音楽家・作曲家、ウィリアム・ハーシェル
William Herschel, Musician & Composer


Frank Brown (著)
須川 力(監訳)

第5章 作曲家、ハーシェル

 ウィリアム・ハーシェルの音楽教育の監督は、兄のヤコブとともに、オーボエ奏者の父イザクであった。父は二人の息子がハノーバー近衛連隊の軍楽隊に仕えた後、宮廷オーケストラで職を得ることを願っていた。ウィリアムが北イングランドに滞在したころ、イギリスの作曲家ガースやアヴィソンらとコンタクトがあったが、定評のある作曲家に作曲を学んだ証拠は残っていない。若いころから音楽の理論に興味を持ち、1758年にはそのテーマで論文を書く意図を述べ、着手はしたが、ついに完成しなかった(原稿がエディンバラ大学の図書館に保存されている)。


1825年に出版されたハーシェル作、ヴァイオリン・ソ
ナタの譜面(出典:斉田博著、前掲書)


 現存するウィリアムの作品総てを調べたり聴いたりした人は皆無のようで、作曲家としての彼の業績の評価は難しい。弟子オジアス・リンレイが非常に立派な作品と考えた多くの宗教音楽は、紛失してしまった。かなりの量のオーケストラやオルガン音楽、室内楽、声楽のスコアが英米の図書館に保存され、両国で個人所有の作品もかなり現存する。一方、競売に付された作品はもう捜し出せまい。

 ハーシェルの最初の日付のついた作品は、「テナー、オーボエとヴァイオリンのための8つの協奏曲」で、一つを除き1759年と記されてあった。これらのうち3つは、テナー(つまりヴィオラ):メイドストーンで書いた二短調、ロンドンで書いたへ長調、未完の日付と場所が不明のハ長調である。この日付のヴィオラ協奏曲(複)は非常に珍しく、ハーシェルは1759年ケント滞在中に、多分、最初のイギリスのヴィオラ・ソナタを書いたカンタベリの作曲家ウィリアム・フラックトンに会ったと思われる。

 ヴィオラと弦楽器のためのヘ長調の協奏曲は、作曲の年から考えるとやや苦心をしたけれど、正統ではない。それは親しみ易い室内楽的で突然の強い音や思いがけない和声の変化があり、時としてC・P・E・バッハを想い出させる。ヴィオラのソロ部分は、その楽器としては調和的に書かれた。それはハーシェルの表現形式と構成の新機軸を目指す効果を和らげるのに役立った。哀愁に満ちた緩徐楽章は3曲のうちで最も直接的に魅カ的である。

 オーボエと弦楽器のための変ホ調協奏曲(1759)は非常に異なる作品で、これもその独奏楽器のために良く書かれていた。ハーシェル自身が演奏するために書いたに違いない。たとえ、ぎこちない反復を含んではいたが、非常に音楽的な小品である。突然ヴィオラと低音弦楽器に興奮するようなフォルテの「ごしごし」したパセッジで始まるが、これは他の作品でも顔を出すハーシェル式の作風である。このパセッジはすぐにオーボエで魅カ的な流れるような旋律に変わる。この協奏曲は、単純な反復様式の初期の実例を示し、第1楽章や非常に短い第2楽章の一部が終曲にも再び現れる。

 ト長調ヴァィオリン協奏曲(1761)は自信に満ち旋律的な第1楽章に、18世紀の気品や魅力に満ちた緩徐楽章が続く。終楽章はヴィヴァルディの或るフィナーレの活気と香りがあり、しかも実際には異質な内容を含んでいる。

 24曲の交響曲はかなり内容と楽器の編成に幅がある。総て北イングランド滞在中の1759年から1764年の作曲だ。第16シンフォニーは4パートかつ弦楽器のみで成り立つ。ニ長調の第2シンフォニー(1760)は、やや重々しい初期バロック風の緩やかな楽章を、2つの外向的で陽気な楽章が包み込む。さらに重苦しいへ短調の第5シンフォニー(1760)は、C・P・E・バッハや他の北ドイツの作曲家の「疾風と怒涛」(ドイツの狂熱的文芸思潮)に影響されている。ヘ短調から殆ど転調せず悲哀に満ちて印象深い緩徐楽章は、彼のメロディの才能を証拠立てる。第19番から第24番は大編成オーケストラのために作曲された。ハ長調の第20番は、2ホルン、2オーポエ、2フルート、2バスーン、4部の弦楽器に、当時(1762、リーズ)として珍しい2本のクラリネットとティンパニを用いた。ハイドンですらこの時、自由にこんな大編成はできなかった。ハーシェルは多分地域の守備隊で木管の楽隊が編成できた―始めと終わりの2楽章で、確かに軍隊風の特徴をもっていたから。緩徐楽章で弦は更にメロディックな役割を与えられ、木管と打楽器のお蔭で効果的な対照をなしている。

 ハーシェルはオルガン音楽をたくさん作曲し、その多くは1楽章のソナタか短い前奏曲形式であった。子孫の一人で秀でたプロの鍵盤奏者ミュンスター伯爵夫人によると、「オルガンのためのソナタ」は、多分ハーシェルが大きい楽器に定期的に取り組む前に、室内オルガンのために書いた曲、という。元の24曲のうち、残っているのは14曲に過ぎない。

 現存しているソナタの多くは、軽快で速いテンポが特徴である。魅惑的な第5番は牧歌的なシチリア風舞曲で、「アレグロ・マ・ノン・トロッポ」と指定され、珍しく遅いテンポのソナタである。第1番は軽く活発な曲で、予想外の旋律がちょいちょい現れる。2番と4番は素朴でしかも低音を効果的に使う一方、9番は殆どジャズ的である。23番は勇ましい軍隊ラッパ音の力強い曲、24番は非常に独創的で小妖精のような陽気さを示す。

 オルガン曲の大半は23の鍵盤のある大きいオルガンを、また幾つかの曲は、12の全オルガン曲の最初のセット中、重厚な第11番のように増音器を、必要とした。前奏曲VII番は威厳のあるヘンデル風で、壮大なかつ喜びに満ちた響きがあった。前奏曲XIII番は荘重かつ宗教的なアダジオであり、ハリファックス教会でオルガニストの地位を、厳しい競争に打ち勝って得た曲だった。彼はバスに1オクターヴ離して2つの鉛の重しを巧みに置き、彼の言葉を使えば「2本の代わりに4本の手の効果を」上げたのである。

 前奏曲XX番は表面的にはVII番に類似するが、より短くかつ華々しくはない。XXII番と28番(XXV番以隆はローマ数字を止めた!)はオルガンの全機能を用い、特に低い響きは色彩の幅広さと構成のバライエティに富む。

 ニ短調のヴォランタリは力強くかつ二重構造の曲である。・・・主題が最後に再び現れて終曲に向かうまえに、新しい楽想に基づく短いが重苦しい部分を持つ。

 オルガンによる6つのフーガからのソナタ第1番は、ハーシェルが最も満足した出来映えの作品の一つである。短いアダージオに喜びに満ちたプレストが続き、朗々たる響きでしかも輝かしい対位法の構成だ。

 1769年ハーシェルはバースで、ヴァイオリンとチェロの伴奏付き鍵盤楽器のための6つのソナタを出版した。多分ハープシコードを念頭に置いたと思われるが、ピアノにも適している。また、鍵盤ソロでも演奏可能で、イ調の第6番はこの目的に最も当てはまる。これらのソナタは、「アルベルチ低音」の使い過ぎによる欠点が所々にあり、ハープシコードで演奏すると18世紀の独特の「ミシン」効果が出てしまうが、魅力と創造色のある音楽である。

 ソナタIIの最終アレグロは最もインスピレーションに富んでいる。ソナタIIIのフィナーレは、主として18世紀初期の舞踏曲の旋律と思われる魅カ的な主題がベースである。ソナタVの第1楽章は、最も効果的にするにはテンポを何度か変えることが必要と思われる。ソナタVIの速い第1楽章は、多少スカルラティの影響を示し、一方その短く哀愁に満ちた緩徐楽章は調子と和声が予想外の変化を伴い、多分このセット中で最も美しい。これらのソナタはロンドンのロングマン・ブロデリップで再版され、評判が高かったに違いない。

 18世紀の作曲家の多くが、主として社交上の催しのために、「輪唱」を作曲したが、ハーシェルが桁外れの熱心さと多くの真剣な知的探究をしながら、こうした小さい楽しみの曲を作る時間があったとは愉快な驚きである。記録に残る最初の輪唱は、ポンテフラクトにて1762年の日付で兄ヤコブ宛の手紙にある独創的な「コックレイン・ゴースト」である。この輪唱は同年ロンドンのコックレインに現れた「ひっかき」幽霊を巻き込む人騒がせな悪ふざけの陽気なコメントだ。彼の輪唱「きょう私はちょうど21歳」が自分のためとすれば、バースに着いて約11月後、176711月に作曲したのであろう。

 次は、多分バースで作曲した多種多様な輪唱の幾つかである。「私達が輪唱を歌うとすれば」、「酔っぱらうのは恐ろしい」、「楽しい輪唱を一緒に歌えますように」。どれも面白く演奏は効果的だ。輪唱「柔らかいキューピッドの掟を…従わせましょうか」は、彼の聡明な生徒のハーパー嬢への片思いを歌ったのだろうか。カロラインは回顧録1774年〔原文のまま。正しくは1776年〕にこう記した。ウィリアムがバースの公開演奏会の指揮者になったとき、「私の兄は探せるだけの和声のために、多声歌曲、輪唱などを作曲しました」。三声、二本のヴァィオリンと低音楽器のための「真面目な多声歌曲」は、おそらくこの時期のものであろう。

 1779年の夏ウィリアムは、バースのスプリング庭園での演奏会向けに「多声歌曲、マドリガル(46声部の無伴奏合唱曲)、歌曲、デュエット」を書いた。2本のホルン、2本のオーボエ、第一第二ヴァイオリン、ヴィオラ、バスのための魅力的な「四声のためのマドリガル」のように木管、弦を伴う34声のための声楽曲は、この時期のものであろう。有名な「エコー〔原文のまま〕輪唱」も、多分この時期にスプリング庭園のための作曲であろう。これは1780年ごろロンドンで,三声、エコー声、低音弦のための「大喝采でヴァクザール庭園で歌われた得意のエコー輪唱」として出版された。野外演奏では、より多くの楽器で支える必要があり、現存するウィリアムの手書きの楽譜では、ホルン2本、オーボエ2本、弦4部が含まれている。小品だがホルンが特に目立ち、抜群の出来である。

 1782年にハーシェルはバースを離れてから作曲をすっかり捨てたわけではない。例えば「テ・デゥム(賛美の歌)」と「ユビラーテ(歓喜の歌)」は、1803年スラウ在住の日付が残っている。しかし彼の作曲の仕事は豊富だったが短期間で、175921歳のときから多分178042歳まで続いた。管弦楽曲の大半は初めの5年から1764年までに作られた。

 18世紀の他の多くの作曲家とは違って、彼のは独創的だった。評判の大家のスタイルのように独創性の無いものを求めなかった。影響を辿るのも多少は可能だ―多分C・P・E・バッハを含む北ドイツ作曲家は初期の作品に、ヘンデルは後期とくにニ調のオルガン協奏曲に、スカルラティと多分J・C・バッハはハープシコードの各作品に。それでも総てそうした影響は不自然ではなく、むしろ潜在意識的である。

 ウィリアム・ハーシェルは確かに作曲家として若き天才ではないが、彼の探究的な知性で音楽理論の興味は、極めて多くの楽器の演奏家としての非常に秀でた才能と経験に結び付いたので、天文学が彼を奪わなかったとすれば、音楽家としてどんなに成功したか、憶測はむずかしい。彼の作品の多くが首尾一貫したインスピレーションに欠け、時には幼椎かつ平凡だ。それでも立派な作品の焦れったいようなきらめきが生ずる。ヴィオラ協奏曲ヘ長調における新機軸の構成と様式の追求、交響曲ヘ短調の忘れがたい緩徐楽章、オルガン協奏曲二長調の独創的で美しい第2楽章、それに揮かしい対位法的構成のあるオルガンのための6フーガ中のアダジオとフーガ第1番などのように。音楽界で、人生の後半で成功した人が稀だが存在している―結局セザール・フランクは重要な作品を60歳をずっと過ぎてから書き始めた。ウィリアム・ハーシェルは40歳を少々過ぎには殆ど作曲をやめてしまったのであった。

 


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