日本ハーシェル協会編
父ウィリアムの死
1822年8月25日、ウィリアムは短い病気の後、スラウで死去しました。そのとき子ジョンは、古くからの友人で歴史家ジェイムス・グラハムと、大陸を旅行中でした。半月ほど前の同月8日イギリスを発ち、ベルギーのワーテルローの戦いの場(1815年6月、ナポレオンが英軍に大敗した)など、オランダの各地を訪ねるのが目的です。アムステルダムで、ジョンは母の手紙を受け取りましたが、「お父さんは元気…」という文面にすっかり安心して、そのあと病状が急変したことに気づかなかったのでした。故郷の土を再び踏んだとき、初めて父の死を知ったのです。
生前の名声に比ぺると、ウィリアム・ハーシェルの葬議は、非常に質素でした。遺骨はオブザーヴァトリー・ハウスから歩いて数分たらず、アプトン地区のセント・ロレンス教会に葬られました。秋10月、半世紀にも及ぷ兄への犠牲的な献身を終えたカロラインが、生まれ故郷ハノーヴァに戻ってしまいます。
若きジョンは、父の知的財産の管財人として、自分の肩にかかってきた責任と任務の困難さを痛感しました。しかし、彼の科学的興味は天文学以外にも巾が広く、時間の多くは科学の他の分野に費やされたのでした。当時は未だ天文が、ジョンの多様な活動の中で、最重要の位置を占めていたのではありません。
電気と磁気の実験
翌23年ジョンはバベッジと一緒に、電気と磁気に関する一連の実験に取り組みます。この科学の分野は、18世紀末ですら、イタリアのルイジ・ガルバニ(1739−98)とアレサンドロ・ヴォルタ(1747−1827)、及びアメリカのべンジャミン・フランクリン(1706−90)その他のパイオニアたちを除いては、真面目な研究対象ではなく、むしろお茶の間のゲーム向きの課題に過ぎなかったのです。24年ジョンは、王立協会に論文『液状導体に電流を通じたときに生じる運動について』を提出、翌15年にはエディンバラ科学ジャーナルに、さらに発展させた研究論支を発表しました。翻ってみると、父ウィリアムも電気理論には大いに興味を持ち、バースに滞在していたとき、バース哲学協会に提出した初期の7編の論文は、電気実験に関係したものです。またジョンの電磁誘導分野の実験は、30年ほど後にドイツのエンジニア、ヴェルナー・シーメンス(1816−92)が発電機の往復巻きコイルを発明する基礎となった、といわれます。
再び大陸へ、今度は大旅行
24年4月初め、ジョン・ハーシェルは、6ヵ月半に及ぶ大陸への大旅行を実行しました。南イタリアのシチリア島まで足を延ばすグランド・ツアーです。先ずはパリーでフンボルト、ラプラスと旧交を温め、合わせてフランスの優れた科学者の知遇を得ることができたのでした。彼は4月7日付け母への手紙でこういっています。「パリーに到着して8時間も経たないうちに、お会いしたい人達とこうして一緒にいます。アラゴ、ラプラス、フンボルト男爵、化学昔M・M・テナルドとゲイ・ルサック、数学家ポイスンとフーリー、などなど、翌朝はアラゴと朝食を一緒に天文台でとり、プーヴァールやニコレットと知り合って、目的の観測をすっかり済ませました。フンボルトは、アルプス山脈、ヴェスヴィオ山その他の地方の有益な情報を、教えてくれました」。
サヴォイを通り、雪に覆われたモントセニス峠を越えるという難儀な長旅の途中、馬車が壊れるというハプニングもあって、予定より遅れ、4月中旬にトリノに到着。晴れて観測に適したある夜、プラナを天文台に訪ねたあと、ジェノバに数日ほど滞在し、フランズ・X・ザッハ男爵(1754−1832)の歓待を受けました。ザッハは天文学者で「月間通信」という最も初期の天文を専門とした定期刊行物の編集責任者でした。モデナではイタリアの天文学者で光学にも造詣の深いジョバンニ・B・アミシ(1786−1863)を表敬訪問、ボローニヤからフィレンッェに向かいました。「フィレンツェの高台から見下ろすアルノの谷より美しい場所を想像するのは困難でしょう。ドーモと塔と宮殿のあるまちフィレンツェ自体はいうに及ばず…」。ジョンは5月11日付け母への手紙で、こう書いています。5月半ばにはローマに到着、そこで過ごした数日間では、首都と芸術品の駆け足見学しかできなかったようです。ナポリではイギリス大使の私邸で温かい歓迎を受けました。ハーシェルという名は実に不思議な効力を持っている、叔母にこう書き送っています。「実際に行く先々で父の名のお蔭で、科学界のすべての人から、両手を広げて歓迎されます。自己紹介をする必要のまったくないことが分かりました…」。
( この項つづく )
日本ハーシェル協会ニューズレター第75号より転載