きみを希う vol.2



 逃げた馬は近くの川で水を飲んでいた。馬をすぐに捕まえられたお蔭で近衛騎士たちは無事ふたり揃って馬上の人となり、予定通りの帰還が叶った。馬が見つからなければ王都まで気の重い旅になっていたところだ。物怪の幸いである。

 ふたりの任務はセシルを巡監使ミッターヒルのもとへ連れて行くことだった。セシルの任務については特に聞かされていない。その必要がなかったからである。

 多少の躓きがあったとしても、予定の場所に程近い手前で巡監使一向と合流できたことは偶然とはいえ、ふたりにとってこれはこれで僥倖となった。

 セシルは近衛騎士たちに礼を述べ、彼らの帰路の無事を祈る。

 これらはすべて、豚男が連れて行かれたあとの一幕だった。



 別れを挨拶を交わし、近衛騎士の背中を見送る間、巡監使は息子ほどに年の離れた、新しく同僚となったカンギール人の子どもの顔をしげしげと見つめていた。

 噂に高いカンギール人の特徴でもある乳白色の髪は青の組紐でひとつに結ばれ、まるで小ぶりの白馬の尾のように申し訳ない程度に襟足に垂れている。すっと伸びた鼻筋に愛らしい小ぶりの唇。とても整った容貌をしている子どもだと感心する。野に咲く小花の可憐さというよりも大輪の蕾を匂わせる。あと五年も経てば、どれほど匂わしい美貌となるか。

 森の緑の中に流れ落ちる滝のような、心洗われる清麗さをまとって凛と佇むその姿勢の美しさにも眼を惹かれる。

 特出すべきはその左右異色の瞳である。金に緑の斑の左眼、夜明け前の一瞬の狭間の空を思わせる灰色がかった青の右眼には、信念を貫く強い光が差している。

 また、この年齢にして、多少のことでは動じなさそうである大人びた落ち着きも好ましい。そうでなくてはおそらくこんなところに来れるはずはなかっただろうが、遣わされて来るのは十歳の子どもと聞いていたので、一応の覚悟はしていたのである。だがどうやら杞憂だったようだ。

 領主代行を務めるほどだ、このカンギール人の子どもが将来、女性化を選ぶとは思えない。数年経てば男性化して正式に爵位を継承するのだろう。これほどの美しい逸材を世の男どもは諦めなければならないとは、この国の社交界にとって大きな損失だなと巡監使は心中惜しんだ。

 見送りを済ませると、巡監使は移動を促した。

「ギルバーベルさまは巡監使でいらっしゃると伺いましたが?」
「ははは。そう畏まらずともよいではないですか。ここは王宮ではないのですから、ミッターヒルで結構ですぞ」

 触れたら壊れそうな繊細な外見とは違い、カンギール人の子どもは物怖じしないはっきりとした性格のようで、小隊の隊長格にあたる巡監使が面倒見の良い人柄をしているようだと見抜くと、礼儀をわきまえつつもいろいろと質問してきた。

 素直に疑問を投げてくるところはこの年頃の子どもらしく、セシルと話していると殺伐とした任務から一瞬解放される。巡監使はこのひとときを楽しむように、どの質問にも丁寧に答えた。

  今、セシルは再び馬上の人となり、手綱は赤毛の少年が握り、引き馬を引き受けてくれている。夕暮れが周囲の草木を赤く染める中を、巡監使は馬と並んでともにのんびりと歩いていた。

 実はこのような道行となるまでに一悶着あったのだ。

 移動すると言われてすぐにセシルは、自分が歩くので巡監使が馬に乗ったらどうかと申し出た。上役にあたるであろう年長者を歩かせることに抵抗があったためだ。しかし巡監使は子どもの足では余計な移動時間がかかってしまうと断る。ではふたりで乗ったらどうかと提案すると、王都からここまで走ってきた馬に自分の体重は負担をかけすぎる、いいからそのまま乗っていらっしゃいとこれまた促されてしまう。そこまで言われてしまうと、セシルもさすがに引き下がるしかなく、結果、巡監使と少年が徒歩で行き、セシルは馬で行くことになったである。

 そんなやり取りを経て、ひとりだけ馬に乗っているこの現状を心苦しく思っていたところに、今度は呼び捨てにしろと言われたのである。セシルはぎょっと眼をむいた。

「目上の方に向かって呼び捨てなど、そんなことはできません」
「ここは市井ですぞ、オトゥールどの。堅苦しいとかえって目立ってしまいます。我らはこの先、隠密で動かなければならないのですぞ」

 任務に支障が出ると言われてしまっては我を通すわけにもいかない。

「……わかりました。では、ミッターヒルさんと呼ばせていただきます。私のことはどうぞセシルとそのまま呼んで下さいませ」

「セシルどのではいけませんかな。あなたは伯爵代行として伺候なさっておられるのですから。つまりはご領主代行であられる」

「お言葉を返すようですが、私のような子ども相手にあなたのような立派な大人の方が敬称をつけて呼ぶのはとても不自然です。どうぞお気になさらずに」

「これは一本取られました。まったく打てば響く方ですなあ。では失礼して、セシルと呼ばせていただきましょう。セシル、ついでに言葉遣いのほうもお互いもう少しくだけるよう心がけましょうか。このあたりはまだ人気がないので、盗み聞きするものもいないかとは思いますが、今後、町中に移動することにもなるでしょうからな」

「はい」
「よろしい」

 ふたりは納得したようだが、そばで聞いていた赤毛の少年は全然納得がいかなかった。これのどこがくだけた言葉遣いなんだと声を大にして言いたかった。いくらなんでもこのふたりは常識を知らなすぎると憤りさえ感じていた。さきほど初めて会ったというのに年齢の差に関係なく楽しげに会話を続けているこのふたりの穏やかな会話が耳に入ってくるたびに、少年の表情はますます呆れたものになっていく。

──ここはなにか、装飾豪華な貴族屋敷か。違うだろう。こんな村はずれの田舎道で気品を無駄にばらまくんじゃねえ。

 少年から湧き出る怒気を感じたのか、馬がヒッと慄いた。少年は即座に反省し、悪かったなと心の中で謝りながら栗毛の身体を優しく撫でてやる。すると馬もすぐに大人しくなった。

「そうそう先程の質問ですが、私は確かに巡監使ですよ。まだ一年程度しか就いておりませんが、そう自負しています。もともとあちこちふらついては領主がどのように領地を治めているのかを監察するのが本来、巡監使の務めですからな、一年程度で回れる範囲はたかが知れてます。まだまだ私は新米巡監使といったところですわ。たった一年でも地方を回っているといろんな噂が耳に入ってきましてなあ。時にはきな臭い噂や不自然な出来事に出会ったりするものなのです」

 そこで一旦、巡監使は声を潜めると、
「贋金の取り締まりなどという今回の任務に地方専門の私が関わっていることに違和感を感じても当然でしょうが、今回の件につきましても別件を調査していていたところ、贋金の取引情報をたまたま得ましてな」
 と納得尽くの顔で頷き、声を平常に戻した。

「それも地方を転々としながら取引しているとらしいということで、地方巡り専門の巡監使が中心になって突き止めるのが最善だろうと方針が定まりまして、この際ばらまいている奴らはもちろんのこと、ついでに例のやましいものを製造をしている場所もすべて押さえろと命じられた次第です。ご存じのとおり、先の戦いのせいでこの国は人手不足でして、王宮もまた然り。お蔭で今はこの通り、巡監使は休業中でして。王宮騎士たちを取りまとめる役を命じられればそれに従うまでですが……。これは私の我がままかもしれませんが、この現状下でさえも私は今もなお巡監使と称しております。このまま人手不足ともなれば任務完了となったのちも本来の巡監使のお役目を続けることは難しくなるやもしれせんがね。けれど、できるだけ末永く巡監使でありたいと、そう思っておるのですよ」

「それは……、とてもご立派なお考えだと思います。ですがではあの…、お話の流れからするともしかして、ミッターヒルさんは近い将来、王宮のほうに移られる予定がすでにおありなのではありませんか?」

「よくわかりましたなあ。実はうちうちに打診が来ています。少しばかりですがこんな私にもなかなか地位の高い知人がおりまして、親切なんだかそうでないのかはなはだわかりませんが、内密に教えてくれました」

「……そんな大切なお話を私などによろしいのでしょうか?」
「構いませんよ。どうせそのうちみなの知るところになるのですから」

「はあ、そうなのですか」
「ええ。そうなのです。実はこれでも勲章のひとつやふたつ、持っておりましてなあ。それともそんなふうには見えませんか?」

 ミッターヒルはからかうようにふんぞり返って胸を張り、どうだ強いのだぞと誇示して見せた。その芝居っけあふれたおどけぶりに一瞬唖然としつつ、次の瞬間にはミッターヒルの笑みに釣られてセシルも顔をほころばせていた。

「長いこと騎士生活をしておりますと、たまには有難い機会にも恵まれます。そういう昔のことを掘り下げて、巡監使をさせておくより騎士団を取りまとめさせておくほうが使い勝手がいいだろうと上層部のほうで判断したのやもしれませんが、正直、もうしばらく地方を巡っていたかったというのが本音ですよ」

「ですが、騎士団と取りまとめるという大役を賜るということは、ミッターヒルさんがすごい方だという証しではありませんか。本当に優秀でいらっしゃるのですね。──あ、ではそうなりますと、巡監使は別の方が新しく?」
「おそらくは」

「あの」
「何でしょう」

「このようなことを宮仕えの方には申しにくいのですが、巡監使になれる方はそれほどいらっしゃらないのでは? ほいほいとそう人材が出てくるようには思えませんが」

「ほう、そこに行きつきますか。さすがに最小年齢で文官伺候試験を通っただけはありますな。そうですよ、セシル。あなたが案じているように普通の監察官は文官でも務まりますが、巡監使となると文武両方の才が必要になる職ですからな、なり手はぐんと減ってしまうのが現実です。それこそほいほいとは無理でしょう。巡監使は監察職の中でもその任務は特殊ですからな。隠密にひとりで辺境を回ることもあれば、野盗に襲われる危険もある。一癖も二癖もある領主相手に厚顔でもって立ち向かわねばならない時もあれば、破落戸どもに制裁を与えなければならない時もある。この物騒な世の中です。多少腕がありませんと務められません。まあ、日頃から領地から領地へ物見遊山しているような職ですから、はたから見れば何事にも縛られず、自由奔放な閑職そのものです。まあ、自分で言うのもおこがましいのですが、攻防ともに腕に自信がなければやっていけないのが巡監使だと思っています。誇れる監察職だとでも言えばよろしいかな。机上でしか物事を考えられない頭の固い文官や筋肉に脳が詰まっているような考えなしの武官では到底務まりますまいよ」

 まさに厳しい職なのだなとセシルは強く頷いた。聞けば聞くほど巡監使が務まる官吏は少ないだろうとつくづく思う。

 文武ともに才あるものなどほんの一部である。それに、才あって向上心があるものはだいたいにして出世欲も比例してあるものだ。

 巡監使はほとんど名誉職のようなもので、王宮の官僚たちと比べるとその地位は格段に低い。志が高く、実力を備えている人材となると、なり手はさらに少なくなるのは想像するに容易い。

 地方の各領地を見て回る巡監使は、契約を監察するのが本来の任務である。この場合の契約には広い意味が含まれる。例えば、貴族が王から領地を賜る時、正しく領地を治めるという宣誓をする。これは領主となる貴族が王もしくは王家とその領地に対して交わす契約である。

 巡監使は正しく契約がなされているかを見て回る。領地内で不正が行われていないか、領主の能力が足りているか。監察権のもと、領主が行う治政に教示や諫言をすることが許されている。地方においては領主と同格の権限の行使も許されているため、領主にとって巡監使とは、心強い助言者でもあり、恐ろしい弾劾者にもなり得た。

 地方巡りが主な仕事となれば自然と王都への足は遠のくものだ。必然的に社交界とも遠ざかり、貴族同士の付き合いも減る。たまに社交界に出ても、田舎生活ばかりしていて鄙びた印象もあるからか、一緒にいては自分も鄙びてしまうと言わんばかりに寄ってくる数も少なくなる。公平無私に監察職を全うするのにはそれくらいが丁度いいのだろうが、貴族、特に領主と呼ばれる貴族たちに煙たがれるのは必定だった。

 そのような名誉職である。当然、巡監使を敬遠するものは多い。

 宮廷伺候制度が制定される以前にも巡監使という職種は存在し、当時はとても人気があった。監察権を持っているとはいえそれはただのお飾りで、各地方を回りながら領主と歓談し、酒を飲みかわすだけの閑職だったからだ。当時も名誉職と呼ばれていたが、今とは含む意味がだいぶ異なった。

「あまりご心配なさりますな。伺候試験の制定によって、貴族だけでなく平民にも門徒は開かれたのですから、これからは優秀な人材がますます増えていってくれますよ」

 ちなみに自分はしがない子爵家の二男なのだとミッターヒルは自分の出自を明かした。

 貴族の世界では爵位や領地はすべて男子の長子が受け継ぐものと決まっている。二男以下の貴族の男子は実力で身を立てなければならない。一族当主の補佐にまわるか独立するか。貴族の一員として名誉や名声や出世、報酬を考えるならば、武官や文官として王宮に仕えるのが手っ取り早いが、以前の慣習のままであったならば、縁故がなければ王宮勤めなど叶わなかった。

 だが今は違う。

「宮廷伺候資格を受け、伺候資格さえ得られれば伝(つて)に頼らずとも正当な手段でもって王宮に仕えることができますからな。私のように二男坊に生まれたものにも希望が持てます。いやはや、本当にいい時代がやってきましたわ」

 宮廷伺候資格には武官と文官の二種がある。

 武官伺候試験には剣術をはじめとする実技試験と、国史、儀礼、作法、慣習などを含む一般教養問題で構成される試験があり、両方の試験に合格すれば晴れて騎士候補になれる。その後、才があれば数か月、必要とあれば数年の間、従騎士として修業し、実技において現役の騎士から推薦を得て、そのあと上官たちによる面接に通れば正騎士となれる。一代限りの士爵位を受爵、つまり、騎士を名乗れるようになるのである。

 一方、文官伺候試験は二種類の試験で成り立つ。文官試験の筆記試験と文武ともに共通問題の一般教養試験である。筆記試験は計算力、語学力、思考力、国際理解、戦略構築力、経済理論に関する基本知識力を問う能力判定試験となっている。この筆記試験では、すべての分野に優秀でなければならないと合格できないというわけではない。ある一定水準以上の基本知識さえあれば、多少苦手とする分野があっても一部の知識能力が特出していれば合格することもあり得るのだ。その代表的なものに通訳がある。そして両方の試験に合格したものは官吏見習いとなり、下積み期間を経て、上官たちによる推薦、面接を受けて正式に官吏となるその手順は武官とそれほど違いはない。こちらは文官伺候資格として、一代限りの官吏手形が発行される。

「セシル、あなたは十歳だと聞いていますが、その年齢で文官伺候試験を通るとはものすごく優秀なのですなあ。誰かれかまわず誇ってもよいことですぞ」

「ありがとうございます。たまたま試験に解ける問題出たのかもしれませんし、とにかく運が良かったのでしょう。それに私の場合は必要不可欠というか、切羽詰っての受験だったので、自慢できる話ではないのです」

「次期伯爵であるあなたが切羽詰るとはどのような理由がおありになるのか、まったくもって聞き捨てなりませんな。よろしければ伺っても構いませんかな」

「あ、はい。実は祖父の伯爵が二年前から体調を崩しておりまして……」

「祖父どのが?」

「はい。孫の私が次期伯爵というのはおかしいことだとお思いでしょうが、父はもう何年も前に水難事故で亡くなっていますので、王宮より許可を頂きまして爵位継承は私になされることに。とはいえ現当主はあくまでも祖父です。当然五十日伺候も祖父が行うべきなのでしょうが、祖父の体調を考えますと二年前の時点で今後伺候するにしても支障がでてくることは明らかでしたので……。それで制度施行と同時に文官伺候試験に申し込みました。お恥ずかしい話なのですが、我が伯爵家には免除申請したくてもそのような財力などありませんので」

「なるほど。免除申請は財政的にどこぞの貴族もきついと聞きますからなあ。それにしても、伯爵代行として伺候しなければならなくなるかもしれないと幼心に理解していたとは利発な心がけですぞ。子どもであろうとあなたは立派な伺候資格を持っておられる。これからも堂々となさることです」

「はい。ミッターヒルさん、私は今回はじめての五十日伺候です。至らぬことや慣れないことが多々あるかと存じます。どうぞご指導よろしくお願いします」

「いやいや、世話になるのはおそらくこちらのほうでしょう。こちらこそよろしくお願いいたします」

 通常、五十日伺候は当主が名乗り出るものだが、当主が高齢、または療養中の場合は後継者が代行を務めることが許されている。

 だが、現在では五十日伺候するにも伺候資格が必要とされ、武官として伺候するには騎士の称号が、文官として伺候するには官吏手形がなければ五十日伺候許可が発行されない。簡単に代行を立てられるというわけではなかった。

 セシルは小さく呟いた。

「本当は不安だったのです。宮廷伺候試験の受験資格に年齢や性別に制限がなかったのはカンギール人の私にとって幸いでした……。受験資格がもっと厳しかったら今ごろこうしてあなたにお目にかかれなかったかもしれません」

 巡監使の耳は耄碌していない。セシルの呟きをしっかりと拾っていた。

「運も実力のうちと申しますよ。受験資格の緩さがあなたの味方をしたわけですな」
「ええ、そうなります。特技と言っていいものかわかりませんが、ほかの人の子にない能力があったお蔭で官吏手形も早く頂けました。本当に有難いことです」

 受験資格には年齢や性別に加えて身分の制限もない。誰に対しても広く開かれる伺候試験は、貴族でなくても実力さえあれば騎士または官吏になれることから人気が高く、毎年平民出身の受験者も多い。

 ましてや伺候試験のその門は年に一度、秋の収穫祭後にしか開かれないので、受験者は死にもの狂いになる。

「私はね、あの宮廷伺候試験制度はよく考えられていると思うのですよ。制度制定後、実力がないものは伺候することが叶わなくなりました。施行前に縁故で登城していたものも全員が試験を受けて資格を得るようにと言われましたからな。結果、無能なものは王宮からいなくなり、正直言ってどれだけ風通しがよくなったことか。まさに伺候試験さまさまですわ」

 よくできているという巡監使の言葉に嘘はない。従騎士の修業期間や官吏見習いの下積み期間、推薦などについては従来の慣習に倣っている部分も多々あり、制度制定にあたり出来るだけ混乱しなよう工夫されている一面も確かに見られるのだ。

「制度が施行される前までは王宮で働くものは貴族と決まっていましたし、新しい登用制度の制定が提案された当初は多くの貴族たちが猛反対したものですが、宰相閣下をはじめとする新制度を促進する高官たちが、貴族として当然の教養と気品をもってすれば一般教養試験に合格することはそれほど難しくないと貴族の誇りを掲げて力強く説いたのがとにかく大きかった。貴族の誇りまで出されてしまっては反対論派も試験に受かりっこないから認められないとは言えないですからなあ。急激に縮小していったというわけですわ」

 セシルは思いきって尋ねてみた。

「制度を制定する際、一部の貴族たちが『これは俗悪の制度である』と叫んでいたと噂で聞きました。そんなことを言う人がいるなんてと私は耳を疑いましたが、本当ですか?」

「事実ですよ。頭の固い連中の主張はほとんど無視されたわけですからそりゃあ面白くないでしょうから。どうにも燻るところがあるのでしょうな」

 のちにオルゼグン王国国史には宮廷伺候試験制度の制定・施行について、主にふたつの理由から実現に至ったと記されている。

 ひとつは、宮廷伺候試験の試験内容が、貴族に生まれたものであれば誰もが知っていて当然の知識が求められている点である。貴族の嗜みを身に着けていれば解けて当然の問題が多くを占めているので、当然貴族出身者が有利となった。

 だが、それは致し方ないことだった。伺候先は基本的に王宮なのである。貴族社会の知識や礼儀作法を身に着けていないものに務まるはずがないのだ。

 もうひとつは、貴族社会における爵位の高さとその数の比があげられる。貴族社会では公爵、侯爵、伯爵の上位貴族の数が少なく、子爵以下の下位貴族が圧倒的に大多数を占めている。下位貴族のほとんどが大貴族と繋がりがないまま暮らしている現況において、貴族とは名ばかりに生活に貧困しているものもいれば、二男以下の子どもたちの行く末を案じている貴族もいる。実力さえ伴えば伺候の機会が開けることに、平民以上に多くの下位貴族たちが期待と歓迎の意を示したのである。

「国王陛下は優秀な人材が発掘、登用されると聞き、お喜びになったそうですし、事実、制度施行の翌年からは王宮の人事は活気に満ちました。古い慣習から脱却するのは万時において困難がつきものです。多少の非難や愚痴があっても仕方ありません。こうは考えられませんか? 非難や愚痴は大いなる改革成功における置き土産のようなものだと。セシル、この国もまだまだ捨てたものではありませんぞ」

 宮廷伺候試験制度は身分に限らず、平等に優秀な人材を発掘、登用する雇用制度である。優秀な人材を適材適所に雇用、任命することで国力向上にも繋がる。

 およそ三年続いたシンラスの戦いは二年前に終局を迎え、オルゼグン王国ではその間に新しい国王が戴冠した。その新国王が玉座についてすぐに着手したのは宮廷伺候試験制度の制定・施行だった。

 シトラスの戦いでのオルゼグン王国の被害は多大で、多くの負傷者や死者が出た。戦いが終結し、まずすべきこととして、傷ついた王国の国力を修復し、盤石とする方針を新国王は早々に示したのである。解釈によってはどさくさに紛れて強行したとも言えるが、それほどに急激に推し進められた制度改革だった。

 セシルが受験した昨年は、宮廷伺候制度が施行された翌年にあたる。

 もしもこの制度が制定されていなかったら、社交界デビューすら許されない年少のセシルが闘病中の祖父伯爵に代わって五十日伺候するなど認可されなかっただろう。

「ええ、本当に。ミッターヒルさん、私もそう思います。あなたも含めて、この王国には私利私欲なく公平に物事を考えて下さる優秀な方がいずれにしてもいらっしゃる。私はそれがとても誇らしいです」

 ミッターヒルとセシルの会話を赤毛の少年は始終黙って聞いていた。

 数年後、この出会いが自分の矜持を脅かすことになるとは知らずに、少年はとぼとぼと馬を引き歩く。

 見上げた東の空は赤から藍色へと変わろうとしていた。夜の帳がもうすぐ下りる。その狭間に一瞬だけ見せる美しい濃淡の色合いを見ているとなぜか物悲しくなる。それでいて、胸には冷たい風が吹き抜けるのだ。

 心躍るような夜明けまで、まだ先は遠かった。


   


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