日本ハーシェル協会編
天文学会の発足
王立協会は1660以来、主として数学と科学の分野で、ロンドンを根拠地に、長期にわたって活動を続けていましたが、19世紀に入ると科学の専門化と領域の拡大によって、各分野別の組織が、時代の要求となってきました。1820年1月12日、ジョン・ハーシェル、サウス、バベッジ、クールブルック、ウィリアム・ピアソン(1767−1847)、フランシス・ベイリー(1774−1844)、ロンドンの銀行員、ハーシェルのケンブリッジ時代の友人らが集まり、天文学会を創立しました。創立演説を起草し、イギリスだけでなく広く海外に送ったのは、ジョンの役割でした。第11代サマセット公爵のエドワード・A・セイモール(1775−1855)が会長に選ばれ、ウィリアム・ハーシェルは副会長、ピアソンが会計、バベッジとベイリは事務局。ジョンは海外の天文学者らとの交流をすすめる渉外担当に当ることになっます。
同学会は直ちに活動を開始しました。しかし、発足早々に天文学会は、大きい難関にぶつかりました。同学会の創設そのものに王立協会が反対だったのです。42年もの長い間、会長席にあった博物学者ジョセフ・バンクス(1743−1820)は、専門分野別の学会創設が、長い伝統のある王立学会の結束を乱し、その発展を妨げることを恐れ、バンクスはサマセット会長にその職を辞任するよう、説得したのです。バンクスのように影響力の大きい人物に反対され、空席になってしまった誕生早々の天文学会会長を引き受ける学者は、なかなか見付かりません。ウィリアム副会長も、健康が許さないから、との理由で辞退しましたが、本当の気持ちは、長年続いたバンクスとの友好関係を壊したくなかったのでしょう。
天文学会創立(1820)から僅か数月あとの6月、バンクスが死去し、ウィリアムは、実質的に何も義務を課さない名目だけ、という条件で同意、翌年2月会長職に就きました(後に詳しく述べますが、ウィリアムはその1年半後に死去、実際に名目だけの会長でした)。1822年から毎年、フェローたちの重要な科学論文を掲載するメモワールが出版され、1831年以降は、短い記事を載せるマンスリ・ノーティスが発行されます。国王の特許状により王立天文学会となったのも、1831年のことです。特に価値のある研究が、メダル及びテスティモニアル(表彰状)によって遇されました。また、各方面からの助成金と寄付金で、優れた測定器具類が協会の財産として取得されました。実例として、ピアソンからの相当額により、ロ径7インチで焦点距離12フィートの屈折望遠鏡が購入できましたが、このレンズは当時のイギリスでは最大のものでした。
大陸への旅行
1821年の夏ジョンは、バベッジと共に、フランスからスイス、北イタリアへの旅に出発しました。2人はパリーで1週間ほど滞在、経度局のアラゴらに面会し、王立協会からの共同測地調査に関する提案を伝えました。またジョンは、物理的な光学実験について情報を交換したラプラスとジーン・B・ビオ(1774−1862)に会っています。ラプラス邸では、当時フランスに居を構えたドイツの博物学者アレグザンダー・フンボルト(1769−1859)と知り合う機会に恵まれました。ビオは特に偏光に関する実験で、ジョンと親しく手紙の遣り取りを続けていたのでした。王立協会は、偏光現象に関するビオの研究を高く評価し、ランフォード・メダルを授賞(1840)しています。
パリーを離れた2人は、ディジョンを経てスイスへ入り、ジュネーヴで1週間を過ごします。このまちの活動的な科学の営みに深く印象づけられた、といいます。ジュネーヴ科学アカデミー会長で学者一家のひとりM・A・ピクテット教授(1752−1825)を訪ねました。ジョンとバベッジは、馬車に様々な測定機器を積み、行く先々で、気圧と温度を測定し、小さいポケット用の六分儀で高度を測り、ノートブックを記録で埋めました。スイスの山々は、地質学的研究と鉱物学的研究に、多くの材料を提供して呉れたのでした。2人は自然の事物だけでなく、初めて見る建物と人々の珍しい習慣にも目を向け、詳細に観祭し、記録しました。2人は歴史的な町を訪ね、ジョンはカメラ・ルシーダ(レンズを取り付け、プリズムを通して物体または景色を、紙の上に写し出す装置)を用いて、印象に残った風物を画の形で保存しようと試みました。これらのスケッチを補ったのは、何もない山頂を照らす美しい月光とか日の出などに関する、詳しい記述でした。ジュネーブからさらに南へ進み、モンブラン山の麓シャモニー、モダーヌを経てトリノに着いた2人の科学者は、イタリアの天文学者ジョヴァンニ・A・A・プラーナ(1781−1864)を訪ねたあと、目的地ミラノで休息をとりました。帰り道は、コモ湖からマジョーレ湖を経て、シンプロン峠へ向かいました。モンテ・ローザ山(4634メートル)に次ぐ高さのブライトホルン山(4164メートル)への登頂は、スイス人のガイドを頼んだとはいっても、登山の経験のない2人にとっては、かなり向こう見ずの冒険だったようです。旅は、ニコライ谷からインタラーケン、ベルンへと続き、ジョンはベルナー・アルプスの北端ラウターブルネン近くのスタウバッハ滝で、気圧計による測定を行い、その結果はエディンバラ哲学ジャーナルに発表されました。
初めての天文論文
1821年ジョンは、天文関係の論文を2つ、初めて公にしました。父との約束を忠実に守って、晴れた夜は天体観測に精力的に励み、曇ったときは天文学の研究に打ち込んだ結果が、実を結んだといえましょう。一つは、月による恒星の掩蔽現象の新しい計算方法に関し、もう一つは、主要恒星四六個の視位置計算の補助表に関する70数ページの長論文です。いずれも天文学会のメモワールに発表したものでした。
サウスとの共同観測
初の論文執筆に先立ち、系統的な天文学研究が熱心にスタートしていたことが、1819年春のバベッジ宛て手紙にこう記されています。「…水曜日は一緒にデットフォードに行けなくて申し訳ない。その朝は、赤道儀式望遠鏡とブラックマン通りに建てる天文台の骨組みの計面を、サウスと一緒に練り上げることになっていて…」
ロンドンの法律学生時代に知り合ったサウスとは、実のある協力関係が進んでいました。1816年ジョンは、父ウィリアムの膨大な観測記録を引き継ぎましたが、そのとき以来、重星観測の経験を積み重ねてきたのです。サウスが購入した1台の望遠鏡は、当時イギリスで製作が始まっていた屈折望遠鏡で、口径が3.75インチと5インチ、焦点距離がそれぞれ5フィートと7フィートの赤道儀式でした。光学部分つまりレンズの質と目盛環などの測定機器も、ウィリアムが自作した反射望遠鏡よりは、はるかに優れていたのです。40フィート大反射望遠鏡は、完成当時(1789年)こそ国の内外で賞賛されましたが、それから30年近く経て、既に使用不可能でした。1トンという重いミラーの再研磨は非常な難作業で、しかも人手と時間を要したのです。加えて、20フィート反射望遠鏡も、架台の木製部分が朽ち、ジョンがあるとき子午線上に向けようとして、崩れ落ちてしまいました。直ちに新しい20フィート望遠鏡の製作に着手、間もなく完成しましたが、取り付け
た目盛環が十分に精密ではなかったたため、ジョンとサウスの目的には使われず、後年ジョンが南アフリカ行きに役立てることになります。
ジョンとサウスの共同研究は、ウィリアムらが発見してカタログに載せた二重星と多重星の再測定でした。つまり、最初の観測から40年という年月を経て、重星の相対位置に生ずるであろう変化を見つけ、軌道要素を決定するのが目的でした。既に1803年ウィリアムが王立協会の理学報告に発表した論文で、20余年を隔てて観測した六つの連星系の相対位置変化から、主星を回る伴星の公転周期を明らかにしていました。翌年からの日付のある同種の調査は、50個の重星を含み、相対運動を認めています。ウィリアムは連星の物理的牲質の発見者で、1対の恒星が、地球と月のような力学的関係にあることを、証明したのです。しかし、連星の軌道が万有引力の法則に従うことを証明したのは、しばらく後の1827年、フランスの天文学者フェリックス・セイヴァリ(1797−1841)です。
ジョンらがこうした仕事に使用した2台の屈折赤道儀には、有名な望遠鏡メーカー、エドワード・トロートン(1753?−1835)製の目盛環が備えてあり、目的の星を視野に入れるのに、便利でした。接眼部のマイクロメーターは、連星の角距離と位置測定に威力を発揮し、後者は1分角の精度があった、といわれます。
ジョンとサウスの共同観測は1821年3月から翌々年の末まで続け、380重星の力タログを作り上げました。対象星は赤経の順に並ぺたので、ジョンの父ウィリアムのリストがフラムスチード星図の近くの星の番号だけを載せたのに比べ、遥かに便利でした。重星を形成する個々の星の色と明るさを簡潔に記し、次いで2人の観測者の測定結果につづいて位置角と角距離の平均値、最後に、ドイツの天文学者フィリードリヒ・G・W・ストルーヴェ(1793−1864)らの測定に基づく結果との比較、両者の間の変化についてのコメントを添えました。1824年の王立協会の理学報告に、ハーシェルとサウスの400ぺ−ジを越す結果が載り、天文学会のゴールド・メダルを登賞、翌年にはパリー科学アカデミーから天文関係のラランド賞を受けています。
残念ながら、2人の共同観測は、この重星カダログの完成で終わりとなり、サウスは1825年、フランスに出掛けます。彼は大陸の観測者の知遇を得、ドルパットにストルーヴェを訪ねたあと、パリー近郊で自らの7フィート屈折望遠鏡を用いて、重星観測を続けました。サウスは458個の新たな重星目録を完成、翌年の理学報告に400ページ近い論文として発表しました。
日本ハーシェル協会ニューズレター第70、74号より転載