音楽家・作曲家、ウィリアム・ハーシェル
William Herschel, Musician & Composer
Frank Brown (著)
須川 力(監訳)
第3章 音楽教師、ハーシェル
1757年イギリスに戻ったウィリアムと兄ヤコブは、ロンドンで2年間を過ごし、音楽を教えて写譜の収入を補った。続く7年は北イングランドのあちこちに滞在し、その間の収入は、貴族らの生徒を教えて得た。特にリーズでは4年も過ごした。ウィリアムは伝記体のメモにこう記した。「1766年1月1日フィートレイにて。ここはブライアン・クック卿のカントリ・ハウスで、1週おきに2〜3日間は過ごした。…私は音楽が好きなクック夫人に、当時ファッショナブルな楽器だったギターを教えた」。
1766年12月バースに到着したウィリアムは、「ギター、ハープシコード、歌唱、ヴァイオリン」の教師として自分を売り込んだ。当時の厳格な社会慣習からいって、オーポエは教えなかったと思われる。この楽薬器は神士淑女には適さないとされていた。1772年にカロラインがバースに到着した。直ちにウィリアムは歌うことと英語を教えた。カロラインは、自分一人の時いつも、「歯の間に猿轡を嵌めて、協奏曲のソロのパート、ヴァイオリンで演奏しているのを聞いてトリルなどを、何時も口ずさんでいた。結果として、歌う事を覚える前に、かなり楽器演奏を習得した」と記している。1776年の半ば、カロラインは声楽家としての道を歩み始め、後にこう記している。「1778年、私はコンサートの第1歌手であった…」。1778年、新しいホールで行われたウィリアムの「メサイア」慈善演奏会で、カロラインはソロを歌った。彼女はバーミンガムでの演奏会に招かれたが、あっさりと断った。ウィリアムの指揮棒以外では歌わないのが、彼女の信条であった。
ウィリアムの音楽教師の仕事は、地元市民とシーズン毎に訪れる観光客の間で着実に広がった。1774年には個人教授を毎日6〜8回、自宅と生徒の家で行った。貴族の邸宅で教えたり演奏したりするために、ウィリアムは長い距離を馬車でゆられた。彼はこう記した。「私はソールスペリ、ウインチェスター、ペルモントヘと約72マイルを馬の背にゆられ、3日目にバースに戻った。夏のシーズンの間、2週間に一度、アメリア夫人、(アウグスタ)デ・バラ夫人の元に同じ用件で通った」。
1775年から77年にかけて、ウィリアム・ハーシェルのパトロン、ロシアン侯爵夫人は、彼の弟子の才能を誇示するのを主な目的として、個人的なコンサート・シリーズを2回計画した。ハーシェルを潜在的な競争相手とみたトマス・リンレイが、息子オジアスを彼に弟子入りさせてヴァィオリンと同時に数学も学ばせたのは、ウィリアムの先生としての才能を見込んだからである。もう一人の弟子でバスイーストンに住む裕福な未亡人コールブルック夫人は、ウィリアムに下心があった。彼は特に声楽の教師として、人気があったようである。弟子の中で、パトロンのロシアン夫人の令壌エミリ・ケール夫人は美しい声の持ち主だった。ウィリアムは、オーチャード通りのローヤル劇場で長年にわたって俳優生活を送ったハーパー氏の令嬢で、優れたソプラノ歌手エリザベス(1757−1849)にも、声楽を教えた。彼はエリザペスに恋心を抱いたが、相手には通じなかった、といわれる。結局、彼女は1782年にシールドのオペラ、ロジーナで成功したあと、コヴェント・ガーデンで一流のソプラノ歌手となった。
もうひとりの声楽の弟子は、人気俳優のジョン・バーナード(1768−1828)で、後に、オーチャード通りのローヤル劇場で数シーズンの間、俳優生活を送った。ハーシェルの部屋でレッスンを受けたバーナードは、こう記している。「先生の住処は、音楽家というよりはむしろ天文学者のようだ、天球儀・地図・望遠鏡・反射鏡等がうず高く積まれ、その下にピアノが隠れ、チェロはお気に入りが捨てられたように隅っこに押しやられている」。
ハーシェル自身も、何人かの弟子から「音楽のレッスンの代わりに天文学を教えるように仕向けられた」と記している。確かに、ウィリアムは種々多様なレッスンによって、望遠鏡などを製作する材料を購入することが出来たのであった。