音楽家・作曲家、ウィリアム・ハーシェル
William Herschel, Musician & Composer


Frank Brown (著)
須川 力(監訳)

第4章 音楽会の指揮者、ハーシェル

 ウィリアム・ハーシェルは、音楽教師、演奏者、作曲家に加えて、指揮者として20年間ほど拍手喝采を続けた。17613月、エディンバラの音楽会の指揮者に任命される希望的観測でダーリントン公の軍楽隊長を辞任したが、希望は実現せず、任命されなかった。17622月にリーズ市の定期演奏会の指揮者になり、4年間滞在した。また、ハリファックス、ポンテフラクト、ドンカスターでも音楽を教え、演奏した。176612月、ハーシェルはバースのオクタゴン・チャペルにオルガン奏者、聖歌隊指揮者として赴任し、チャペルの仕事のほか、公開演奏会の指揮を勤めた。1767年の夏には、スプリング庭園における一連の音楽会の指揮をとった。伊達男ナッシュが1761年に亡くなると、直ちにその儀典長の役は、S・デリックが受け継いだ。K・ジェイムズ博士はロンドン大学の博士論文「18世紀バースの演奏会生活」にこう記した。「1767年の春、リンレイと配下の音楽家達の間に気まずい空気がただようようになり、ハーシェルは1769年デリックの死去まで、いや多分その後まで、公開定期演奏会の責任を担ったと思われる」。

 176710月にハーシェルはオクタゴン・チャペルでメサイア演奏会を2回指揮した。一度は第2幕と第3幕の間に自作のオルガン協奏曲を演奏した。彼は1768年オーチャード通りの王立劇場の管弦楽団に加わり、数年間にわたり指揮することとなった。

バースのオクタゴン・チャペル(断面図)


 1771年にリンレイは新公会堂の指揮者に任命され、同年末ごろハーシェルはリンレイと仲違いをして、自分のオーケストラから離れた。1772年初めハーシェルは張り合って、旧公会堂においてシリーズの演奏会を計画し、オクタゴン・チャペルにおいても音楽会を指揮した。17722月にハーシェルは、ベルリン・オペラのファリネリ夫人が独奏し、ケンブリッジ大学の天文学教授ロバート・スミスが聞発した「可変式ハープシコード」を自ら演奏するコンサートの広告を出した。また同年半ばハーシェルはオククゴン・チャペルにおける教会音楽会の指揮をした。さらに当時、ローマ法王の礼拝堂での演奏以外はほとんど許さなかった「悔い改めの詩」の演奏会を指揮した。

 1776年リンレイが、ロンドンで音楽関係の仕事に専念すべく、バースにおける音楽の地位を退いたあと、ハーシェルはバースの音楽界で頂点の地位に就くことになった。

 1779年より1782年にかけて、ハーシェルはバース劇場における復活祭季節(教会暦の復活節あと50日間)のオラトリオを毎水曜日に指揮をし、2日後にはブリストル市で再演された。しかし、バースにおけるハーシェルの音楽生活は、1782年に打ち切られた。

 1782年にパウツィニーがバースのオーケストラで指揮棒を振った。通常ハーシェルが指揮するオラトリオの評判は、上々だった。しかし、1782年ブリストルにおけるメサイアの演奏は惨憺たる出来で、同地の新聞にお詫びを出さざるを得なかった。

 要約してみると、ハーシェルは一般に受けの良い、立派な、しかも革新的な指揮者であったが、2つの疑問が生じる。なぜ、新公会堂での1782年の上半期における指揮は失敗だったのだろうか。20年間以上バースで指揮を取ったリンレイの方が定期演奏会の聴衆の好みにマッチしていたためだろうか。そして聴衆は才能豊かなリンレイの子供たちの演奏をなつかしく思い出すのだろうか。リンレイの音楽は声楽的、オペラ風であったが、ハーシェルの演奏曲目があまりにも革新的か、器楽的な音楽に片寄り過ぎだったのだろうか。

 1782年ブリストルにおけるメサィアの失敗は、単にこうした不運のためか、あるいは天文学のためにますます時間を費やしたことが非難されるべきだろうか。1782年の前半にバースを訪問した作曲象ジョン・マーシュ(17521828)は、日記にハーシェルは「音楽よりはむしろ天文学に専念している」と書き残した。しかしウィリアムは、そののち17825月(バースを離れる直前)、セント・ジェイムズ教会におけるメサイアの演奏で、かつて漸くかちえた評判を取り戻し、成功を収めたのであった。

 


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