日本ハーシェル協会編
数学から化学へも
1813年春、ケンブリッジのセント・ジョンズ・カレッジを卒業したジョン・ハーシェルの目は、数学に加えて化学の理論と実験にも向けられました。そのころ化学という学問は、イギリスの化学者ハンフリー・デーヴィ(1778−1829)やフランスの化学者ヨセフ・L・ゲイルサック(1778−1850)らの地道な基礎的研究によって、大きな変革を遂げようとしていたのです。良き友人バベッジがトリティ・カレッジに移って、化学関係の研究に励み始めたことで、刺激を受けたのでしょうか。
確かにジョンは、幼少の頃から身近な材料を使って、実験のままごとに時を忘れることが好きでした。休暇の度に過ごしたスラウの家に小さい実験室を作り、熱心にこの新しい自然科学の分野に取り組むようになります。
しかも、他の科学にも興味が次々と湧き出して、学問の探究を特定の分野に限定するのは困難になりそうでした。休むことを知らぬ旺盛な知的好奇心は、自らの行動の自由を絶えず求めたのです。しかし、ジョンらが創設した解析学会の自発的な仕事も、ますます忙しくなっていました。定期的な刊行物としてメモワールの発行が軌道にのり、大学の殻を破って更に多くの支持者を広げる努力が必要でした。彼は自ら言い聞かすように、2月8日付けの手紙でバベッジにこういってます。「何回でも繰り返そう、ケンブリッジ解析学会に留まってはいけないのだ」と。どんなに工夫しても化学を研究する時間が限られざるを得ないことを意識したジョンは、同じ友に「神は御存じだろうか、十の生命、十倍の能カ、時間の全てを倹約して一生のうちに十倍の働き、これらをどんなに切望していることか」と、心のうちを書き送ったのでした。
南海岸への旅
同年夏、父母とともにジョンが旅した先は南イングランドです。タンブリッジ・ウェルズから、征服王ウイリアムズ勝利の地ヘイスティングスを経て、海岸沿いの保養地イーストポーンとブライトン、そしてポーツマスヘ。途中のブライトンでは一日中、詩人トマス・キャンベル(1777−1844)に会って、歓談しました。キャンベルはグラスゴー生まれで、当時すでに『希望の喜び』(1799)という詩などで知られています。
9月15日付け友人宛の手紙でキャンペルは、75歳の天文学者ウィリアム・ハーシェルの話を詳しく紹介し、火星と木星の中間に発見された4つの小天体は、かつて存在した惑星が爆発した小片で、3万個以上も有るはず、などという主張に尊敬と驚きの気持ちを記しています。同詩人は若き科学者ジョンに触れ、こう付け加えました。「彼は科学の天才で、詩に興味を持ち、しかも謙遜で気取らず…」。むかしは漁村だったブライトンが18世紀半ばに治療効果のある保養地として知られて以来、特に文学者たちが多数訪ねてます。
ジョンが生涯を通じて文学、特に詩歌に深い関心を寄せ続けたのは、若い時に都会を遠く離れた名所を訪ね、また著名な詩人らと近付きになったことが、影響したのではないでしょうか。
不可解な職業の選択
同じ年の秋に入りジョンは、重大な選択に直面していました。大きく分ければ、純粋に科学的な研究生活に専念するか、または一定の職業に就き、科学の追求は余暇を利用するか、のどちらかでした。経済的に恵まれた父母からの援助を求めれば、自らの収入なしでも、前者の道を進むことが可能だったはずです。しかし、最高学府を卒業させてもらった後、生活の手設を自らの労働からでなく、親に期待することを、ジョンの独立心が許さなかったのは当然でしょう。しかし、彼が選ぼうとした後者の道は、意外にも法廷弁護士でした。
ジョンは、ロンドンの中心地にあるリンカーンズ・イン法学院に入ることを決心しました。法学院(インズ・オブ・コート)というのは13世紀に遡る法律家養成の組織で、今でも法廷弁護士になるためには、いずれかの法学院に入って講義を受け試験に合格する必要があります。同法学院の前の広場はかつて決闘の場として使われた、といわれます。
ウィリアムにとって、息子ジョンが職業を法曹界に求めたことは、あまりにも突然でした。彼は、法律関係の仕事を高く評価せず、子が牧師になることを期持したのです。宗教的な感情や教会への思い入れではなさそうです。なぜか父は、教会の仕事は他の職より拘束が少なく、科学への興味を満足させる時間的な余裕が充分にある−こう信じていたようです。将来はジョンを天文学者にして、自分の天体観測を完成させ、天文学研究を継承して欲しい、と密かに願ったのは事実でした。
ウィリアムは同年11月8日付に続き、1週間も経たない14日に再び長い手紙を書いて、ジョンを鋭得しようと試みます。しかし、結びに「ゆっくり会って話し合おう」と認ためた父は、クリスマスから新年を一緒に過ごしたあと、不承不承ながら、ジョンの懇願を聞き届けたのでした。
ロンドンの法学院行き
1814年1月14日付けの手紙でジョンは、バベッジに法学院行きを告げました。居をロンドンに移したジョンは、2月からリンカーンズ・イン法学院で法律の勉強を始めました。早々に彼は、ケンブリッジとは極端に違った環境に、戸惑いました。法学院に入って初めて知った法律家というものが、いかに自分の性格と掛け離れていたことか!苦しい胸中をバベッジに告げました。9月20日付けの手紙です「私は決心した。その職は私の選択だ。両親の願いに背いてしまったが、一生懸命に努力してみよう」。しかし、そうした努力にもかかわらず、ジョンが法律の世界に入り込むことは不可能でした。
法学院からはほど近いサマセット・ハウスで王立協会の会合が定期的に開かれ、ここに出席するたびに、サイエンティストとしても自分を強く意識したジョン。著名な化学者ウィリアム・ウォラストン(1766−1828)と知り合いになり、その講演を聴いて、化学への興味を益々呼び起こしたのです。しかも、ロンドンでは天文学者ジェイムズ・サウス(1785−1867)とも知遇を得ました。サウスは裕福な家底に生まれ、初め薬学を学び、ドクターとしての仕事に就きましたが、その後は天文学に転身し、秀でた望遠鏡を備えた天文台をブラックマン通りの私邸に設置しました(後年、ジョンと協力してウィリアムの観測を受け継いだ系統的な改訂作業に没頭します)。やがて、ウォラストンとサウスは、ジョンを法律の道から逸らせ、ケンブリッジ時代に戻らせる磁石のような役割を果たしたのです。
南海岸で静養
1815年3月ジョンは、ケンプリッジでたまたま空席になった化学講師の職に応募しました。結果は一票差で落選でした。その年の8月、突如として法学院生活にピリオドを打つべき客観的な事態が起きました。生まれてから20年以上、ジョンが育った周囲の環境は、郊外と都会を離れた学園だけで、今から百数十年前とはいっても、首都ロンドンはやはり大都会でした。その慣れない大都会で二重三重の矛盾した生活が長続きするはずがなく、彼の決して強健ではなかった心身を損ねてしまったのです。
医師の忠告に従い、母に連れられブライトン海岸で療養生活に入ったジョンは、幸いなことに数週間で健康を回復しました。しかし、再び法学院に戻ることはありませんでした。在籍者名薄からジョンの名が消えたのは、1年ほど後のことでした。
再びケンブリッジで活曜
秋に南海岸の静養先から戻ったジョンは、セント・ジョンズ時代の先生で数学家トマス・W・ホーンバックル(1775−1848)から紹介のあったポスト、同カレッジ数学科の副チューター兼試験官に就きました。実は、苦しいロンドン生活を耐え忍んでいた春5月に勧められた職でしたが、その時はなぜか断ったのです。ケンブリッジに移ったジョンは、まさに水に戻った魚、以前にも増した熟心さで数学の世界に飛び込んだのでした。学生時代の友、ヒューウェルと再会したのも喜びでした。彼は若くして数学者、物理学者、哲学者といわれ、後にトリニティ・カレッジの長になります。ケンブリッジで19世紀前半にもっとも秀でた教授の一人ヒューウェルは、バベッジやピーコックと同様に、新しい数学解析の熱心な支持者でした。
ジョン・ハーシェルにとって1816年も、目まぐるしい毎日で始まりました。思っていたより、サブ・チューターの職務は単調で、しかも相当に多忙でした。前年12月半ば、バベッジはこんな泣き言を聞かされたといいます。「1日に10時間または12時間もかけて、60ないし70人の阿呆どものテストを見るなんて、どんな仕事か、想像できるだろうか。10人のうち1人だって左手と右手の区別も知らず、本に書いてあることが全く理解できない。…自分自身が怠惰で馬鹿になりそう。新入生のだれにも自分が何を教えようとしているのか、判らせることができず−」。同カレッジの生徒がそんなに出来が悪いとは、信じられません。先生のジョンがずば抜けて優秀すぎたためではないのでしょうか。こうした落胆がジョンの数学に対する熱意を損なわなかったのは、幸いでした。
同年7月3日、ジョンは文学修士の学位を得て、大学教授団の一員に選ばれました。大学で身を立てる輝かしい道が目の前に開けたのです。
この年、あるフランスの数学者の微積分の本を、ピーコックらと訳して出版しました。これは若い世代の数学者と大学の講師から高く評価され、大学の教料書として使用されました。解析学会が紹介した新しい大陸の手法に基づく独自の問題集は、翌1817年にはケンブリッジでの試験問題に登場します。時を経ずして、ケンブリッジでの数学教授法が画期的な変革を遂げたばかりでなく、驚くほど短期間のうちに、新手法がイギリス中で受け入れられたのです。
父の後継者になったジョン
同じ年の夏、父に連れられたジョンは、コーンォール半島のデヴォン州にある小村ドーリッシュを訪問しました。スラウを出発したのは8月13日です。西南西三百キロ近く離れた南海岸沿いにあるこの避暑地は、訪れた小説家が作品の舞台に使ってたりして知られています(ここから数キロ足らずの所に在住されたハーシェルの子孫エリングワース夫人が古文書に当たったところによると、バース時代の父の旧友ワットソン卿の別荘がドーリッシュにあり、同卿を訪ねるのが主な目的だったのではないか、とのことです)。
当時、ウィリアムは78歳、寄る年波に勝てず、夜の天体観測を制限せざるを得なくなってました。カロラインも既に66歳、望遠鏡を使って長い緊張に耐えることは困魅でした。しかし、共に天文研究を断念する決心はつきません。生涯かけた仕事の重要な部分が未だ完成せず、改訂、再評価、系統的照合が残されています。
しかし、年老いたウィリアムには、荷が重すぎました。彼の精神と技術を受け継ぎ完成に導いてくれる後継者が必要でした。このことについてハーシェル父子は、熱心に語り合いました。そして子は父に天文助手になることを申し出たのです。ロマンティックな義侠心や冷たい計算からでは有り得ません。40余年の間、休むことなく天文に情熱を傾けた父への、尊敬と愛からです。カロラインの日記によると、スラウに戻ったのは9月13日でした。
法律から離れるのとは違い、ケンブリッジから別れるのは、ジョンにとって辛いことでした。1816年10月10日付けのバベッジ宛の手紙の一部を紹介しておきましょう。「私は月曜にケンブリッジに行く、滞在するのは、勘定を払い、自分の本を荷作りし、大学に長い、多分最後の別れを告げる時間に限られよう。…君も良く知るとおり、僕は遠慮なくケンブリッジの悪口を言ってきたが、いま去るに当たって胸がこころの内で死ぬ思いだ。これからは父の指示のもと、父が中断した定期的な一連の観測に取り組み、威力のある望違鏡で星空の調査を続けていこう…」。
日本ハーシェル協会ニューズレター第61〜62号より転載