ジョン・ハーシェルの生涯

■連載第2回■ 少年時代(1801〜1809)


日本ハーシェル協会編

19世紀の幕開け、初の外国ヘ

 1801年1月1日、つまり19世紀の初日に、イタリアのジュゼッペ・ピアッジ(1746−1826)が、牡牛座に8等星の運動する新天体をパレルモ天文台で発見しました。彼はこの小惑星ケレスの発見で太陽系の火星と木星の間膜を埋め、ちょうどその20年前にはウィリアム・ハーシェルが、双子座で6等級の天王星を発見して太陽系そのものを広げたのでした(ウィリアムの死後ジョンは、スラウを訪ねたこともある父の良き友人ピアッジに、イタリアで会っています)。

 1802年7月13日、夏休みに入ったジョンは、父母と従姉妹に連れられてイギリス海峡を越え、フランスヘの旅に出発しました。同年3月に英仏間に「アミアンの和約」が結ばれて、十余年ぶりにイギリスからの旅人がどっとパリーヘ押し寄せていました。ウィリアム以外の3人は初めての外国旅行です。特にジョンにとっては、見聞きしたことがどんなに印象深かったことでしょう。また、感受性が強く10歳になったばかりの少年に、いかに大きい影響を与えたか、想像にかたくありません。

 一行は、港まちドーヴァで天候の回復を待ち、20日に出航。定期船の名はアクティヴ号、船長はハミルトンでした。「・・風が強く、妻は船酔いに悩まされました。ジョンもすっかり参ったようです。3時間で無事に対岸のカレー港に到着、快適な宿を見つけ、翌日はブーローニュに向かい…」。イギリス海峡を趣えたウィリアムは、さっそく留守宅のカロラインに、13日付けで手紙を認ため、その2日後パリーに到着しました。

 パリー滞在中、著名な天文学者ピエール・S・ラプラス(1749−1817)、星団星雲のカタログで知られたチャールス・メシア(1730−1817)らを訪問しました。ラプラスはかつてウィリアムが発見した「彗星らしき」天体の軌道を観測位置から正確に計算して、土星の外側を公転する惑星であることを断定した天体力学の大家です。

 また、ラプラスらと共に宮廷に招かれて皇帝ナポレオンと親しく歓談、ジョンは独裁者の面前では、いささか気後れして緊張した顔つきだった、といわれます。

 オペラ、バレーなどの総合芸術も鑑賞、間もなくフランスに別れを告げ、四人を乗せた船は英仏海峡を越え、8月14日午後10時ドーヴァ港に接岸しました。翌朝、ウィリアムはカロライン宛の手紙に記してます「…海上で非常に苦しんだことなど記す必要はないでしょうが、今度ほど辛い思いをした船酔いについてお知らせせずにはいられません。でも、みんな回復が早く、美味しい食事を平らげて…」。

 しかし、翌日ジョンは別の病気に罹り、スラウに戻ってからも暫くは床に伏せ、父親らを悩ませました。不在の間に溜まっていた急ぎの仕事と子供の病気のためウィリアムは、世話になったフランスの知人への文通が何ヵ月も遅れ、親しい友人らを心配させた、といわれます。
 

虚弱だった少年ジョン

 少年時代のジョンは決して強い身体ではなく、しばしば病魔に襲われて、70代を迎え自らの健康に自信を失いかけた父親を心配させました。1808年のカロラインの日記を少し引用します。「2月6日、兄が40フィート鏡を再研磨する手伝いに来てみると、甥は発熟して炎症性の咽喉痛に苦しんでました。9日、甥の病気は相変わらずひどいのですが、望遠鏡の仕事の手筈はすっかり整えてあるため、兄はそちらに掛かり切りです。10日、今日は多少、回復に向かっています。19日、甥の病気は回復しましたが、今度は兄の健康が勝れません。26日、兄は床に伏し、面会が許されません。3月10日、兄とほんの2、3分だけ会えましたが、未だ話をするのは無理です。13日、久し振りに兄は図書室へ…」

 翌1809年1月、カロラインの日記によると「この月中、私は風邪、甥は高熟て咽頭痛!大洪水と嵐というひどい天気!」当時は、というより今から数十年前までは、近くを流れるテムズ河が、時折溢れて大きい被害を広い範囲に与えてきたのでした。
 

湖水地方からケンブリッジへ

 同年夏、ハーシェル一家は北イングランドに旅行しました。2箇月近い長期の旅で、ウィリアム夫人によると、「9月3日、日曜。・・スラウに最後の14マイル、4人で出掛けたもっとも楽しかった旅の結びです。さしたる事故もなく789マイル、皆とても元気に家へ戻りました。今度の旅行は、大きな喜びで思い起こすことができましょう」。17歳に生長したジョンは、幼年期のパリー行きと違った強い印象を受けたはずです。出発のときから少し後を追っておきましょう。

 7月12日、ウィリアム夫妻、ジョン、ソフィア・ボールドウィンの一行は、スラウのオブザーヴァトリ・ハウスを出発、一方カロラインは、留守番を兼ねて同ハウスに移りました。4人の第一の目的地は北約五百キロの湖水地方、ここはカンブリア州に広がる英国随一の景勝地です。18世紀後半からその美しさが文人らの注目するところとなり、特に湖水派と呼ばれる詩人ウィリアム・ワーズワース(1770−1850)らとの結びつきは良く知られています。二○世紀に入って、「ピーター・ラビット」で有名なビアトリクス・ポター(1866−1943)らの努力で、地方の自然と名所が、ナショナル・トラストの管理下に置かれ、自然環境はいつまでも保存されましょう。

 ジョン・ハーシェルと同年生まれで、矢張りイートン校に学んだ短命の詩人パーシー・B・シェリーが、ジョンと相前後して湖水地方北部の観光中心地ケズィックを時々訪れ、化学実験をして隣人を驚かせた、と言う逸話を紹介しでも無駄ではないでしょう。ケズィック発でウィリアムは、カロラインらに次のように認ためました。

 「8月3日、…私達はウェストモア湖とカンバランド湖の間近にいます。景色の美しさは全く形容てきないほどで、道は急な上り下りがありますが、旅には快適です。これから近くの最高峰3530フィートのスキドウ山に登る予定です…。同4日、きのうスキドウ登山に成功、素晴らしい天候に恵まれました。この地方は山岳が多く、良く見渡せました。登りは子馬の背に乗りましたが、帰りは急坂でほとんど徒歩で戻り、とても疲れた一日でした。…書く特間はあまりありません。毎日の24時間は、動き回りと食事と睡眠で一杯です。…貴女の手紙、たしかに拝受。次は、ヨークシア州のリポン局留めに出してください。ジョンらからも宜しくとのことです」・

 中部の都市リーズを経て、もう一つの主な目的地ケンブリッジに封着したことを、ハーシェル夫人は、次のように書き残しています。

 「8月29日、火曜日。ケンブリッジに向かい、1時ごろ着、宿はトリニティ・カレッジの反対側です。タ食のあと、もちろん最初にセント・ジョンズ・カレッジ、続いてほかのカレッジをいくつか訪ねました。愛しい息子に初めてカレッジを見せたのは、大きい喜びです。来る途中で2時間ほど馬を休めた小さいスタンション村で、ある紳士から紹介されたキング牧師はとても親切で、ケンブリッジに着いてすぐ訪ねてくださり、トリニティ・カレッジを案内して下さったのです。珍しい事柄は書き留められないほど多数です。

 「タ方には、息子の先生になるホーンパッケル氏に面会しました。同氏から次の日に食事を一緒に、と丁重に誘われ、私達は喜んでお受けしました。その夕食会は氏の友人たち12人の楽しい集いで、その中にはイニス夫妻とセント・ジョンズに入学したばかりの息子さんが含まれていました。この若い紳士は、私達の息子ジョンと同様に、グレットン博士の元で勉強してきたのでした。

 「私は今度ジョンと戻るときの自分の下宿探しに、空いた時間を費やしました。しかし、既にカレッジの寄宿舎に泊まれない学生達に溢れ、適当な所を見つけるのに苦労しました。9月1日、金曜日。午後3時、ケンブリッジを後にしました…」。

 こうして、ジョンが秋に大学に入学する準備を兼ねた大旅行が終わったのです。一般庶民から考えると、極めて贅沢な夏のヴァカンスでした。

 同年10月17日、ジョンはケンブリッジのセント・ジョンズ・カレッジに入学するため、故郷を後にしました。母のメアリーも同行して、何日もその町に滞在したといいます。息子の大学入学式に付き添って旅館住まいをする母親−正に今でいう教育ママそっくりではありませんか。 
 

日本ハーシェル協会ニューズレター第59号より転載


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