ジョン・ハーシェルの生涯

■連載第1回■ 幼少のころ(1792〜1800)


日本ハーシェル協会編

ジョン・ハーシェルの誕生

 1792年3月7日、イギリスはバッキンガム州スラウのウィンザー通り沿いに建つ古い赤煉瓦作りの家「オブザーヴァトリ・ハウス」に、1人の男の子が生まれました。ほど近いアプトンの古い教会で洗礼を受け、ジョン・フレデリック・ウィリアム・ハーシェルと名付けられました。父は、音楽家から天文学者に転じて、既に広く内外に名を知られたウィリアム・ハーシェル(54歳)、母は聡明で明るい気性のメアリ(43歳)、二人は4年前の5月8日に結婚したのでした。

 ゴッドフファーザー(名親)は、父の古くからの友人ウィリアム・ワトソン卿とポーランド貴族のコマゼウスキー将軍。母の姪に当たるソフィア・ボールドウィンが一緒に暮らし、また父に献身的な妹カロライン(42歳)は、目と鼻の先に住み、観測助手として昼夜を分かたず行き来していました。ウィリアムの弟アレクザンダーとディトリッヒは、時にスラウを訪ねて長い期間、滞在することかありました。

 第二次大戦後、都市化の進んだスラウの中心は、首都ロンドンと電車で110分足らずで結ばれ、すぐ近くのヒースロウ空港から間断なく飛び立つジェット機の爆音すらかき消されるほど自動車の交通が激しい繁華街です。しかし、18世紀末のウィンザー通り近辺は、人家も少なく、閑静そのものといった自然環境に恵まれたところでした。
 

相違点の多いジョンとウィリアムの環境

 ハーシェル家父子の幼少時代は、著しい違いがあります。ドイツのハノーヴァ生まれのウィリアムは10人という子沢山(うち4人は早死にしました)の中で育ち、音楽が職業と趣味を兼ねて、家の内外はいつも賑やかな空気に包まれていたのでした。これに対して、ジョンには兄弟姉妹や遊び友達がなく、父が夜間観測を終えたあと、昼間は睡眠を取ることが多く、物音を立てないよう静かに過ごす必要がありました。

 ウィリアムは父が勤める軍楽隊からの収入だけという経済的に苦しい家庭に育ちましたが、ジョンは父が1781年に天王星を発見したのを機に国王ジョージ三世お抱えの天文学者になり、しかも望遠鏡製作の名人として外国からの注文も多く、これに加えて母が裕福なジョン・ピットという豪商(−1786)の未亡人だったために、お金の苦労は全く知らずに成長していきました。

 ジョンには兄弟…がなく、と書きましたが、彼の物心がつく前に亡くなったポールという義兄について、少し付け加えておきましょう。ポールは、母がピット夫人だったときに生まれた男の子で、母の再婚した相手、つまり義父ウィリアムに宛てた手紙の中で、「貴方にとって息子、私にとっては弟」の誕生を、非常に率直かつ自然な態度でお祝いを述べています。ポールは再婚した母と別居し、ロンドンの化学製品卸商で叔父のトマス・ボールドウィンと事業を始めましたが、結核が原因で、1793年2月に若死にしました。後にこのことを知ったジョンは、兄弟の交わり、兄の愛情が受けられなかったことを常に残念がっていた、といわれます。


ショックから立ち直ったカロライン

 カロラインは兄ウィリアムの誠実な天文助手になるために、13歳の若さで愛しい母と弟に別れを告げ、イギリスに渡って来てから早くも20年。その数年前から命じられたお手伝いがないときには、兄の示唆に基づく彗星探索という後世に残る仕事に励んでいました。既に1786年の夏、系統的な捜索を始めて4箇月も経たないうちに、新彗星発見に成功しました。ハーシェル彗星1786Uが誕生し、彼女の名を永久に印すことになったのです(続く10年問に合計8個の彗星を独自に見つけた事をここに記しておきます)。その2年後の1788年春、兄の結婚という思いがけない出来事で受けたショックは大きく、克明に付けていた日記を何年かにわたって破り捨てた、と伝えられています。

 しかし、4年ほど経って生まれた兄夫婦の子ジョンが成長するにつれて、少しずつ心の平静さを取り戻していったようです。夫人の温厚で人懐こい性格も大いにものをいったのでしょう。ジョンと過ごす時間に恵まれたカロラインは、当時を回想してこう書き残しています。「私と一緒の時のジョンは実験に夢中でした。いろんな箱、お茶缶の蓋、こしょう入れ、ティーカップ等が必要な容器で、砂桶が分析する物質で一杯でした。私はただ水に注意してました、カーペットを台無しにされないように―」


お茶目なジョンと社交的な両親

 庭には、完成したばかりの世界最大の40フィート反射望遠鏡の巨大な鏡筒が天を睨むようにそびえ立ち、家の中は観測所の名の通り、工作道具と望遠鏡、観測器材と図書類、記録結果などに溢れていました。時折訪ねて来るお客は父の天文関係者で、ジョンが聞かされる会話は、常に彼の理解力を越えた内容ばかりでした。

 ある日のことジョンは、出入りの職人や大工に纏わりついて工作器械の使い方を教わり、大人の目をぬすみハンマーと鑿で、家の土台を壊しかけました。彼はまた、望遠鏡の足場や梯子に登って、親を驚かせた、といわれます。

 両親は共に非常に社交的で、忙しい研究生括の合問をぬってスコット競馬に夢中になり、ウィンザー城に国王一家を訪ねた後は、城のテラスを散策したりしました。空が曇って天体観測ができないときは、スラウのホールの音楽会やトランプの集まりにも父母の姿がしばしば見られたのです。
 

「頼もしい感じ」と言われたジョン

 ここで、ジョンが5歳半だったときのある日、ハーシェル一家の家庭生活を生き生きと伝えるウィリアムの友人の回顧録を紹介しましょう。その友人は有名な音楽学者チャールズ・バーニー博士(1726−1814)で、令嬢が「エヴィリーナ」(1778)などで知られた女流作家ファニー・バーニー(1752−1840)です。令嬢は、かつて40フィート望遠鏡の巨大な鏡筒が完成したときに招持を受け、その筒の大きさに驚嘆した、と伝えられています。

 「…1797年9月、私は予め手紙でお会いすることをお願いしたハーシェル博士宅を訪ねました。しかし日時を間違えてドアを叩いてしまい、夜分か翌朝にお邪魔してよろしいか、お聞きしました。御一家は夕食の最中でしたが、馬車からすぐ下りて食事に加わるよう勧め、あまり熟心に誘うので私は断れませんでした。食卓を囲む人達、4人の女性と男の子を紹介され、4人もの女性にすっかり圧倒されました。私はハーシェル博士が結婚したことを知らず、妹さんだけと思い込んでいたのです。かなり高齢の方は多分ハーシェル夫人のご母堂、それにグラスゴウの著名な天文学者ウィルソン博士のお嬢さんとミス・ハーシェルでした。

 「…私の車は帰して、今夜はゆっくりして泊まっていくよう、丁重に勧めるのです。ハーシェル博士とは良く知った仲でしたが、ほかのご婦人ともすぐに知り合いになり、夕食が終わる頃には、まるで旧友同士が久し振りに会ったような雰囲気でした。夫人は思慮深く、ユーモアに富み、控え目でしかも親切です。小さい子は愉快でおどけたりしましたが、末頼もしい感じがしました。楽しい談笑のあとご婦人達は、気を利かせ連れ立って散歩に出掛けました。

 「ハーシェル博士と私は望遠鏡の近くで差し向かいになり、本題に入りました。薄暗くなって湿気が多くなったので、書斎に入り、哲学的な論議に移りました。…私は第8章から始めました。博士は私が書こうとしている内容を十分に理解していると励まし、口を挟んだのは2回だけでした。選んだ言葉が強すぎる箇所と逆に弱すぎる箇所でした。

 「…翌朝も私は、デカルトに関する章からスタートし、時間の許す限り読ませていただきました。車を一二時に頼んでありましたが、原稿を読み上げ、語り、問いかけ、蔵書と観測機械を見たりして、この素晴らしい人とお別れできたのは、予定を1時間も過ぎてからでした」。

 このようにウィリアムは、天文の歴史を詩で綴ろうと試みていたバーニー博士が、未完の長い詩を読み上げるのを、何時間も辛抱強く聞いていたのでした。
 

短かったイートン校生括

 1800年5月1日、満8歳を迎えるジョンは、ウィンザーに向かう道を3キロほど行ったところ、テムズ河沿いに建つイートン校に入学しました。この伝統のあるパブリック・スクールは、ヘンリー六世が少数の貧しい子供たちの初等教育を目的に、15世紀半ばに設立した全寮制の私立男子校です。やがて名門中の名門と謳われて、特権階級の子弟のための学校にランクされ、今でも、上流階級や貴族がその子弟の誕生と同時に手続きをしないと、なかなか入れないといわれます。

 ジョンのイートン校生括はひと月も続きませんでした。上級生が彼にボックシングを強制し、地面に叩きつけられたのを知った母は、直ちに退学届を出し、スラウの隣村ビッチャムにある私立学校に転校させたのです。ここは父の友人グレットン博士が校長で、純粋に古典的学問を教える学校でした。教育熱心な両親は、家庭教師としてスコットランド人の数学者ロジャーズ先生を自宅に招き、ジョンは大学へ入るための準備課程も学ぶことになりました。

 ジョンは自然科学の初歩・語学・文学・音楽も熱心に習得し、素晴らしい成績を収めましたが、数学の勉強は完全に失敗だったようです。9年後、ケンブリッジのセント・ジョンズ・カレッジに入ってから彼が現わす数学の才能のことを考えると、実に不思議ではありませんか。 

日本ハーシェル協会ニューズレター第58号より転載


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