ジョン・ハーシェルの生涯

■連載第13回■ 晩年・コリングウッド時代(1833〜1871)


木村 精二

 スラウからホークハーストへ

 1839年の大晦日から新年にかけて、父ウィリアムの記念碑的な40フィート反射望遠鏡に別れを告げる儀式が、その鏡筒の中で行なわれた。

 スラウの旧居は増えてきた家族で手狭になり、ジョンはもっと静かで居心地よい住居を求めた。彼は、母からかなりの資産を相続して裕福であり、ケント州ホークハースト Hawkhurst に非常に良い家と土地を購入した。1840年4月のことである。ここは家族の要望にピッタリと申し分なく適したといえよう。もともと“ムーア人の家”(アフリカ北西部に住むアラビア人の混血種の人の家)として知られていたが、彼は改めて直前の持ち主にちなみ、“コリングウッド Collingwood”と名付けた。

 ジョンはこの地で俗事に煩わされることなく、学究生活に戻ることができた。彼は故国に偉大な業績「ケープでの観測」The Cape Observations の資料を持って帰還し、後年(1847年)、ノーザンバーランド Northumberland 公の経費負担で出版された。その中で彼は、南天の4000以上の星雲と星団、3000近い二重星の位置を示し、その他ハレー彗星を始め、多くの観測を叙述している。彼の鉛筆で克明にスケッチしたオリオン星雲は、近頃の天体写真と比較してたいへん興味深い。

 やがて、実地天文学は望遠鏡ごと片付けてしまい、ずっと以前にケンブリッジを去る時に中断していた化学組織に及ぼす光の作用についての研究に熱中した。タルボット Fox Talbot と互いに励まし合って彼は写真化学の重要な仕事、例えば、未感光の銀塩に及ぼすソーダの次亜硫酸塩の溶解作用について非常に価値ある発見をしている。この発見の応用の最も興味ある初期の実例は、1838年秋スラウで取り壊し中に写した40フィート望遠鏡のガラス板(乾板)を用いた写真で、それからプリントが作られた。写真を発明したイギリス人として、タルボットと並んで記されるのはジョン・ハーシェルの名である。


 コリングウッドでの四季

 ジョン一家のコリングウッドは広くて地味、ジョージ王朝風の赤煉瓦の建物で、美しくて古い教区教会に近く、クリスマスの時にはその鐘の音が聞こえ、また美しい東の窓を通ってくる明るい光が開け放たれたホールのドア越しに見えた。仕事と子供の楽しみのために、可能な限り、さまざまな手が加えられた。牛舎の裏に鍛治工場が少年たちのために建てられ、ビリヤードの部屋は仕切られ、勉強部屋に近いほうが実験室で、少年たちは自由に出入りできた。庭に面したほうは木工室に当てられ、ここにウィリアム卿と弟が望遠鏡用の接眼鏡を作るのに使った旋盤がおかれていた。

 少女たちのために、普通の学習室のほか、少し離れて高窓つきで北向きの部屋が工房として準備され、テラスの下には粘土細工の場所を工夫して作った。スポーツやゲームにそれほど配慮しなくても、体操のための鉄棒やロープなどを納屋に用意し、冬になると大きな池で素敵なスケートに興ずることができた。後にはクロケットや弓術が好まれ、少女たちは盛んに乗馬を嗜んだという。

 クリスマスには家の中がお客さんでいっぱいになった。ケンブリッジ時代の旧友、フエウェル、セッグウィック、ジョーンズ,エアリー Airy たちが次々に来て、若い世代のエアリやマックレア Maclear 家の人たちは、スチュワート Stewart のたくさんの甥や姪と一緒になって陽気な騒ぎに加わった。冬のコリングウッドで決して欠かせないセレモニー、それはクリスマスに続く大晦日の夜の催しであった。ハーシェル一家と親しい友人たちは、夜半に新年を告げて鳴る教会の鐘の音を聞くためホールに集まり、心を込めて挨拶を交わしたのち客間に移り、縦横数十cm大のクリスマスカードにサインした。あらかじめその年のいろいろな出来事が寓話ふうの図案に描かれたこれらの寄せ書き式のカードは、三女ルイザ Louisa が結婚のときまでデザインし、その後は彼女の妹たちによって、出来不出来があっても続けられた。興味深いファミリーの記録を後に残したといえよう。


 叔母カロラインの死の前後

 1847年7月10日、コリングウッドで英仏の優れた天文学者、アダムス John Couch Adams とルヴェリエ Urbain Jean Joseph Leverrier が顔を合わせた。ストルーヴェ Wilhelm Struve らも一緒だった。海王星の発見先陣をめぐり、両国の天文学者間で長く続いた争いを何とかして鎮めようと、ジョンがオクスフォードでの会議を機会にお膳立てしたのであった。目論見は成功し、同邸で両者は固く手を握り合った。翌日(7月11日)付けでジョンは、出版されたばかりの(前述した)『ケープでの観測』をカロラインに贈り、  “…これでお父さんの『星雲宇宙の探索』 The Survey of the Nebulous Heavens を補い完結させたことになりましょう。…いま滞在しているアダムスらの署名を同封しましょう…”  と喜ぴの筆を取った。翌1848年1月9日、カロラインは98歳の生涯を閉じた。

 1849年、著作活動に専念していたジョンは、『天文学概論』Outlines of Astronomy を出版。これは1833年に初版を出した『天文学論文』A Treatise on Astronomy の全面的な書き直し本で、19世紀半ばにおける天文学の総合的な通覧というべきもの、24年間に12版を重ねる名著である。しかも各国語に訳され、1世紀半を過ぎた今も、貴重な文献である。


 晩年、そして臨終

 1850年にジョンが大蔵大臣から造幣局長官に推された時、経済的理由もあったかもしれないが、それはニュートンが就任した職でもあり、承諾したのは当然だった。ロンドンの中心街タヴィストック通り Tavistock Place に1軒の家を借り、彼の家族は約6か月間毎年そこで週ごした。夏の間、家族はコリングウッドに戻ったが、彼は律儀過ぎて実質的な休暇を取ろうとしなかった。次官が夏に6週間の休暇で不在の間、彼自身は町に留まり、週末に戻るだけだった。しかし、金曜日にステイプルハースト Staplehurst 駅への鉄道の旅とさらにコリングウッドまで十数kmのドライブ、月曜日の朝同じ復路の旅が必要だったので、田園で過ごした時間から充分の休息や楽しみが得られなかった。数年間このような暮らしを経験して、健康が目に見えて衰えた。1855年、彼は造幣局長官の地位を辞職した。妻や子供たちはたいへんにほっとしたことであろう。

 ジョンは1855年から晩年の15年間、コリングウッドで平穏と満足感のうちに過ごした。『気象学』Mteorology(1857年)や『自然地理学』Physical Geography(1859年)のような通俗書を書き、若い科学者、特にチンダル John Tyndall らの訪問を喜んで迎えた。1867年頃まで女流写真家カメロンがしばしばジョン家を訪ね、後世に残るジョンの肖像写真を撮影している。ジョンはホークハーストの小学校校舎を借りて、村民を対象に、火山と地震、太陽、彗星などなどをテーマとした科学啓蒙講座を開き、好評を博したという。

 彼の生涯の最後は普仏戦争の悲惨さで曇らされた。パリの包囲が非常に寒い冬の間中続き、心に及ぼす憂鬱さは深刻になり、1871年5月11日に亡くなった。79歳であった。ジョンの葬儀は8日後の5月19日、ロンドンのウェストミンスター寺院で行なわれた。柩は王立協会のダーウィン代表、王立天文学会の代表でイギリス科学界の重鎮エアリーのほかフランス天文学会からの代表者らが担ぎ、なきがらは同寺院内の科学者墓所でニュートンの隣に葬られた。これに優る栄誉はないであろう。しかし、子孫の間では、父ウィリアムが永久の眠りについているスラウのアプトン教会に移したいという希望があり、必要な手続きはすんでいるという。
 

「星の手帖」 VOL.53(’91年 夏号)より一部修正の上転載


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