ハーシェルたちの肖像
レディ・ラボックから子供たちへのメモ(1)


 ジョン・ハーシェルの第9女コンスタンス・アン(1855-1939)は、長じてネヴィル・ラボックと結婚して7人の子供を育て、晩年にウィリアムとカロラインらの生涯を詳述した不朽の名著 "The Herschel Chronicle" 1933,Cambridge(副題は "The Life-Story of William Herschel and his sister Caroline Herschel")で後世に名を残していますが、自らの幼時はほとんど知られていなかったようです。最近ご子孫の一人エリングワース夫人(ジョンの第7女マチルダ・ローズ [1844-1914] の孫)から "Copy of note written by Lady Lubbock nee Constance Ann Herschel" のコピーを頂戴しました。これはコンスタンスが1936年3月、81歳の誕生日を前に子供たちに書き残した手紙形式の文章で、父母や姉らとの関わりについても詳しく、特に家庭における教育者ジョンの人柄を知るのに貴重な資料だと思います。本ニューズレターのトップにとお伺いしたところ、「どうぞお使いください」という快諾の言葉をいただきましたので、その一部を紹介します。

 私の教育はすべて家庭で行われましたが、多くの教師に恵まれたため、ヴィクトリア時代の女子教育の例としては内容においても方法においてもなかなか幅広く多岐に渡ったものだったと言ってよいと思います。姉たちの家庭教師だったミス・カースはフランスのアルザス地方の出身で、私が言葉を話せるようになるとすぐにフランス語とドイツ語を教え、彼女がコリングウッド邸を去ったとき、私はまだ8歳にもなっていませんでしたが、どちらの言語も楽に読むことができ、簡単なフランス語でおしゃべりができました。それからは父が後を受けて私にラテン語と数学を教え、母と姉たちはその他の科目を分担しました。こうした家庭教育でしたが、いい加減なところはどこにもありませんでした。時間割が定期的に計画され、毎日の授業は前もって決められていました。私の一日は8時に父の部屋へ行き、まだベッドに入ったままの父からラテン語で30分間の授業を受けることから始まりました。そして母のところへ行き、母に向かって聖書の最初のいくつかの章や、詩を数編読みました。14歳になる前にミルトンの「失楽園」、「復楽園」、「妖精の女王」の全編を朗読したということをここで言っておいてよいでしょう。日曜日の夜には父の前で、暗記した長編の詩をそらんじてみせたものでした。

 朝食の後は自由に庭を駆け回って兎に餌をやったり、御者が馬にブラシをかけてやるのを眺めたりしました。10時30分には授業のために家に戻ります。3人の姉のうちのひとりが週に2日、午前中の授業をしました。イサベラは地理を教えてくれました。ジュリアは歴史と文学で、ローズは絵画でした。12時になると、昼食の1時まで父のところで数学か、応接間にいる母のところで朗読のどちらかでした。母の選ぶ本は大変幅広く、時にはユーステイスのイタリアや、パリやローマのガイドブックといった旅行の本だったり、あるいはバトラーの「自然と啓示宗教の類似」のような、より真面目な題材の本だったりしました。母はスコットランドで神学の博士号を取った父親に教育を受け、論理の重要性を非常に重視していましたから、バトラーの主張をとても細かく分析してみせなければ満足しませんでした。

 振り返ってみて驚くのは、休日というものがまったく考えられていなかったということです。ひとりの姉が家を離れると、いつも別の姉がすぐに代わりをしました。例えばアメリアは、ベラかジュリアがいなければ私にイタリア語を教えました。と言っても私にとって授業は楽しく、途絶えることなく毎月続いていきました。ただ、私が体調を崩したとき、母は環境を変えたほうがよいのではないかと考え、私はヘイスティングスで私と同じ年頃の子供たちと暮らしている一番上の姉レディ・ゴードンと数週間過ごしたことがありました。

 姉のベラは生まれながらの教師で、彼女の地理の授業は楽しくはありましたがどこか散漫でした。一方でジュリアの授業はもっと系統立っていました。彼女はミス・カースに完璧なフランス方式で歴史を習いました。二人でヨーロッパと世界の他の地域で起きた出来事の詳しい図表を作りました。読むためには立派なフランス語の歴史参考書があったので、その参考書でオスマン帝国のことやスペインとシチリアにおけるイスラム教徒の歴史、シャルルマーニュの征服の歴史を学びました。おかげで後にもっと本格的な歴史書を読むときに、私は当時のふつうの子供たちよりも広い下地を持っていました。ジュリアと一緒に読んだ(そしてレポートを書かされた)本の名前をいちいち思い出していると楽しくなります。まずボンショズの「英国史」、アンケティルの「フランス史」。ミス・シーウェルの「古代史」、ミセス某の「楽しいギリシャ・ローマ史」。そして、ローマ帝国の衰亡から中世までをつづったアリスンの「ヨーロッパ史」、それからプレスコットの本全部、「メキシコとペルーの征服」、最後に一番わくわくしたモトリーの「オランダ共和国とネーデルランド連合」です。マコーリーの「歴史」とスタンホープの「アン女王の生涯」も読みましたが、この頃には父が亡くなり、従来の家庭生活は全て過去のものになってしまいました。父が亡くなったとき私は16歳にもなっていませんでした。父を失うことは私にとって幸せな少女時代の終わりを告げるものだったのです。家族はそのままコリングウッド邸で暮らしましたが、人にやる気を起こさせる父のような人物がいなくなると、何もかもが無目的に思えました。私自身の教育も平板なものになってしまいました。

 ローズは第7女(1844-1914)、アメリアは第5女 (1841-1921)、ベラ(=イサベラ)は次女(1831-93)、ジュリアは第6女(1842-1933)、レディ・ゴードンは長女カロライン(1830-1909)のことです。

原文(英文)は日本ハーシェル協会ニューズレター第59号、第60号に掲載
日本語訳:木村達郎


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