ジョン・ハーシェルの生涯

■連載第9回■ 測地への貢献・旅行・星雲等の観測
                 (1825〜1827)


日本ハーシェル協会編

 グリニッジ・パリー両天文台の経度差測定  

 1800年代に入ると、交通と通信の発達で、天文における国際協力事業が急速に進歩し、主要天文台間の経度差の正確な情報が、著しく重要になってきました。ヨーロッパ大陸のいくつかの天文台では、そのための測定が実施されましたが、海峡を隔てた国イギリスでは、その体系に組み入れられず、同国を代表するグリニッジとフランスのパリー天文台を結ぶ計画が具体化したのは、20年代半ばのことです。

 この事業は、イギリス経度局がフランスの科学者及び技術者グループとの協力で、25年に実行に移されました。イギリス側の代表者はジョン・ハーシェルで、補佐役はエドワード・サバイン(1788−1883)です。サバインはジョンの良き友人の一人で、天文学者かつ測量技術に長け、また測地学の知識と各地の遠征で積んだ豊かな体験を持ち、理想的なチームでした。

 実際の作業は、まず両天文台の間にいくつかの測定地点を決めて、測定ステーションを建設することでした。ステーション同士は見通しが効いて、光による交信が可能な小高い場所を選定する必要があります。信号を送る時刻は、特に精度の高いクロノメーターで制御し、その信号の位置測定は、集光力の強いドロンド製の夜間望遠鏡を用いて行いました。ジョンが、イギリス内で選んだ一つの測定地点は、グリニッジの南東約20マイルの小村ローサムと、歴史的な戦いで名高いヘースティング近くの小村フェアライトダウンでした。前者は、グリニッジと南海岸間で海抜770フィートの最高地点で、広い地域を見渡せる岡の上にあり、22年に陸地測貴部の三角基点として地理的経度が正確に測定済みでした。後者も、同測量部の三角点で、海抜578フィート、海岸近くの絶壁の頂上にあり、両者の直線距離は約34マイルでした。イギリス海峡を越えて、最初の測定地点はカンス河ロのラカンス、パリーまでさらに2つの地点が、フランス側のグループによって選ばれました。

 25年7月に、隣接した地点間毎の経度差が繰り返し測定され、合算した結果、両天文台間の経度差の平均値は、2度20分24秒と発表されました。実際の値はこれより10秒角(実際の距離にして僅か300メートル以下)小さいだけですから、当時の測定機器の貧弱さを優れた技術で見事に補った、といえるでしょう。

 再三の大陸旅行

 王立協会の仕事で一年の大半をロンドンで過ごしていたジョンは、26年秋には数週間の大陸旅行に出発しました。目的地はフランス南部とオーベルン地方。パリーで博物学者ゲオルグ・クヴィール男爵(1769−1832)に会い、行く先々の地質学上の特質について有益な情報と、知人の紹介を得ました。先年イタリアへの長旅に同行した誠実な助手ジェイムズ・チャイルドと共に、ジョンはフランスの埃っぽい街道を揺れる郵便馬車に乗り、ロワールの谷などを越え、クレルモン・フェランからモンペリエーに入りました。彼はこの地方て火山ドームと山岳の頂きに登り、地質層を調査し、イソアール近辺の有名な古生物発見の地を訪ねました。ジョンの出した手紙によると、「60種ほどの(既に絶滅した)未知の動物がここで発見されたのです」。彼が古生物学への興味を語したのは、これが最初だといわれます。

 プイ・ド・ドームでは、普通の気圧計による標高の測定に加え、出発前に製作した新しい機器も使用しました。その機器は、ジョンが「化学光量メーター」つまり輻射計と自ら名付けたもので、既知の大ささの吸収表面上の太陽幅射の量を測定する、感度の良い温度計を備えたものでした。10余年後、フランスの物理学者クロード・S・M・プーレー(1791−1868)が発明し、太陽常数測定に用いた機器の先駆をなすものといわれます。海面から離れるにつれ大気による吸収が減って、太陽輻射の強さは増すために、ジョンの測定は高い山頂で行われたのでした。しかし、太陽の物理学的研究がすすむまで、彼のこうした太陽輻射測定の価値は、十分に評価されなかったのです。

 王立協会と天文学会の役職を辞任

 27年1月3日、ジヨン・ハーシェルはストルーヴェに、次のように書いています。「王立協会の今期が終わったらセクレタリを辞め、今まで以上に天文学に専念する時間を持ちたいと願っています」。12月には、彼の願いが聞き届けられましたが、それに先だって同年2月、ジョン・ハーシェルは天文学会の会長に選ばれてしまいました。その職責は学会を代表する名誉職とはいえ、毎月の例会を取り仕切り、優れたゲストを招聘し、こまごまとした任務があり、彼は自分の研究と著述活動を非常に妨げることを恐れたのです。会長という名声とか栄誉で、帳消しにすることを、ジョンは嫌いました。彼は常に、研究の自由と独立を大事にし、自らの意志を尊重したかったのです。翌年早々ジョンは、「今度の記念日で会長を辞任を許されるのが、最大の願い」と、親しい友に告白しました。しかもこのころジョンは、2つの非常に魅力のある職への誘いを断っています。1つはロンドン大学の創始者の1人ブラウハム卿から申し出のあった、新設の数学教授の席です。もう1つは、ヒューウェルらケンブリッジの友人が勧めたルカス教授のポストでした。これは、かつてニュートンも就いた数学教授の席で、へンリー・ルカスが創設したものです。ジョンはヒューウェルに対して、共通の友人であるバベッジをルカス教授に推薦し、次のように付け加えています。「私はむしろ、様々な科学という大洋の海岸近くをそぞろ歩きして、好奇心の向くままに小石や貝殻を拾い、並べて綺麗に見えるのを楽しみたいのです…」。もちろんジョンは、かつてニュートンが「私自身は、海岸で遊びまわり、すべすべした小石や貝殻を拾って喜んでいる少年のようで…」といった言葉を思い浮かべながら、白分の心境を明かしたのでしょう。

 アイルランドへの旅

 同27年秋、ジョンはアイルランド行きを計画、バベッジが同行しました。彼がダブリン天文台を訪ねたとき、台長のウィリアム・R・ハミルトン卿(1805−65)は不在で、後に次のような詫び状を受け取っています。「私たちは常に友好的な気持ちを持っていますが、もしも私の如き若く未熱な者を友人と呼ぶことをお許し下さるなら…」。ハミルトンは22歳の若さでダブリン大学の天文学科教授とアイルランド王立天文官に任命されました。10年ほど後には、アイルランド王立アカデミー会長の候補でした。彼は数学と理論物理の分野で数々の業績を残し、例えば、数学の間題に広く応用される特殊な複素数の四元法算法を発明しています。また、双軸結晶体を通過する光線の円錐形屈折の発見者でもあります。ジョンとの友情、それは互いに共通の関心を寄せた学問を通じて深められ、2人の間の交流は、終生続いたのでした。

 星団星雲の系統的観測

 27年ごろにスタートした全天にわたるジョンの系統的な星団星雲の観測は、「一夜たりとも無駄にせず、自らの選択や趣味からではなく、いささかも延期することのできない神聖な義務」(28年2月12日付けフランシス・ベイリ宛の手紙より)として、数年にわたって続けられました。その成果は、ジョンの最も重要な出版物のひとつ『スラウの20フィート反射望遠鏡で1825−1833年に観測した星団と星雲』として、33年に王立協会の理学報告に発表されました。この論文は、父ウィリアムの業績の改定拡大版ともいうべきもので、含まれているのは、2306個の微光天体です。その中でジョンが新たに発見した525個につき、序又で次のように説明しています。「500余個の中に、かなり顕著で大きい星雲は1つだけで、父の分類による第一級、つまり相当明るい星雲に相当するのは、数個に過ぎない。父がいかに綿密に精査したかを、証明することとなろう。残りの大部分は、極めて微光で、望遠鏡と大気の状態が良好な時にのみ、注意深く観測して、ようやく発見できる級の天体である」。論文の付図として、主な星団星雲の百枚に及ぶスケッチが掲載されていますが、いずれも、写真術発明以前に描かれた天体のグラフィック・イラストとして、非常に大きい価値がありましょう。星雲のスケッチといえば、26年にジョンは天文学会のメモワールに発表した小論文にも、オリオン大星雲とアンドロメダ大星雲の詳細なスケッチを掲載しています。古い観測と比較して星雲の構造や明るさなどに、何らかの変化が認められるかどうかが、その目的でした。

 ニ重星の系統的観測

 ジョンが星雲星団と平行して励んだ、ニ重星の観測に戻りましょう。望遠鏡は、サウスから購入した赤道儀式の7フィート屈折望遠鏡でしたが、今度は星雲星団の場合と同様に、全く助手なしでした。ジョンは二重星観測という分野でも、父の後継者として自他ともに認められた、といって良いでしょう。数の点からいっても、父が発見した850ペアに比較して、ジョンは何と5075ペアに達する重星の精密な観測結果を、天文学会のメモワールに6部から構成される重星の記念碑的なカタログとして、26年から33年にかけて発表したのです。このうち彼自身が発見したのは3347で、残りは同種の発見をしたウィリアム・ストルーヴェらの記録を抜き出したものです。ジョンの偉大な貢献は、自他の膨大な重星の観測結果をチェックしながら纏め上げ、1830年分点で赤経順に並べて、矛盾のない総合的なリストを完成したこと、といえましょう。


日本ハーシェル協会ニューズレター第83号より転載


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