音楽家・作曲家、ウィリアム・ハーシェル
William Herschel, Musician & Composer


Frank Brown (著)
須川 力(監訳)

第1章 彼の音楽経歴のあらまし

. ハーシェルは専任の職業音楽家の期間が30年も続き、それは現役の天文学者としてのほぼ34年間に及ぶ長さに近かった。彼はハノーヴァの近衛歩兵連隊の独習の演奏象イザーク・ハーシェルの次男であった。幼年時代の後まで生きたハーシェルの6人の子供はみな音楽的才能に恵まれていて、父から音楽を教わり、駐屯地の連隊の学校で教育を受けた。ウィリアムは13歳になって学校を卒業、連隊の軍楽隊にオーボエとヴァイオリン奏者として1年後に入隊した。そこで彼の父や兄のヤコブに加わった。

 1756年に七年戦争の勃発によって、ハーシェルの連隊はイングランドに配置され、メイドストンに宿営した。秋になって連隊はドイツに帰り、ハステンペックの悲惨な戦闘に参加した。父の助言をきいて、ウィリアムとヤコブは軍隊を離れて1757年にイングランドに再び戻った。ロンドンとケントでヤコブは音楽を教えて、ヴァイオリンを演奏するチャンスを探し求めた。一方ウィリアムの方は音楽の写譜を主な仕事とした。彼はヴィオラのための協奏曲を少なくとも3曲書いた。それらは18世紀の中頃では最も素晴らしいものであった。1つは「メイドストン、1759」と記され、もう1つは「ロンドン、1759」と記されてあった。彼がファペルシャム教会のオルガン奏者、ケントの音楽家ウィリアム・フラックトン(17091793)の影響を受けたことは有り得ることである。その人は音楽教師やオルガンとヴァィオリンの演奏家として非常に好評を博し、おそらくイングランドで最初のヴィオラ・ソナタを書いたことになった。

ヤコブは1759年にハノーヴァに帰った。ウィリアムは1760年に北イングランドのダーラム連隊の小さな軍楽隊(2本ずつのオーポエとフレンチホルンから構成)の隊長のポストを引き受けた。連隊長はダーリントン伯爵であった。リッチモンドの後サンダーランドに住み、地方の貴族や上流家庭の音楽教師となる時間を生み出した。彼はダーリントン近くのハルナピー・ハウスで、熱心なアマチュア音楽家ラルフ・ミルバンク卿の知遇を得た。彼は1760年にここで交響曲4番と5番を書いた。176062年の間に少なくとも18の交響曲を書いている。二ューカースルの優れた作曲家で演奏家のチャールズ・アヴィソンやダーラムのそれほど知られてない作曲家のジョン・ガースとも知り合いになった。1761年にウィリアムはアヴィソンの援助の元に、ニューカースルで庭園コンサートを指揮した。同じ年に彼はエディンバラでコンサートの指揮者を望んだが、成功しなかった。1761年の夏にアヴィソンやガースらと共に、ハルナピー・ハウスでヨーク公のために演奏した。

 17621月ポンテクラフトでウィリアムは兄ヤコプに宛てて次のように手紙を書いた。見たところメヌエットを上手に演奏できる人は町に一人もいないと思います」2月にはドンカスターの市公会堂でミラー博士のコンサートで演奏した。「第1ヴァイオリンはハノーヴァ出身のハーシェル氏、ギアルディニのソロとオーポエ協奏曲を演奏する」。後者は1759年ハーシェル作曲のオーボエ協奏曲であろう。17623月にリーズでの定期演奏会の指揮者に任ぜられた。この町には大編成のオーケストラがあり、4年間滞在して、教師、演奏、作曲のほか指揮者を務めた。オーケストラのための6つのシンフォニーとヴァイオリン協奏曲を少なくとも1曲書いたのはこの地であった。1766年早々ハーシェルはハリファックスに移った。同地でパリッシュ教会のオルガニストの競争試験に合格した。2個の鉛の重りをオルガンの鍵盤の上に1オクターヴ離して置く巧みな工夫でハーモニーを荘重にした。ハーシェル自身の言葉を借りれば「私は2本の手の代わりに4本の手の効果を出した」のであった。しかし既にバースの八角堂のオルガニストのポストに指名されていたので、10月にはハリファックスのポストを退いた。

 ウィリアムはバースに176612月に到着したが、スイスの優れたオルガン製作者スネッツラーの新しいオルガンは翌年まで入らなかった。バース市民に自己紹介するため彼は年明けの11日に慈善演奏会を開いた。そのコンサートに彼自身作曲したヴァイオリンとオーポエ協奏曲の両方に独奏者として出演したり、自分のハープシコード・ソナタを演奏したりした。10月のオルガン披露式のため、オクタゴン・チャペルでの2回にわたるメザイア演奏に間に合うよう、チャペル聖歌隊を編成した。

 ウィリアムはバースに到着後まもなく、儀典長デリックから公開定期コンサートやパンプルーム舞踏会などで演奏する優れた音楽家の楽団に参加しないか、と招かれた。やがて彼は教師、作曲家、演奏家、そして指揮者として評判を得た。またバースやプリストルの劇場で演奏し、バース・スプリング・ガーデンで指揮をした。彼の成功は、はからずも才能ある子供たちとともにバースの音楽界を支配していたトマス・リンレイ(173295)と摩擦を引き起こした。1771年に新アセンブリルーム・オーケストラがリンレイを指揮者として発足したが、ハーシェルは水曜コンサートでエキストラの音楽家の一人としてしか遇されなかった。その年の後半にハーシェルは、仲違いしたリンレイに対抗して、主に旧アセンブリルームで一連のコンサートを始めた。こんなことから1774年までいろいろな面で続く争いに巻き込まれた。これらの出来事はバース大学が「トマス・リンレイ(シニア)とウィリアム・ハーシェルの間の名高い不和」と題して出版された専門論文に記録された。1773年以後ハーシェルは一時公の演奏家から引退し、ことだてずにリンレイや支持者たちから離れた。すでに彼は有利な個人教師業を確立したのである。1776年にリンレイは他の仕事のために、新アセンブリルーム・オーケストラの指揮者を辞めた。ウィリアムは後任に推され、1776年の末から1782年にバースから離れるまで、新アセンブリルーム並びにバースやプリストの劇場、その他、この地方のあちこちで定期的に演奏を続けた。

 かくしてハーシェルは、パース市の音楽の主な指導者となったが、天文学への興味が深まるにつれ、自らの音楽活動を妨げるようになってきた。彼は教師活動の負担を減らし、1776年の定期演奏会シリーズの始まる前に、オクタゴン・チャペルでの職を辞した。不幸にしてこのシーズンの評判は芳しくなく、ハーシェルは新アセンブリでの秋季公演の指揮をとることは2度となかった。運営委員会は17778年のシーズンにはリンレイを再び起用した。一方旧アセンブリルームの方では、フランドルのヴァイオリン名手かつ作曲家でもあるラモットがライヴァル・シリーズのコンサートを推進した。

 しかしハーシェルは望遠鏡を制作したり、使ったりすることに没頭しながらも、音楽の方の仕事にも精励した。彼は1778年の春には新旧アセンブリルームでの毎週のコンサートを続け、両ホールを交互に定期演奏会場とした。ウィリアムは1779年の春季コンサートにも責任を持ち、夏にはグリー(無伴奏、3部以上の混声合唱曲)、マドリガル曲、二重唱曲等をスプリング・ガーデンのコンサート向けに作曲した。これらの中で彼の「大好きなエコー・キャッチ」はバクゾールや他でも人気があった。それは出版された唯一の世俗声楽作品であった。

 177982年の期間、彼は復活祭季節聖譚曲の指揮を続けた。しかし1782年に指揮したプリストルでのメサイアの上演は不評であり、彼はプリストル・ニューズペーパー紙に弁明を載せた。178251日、セント・ジェイムズ教区教会でのメサイアの上演は成功した。同年519日ハーシェルは、次のように書き残した:「これはセント・マーガレット・チャペルで私の作曲した賛美歌が歌われた聖霊降臨祭のときで、私がオルガンで演奏した最後の機会でした」。

 1782年、彼はダチェットに出発、後にウィンザ城でジョージIII世の前や社交上の集いで私的に演奏したことはあったが、職業音楽家としてのキャリアは終わった。

 


第2章にすすむ

ハーシェルたちの肖像トップにもどる

日本ハーシェル協会ホームページ