日本ハーシェル協会編
結 婚
1828年ごろのジョン・ハーシェルは、父の仕事の継承、自らの強い科学的関心事ヘの追求、それに加えて社会的卿知名度と共に増えた様々な依頼ごと、これらを十分に遂行するのに、普通の人ならば人生を豊かにする活動が、すっかり犠牲になっていました。ロンドンとスラウ間をたえず往復する忙しい二重生活は、心身の疲れを蓄積する一方でした。彼は、ほとんどリラックスできず、やがて内面的な調和と均衡が破られそうになったのです。生まれてから決して身体が頑強とはいえないジョンには、気の合う仲間とのゆったりした社交生活や一定期間の休息が必要でした。
満ち足りた結婚生活を送っていた良き友人グラハムは、間もなくジョンの病に気づきます。彼はジョンに、最良の薬として先ずは休息を取り、合わせて家庭を築くように熱心に勧めたうえ、知人のスチュワート夫人をジョンに紹介しました。彼女は、スコットランド長老教会派の牧師の未亡人で、2人の娘プラス6人の息子と、ロンドンに一家を構えていました。
スチュワート一家を訪ねたジョンは、和やかで陽気な親子9人が醸し出すアットホームな雰囲気に、心身ともにリフレッシュしただけでなく、間もなく次女マーガレットに特別の好意を抱いたのです。彼は今まで未知だった新しい世界に、目覚めた思いでした。28年11月29日付けの手紙でグラハムは、男親代わりで東インド会社勤務の長男パトリック宛に、ジョンの長所を的確に述べたあと、次のように結びました。「マーガレットが自分の娘であれば『お前はイギりスで最も立派で尊敬すぺき男性の愛情を得たのだ、彼を愛すれば幸福な女性になることを予言しよう』というでしょう。他に付け加えることがありましょうか」。スチュワート夫人は、礼儀作法に厳しい女性でした。ジョンは手紙でマーガレットにプロポーズし、夫人の許しを得たといわれる彼女の古風な返事は、「貴方様からのお手紙を頂戴して、大きい驚きの気持ちを抱いております…」。マーガレットの驚きは大きいはずがなく、むしろジョンの申し出を心待ちにしていたのです。
29年3月3日、ロンドンのセント・メリリボーン教会で、ジョン・ハーシェルとマーガレット・スチュワートの結婚式が行われました。新郎の37歳に対して新婦は19歳でした。イギリス西部への数週間に及ぶ新婚旅行のあと、二人は大陸へ。フランス・ドイツ・イタリアの旅から帰ると、デヴォンシア通りの新居に移り、やがてすっかり元気を回復したジョンは、今までの研究と文筆活動に加え、胸に秘めていた事業への思いを新たにしたのです。
秘めていた大事業の計画へ
ジョンは父が22年に亡くなって間もなくのころから、40年以上にわたって王立協会の理学報告などに発表された膨大な論文を纏め直し、出版しようと考え続けていました。ウィリアム・ハーシェルの重星と星団星雲の観測、天の川の構造に関する研究などは、不朽の業績でしたが、位置を最近の分点の赤道座標に引き直し、全体を論理的に並べ替えたりするのは、数年分の作業量に匹敵します。その間、ジヨン自身の独創的研究の中断が必要でした。彼は熟考したあと、父の知的財産を永久保存する最良の道は、仕事を単に継承するだけでなく、継続し完結することだ、と決心しました。もちろん既に述べたように、ジョンは重星と星雲カタログの改良に手掛けていましたが、それは繰り返し、拡大、修正に過ぎず、本当の意味での完成には程遠かったのです。父ウィリアムが、北緯50度を越えるスラウから観測した天の範囲は、もちろん主に北半球で、南半球の星は極く僅かしか含まれていません。特に恒星分布の統計的な分析のためには、南天の資料が不可欠です。ジョンが心に決めたのは、父と同じ望遠鏡を使い、同一の方法で南半球の星々を調ぺ上げ、ハーシェルという名を、星空全域の掃天と永久に結びつける、という大事業の慎重な計画と大胆な実行だったのです。
当然のことですが、観測地はイギリスを遠く離れた赤道以南、しかも観測に要する日時は数年前後です。初めに検討した候捕地は、オーストラリアのパラマッタ。しかし同地の環境や気象条件などの不十分さから、最終的に南アフリカのケープタウンに決定しました。妻マーガレットの兄のダンカン・スチュワート博士が、インドからケープに転任したのも幸いでした。計画が明らかになると、国家事業と考えた王立協会会長サセックス公は、全費用の負担を、また海軍省は船舶の提供を、それぞれ申し出ました。ジョンは、純粋な個人的企画だからと、丁重に断りました。幸いにも、彼の経済的基盤が、それをゆるしたのでした。全ての計画が完了し、後はいつ実行するかだけです。何しろ何年も国を離れるのですから、時期を選ぶのは大きな課題でした。
相次ぐ著作の出版
30年ジョンは、ロンドンのロングマン社から『自然科学人門』(文字通り訳すと自然哲学勉学の予備的講座)を出版しました。これは最初に、「小型百科辞典」(キャビネ百科)の第1巻として編集されたもので、仏・独・伊の各国語に訳され、改定版が51年に出ています。本の題とおりに、天文・物理・化学・地理・鉱物など広い内容を含む三百数十ページの大著で、前評判も良く、実際に一般読者と多くの専門家から絶賛されました。秀でた博物学者のチャールズ・ダーウィン(1809−82)は、「自分の研究に最も素晴らしいインスピレーションを得た」といい、またある伝記著者は、「文体は華やかで複雑な様式であるにもかかわらず、ジョン・ハーシェルが主題を論議する非常な熱意と喜びの故に、現代でも刺激を受ける著作である」と評しています。ジョンは、ほば同じ時期に、天文への入門書として『天文学概要』(天文学論文集)を上述の百科辞典に執筆、33年にはその単行本が出版されました。この入門書も版を重ね、十数年後には、内容を相当に広げて『天文学概論』(天文学のアウトライン)として出版、いまなお不滅の名著とされています。
ジョンは、以上のほかに、他の百科辞典のために、『光』『音』の表題で、大著を世に送り、いずれも注目されました。
母の死
32年1月4日に母メアリーが病死し、アプトンのセント・ロレンス教会で、父ウィリアムの隣に葬られました。ジョンはロンドンの家を引き払い、スラウのオブザヴァトリー・ハウスに戻ります。古い造りを改修し、書斎と図書室は、明るい居間と陽の入る子守部屋に替わり、やがて、家の内外は続いて生まれた子供たちの賑やかな声に溢れました。
同年6月、ジョンはハノーヴァに叔母カロラインを訪ね、南ア行きを説明し、別れの挨拶を交わしました、叔母はすでに82歳の高齢、しかし幸いにも、ジョンが妻に書き送ったように「叔母は本当に元気一杯」でした。
『公転する重星の軌道調査』
33年にジョンが天文学会のメモワールに発表した論文『公転する重星の軌道調査』は、重星の無数の位置測定を基に、連星の軌道決定を試みたものです。ケプラーの第一法則に従って、重星の軌道は、1つの焦点に主星が位置する楕円と仮定し、観測結果を基に、空間における実際の楕円軌道を計算する一般的な方法を確立したのでした。同年11月30日、ジョンはこの論文で、王立協会からゴールド・メダルを受賞しています。同協会会長サセックス公は、授賞式典の演説で、我が太陽系内の天体の運動から導かれた引力の法則が、宇宙空間の遥か彼方の星々の運動にも適用されることを、初めて示したとして、ジョン・ハーシェルの業績を、高く評価しています。
日本ハーシェル協会ニューズレター第86号より転載