ハーシェルたちの肖像
レディ・ラボックから子供たちへのメモ(2)


 数年後、母は私をガートン校に入れることに決め、カレッジに通う準備のために姉とともにロンドンに住み、そしてゴワー・ストリートのユニバーシティ・カレッジの授業に出るようになりました。ここの授業は女子高等教育の試みとして開始されたばかりでした。私は大陸ヨーロッパの歴史と文学の授業に出ました。ラテン語と数学もカリキュラムに加えたかったのですが、出席希望者の不足でだめになりました。

 また、ケンブリッジ大学の等級別優等試験の第1等級に見事合格したばかりのミス・クック(結婚してミセス・スコット)のギリシャ語の授業を取ったのは非常な幸運でした。ミス・クック、ミス・ラムスデン、ミス・ウッドヘッド(ガートン校の先駆者たち)はケンブリッジ大学の名誉ある最初の女性合格者でした。後にガートン校でミス・ラムスデンにギリシャ語を習いましたが、その特別の計らいには今でも大変感謝しているのです。

 1874年10月にガートン校に入学し、幸福な3年の間、マイケル・フォスター卿、フランシス・バルフォア氏、デウォー教授などの優れた先生がたのもとで心理学・比較解剖学・化学を学びました。私たち初期の学生がとりわけ幸運だったのは、ケンブリッジ大学でも最も優秀で、女性向けに授業を開講しようとする開明的な講師陣ばかりだったということです。1878年12月に自然科学の優等試験を受験し、第2等級で合格しました。2年後にはカレッジの科学の講師の職を得て、スタンレー夫人に与えられたばかりの新しい化学実験室の管理を任されました。化学の学生たちの実験を監督するのに加えて、試験で数学を受けるのに全く勉強していない学生のために初等数学を教えました。私がガートン校で数学の講師だったと言われていますが、それは本当のことではないので、このことをお話ししました。

 カレッジに教師として勤めたのは1881年までで、その年私は結婚し、その後は西インドの植民地に向けられていた夫の関心に私もすっかり引き込まれてしまいました。もう一つ、昔の学生仲間からより遠ざかった理由は、私が全く婦人参政権運動に共感を覚えていないからでした。ガートン校の1年生だったときでさえ、運動を支援するには自分に政治の知識がなさすぎると思い、カレッジを回ってきた請願書に署名するのを断ったのでした。投票権獲得を叫ぶのは、時期尚早だし女性が投票権を国益のために使うかどうか十分な検証に基づいていない、と後には心から確信するようになりました。婦人参政権運動に加わっている友人に、女性たちがきちんと市民の義務が果たせることを証明するために、地方自治体への投票を実践したり管理委員会などに立候補したりしたのかたずねてみましたが、この考えはたいてい軽蔑されました。戦時中に女性たちが果たしたすばらしい働きがもちろん、問題の様相をすっかり変えてしまったのですが。

 私の家族の外の世界への関心について、語ることはもうほとんど残っていません。

 ここでは省略した結びでコンスタンスは、第1次大戦中の夫と一人息子の死、独身だった2人の令嬢と一緒にスラウの家に戻って父母・祖父母らの残した膨大な天文関係の研究と観測ほか多くの分野の記録の整理に没頭し、その結果がケンブリッジ大学出版から「ハーシェル・クロニクル」として公刊されたことをつづり、「これ我が生涯の業績」と結んでいます。

原文(英文)は日本ハーシェル協会ニューズレター第60号、第61号に掲載
日本語訳:木村達郎


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