木村 精二
南天で目にした星雲・星団
ジョンは小マゼラン雲近くにあって肉眼でもぼんやりした光の塊に見えるきょしちょう座の47番星と命名された球状星団にもたいへんに深い印象を受けた。フンボルトはアンデス地方の探検旅行でたびたび観測し、いちじるしい明るさと形状から初めは彗星と思った。ジョンはその完璧な点対称形に驚く。彼は3重の構造、つまりバラ色に輝く中心核および白っぽい色の中間と外側に分かれて見える、と記録している。
ジョンが最も深い印象を受けたのは、オリオン大星雲だったかもしれない。この星雲は天の赤道に近いため、世界中のどこからでも跳められる。かつて1826年にこの星雲の詳細なスケッチを描き研究論文を書いたが、このフェルトハウゼンの晴れ渡った空で観測して、イギリスでの結果に多くの書き直すべき箇所があることに気づいた。数年の観測から多数の新しいスケッチをものにし、そこに含まれる150星の詳しい位置は、赤道儀での測定と比較した。スケッチを繰り返すたびに,星雲の姿・形にかなりの不一致が生じたが、彼は星雲自体の構造に変化が起きたとは、結論しなかった。きわめて複雑な対象物を完全に客観的に記録することは、だれでも不可能だったのだ。ジョンは星団と量雲の観測から、理論的な見解なり早急な解釈を示してない。彼は、ガス体が凝縮して新しい星が誕生するという父ウィリアムの仮説に、批判的だったのである。
太陽系天体の観測でも成果が
1835年の秋から翌年の春にかけて、ジョンはハレー彗星の回帰に巡り合うという幸運に恵まれた。1835年10月28日の日記によると、昼間のうちに7フィート赤道儀を取り外し、東方の平地の砂丘に運んで、日の入り後の西空低くにハレー彗皇の眩しいほどの輝きを発見した。翌晩は西側の地平線近くの大木を切り倒し、20フィート反射望遠鏡で観測した。この彗星は、11月10日までタ方の薄明中に見え、新年1月26日には日の出前の薄明の中でさそり座に再び見つけることができた。すでに近日点通過後で、徐々に減光し、最後に見たのは5月5日だった。ジョンは、軌道上を運動するハレー彗星の位置・形状の変化などを克明に記録した多数のスケッチ観測だけてなく、彗星の一般的な研究に重要な貢献をしている。彗星の尾は、太陽に近づいて核から蒸発する非常に薄いガス状物質で構成され、太陽風の圧力で常に太陽の反対方向に伸びる―ジョンはこう記している。
ジョンは1835年から37年にかけ土星と、スラウでウィリアムが1781年に40フィート大望遠鏡で発見した2衛星を含む7衛星の観測にも、力を注いだ。リングと衛星軌道の傾斜が大きく、観測の好期だった。父の発見したミマスとエンケラドスはその後ずっと見つかってなかったが、ジョンも南アフリカの澄んだ空で初めてその姿に接したのであった。
1836年から翌37年にかけ、太陽活動の活発な時期だった。ジョンは天気が許すかぎり、望遠鏡で紙のスクリーンに太陽像を投影し、その表面のスケッチを描き、黒点数を数えた。接眼鏡を換え、大きい黒点や黒点群の微細な構造の追跡観測を行なった。表面現象の物理的な原因の理論立ても試み、黒点の動きは太陽の自転に関係する、と推測した。4年にわたる南アフリカでの生括は、ジョンの人生最良の時代だったかもしれない。天文活動以外に、いかに幅広い活動と体験をしたことだろうか。
マックレアとの交友
ケープタウンに着いたジョンには、有能なケープ天文台長マックレアが心の温かい気心の合う友人になる、という幸運が待っていた。彼は、ジョンのわずか10日前に着任したばかりだが、2人の間に有益な協力体制が築かれた。台長はジョンにケープの子午環で得た多数の基準星の正確な位置を知らせる、一方ジョンは潮汐測定でマックレアを肋けた。この測定は台長の公的業務で、ジョンがそれに深い関心を抱いた。テーブル湾に設置した測定点で、定時間間隔ごとに海水の高さを計るという単調な仕事だが、ケープの植民地政府から得た経済援助だけでは足りず、ジョン自らのポケットマネーもこれに加えたという。
両者の興味が重複ないし一致する分野は、気象観測だった。ジョンがケープに到着後2年も経たないうちに会長に選ばれた南ア文学哲学協会の会合で、定期的な気象観測の約束事が決まった。二至二分(春分・秋分・夏至・冬至)の日に1時間ごとの気象データを記録する、などのきわめて地味な作業をジョンは続け、ケープ地方の系統的な気象観測の基礎を築いたのだ。
マックレアの公務は測地方面にも及んだ。直接ジョンは関係しなかったが、測地技術の改良に多くの提案を惜しまず、フェルトハウゼンとケープ天文台の経度差を決定した。
ケープでの私生活
フェルトハウゼンの周囲の珍しい南国の植物は、ジョン夫妻の興味をそそった。あちこちから草木を収集し、庭で栽培も試みたので、季節がくると、塊茎または球根の植物が色とりどりの花を咲かせた。カメラ・ルシダ(レンズを取り付け、物体をプリズムを通して紙の上に写す装置)を用いて、初めて見る原色豊かな草花の実物大のスケッチを描くことは、またとなく楽しく大きい喜びだった。1807年に友人ウラストンが発明したこの装置は、ジョンがヨーロッパ大陸への旅行で充分に体験済みだった。彼は大きい4つ折判(9X12インチ)のノートに多数の植物スケッチを描き続け、妻が見事な技法を駆使して色彩を加えた。後に植物の専門家らは、できばえの見事さに感嘆したという(現在、この画集はジョン直系の子孫ジョン・ハーシェル氏が英国の私邸に所蔵し、筆者は何度も拝見する喜びを得ている)。イギリスに持ち帰った球根は王立園芸協会に提供されている。ジョンはカメラ・ルシダの助けを借り、フェルドハウゼンを含めケープの典型的な景色のスケッチも残している。芸術的な傑作ではないが、貴重な遺産であろう。ジョン一家の知的で落ち着いた雰囲気は、しばしば訪ねてくる遠方からのお客にも、とても魅カ的で好評だった。ビーグル号で航海中、1836年6月15日に立ち寄ったダーウィンは、長らく願っていた天文学者ジョン・ハーンェルとの個人的な知遇も得ることができ、しかも心のこもった歓待を受け、非常に満足し一生忘れがたい印象を与えられた、という。
ジョン夫妻はフェルドハウぜン滞在中に、第4子から第6子まで3人の子宝に恵まれた。1834年9月10日に3女マーガレット、翌々年2月5日次男アレクザンダー、37年10月29日には3男ジョン、南アフリカでの生活は一家8人全員にとっても貴重な経験であったろう。日曜は休息に当て、子供たちとのお出かけの日でもあった。近くのロンデボッシュ村の教会の礼拝に努めて出席した。ジョンは父ウィリアムから音楽の才能を受け継ぎ、ヴァイオリニスト兼フルート奏者だった。妻も音楽全般に深い理解を示し、子供たちと一緒に芸術を楽しんだ。
イギリス帰還
1838年3月11日、ジョン・ハーシェルらは南アフリカに別れを告げてウィンザー号に乗り込み,4年ぶりに生まれ故郷への1万キロに及ぶ長い船旅が再び始まった。ジョンたちを見送ったケープ天文台長マックレアは、ただちに彼の業績を永久に伝えるため、記念碑を残そうと提案し、関係者の支持を得た。20フィート鏡の中心部を示す大理石の円柱の上にオベリスクが建った。ジョンはフェルドハウゼンを他人に譲ったとき、その小さい大理石の周り20m四方ほどを残しておいたのである。1世紀後の1934年、100年祭のときに孫娘のひとりが、これをケープ市に寄付した。現在に残るオベリスクの碑文は1905年、ジョンの3人の子息とマックレアの子息が作り上げたものである。
1838年5月イギリスに帰還した彼は、熱狂的な大歓迎を受け、ヴィクトリア女王は彼に準男爵baronet(略記はBt.)を授けた。5歳の長男を伴ってハノーヴァに伯母を訪ねたあと、ジョンは大陸の天文学者や数学家に会い、旧交をあたためた。
「星の手帖」 VOL.54(’91年 秋号)より転載
(最終段落のみ同年夏号より転載)