日本ハーシェル協会編
ケンブリッジは学問のまち
オックスフォードと並び称されるイギリスの大学町ケンプリッジは、人間と自然が見事に調和した場所、知恵と学問、文学と哲学の宝庫などといわれてきました。ケム川の東岸沿いに位置し、ロンドンから北に百キロ足らず、列車又はバスで2時間以内という近い距離にあります。美術に関心の深い識者には、フィッツ・ウィリアム美術館などの所在地としても知られている、芸術の香り高い落ち着いた古都です。
13世紀末近くに最も古いピーターハウス・カレッジが創設されてから七百余年、その間に30を越す大学(うち10ほどは今世紀に入ってから)が生まれ、最も新しいロビンソン・カレッジは1977年の設立です。観光名所の一つ、「ため意の橋」とプリッジ通り際に建つセント・ジョンズ・カレッジは、1511年ビューフォート伯爵夫人が、聖ヨハネ病院の跡に設置、それ以来500年という長い伝統に支えられて、多くの傑出した科学者、哲学者、文学者らを世に送り出してきました。
大学だけでなく様々な分野の研究機関も、古くからこの学園部市に発祥しています。数年前には国立天文台の本部も、この地に誕生しました。最近(93年5月)の新聞報道では、日本の2つの大手電機メーカーが相次いで研究所を設置、未来素子の開発をめざし、しのぎを削っているといいます。
学友に恵まれた新入生ジョン
1809年10月下旬、母に連れられた17歳のジョン・ハーシェルが、セント・ジョンズ・カレッジに入学しました。ケンブリッジのまちの佇まいは、どんなだったでしょうか。当時のカレッジ数はようやく1ダースほど、ケム川の流れは現在と同じでも、きっと今にも増して真理を学ぶ場に相応しい静けさだったことでしょう。
ジョンが力を入れて勉強したのは数学と物理でした。良い師と合わせて、向学心にもえて優れた友人達に恵まれたジョンは、順調に科学者の卵としての道を歩み出しました。時に同年輩のチャールズ・バベッジ(1792−1871)とジョージ・ピーコック(1791−1858)とは厚い友情に結ばれ、週日に加えて、日曜日も礼拝のあと、科学と哲学論犠に数時間を費やすことが習慣になった、と伝えられています。
3人の誓いの言葉を紹介しましょう。「わが愛する友よ、われわれが死ぬときには、われわれが生まれたときより世の中を少しなりとも善くして逝こうじゃないか」(内村鑑三訳、1894年箱根で基督教青年会主催の講演より)。
のちにピーコックは神学者の道を選んで地方の司祭長になり、バベッジは生涯を通じて近代的な計算機の発明にカを注ぎました。ジョンは上記の二人以外に、リチャード・ジョーンズ(1790−1855)、さらに1、2年後にはウィリアム・ヒューウェル(1794−1866)、アダム・セッグィックらと出会い、生涯を通しての友情を培うこととなりました。
1810年4月29日付けで、日本流にいえば60歳の退暦を迎えたカロラインの日記にたった1行「私の甥が別れを告げ、ケンブリッジに戻っていきました」とあります。これはジョンがカレッジの学期末休暇、イースター・ホリデイを自宅で過ごしたあと、お暇乞いに叔母を訪ねた記録だと思われますが、実に簡単ではありませんか。
夏はスコットランド旅行
同年の夏休みセント・ジョンズ・カレッジの1学年を終え、18歳に達したジョンは、父とともにスコットランドのグラスゴーまで足を伸ばしました。7月13日から9月18日まで2箇月を越す大旅行でした。今回は幸いなことに、ジョン自身の筆跡であとを辿ることができます。
一行は、イングランド中西部にあって、産業革命のあと急速に発展した大工業都市バーミンガムに数日間滞在、ジェイムス・ワット(1736−1819)と親しく懇談しました。スコットランド生まれのワットは、グラスゴー大学から当時の古い型のニューメコン式蒸気機関の修理を頼まれたことから、実業家の協力を得て、1770年代から80年代にかけ蒸気機関の改良などに貢献、1800年からはバーミンガム近くの村で静かな隠退生活を送っていたのです。
ジョンが絶賛したのは、「ヨーロッパ中で有名になっていた」大製作工場内の新しい機械類で、特に機関室内のガス灯の大シャンデリアでした。磨かれた機械を照明する効果について、ジョンはこう書いています。「私がかつて見た記憶のある最も素時らしい光景の一つでした」。発明家ワットの語らいの魅力は、不思議な機械類に接した喜びと同様に、大学生ジョンの心を捉えました。彼は賛美の言葉を、次のように締め括っています。「先例のないほど多様な事情のもと、寛大さと公共心に富んで世間から感謝される人、ボールトンさんに援助されたワットさんのように、社会に極めて有用な人物はめったに存在しないでしょう」。ボールトンは資金に行さ詰まったワットを励まし、物心両面から援助を惜しまなかった恩人の大実業家です。
ハーシェル一家は、目的地グラスゴーでジェイムス・グラハムとその家族に会いました。グラハムとジョンは終生変わらぬ友情で接することとなります。「お茶の時間に、両家族はスコットの風刺詩歌『最後の吟遊詩人の歌』を通読して面白かった」。彼はこう書いています。詩人ワルター・スコット卿(1771−1832)による同上の長編詩歌は、1805年の作品です。
一行はグラスゴーからエディンバラに向かう途中で、カーンワスという小村で休憩、ジョンの日記によると「いやな場所、ここで(馬がないから)やむを得ず一泊しました。父は気の毒にもかなり身体の具合が悪く、それでも何故かペッドに寝ることを拒みました!そして椅子を六脚並べてマットを掛け、そこで眠ったのです」。8月23日ヨークシア州リッチモンド発で、ウィリアムはカロラインに書さ送りました「…2時間前に12日付けお手紙を拝見、…ジョンは間もなく手紙類を受け取るため、帰宅します。…私はここ2週間、風邪ぎみでしたが、もう回復するでしょう。スラウに戻れるのは9月第1週の予定ですが、ハロゲート等などで未だ訪問する箇所が幾つかあるので、正確な日程はわかりません。もう少し近付いたら、改めてお知らせします…」。
再び湖水地方からスコットランドへ
1811年、この夏もジョン一家は父とともに再び湖水地方へ、数日ほど滞在してからさらにスコットランドを訪ねました。出発は7月13日で、父ウィリアムは留守宅のカロラインに、「…未だ記憶に新しいケズィックに来ています。今日は8月1日ですから、時間を無駄にしなかったことがお分かりでしょう。昨日、ジョン達はヘルヴェリン山頂に登りました。その前の日は湖水で舟遊びでした。今朝は8時半に起床、朝食のあと妻と湖畔を…。郵便局へ行って来ましたが、手紙なし。スラウでは何事も無かったと、結論しました…。国王の健康状態について、最近のニュースを知らせて下さい…」こう書き送っています。
その後グラスゴーへ、再びグラハムに会い、ついでパトリック・ウィルソン教授の弟宅で数日を過ごしました。ここでスコットの最近作で出版されたばかりの『湖上の美人』を読んだ若い人達は、その詩が歌われている場所をさっそく訪ねよう、こう計画したに違いありません。しかし、ジョンの日記は残っていず、ウィリアムが覚え帳に「一日かけて、グラスゴーからスターリングヘ、次いでカランダーからカトリーン湖に、そしてカランダーへ戻る40マイルの旅」と書き付けているだけです。ジョンがどんなに感激したか、想像に任せるより仕方ありません。今も風光明媚さを誇る南スコットランドの森林と湖水地帯の中心地で、スコットを始め、ワーズワース兄妹、コールリッジら多くの文人たちが訪れて作品の構想を得たという、ザ・トロサハス(密生した郊外の意)、カトリーン湖(『湖上の美人』の主人公エレンに因むエレン島がある)などを回ったのですから―。ジョン一家の選んだ帰り道は、若き日の音楽家ウィリアムの想い出深きところばかりでした。ニューカースル、サザーランド、リーズ、バラブリッジ、フェリブリッジ、ドンカスター等など、息子ジョンに半世紀前の苦しい体験と楽しい想い出を話しながら、馬を走らせたことでしょう。スラウのオブザヴァトリー・ハウスに帰り着いたのは2箇月ぶり、9月18日のことでした。
解析学会を創立
ウィリアムの旅行ノートによれば、翌年以降も夏に長い旅行をしたことがうかがえます。しかし、ここで20歳に達したジョンの学業をしばらく追っておきましょう。1812年、彼はバベッジ、ピーコックの3人で、ケンブリッジ解析学会を創設しました。『解析力学』(1788)等で著名なフランスの大数学家ラグランジュ(1736−1813)らが中心となって大陸で発展していたエレガントな微積分学などを紹介し、アイザック・ニュートン(1642−1727)の複雑な流率法に取って換えようという野心的な目的を持っていたのです。こうした試みは、純粋に数学的な見地からだけでなく、一般的思考の歴史から見ても画期的でした。
かつて教鞭を執ったニュートンの権威は、当時のケンブリッジでは絶対的で、例のプリンキピアは、数学と自然科学を勉強する学生の基本的な教科書だったのです。ジョン自身も、その教科書の精神の神髄に触れるべく、皆が使用している英訳本ではなく、ラテン語の原典で読破した、といいます。17世紀ラテン語の科学用語の難解さを考えると、ジョンの努力と語学の才能は並外れていた、というべきでしょう。光学理論のように熟考と哲学的な内容を持つ分野においても、ニュートン理論は論争を許さず、絶対視されてきました。こうしたニェートン崇拝は、イギリスの大学で長い間にわたる徹底した伝統主義に加えて、狭い愛国心に支えられた国粋主義のために、ニュートンと同年代に生きたドイツの数学者兼哲学者ライプニッツ(1646−1716)らが聞拓した解析手法の採用を阻んできたのです。
19世紀に入って間もなく、イギリスの数学者ロバート・ウッドハウス(1773−1827)とジェイムズ・アイヴォリ(1765−1842)がこうした手法を英国数学界に紹介しようとして、結局は失敗でした。このように大きい改革は、ジョン・ハーシェルらの若さとダイナミックな活動力が必要だったようです。
数学で首席、王立協会に加入
1813年1月25日付けのカロラインの日記には、喜びを込めて得意気に書き込まれます。「私の甥が『シニア・ラングラーシップ』を獲得した、というケンブリッジからのお祝いの手紙がいくつも届きました,彼は続いて別の試験に挑戦、数日後に合格しましたから、大学に入学以来卒業までいつでも例外なく、最優秀の成績を得てきたのです」。ジョンが得たのは、同校で今世紀初めまで続いた「数学の学位試験の首席一級合格資格」とスミス賞といわれるものでした。
続いて2月27日、「私の兄と甥は、ローヤル・ソサイエティへ出掛けました。お帰りは…」。ハーシェル親子は連れ立って、ロンドンに泊まり掛けで出掛け、ウォータルー橋(映画「哀愁」で名高い)の袂近く、ストランド通りに面したサマセット・ハウス内の王立協会を訪ねたことが、このようにカロラインによって記録されています。王立協金(英国王立学会)の創立はなんと清教徒革命の最中の1645年ごろ、自然科学の研究と技術的応用を目的とした進歩的学者たちの自発的な集まりでした。十数年後、王政復古とともに時の国王チャールズ二世が、王立の公的団体として認可しました。同協会がテムズ河を一望でき威厳のある建物サマセット・ハウスに移ったのは、ニュートン会長が死去して半世紀ほど後の1780年のことです。
ウィリアムがここを訪問した目的は、当時の王立協会会長バンクス博士らに、ジョンを引き会わすためでした。実は2月4日付けでウィリアムは同博士宛に書簡を送り、息子ジョンを協会会員(フェロー)に加えて欲しいという依頼をしてあったのです。もちろん父親の顔パスを利用して、というようなさもしい考えからではありません。前年11月12日、ジョンは王立協会で数学論文「コーツ理論の注目すぺき応用について」を読み上げ、すでに波紋を学界に投げかけていたのですから。
しかし、英国の学界で最高の権威と名声を持つローヤル・ソサイエティのメンバーになるのは、当時も今と変わらず難しかったようです。なお現在の所在地は、ピカデリー通り沿いのバーリントン・ハウス時代を経て、セント・ジェイムス公園に近いカールトン・ハウス・テラスで、先ごろ同所ではジョン生誕200年記念の集いが−いや、そのことは本書の結びで紹介いたしましょう。
カロラインの日記を続けます。3月5日「私の甥の21回目の誕生祝いの贈り物を届けに、ホワイト嬢がお手伝いのサリーさん(甥の乳母のひとり)と訪ねて来られました」。同7、8日「お祝いの晩響会の席に私も加わり、そのときに私の甥から立派なネックレスを載いたことを、決して忘れません。私は装身具を付けるには歳を取り過ぎましたから、後に姪のグロスコップが花嫁さんになるときに贈りました」。同17日「私の甥は再びケンブリッジに出発…」。ジョンの目的はカレッジのフェロウシップ、特別研究員への応募です。試験の結果は3名の枠のトップで合格でした。カロラインが得意になるのも無理がありません。
5月27日、ジョンは21歳という若年で、王立協会のフェローに選ばれました。前例を重んじる同協会の意志決定としては、全く異例でした。いよいよ科学者の雛ジョン・ハーシェルの誕生です。
日本ハーシェル協会ニューズレター第59〜61号より転載