日本ハーシェル協会編
再び大陸へ、今度は大旅行 (前回からの続き)
今度の旅程でヴェスヴィオ山登頂は、クライマックスでした。気圧計で標高を測り、噴火口から立ち昇る硫黄蒸気を化学分析し、岩石の資料を積んでナポリに戻りました。別の日は、ポンペイとハーキュラネゥムの発掘現場を見学し、特に後者の円形盆地に魅惑された、といいます。当時は未だ溶岩と灰の堆積物の下から、一部分が発掘されたところでした。「立っている足場は地下10数メートルの深さにあり、感動した見物人の拍手に包まれています。黒い不動の岩が、巨大な気味の悪いカーテンのように目の前に迫り、頭上からはポーシチの町を通る馬車の微かな音が、耳には低い遠雷のように響きます」。6月17日に彼は母に宛て、このように認ためました。
6月19日ジョンは、ナポリ港から蒸気船に乗り、南イタリアの海岸沿いに、パレルモに渡りました。父の誠実な古き友ピアッチを病床に訪ねるのが、第一目的でした。「立派な尊敬に値する、歳を重ねた人。でも、もはやこの世に長くは…」ジョンはハノーヴァの叔母に、こう知らせました、彼は16世紀初めイタリーに創設されたテアチノ修道参事会のメンバーで、1781年以来ずっと数学と天文学の教授を勤め、19世紀の初日に小惑星ケレスを発見したことは既に御承知のとおりです。1817年からはシチリー天文台長の職に就いていました。ピアッチの最大の業績は7,500個を含む恒星目録です。
ジョンはパレルモからシチリア島の回遊に出発します。カタニアで数日を過ごして、力トリカの有名な硫黄炭鉱を訪ね、アグリジェント寺院の廃墟に立ち、カタニアで休息。ここから7月2日付けで、ハノーヴァの叔母宛てに、次のように書いています。「親愛な叔母さん、以前スラウからお手紙を差し上げたとき、次はエトナ山の麓から書くとは、思ってもいませんでした。ここは今回の旅の最南地点で、これから北へ戻って行きます。帰る途中で、なんとかして叔母さんを訪ねたいと願っていますn叔母さんをはじめハノーヴァ近くの友人たちにも会いたくてたまりません。…明日は、エトナ山頂から日の入りを眺めるつもりです。その体験談を是非ともお話しして…」。後日ジョンは、エトナ登山についてこう書いています。「…エトナ山に登るのは大変に困難続きでした。くたくたに疲れました。カタニアからの登山道は、10マイル離れたニコロシ村を通って行きます。足元は、1669年に山の側面から流れ出て町を覆い尽くした溶岩で一杯です」。
帰り道は再びナポリまで海路、そこからは馬車でローマヘ、チボリを過ぎ、ペルージアからフィレンツェと急ぎました。次いで、北東に針路を変ヘパドヴァアを通ってヴェニスヘ。ここでジョンは、8月14日付けの手紙を母宛てに書き送りました。「…馬車の響きがないこの町の静けさはお葬式のよう。それに葬儀馬車のような恰好のゴンドラが、この地の物寂しさを増しています」。
ヴェローナから北へ、ガルダ湖沿いにトレントからポルザーノ、さらにブレナー峠を通ってインスプルックへ。ドロミテ地方に数日滞在する間に、多様な地質学的調査を実施、同地住民の言語と習慣を学びました。ミュンヘンでは光学の専門家で物理学者のジョセフ・フラウンホーファー(1787−1826)を研究室に訪ねて、色消しレンズの製作法の説明に耳を傾け、一連の光学実験に興味深く見入りました。フラウンホーファーがプレゼントした大きいフリント・ガラス製のプリズムは、10年後ジョンが、光の生み出す写真化学の実験に使用して、非常に役立った、といわれます。
9月17日ジョンは、ミュンヘンから再び叔母に送った手紙で、正確な日取りは未定ですがハノーヴァに立ち寄ること、ただし残念ながら2〜3日しか滞在できそうも無いことを知らせ、「…英語をお忘れではないでしょうね。私は自分で思ったほどドイツ語が流暢には喋れないことに気づきました」と結んでいます。
ニュルンベルグ近くのエルランゲンでは、父ウィリアムの仕事の独訳を編んでいたドイツの数学者ヨハン・F・プファフ(1765−1825)、ゴータでは天文学者ヨハン・F・エンケ(1791−1865)に面会しました。ジョンはイタリーで見てきたばかりのエンケ彗星を、今度はその名付親たるエンケの望遠鏡を使って観測できたのです。彼は続いて、数年前に亡くなった天文学者ヨハン・H・シュレーター(1745−1816)の秀でた助手、カール・L・ハーディング教授(1765−1834)を、ゲッチンゲン大学に訪ねています。
10月上旬ジョンは、ハノーヴァのマークト通り453番地に、叔母カロラインを1年振りに訪ねました。実はカロラインがイギリスを離れるとき、彼女は兄ウィリアムが遺した8冊の掃天記録と2千余の星雲目緑を、大事に抱えて運んで来たのです。甥ジョンが観測する時に便利なように、データを整理して天の北極から赤緯帯毎に並べ、最近の分点位置に直すためでした。ハノーヴァでの最初の冬、データ整理は捗らず、23年8月、彼に手紙を書き、次の冬からの楽しみとしてカタログ作りに励む、と伝えてあったのでした。今回ジョンは、その仕事が進んでいる様子を実際に見て、非常に喜びました。
10月18日ジョンは、無事に故郷の土を踏み、半年を越すグランド・ツァーを終えたのでした。
王立協会のセクレタリに
同24年11月ジョンは、王立協会のセクレタりに選出されました。化学者の新会長デーヴィ卿は、ジョン・ハーシェルの良き理解者かつ支持者でした。また王立協会と天文学会の間の幡りも、バンクス卿の死後、幸いなことに自然と消え去っていたのです。ジョンの為すべき義務は多く、特に定例的な会合に出席するためには、3年の任期中ロンドン市内に滞在することを余儀なくされ、ポートランド街デヴォンシヤ通り56番地に、仮の住まいを構えました。
カロラインから届いたカタログ
25年4月18日夜、ジョンは叔母カロライン宛てに礼状を認ためました。同日午後に彼女から、父が観測した生データに添えて、予定通りに完成した例の星団星雲のカタログ(4年後、天文学会のメモワールに発表)が届いたのです。「…貴女の労作の入った大事な包み、確かに受け取りました。これは本当に表彰もので、私だけでなく多くの人にとっても、非常に有用な資料となりましょう」。ジョンはこれから星団星雲に特別の注目を払って観測する、という計画を知らせたあと、これらの微光天体は、ほかのどこよりもスラウで良く見える筈だから、と付け加えました。そのころに彼が使いこなした20フィート反射ほど優れた観測機器は、はかに見当たらなかったようです。この望遠鏡に取り付ける主鏡のうち1枚は、ジョン自身の作でした。
こうしてスタートした星団星雲の観測について述ぺるまえに、同年12月30日ジョンが、カロラインに書いた手紙を紹介しましょう。「年周視差を私が発見したと主張する、などと思わないで下さい。測定にかかるほどの量が存在している場合、私が提案する方法を実行する人が見つかれば、何時までも発見されない筈はありません…」。自ら成したことの重要性を評価するのに、極めて遠慮勝ちな彼自身の性格が、良く表われているではありませんか。実は、星団などと平行してカを入れていたニ重星観測の副産物として、恒星の年周視差を検出したのです(父ウィリアムがニ重星の観測に熱心だったのも、最初の目的は恒星の距離を求めることでした!)。ある論文の付表にジョンは、位置角の変化から導かれた約70星の年周視差の値を発表しています。その量は100分の1秒角から10分の1秒角にわたり、現在の値に良く合っています。ジョンが初めて年周視差を決定したとは、認められていませんが、恒星の距離測定の具体的かつ重要な手掛かりを与えたのは、まぎれもない事実です。スコットランドの天文学者トマス・へンダーソン(1798−1844)とベッセルが、白鳥座61番星で初めて恒星の年周視差を発見したと公認されたのは、10余年後(1840)のことです。
日本ハーシェル協会ニューズレター第81、83号より転載