ジョン・ハーシェルの生涯

■連載第11回■ 南アフリカ時代(1833〜1838)<1>


木村 精二

 ケープへの旅

 1834年1月1日、ジョン・ハーシェルは航海日記に次のように記した。

 "…マウントスチュアート・エルフィンストン号は、西経11°、南緯22°で新年を迎えた。10日ないし2週間で(神の庇護により!)ケープ地方に到着できることを願っている。出航以来とても平穏に航行を続けてきた。冒険も事故もひどい天候もなく、赤道帯を通過したとき、いらいらするような凪も長くは続かず、順調に風向きが規則正しく交代して、海神が支配する偉カを我々に知らしめてくれた…。”

 その前年の秋11月、41歳の彼は、妻マーガレットと3歳半から6か月になったばかりの幼な子3人(長女カロライン、次女イサベラ、長男ウィリアム)、それに機械技師ストーンと1人のお手伝いとともに、イギリスのサザンプトン港を離れた。わずか611トンの帆船であった。前代未聞ともいえるスケールの大きい観測旅行がこのとき始まったのである。父ウィリアムが成し遂げた北半球の掃天観測を南半球に延長して、文字通り全天の星数、二重星、星団星雲のカタログを数年かけて完成させようというのが、一人っ子ジョンの目的であった。観測地は南アフリカの先端近くケープタウン郊外、1820年にイギリスが創設した王立ケープ天文台近辺と定めた。1832年12月14日、ジョンはケープ天文台の2代目台長ヘンダーソンに手紙を書き、同地方の観測条件と適切な場所について教えを請うた。台長は、同天文台の南数kmのワインバーグを推奨した。そこは強風をうまくさえぎり、天文台より優れた場所ということに大方の意見が致していたのである。

 早々と上がった観測成果

 1834年1月16日、ジョンら一行を乗せた船は無事にケープ地方の南端に近いテーブル湾に着いた。荷解きをする間も措しく、ケープタウンの南東10kmのワインバーグ地区を調査し、オランダ人農家が所有するフェルドハウゼンという名の広大な土地を借りることができた(後に全部を買い取ったという)。ここはテーブルマウンテンの麓にあって、広い果樹園、オークと樫の公園のような木立に囲まれていた。ジョンは半月足らずのうちに20フィート反射望遠鏡の組み立てを終え、3月5日には早くも掃天観測を開始した。この反射鏡の口径は18インチ、ハーシェル父子がロンドン郊外スラウの観測所で最も愛用した観測機器で、今回の遠征には同口径同焦点距離の鏡3枚を用意した。それぞれ父、父子共同、ジョン独カの作であった。南アフリカは、イギリスに比較して天気は抜群に良く、観測条件もはるかに優れていた。比較的涼しい季節の5月から10月まで、特にタ立ちのあと、透明度の良い晩が続き、観測成果がおもしろいように上がった。

 ケープ天文台までの数kmは悪路で、往き来はむずかしかったが、新任の台長マックレアとは、手紙で常に連絡を取り合うことができた。“条件の良いとき、星像のシャープさは、いくら倍率を上げても崩れることはなかった”と、彼は書きとめた。スラウのオブザヴァトリハウスにおける北天観測のときの協力者で器械に強いストーンは、フェルドハウゼンでも雇った労働者の監督、望遠鏡のメンテナンス、さらに観測助手の役割をも果たしてくれた。ジョンは赤道儀式の7フィート屈折鏡も運んできた。この望遠鏡はスライディングルーフのある観測室に設置したが、調整に数か月を要し、系統的な観測は5月2日に開始された。最初の観測は明るい二重星のケンタウルス座α星。屈折鏡は主として二重星の観測と、反射鏡で得た各種天体の測定結果を補い、正確な位置を決定するのに用いた。一方、20フィート鏡は掃天観測をはじめ多方面の継続観測に使用した。まず天の赤道を基準に赤緯3°分の帯状ごとに南半球を分割して、すべての星団・星雲・重星を注意深く観測、特徴などを記録し赤経と極距離を決めた。

 彼は観測結果を2つのカタログにまとめた。1707個の星雲(既知は439個に過ぎない)。2102個の重星を含むリストであった。後者は南半球に比較的明るい二重星が少ないという事実から見て、驚くべき数といえよう。

 星数調査と恒星の分布

 さらにジョンは、3,000以上の一定区画内で、望遠鏡の視野に見えるすべての星を数えるという大がかりな調査を同時進行させた。星の総数は68,948星であった。父ウィリアムが着手したこの「星数調査」は銀河の星々が宇宙空間でどんな分布をしているかを知る目的だった。調査の途中で、銀河の構造は父の見方とは多少異なる結論に達した。父は平たい円盤状またはレンズ状と考えたが、ジョンは太陽系とすべての星を含むリング状の構造と信じた。彼の着想によれば、太陽とその周囲の惑星はリングの中心から外れ、むしろ銀河の南端に近い位置にある。南のほうは北のほうより明るく、しかも豊富な星々に満ちている。天球上で銀河が正確には大円状になっていないことから、ジョンは太陽系が銀河の対称面から多少離れたところに位置しているはずだと結論づけた。

 彼は、銀河リング内の恒星が決して一様に分布してないことに驚いた。銀河のほぼ中心で星の少ない石炭袋(コールサック)近辺には明るい星々のべルトに鋭い切り込みがある一方、他の場所では星の数が非常に多く、明るい雲状に分布している。後年、天文学者は銀河で星の少ないところは、現実の穴でなく、塵とガスの不透明な雲による見掛けの現象と解釈した。ジョンは20フィート鏡に180倍を使い、両天球合わせ530万の星を見ることができた。しかしジョン自身が記したとおり、星が密集し過ぎて数え切れず、実際の数ははるかに多数であろう。

 星雲状天体への挑戦

 彼は天球上で星雲の分布につき、統計的な手法を用いて注意深く調査を進め、天の川付近でその数が急激に滅少することに気づく。一方、天の川から離れた銀河の両極では、暗い星雲の数はいちじるしく増加する。特に天の川の極にあるおとめ座にはきわめて多数の星雲群が存在した。これとは反対に、明るい星と散開星団は天の川近辺に集中していることが明らかだ。当時、こうした星雲の分布の理由を正しく解釈することは不可能だった。ジョンが星雲と記した天体の多くは、わが天の川と同種の銀河系外宇宙であり、天の川にただよう宇宙の塵が見通しを邪麓しない方向にのみ、存在が観測された。つまり、両極近くに銀河宇宙が群がるのは、見かけ上のことに過ぎないのである。

 40平方度の大マゼラン雲と10平方度の小マゼラン雲がジョンの注目を引いた。明るさは銀河とほほ同じで、しかも完金に独立していた。小マゼラン雲はきょしちょう〔巨嘴鳥〕座の星のまばらな位置にあり、ジョンは小マゼラン雲近辺で40個の星団星雲を観測した。さらに印象深く興味が尽きないのが大マゼラン雲で、少なくとも278個の星団星雲を見つけた。大小マゼラン雲はさまざまな天体の独特の集合体であり、わが天の川には類似の構造は皆無だと考えた。彼はここで測定した恒星・星雲・星団のカタログと詳細な星図を完成したが、その天体数は大マゼラン919個、小マゼラン244個に及んだ。望遠鏡で眼視観測した結果から描いた星野図としては最高のできばえとして、今に伝わっている。

 りゅうこつ座η星付近の星雲状天体は47平方度にも広がり、20フィート望遠鏡で見える星数は147,500と推定された。中心のη星は非常に稀な恒星で、1677年に南半球で初めて系統的な観測をしたハレーはその当時4等級と見つもり、ケープ天文台のファロウズ初代台長は2等、ジョンは1837年末近くまで1等ないし2等と見た。その後2週間も経たないうちに、この星はケンタウルス座α星に近い明るさにまで増光、翌年1月中旬にはぐっと減光した。ジョンは3月に帰国の途についたため、充分に追跡調査できなかったが、4月14日の船上観測でアルデバラン程度と見た。その後3代目ケープ天文台長マックレアらも、急激な増光と減光の繰り返しを観測した。ジョンは6か月をかけてη星を取り巻く散開星団の拡大星図を作り、17等まで1216星の目録をもとに、角度の1/10秒の精度で位置を測定した。

 ジョン・ハーシェルは、共通した特異な形状の星雲が多数存在することに気づいた。中央集光があって、非常に偏平な楕円形からほとんど完全な円形まである。現在ではもちろん、見る角度によって異なった形状に見える銀河宇宙であることがよく知られている。彼はこれらの多くが螺旋構造持っているとはっきり認識できなかった。1840年代の半ばにアイルランドのロス卿が巨大反射望遠鏡を自作し、渦巻き状を発見するまで待たねばならなかったのである。もっともジョン自身、2つの星雲が鎌のような形をしていると記録したのは、銀河宇宙の中心部から出ている螺旋状の腕のことであろう。  


「星の手帖」 VOL.54(’91年 秋号)より一部修正の上転載


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