わらず25km/hだったとか。

いっぽう終戦直前につくられた京王新宿駅もまた需要に応えるものとは言えなかった。しかも線路が甲州街道を横切る二箇所の部分は遮断機もなく混雑を招いており、この事態を重く見た建設省(現在の国土交通省)は京王に対し「ウチも金を出すから新宿駅をなんとかすればどうか」と話を持ちかけた。当の京王側もこの区間の悩みを解消すべく戦前に計画した地下化を再び持ち出し、両者は昭和33年6月に協定を結んで、翌年から工事が進められた。
また東京オリンピックの誘致が決まると、初台駅付近で平面交差していた環状6号線の保安上の問題が浮かび上がり、これも「立体交差化すればどうか」という話が、今度は東京都から持ち上がった。新宿駅からの地下化と合わせれば、初台駅の西から一気に路線を地下化してカーブを緩和でき、戦前に成しえなかった京王の懸案は一気に解決する。こちらも昭和37年10月に協定が結ばれ、引き続き着工された。

ただしこの区間は既存の線路の真下に地下線を作らなければならず、しかも玉川上水はまだ埋め立てられる前だったため、一旦水路をパイプで移設、元の水路の場所に仮の線路を設け地下線を建設、最後に水路を元に戻すという複雑な工程を要したという。

昭和38年4月1日、京王新宿駅は新装成った地下駅に生まれ変わり、終戦直後そのままの姿だった元の新宿駅は姿を消したが、そのホームは最後まで板張りのままだった。ただしこの時点ではまだ初台駅の西までの地下線は出来ておらず、暫定的に文化服装学院(今の文化女子大学)の前で線路は地上に出ていた。このため同年8月4日には電圧の1,500V昇圧が完成して名車5000系が走り出したものの、10月から運転開始された特急は、まだ残る工事区間のためノロノロ運転を余儀なくされたとか。
オリンピック直前の昭和39年6月7日にはめでたく地下化が完成、基本的には元の地上ルートを継承するもののカーブはさらに緩和され、輸送力は向上した。京王の戦後はこの時、ひとまず終わった。

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ところで戦後まもない昭和26年、営団地下鉄(現在の東京メトロ)が私法人から公的法人になった時に、在京私鉄各社は保有していた営団株を放出したが、それを機会に各社は東京都内への地下鉄進出を計画、京王も昭和30年に新宿から神田を経由して両国、上野への路線を申請していた。当時都内では都電が中心的存在だったが、交通マヒと共に邪魔者扱いされていたのは確かで、また新宿駅のラッシュは激化、京王や小田急から国電に乗り換えるのは至難の業だった。私鉄が地下鉄での都内進出を図るのは、むしろ当然だっただろう。

この後、都市交通審議会により地下鉄路線が次々と打ち出されていくが、京王の申請した路線は継続審議され、芦花公園を起点に西永福、方南町、新宿を経由して市ヶ谷、錦糸町を通って麻布へ至る、東京都の都市計画高速鉄道9号線と位置づけられた。
しかしこの計画は新宿以西で京王の営業エリアと重複しているため、京王は芦花公園から新宿までを京王線に併設することを主張、事実上の複々線化を目論んでいた。
この京王の案がまたも継続審議を呼び、結局9号線は計画が変わって現在の千代田線となり、京王ではなく小田急が営団線・常磐線直通の形で先に地下鉄進出を果たすことになってしまった。京王の地下鉄進出は小田急に遅れること2年、昭和55年3月16日のことで、都営10号線改め新宿線直通運転で実現する。

都営新宿線直通運転を前に、京王は笹塚から新宿までの京王新線を昭和53年10月1日に開業し初台、幡ヶ谷駅は新線に移転、京王線は接続駅となった笹塚駅の東までさらに地下区間を延ばしている。奇しくも地下線が並行する結果となってしまったが、もともと京王線のほうは戦前の計画では「地下急行線」という位置づけだったらしく、ようやく本来の意味を持ったとも言えよう。また、かつての地下鉄9号線による複々線計画がここで実現したことになる。ただし京王線の複々線化計画は、調布-新宿間でも考えられていたことを付記しておこう。

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現在京王線の新宿口は、京王新線との両輪で大幅な輸送力増強が実現している。それは京王の創業時からの長い歴史が息づいている場所と言っても過言ではないだろう。ただし苦難続きの、また意外な歴史でもあった。


今の京王線の姿からは、かつて甲州街道上を電車がのんびり走っていたという事実は全く想像出来ません。しかしそれを偲ばせるものは、これも意外なほど多く残っているのです。

次は、京王線新宿口に今も見られる、かつての名残を訪ねてみましょう。

【予告】幻の路面電車 2 (後編)

―参考文献―

鉄道ファン 1994年1月号 特集:全国地下鉄事情 交友社
鉄道ピクトリアル 2003年7月臨時増刊号 【特集】京王電鉄 鉄道図書刊行会

鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション9 京王電鉄 鉄道図書刊行会
鉄道ダイヤ情報 1997年2月号 総力特集 京王帝都1997 弘済出版社

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