今泉おじさんの想い出


2000年10月15日
 2000年10月現在の私は、ちょっと仕事というか職場環境に悩みを抱え、日々ささやかな愚痴をこぼしながら生きています。
 「そんなことではいけない。もっと前向きに生きよう!」と自分を鼓舞しながらがんばっておりますが、なかなかそうは上手くいかず、試行錯誤の日々ですが、そんな中で

 「過去には、もっと辛いことだってあったじゃないか!

 と、過去の辛い経験を思い出して自分を励ますという、ありがちな状態に陥りました。

 今泉さんというのはとうぜん仮名です。
 また、2年ほど前の話なので、記憶違いからの作り話もあるかと思いますが、概ね事実に基づいております。

 なお、この文章は、私の心のリハビリ作業という目的で書かれていますし、どこの職場にもこういう人がいると思います。なのであまり他人に読ませるようなもんでもありませんので悪しからず。
                                           


 
 失業してお金もあまりなく、仕事もなかなか決まらなくて、とても焦っていてときに派遣会社が紹介してくれたのが、「某組合の中央会の中にある会社で、組合員相手に何か物を売ってる購買部みたいなところで、そこの営業事務アシスタント。簡単な経理事務ができる人募集」でした。
 中央会にはたくさん人がいるようですが、その会社には私以外には二人しか社員がいないようなので「気を遣わないでいいと思いますよ」と派遣会社のコーディネーターに言われ、こちらもあまり選べるゆとりがなかったので、面談に行ってみると「できたら今日から来てもらいたいくらいだ!」と言われ、こっちがいいともわるいとも返事する前に、次の日から働くことになりました。その強引なおじさんが今泉さんでした。

 年は60歳そこそこ。自分の父とほぼ同じ年齢です。

 「おれは、長嶋監督と同じ年なんだ!」

 と、意味不明の自慢をなさっていました。
 私が長嶋監督と同じ高校出身だと知り、千葉県育ちの彼にはその高校がわりと進学校だということもわかってしまったので、一瞬にして私の知的レベルを見破られました。

 「いやあ、すごいねえ。優秀なんだ。へえ、大学にも行ったの。末は博士か花嫁か!

 大学生のときに、アルバイトの面接で同じようなことを言われたことがあります。あのときは「なんだこいつ」とムッとしただけですが、それから十数年たち、見るからに冴えない職場で、金のために働かなくてはいけない我が身に、その言葉はズシンと来ました。なにしろ、博士にも花嫁にもなってませんから・・・

 私も瞬時に悟りました。「この人はギャグで人を傷つける人だ」と。


 今泉さんは、困るとよく鼻歌を大声で唄いました。レパートリーは

「わたし、ばかよね〜、おばかさんよね〜」と「あ〜〜〜やんなっちゃった」でした。

 それはいいのですが、それらを唄ったあとに必ず、「ねえ、あんたこの唄知ってる?」と尋ねてきます。「題名は忘れましたが、知ってますよ。だって有名じゃないですか」と答えると、

今泉「へ〜あんたすごいねえ、なんでも知ってるんだねえ。じゃあ、マルクスって知ってる?」
私 「はあ・・・詳しくはないですけど、一応、マルクスにはもれなくエンゲルスが付いてくることくらいは知ってます」
今泉「は?エンゲ・・・何?」
私 「マルクスとエンゲルスは一組で教科書に出てくるのです」
今泉「ほんと?」
私 「本当です。そんなんでダマして何が楽しいんですか」
今泉「へえ〜はじめて聞いたなあ。あんたなんでも知ってるんだねえ。じゃあ・・・・」

 負けず嫌いの今泉さんは、そういう時によく昔の講談の一節みたいのを披露してくれます。しかし、さすがの私もそこまでの知識はありません。
 
今泉 「ね?ね?今の何の話だかわかった?」
私 「さあ?さすがにそういうのは・・・・」
今泉 「な〜んだ、頭良さそうでも大したことないじゃん

 持ち上げるだけ、持ち上げておいて、最後にドシンと落とす。なかなかのテクニックでした。


 ゆとりのあるときには「この人は窓際族なわけだし、私以外には、どこに出しても恥ずかしいほど立派なぼんくら男性社員が一人いるだけだし、きっと話し相手に飢えているのだ。」と気の毒に思い、適当に相手してあげていたのですが、そんな喋ってばかりいるオジサンとぼんやりしている男性二人では、仕事も遅々としてはかどらないし、そもそも、その会社は決算期だったのです。
 今泉さんの前任者が定年退職で辞めたのはほんの3ヶ月前。その間、一応引き継ぎはしていたようなんですが、

今泉「あいつはオレにイジワルしたんだ。あいつは定年で、オレも定年だったけど、結局あいつの椅子を俺がとっちゃって、嘱託で残れることになったのがオモシロクなくて、な〜んにも教えてくれなかったんだ」

 なので「オレはちゃんと教わってないからなんにもわからない」と開き直っていました。
 でも、それを私に言われても、私もなーんにもわからないんです。私の前に派遣が二人いたのですが、バタバタと辞めちゃってたんです。どうやらそれは、本部に疎まれて退職に追い込まれた「6年間いた派遣社員」というのが、かなり気性の荒い人で、その人の引き継ぎに誰もついていけずに脱落したようなのです。
 そして、その人も契約が切れていなくなってしまい、その後の混乱の最中、なにも知らない私が来てしまったのです。
 要するに私は「派遣会社にだまされた」わけです。

 それでも手探りで前任者の残した書類を見ながらやっていたのですが、仕事の邪魔ばっかりする今泉さんと、悪意はないのですが、無意識に仕事を増やしてくれる最悪の同僚に恵まれて、毎日が残業の日々でした。(おかげでお金は稼ぐことができて、家計は随分助かりました)

 そうなると疲れから心のゆとりを失ってきて、今泉さんの「殺人ギャグ」がいちいち心に響いて、死にそうになりました。

(男性社員に関しては、なんで不景気の最中にあれほどの人材をとれたのか謎でした。それも今泉さんの前任者の仕掛けた罠だったというのが今泉さんの推理でした。それはけっこう的外れではないかもと私も思いました。)


 今泉さんは寂しがりやなので、残業していて、私がくたびれきってしまい、「今日はもう仕事にならないので、帰ります」というと、必死で引き止めようとします。
 
今泉「え〜帰っちゃうの〜?そんな〜ミヤちゃん(初日からそう呼ばれていた)帰っちゃうと、さびしーよー」
私 「大人なんだから、我慢してください」
今泉「ねえ、仕事終わったら、ご馳走するからさあ」

 その前日にお付き合いして、かなり懲りていました。こちらにそのときのエピソードがあります

私 「もう疲れてるんです。このままいたら、きっと八つ当たりしますよ」
今泉「でもさ〜、でもさ〜、オレもわかんない仕事やってて、大変なのよ。少しは助けてよ〜」
私 「私にお手伝いできることもないでしょ?それに、私の残業代は高いんですよ!人件費上がると、上から叱られるでしょ?」
今泉「お金の問題じゃないんだよ!オレが不安なんだよ!助けてくれないのかよ!」

 父親と同じ年代の男性が必死にすがってくることなんて、今までありませんでしたから、ここで私は一瞬怯みました。
 そして、今泉さんは相手のそういう隙を絶対に見逃しません。

今泉「ね、ね、もう仕事しなくていいからさ。ビールでも飲んでてよ。ね。今買ってくるから。ね」

 そうして、嬉々として近所のコンビニに走り、缶ビールを買ってきて押し付けられると、もうどうでもよくなってしまい、残業疲れで喉も渇いてますからついつい飲んでしまう弱い私でありました。
 当然、今泉さんも飲みながら仕事してるんだかしてないんだか・・・・また無駄話を始めるので「仕事しないんだったら、あたし帰りますからね」と、時々脅しをかけなくてはなりませんでした。

 「お〜コワ。おこられちゃったよ〜、こりゃあどうもすいませんですねえ〜」

 ほろ酔い気分で、そう切り替えされると、もう怒る気力も吹き飛ぶほど脱力してしまうのでした。


 一週間後には「今泉さんを叱りつける私と、叱られても挫けず減らず口をたたく今泉さん」というキャラ設定が私の知らないうちに出来上がっていました。



 今泉さんは来客が大好きです。お喋りできるし、仕事しなくてもいいからです。来客は旧知の方ばかりですので、まるで私を息子の嫁のように紹介してくださりました。

今泉 「この人ねえ、なかなか優秀で助かってるんだよ」
客 「それになかなかのベッピンさんだし、よかったじゃない」(爺さんにはなぜかウけるルックスなのが悲しい)
今泉 「へへえ、うらやましいでしょ。でも、見かけより怖いんだよ〜、いっつも怒鳴られてるんだ」

 そういう会話を目の前で交わされているのに必死で耐えながら、わたしは顧客からの苦情電話を受けていました。
 同僚が、顧客の依頼を放置しておく悪癖があり、その対応だけでも大変でした。

 「怒鳴った」というのは本当で、その数日前にこんな事件があったのです。

 私が電話や発注に忙殺されていて、自分でも驚くほど余裕がなくてピリピリしていたときに、支払手形を作っていた今泉さんが急に「印紙がない!」と騒ぎはじめたのです。
 私も男性社員も手が離せる状態ではなかったので、いつものことだと無視していたのですが、どうやらその態度が気に入らなかったらしく「どうしよう、もう集金にきちゃうよ。印紙ないと困るよ」と騒ぎ続けます。
 ついに私も我慢できなくて「だったら買いに行けばいいじゃないですか?郵便局はとなりのビルにあるんですよ?」と言ってしまいました。

今泉「だったらさあ、悪いけど、買ってきてよ」
私 「見てわかりませんか?私は今とってもいそがしいんですよ!発注書流さなくちゃならないし、それに2件も電話を折り返しにしてるんです。じゃあ、買ってきてもいいけど、今泉さんその間私の仕事やってくれますか!」
今泉「そんな怒らないでよ〜」
私 「ふつう、怒りますよ」
今泉「女の子が怒ってると、かわいくないぞ〜」

 なんかとても泣きたくなりましたが、これ以上やりあっていても時間の無駄だとあきらめ、1万円を預かって郵便局に行きました。悔しくて、悔しくて、ぎゅっと唇を噛み締めていました。8000円分の印紙を買って戻り、投げつけるように今泉さんの机に置きました。

今泉「あれえ、伝票は書いてくれないのお?」
私 「御自分でやってください」
今泉「も〜今日のミヤちゃんはケチだなあ」

 今泉さんは渋々、出金伝票を書き始めました。すると突然、

今泉「あれえ、ミヤちゃーん、おつりが足りないよ〜」

 と言い出すではないですか。私は1万円をポケットに入れて、そのままお釣もポケットに入れて帰ってきたので、紛れようがありません。でも、私もそうとう頭に血が昇っていたので、どこかで千円札を落としたのではないかと、不安になりました。
 青ざめる私をよそに、今泉さんは鬼の首をとったかのように騒ぎます。

今泉「なんだよ〜ミヤちゃん、しっかりしてると思ったのに。わりと抜けてるんだな〜。ちゃんと確かめないと〜。」

 私は動転して目眩がしてきました。変だ、たしかちゃんと2千円お釣をもらったはずなのに、なんで足りないの?唇が震える中でやっと「ちゃんと2千円ありませんか?もう一度たしかめてください」と言いました。すると、

今泉「え?2千円?だって2千円の印紙が3枚で6000円だろ?」
私 「違います。4枚で8千円です!」
今泉「な〜んだ、ミヤちゃん数をまちがえたんだ!3枚って言ったじゃん!」

 幸いにも日々のお付き合いの中で今泉さんの性質をある程度把握していた私は、彼にメモを貰っていました。ポケットからその買い物メモを取り出すと、今泉さんの字でしっかりと「収入印紙2000円 4枚」と書かれてまいした。
 私は鬼のような形相でそのメモを今泉さんの鼻先に突き出しました。

今泉「あ〜なんだ〜、勘違いしてたのはオレかあ!ほら、オレってバカだからさあ。わたしバカよね〜おバカさんよね〜♪って、この歌知ってる?

 今まで生きていて、あんなに怒ったことはありません。
 まさに「ブチッっときた」という感じでした。血管が本当に破裂したのではないかと思いました。

 それでも、普段あまり感情を露にしない私は本当は怒りよりも悲しみ・・・いえ、哀れみの感情ほうにとらわれていました。しかし、心の中で「ここで笑って許しては、のちのちの自分にとって限りなく不利である」と冷静に計算して、演技力を駆使しました。

私 「今泉さん!今の発言はとても不愉快です。私はほんと〜に怒ってます。ほんとうのキモチをいいますと、もう明日から、いえ今この瞬間に泣きながら家に帰り、もう2度とここには来たくないし、あなたの顔も見たくないくらいに怒ってます」

 と、我ながら「怒りに我を忘れる女」には程遠いセリフを吐きながら、でもなるべく泣き出しそうに肩を震わせて抗議しました。
 その様子にびびってしまったのは、今泉さんでなく、その傍らにいた男性社員でした。

男「そうですよ、今泉さん。その態度は最低です。ちゃんとミヤノさんに謝ってください!」
今泉「え〜?オレが悪いのお?オレもただまちがっちゃっただけじゃん」
男「でも、謝ってください。そうじゃないと、ミヤノさんほんとに帰っちゃって明日から来てくれませんよ!そうしたらどうすんですか?」

 今泉さんはそれでも謝りたくないらしく、しばらく迷っていましたが、やがて、

今泉「わかった、わかった、謝ればいいんでしょ!みんなおいらが悪いのさあ〜っ♪て」
私 「・・・・・・・・・・・わかりました、・・・・・今までお世話になりました・・・・」

 私がドアに向かって踵を返すと、やっと慌てはじめ

今泉「わかった、わかった、ゴメン、ゴメン」

 あそこで謝ってくれなくて、そのまま辞められたらどんなにいいだろうと思いました。でも、そのキモチは伝えねばならないと思い「わかりました。今回は許しましょう。でも3回までですよ。あと2回このくらい怒ったら、絶対に辞めますからね!」


 この出来事が印象的すぎて、その次に怒ったのがどういう事件だったのか忘れましたが、とにかく今泉さんは2回この私を怒らせ、

今泉「ミヤちゃん怒ると、辞める辞めるっていうから気をつかっちゃうよ〜」

 と、一応は気にしているようですが、その後も果敢に私の我慢強さに挑戦してきては

今泉「あ、今怒った?ちょっと怒ったでしょ?ミヤちゃん、怒ると顔色が青くなるからすぐわかるんだよね〜。でも辞めちゃうと困るから、ちょっとあっちに行くね」

 と、休憩室にサボりに行っていました。


 「わたしばかよね〜」を唄うのが好きだったのに、今泉さんは他人から馬鹿にされるのを異常に警戒していまいした。

 今泉さんがやらなくてはいけない仕事は主に対外的な営業っぽい仕事でしたが、身内相手だと大イバリなのに、よく知らない人相手だと急に気が小さくなってしまい、先方から商品の説明などを求めらたりすると、急にそわそわし始め

今泉「実は私もここでは新顔なもんで、もっと詳しいのがいますから・・・ねえ、ミヤちゃん!ちょっと説明してあげてよ!」

 って、私はあんたより後から来てるんですよ!それに商品の在庫がほとんどなくて、写真でしか見たことなかったりしたので、説明できる状態でもありませんでした。それでも仕方なく、チラシやカタログを持っていき「私が説明するよりも写真をご覧になったほうが・・・」などとごまかしていました。

私 「私に説明させないでくださいよ。私だってわからないんですよ!それにカタログがあるのは今泉さんだってご存知じゃないですか!ちゃんと用意しておけばいいし、それに主力商品のことくらいちゃんと説明できるようにしておかないと、お客さんだって不審がりますよ!」
今泉「ふん!どうせ、あんたオレのことそうやってバカだと思ってるんだろ」
私 「そんなこと思ってませんよ。でもちゃんと努力はしてくださらないと・・・」
今泉「わかってますよ。あんたオレのことバカにしてんだよ。こんなバカ見たことないとか心の中で思ってるだよ」

 たしかに、その通りでした。



 
 決算は本当に大変でした。
 今泉さんも、もう一人の男性社員も、決算手続に関しては漠然としたマニュアルを与えられていたようですが、そもそも会計知識もないので、マニュアルとおりになにやら書類を作っていたのですが、それが私にはちょっと謎の書類でした。(あとになって、やっとそれは業務を一部負担している地方の組合に対する事務手数料を支払うためのものだとわかりました。総額数十万円の支払のために、笑っちゃうくらい複雑な計算をしなくてはならなくて、それを私に頼んでもらえれば、エクセルで簡単に表にしてあげたのですが、彼らは必死で電卓を打っては「計算が合わない」とぼやいていました。)

 そして事あるごとに私にいろいろ質問してきます。
 私が経理としての知識と経験があるのがわかってしまい、

今泉「ミヤちゃん、経理のプロだからわかるでしょ?」

 と、私に責任を押し付けようとします。
 そもそも、伝票の入力が目茶苦茶になっていて、それを変に修正していたようで、わけがわからなくなっていました。それを私が根気よく修正してあげたのですが、それは「経理のプロ」の仕事ではなくて、単なる「ダブリ伝票の発見」などでしたが、そういうお手柄を上げると、ますます「なんとかしてくれ」と頼られてしまいましたが、私は決算業務よりも、日々の雑事で忙殺されてヘロヘロになっていたので、あまり関わりを持たないようにしていました。

 それに「経理事務」ではなくて「営業事務」の時給しか貰ってなかったので、契約外の仕事をあまりしたくありませんでした。

私「それは、私にはわかりません」
今泉「な〜んだ、プロだと思ってたのに、大したことないんだなあ」

 ムッとしながらも、じっと我慢して口を挟まないようにしていました。

 しかし、9月決算で、私が入ったのは11月初旬。11月末には決算書を提出しなくてはならないはずなのに、作業の進行具合は傍から見ていても信じられないような状況でした。
 さすがに不安になり、今泉さんの苛立ちもピークに達し、毎日のように

「どうするんだ、このままだと決算できないよ。どうすれば、いいんだ。どうしよう。オレはもうお終いだ。クビだ」

 と、言っていましたが、言っているだけで行動がともなっていないのも明らかなので、無視していたんですが(うっかり口を挟むと、大変なことになるから)、月末まであと1週間になっても、具体的にどうなっているのかさっぱりわからなくて、多分なにもできていないというのにはさすがに驚いて、とうとう口を挟んでしまいました。

私 「ところで、決算書って誰が作成するんですか?」
今泉 「オレだよ」
私 「ほんとですか?普通は税理士さんにお願いしませんか?」
今泉 「でも、税理士には一度しか会ったことがないんだ」

 言っている意味がよくわからなくて、正確な状況を把握するのに時間がかかりましたが、どうやら、毎年決算書の作成をお願いしている税理士は、今泉さんの前任者と親しい方のようなので、今泉さんは彼を頼るのが死んでも嫌なようなのです。そのいい訳を延々と聞かされてうんざりしてしまいました。
 でも、どう考えても、今泉さんに決算書が作れるわけがありません。
 それに、その前の段階で元帳の数字が混乱していて、どうしようもない状況でしたので、

私 「まあ、おキモチはわかりますが、もう時間もないことですし、早めに御相談したほうがいいですよ」
今泉 「でも、それじゃあ、オレが投げ出したことになっちゃうじゃん」
私 「でも、このまま頑張ってやっても、たぶん・・・絶対に決算書は作成できませんから、どうせダメなら、お願いしたほうがよくないですか?」
今泉 「なんだ、ミヤちゃん!オレには出来ないって決め付けるのかよ!オレがまともに決算もできない無能ものだっていいたいのか?」
私 「あ、そういう態度なんでしたら、私は何も言いません。口出して失礼しました。今泉さんが、決算できようができまいが、私には、な〜んも関係ありませんから」
今泉 「待ってよ、見捨てないでよ!」

 もう、ホントにああ言えば、こう言うで、困ったおじさんです。


今泉「じゃあオレはどうすりゃいいんだよ!」
私 「だから〜、税理士さんに電話かけて御相談してください」
今泉「ミヤちゃんは手伝ってくれないのかよ」
私 「だから〜、私じゃ決算書作れませんって言ってるでしょ!そういう能力あるんならこんなとこで働いてませんって!」
今泉「ミヤちゃん、優秀だから大丈夫だよ」
私 「ちょっとまってください。私に押し付けないでください。これはあなたの仕事であって、私の仕事ではないんです。私のせいにして責任逃れしてもいいですよ?どうぞどうぞ、そして決算できなくて、本部の上の人にそう言えばいいじゃないですか?ミヤノさんに任せたけどできなかった。ミヤノさんのせいで決算できなかったって・・・・私は別にかまいませんよ?」

 その職場にうんざりしていた私はいいたい放題でした。

今泉「わかったよ、ミヤちゃんの言う通りだよ。じゃあ、オレはどうすればいいんだよ!」
 
 話は元に戻りました。ふー、疲れる。

私 「だから、税理士に電話してください」
今泉「・・・・・」
私 「電話番号知らないんですか?」
今泉「一度会ったときに名刺はもらった・・・・」
私 「じゃあ、電話してください」
今泉「他にいい方法ないのかなあ?あんた経理のプロでしょ?もっと考えてよ」
私 「私だったら税理士さんに御相談します。なんなら、代わりに私が電話しましょうか?」
今泉「それじゃあ、オレの立場がないじゃん」
私 「じゃあ、御自分で電話してください」
今泉「そうやって、オレを虐めて楽しいか?

なんにも楽しくないです。


 やっと半日かかりで税理士さんに電話させることができました。
 税理士さんの方は「連絡がないので、今年はうちに依頼されないのかと思っていました」と驚いていたようです。
 ほ〜ら、ごらんなさい。前任者だって、ちゃんと最終的には税理士さんにお任せしていたんです。あったりまえじゃないですか!何度も「私が以前いた会社はここの100倍くらい年商がありましたけど、決算は税理士さんにお任せしてましたよ。普通、中小企業では当たり前です。税理士さんにお願いするのは恥じでもなんでもないんです!」と説明しても、ぜんぜん聞いてくれないんだもん・・・・

 しかし、それで胸をなで下ろしたのもつかの間でした。
 その当日に書類を持っていったのはいいのですが、とにかく期限は迫っているのにメッチャクチャになっているので、先方もさらに驚いたようですが、それでもなんとか引き受けてくれたようです。

 その後の1週間は、毎日税理士さん(というかその事務所の担当者)が毎日電話やらファックスやらを流してきて「これは、なんですか?」という質問が雨あられで、それらにきちんと対処できない今泉さんと社員はてんてこまいでした。

 もちろん、そのとばっちりは私にも飛んできて、毎日へとへとでした。
 二人とも税理士さんの質問にちゃんと対応できないので、仕方なく手助けしていたのですが、私がその様子に呆れているのを敏感に感じるらしく、

 「あんた、オレのこと、バカだと思ってるんだろ!」とからんでくるので、ほんとにやってられませんでした。


 とにかく今から考えると夢のようですが、税理士さんの優秀さも手伝って(よくやってくれたと思います。ただ気の毒にあんなに大変なものを慌ててやらされたので、ちょっとミスがあったようです。税理士さんはそれを気に病んで、料金を大幅におまけしてくれたようです。そして今泉さんは、それを自慢げに言いふらしていてうんざりしました。「税理士が間違えちゃってさあ。あやうくオレが恥かかされるところだったよ。でも向こうも気にしてるみたいでさあ。税理士っていっても大したことないんだねえ。こっちは大先生だと思って信用してたのにさあ」)なんとか決算は終了しました。

 しかし、まだまだ仕事がありました。
 株主総会です。ふつう小規模の会社では、儀礼的に「委任状」を集めて、てきとうに議事録を作って行われますが、なんと、その会社には166人もの株主がいるというではないですか?

私 「え?なんでそんなに・・・・資本金いくらでしたっけ?」
今泉「300万円」

 それはつまり、1万円とか、2万円とかの出資者が大勢いるということです。
 つまり、その会社を興すときに、組合中央会が組合員に「一口1万円」で出資者を募ったようなのです。

 166人に「株主総会のお知らせ」と不参加の場合の委任状を出すのはけっこう、たいへんな作業でした。
 それでも、なんとか終了して、またほっとしている最中に事件が発生しました。

 「委任状」を兼ねた返信用葉書は男性社員であるN君が作成したのですが、なんとその日付が「昨年のまま」になっていたのです。昨年のものをそのままなんの訂正もせずに出力していたのです。

 ちなみにN君は宛名書きでも「○○会社様 御中」と書いていたくらい、一般常識に欠けていましたので、今泉さんもかなり閉口していました。

 たまたま今泉さんがとってしまった電話が最初の苦情でした。
 多くの人はそんな返信用葉書なんてろくに読みもしなくて、機械的に返送してくれてましたが、なにせ全国に散らばった出資者の中には「なにか文句をいいたくてたまらない人」もいますので、「このような、会社にとって重要な書類の日付が間違っているというのは失礼千万、とうてい許されることではない」と、今泉さんは北海道在住の御隠居さんに30分にわたって説教されてしまいました。

 爺さんにくどくど説教されて、今泉さんはかなりしょげていましたが、電話を切ると、いきなり逆ギレしはじめました。

 「なんだよ〜、Nちゃん!間違ってるじゃないか!おかげでオレが叱られちゃったぞ!恥かいたじゃないか!」

 しかし、N君が無能だということは今泉さんもよくわかっているし、そもそも彼もちゃんとその葉書は確認しているので、校正ミスの責任はあるはずです。
 たまたま、私は総会に関する仕事では「あまり手を煩わせてはいけない」と思われていたのか、それよりも対外的に華々しい仕事なので「全部オレがやった」といいたかったのか、封入作業を手伝ったくらいで、ほとんどタッチしていなかったので危うく難を逃れました。

 しかし、今泉さんはN君を責めるばかりで、どう対処したらいいのか混乱していて、すっかり停滞していました。
 終いには「じゃあ、もう一度、出し直しだ!」といい始めました。

 でも、委任状はすでにぼちぼち返送されてきていたし、そんなミスに気がつかずに送り返してくれた人も多いし、中には気がついた方もいて、その後も電話が数通かかってきましたが、別に誰も怒ってませんでした。あきれて笑ってましたけど・・・・

 本来なら今泉さんの言う通り、再送すべきですが、それにはまた葉書代も必要ですし、また2回も送られてきたら、株主の方々も混乱するでしょう。

私 「それよりも、葉書の日付は無視してくださいということで、お詫びの書類を送れば済むと思います」

 今泉さんも、それには納得してくれたのですが、(「商法ではそれでいいのか?オレは商学部卒業してるんだ!商法違反になっちゃうんじゃないのか?」とか騒いでいましたが、私が「私は無学なので商法についてはよく存じ上げませんが、気になるのでしたら、御自分で調べるなり人に聞くなり、どうぞ。でもあんまり時間ないんですよ?」と答えたらあきらめたようだ。)

今泉「そんな書類、オレ作れないぞ、だいたいオレが悪いんじゃないし」

 と、おろおろして作ろうとしてくれません。私も意地悪なので、手伝ってあげませんでした。
 おもしろいことに、今泉さんは私のことを「経理のプロ」とは認めてくれていましたが「お詫びの書類」作成のスキルはないと思っていたらしく、「代わりに書いてくれ」とはいいませんでした。

今泉 「どうしよう、どうしよう、どうすればいいんだ!何を書けばいいんだ!」

 おもしろいから、机にワープロを置いて(パソコンは触わろうとしなかったが、ワープロは打てた)

「さあ、どうぞ!」

 と言うと、しぶしぶ書き始めました。
 一行書くたびに「これでいいかな?変じゃないかな?」と確認してくるので「大丈夫ですよ。でもちょっと堅苦しいかなあ?ああ、その字は漢字にしないほうがいいんじゃないですか?」と、後ろで家庭教師のお姉さんのように指導しながら、書かせました。

 出来上がった書類をさっそくコピーして、封筒に宛名シールを貼って、切手を貼って投函して・・・・やれやれ。


 「なるべく長くいてほしい」といわれていたのに「他に仕事が決まっちゃいましたので」と、さっさと辞めてしまったので、今泉さんにとっては「裏切られた」ということになるでしょう。

 組合本部の方々は私の奮闘を心配して、陰ながら味方になってくれていたので、辞めるときに「そうだね。あなたはあそこに長くいる人ではないとは思っていたよ」というお言葉を多数いただき、かなり励まされました。皆さん「今泉さんと仕事するのは大変でしょう」とよく慰めてくれていました。特に以前、彼の部下だった人たちは、御自身の経験も踏まえてかなり心配してくれていました。

 心配だったのは後任の派遣社員のことだったのですが、けっこう豪快な人が来てくれたので安心しました。
 昼休みにショールームに行って制服のままパソコンの前に陣取ってインターネットやっていたそうで、ショールームから「お客さまの邪魔になる」とクレームが来ていました。
 今泉さんがショールームから文句を言われたので、その事を言いにくそうに彼女に話すと
 「お客様なんて、一人もいなかったので、いいかなと思ったんですけど」
 と憮然としていたので
 「ああ、このくらい神経の太い人ならきっと大丈夫だ」
 と、思いました。


 今泉さんは、毎日のように失笑ものの発言をして下さったので、「今泉語録」を作成しようとたまにメモをとっていたはずなのだが紛失してしまいました。あのころ日記を付けていたら、毎日今泉さんのことを書いているだけで終わっていたと思います。

今泉「ねえ、ねえ。ツインビーって知ってる?」
私 「なんですか、それ?ツィギーなら知ってますが・・・」
今泉「ちがうよー。でもあんたよくツィギーなんて知ってるねえ」
私 「女の子ならみんな知ってますよ」
今泉「ツインビーの歴史書って知らない?」
私 「さあ、きいたことないです」
今泉「なんだあ、知らないのか、常識だよ!有名なんだぞ!」
私 「はあ・・・どこの国の人ですか?」
今泉「・・・・・ええと、どこだったかな・・・・とにかく外国だ

 その後、今泉さんは都合が悪くなるとすぐに「ツインビーって知ってる?」を執拗に繰りかえして、私の機嫌を著しく損ねたのでした。
 


表紙に戻る / 目録に戻る