7.
「よく来てくれたな。待ってたんだ。えらく遅かったじゃないか」
屋敷でゴットフリーを迎え出たザールは精一杯の愛想笑いを浮かべて言った。
黒い影をまとった怪しい館は、中もそれにたがわぬ陰鬱さだった。照明は暗く、壁紙はところど
ころが剥げ落ちて、少しも手入れをしていないのは一目瞭然だった。ザールが収集したのだろ う、唐突に置かれている骨董品の壷や置物もあまり趣味がいいものとはいえなかった。
「男所帯で、ろくに持成しもできないが、まあ、ゆっくりしていってくれ」
「そんな必要はない。用が終わればすぐに帰る」
「用?ああ、そうか、そうだったな。島主リリアから預かった品物は、蔵にしまってあるんだよ。
ちょいとばかり、奥に入ってしまっていて、わしの力じゃ出せないんだ」
「だから、俺に出して欲しいと?」
一体、何を企んでやがる。こんな見え透いたペテンに乗ろうとしている俺も俺だが……。
馬鹿馬鹿しいと思いつつも、ゴットフリーは、こっちだと、誘導するザールの後をついていった。
ガルフ島の島主リリアの館ほどの広さはなかったが、ザールの屋敷もそれなりに立派な造り
をしていた。
かつては、黒馬島の住民も豪勢な暮らしをしていたのだろうか、今では、黒い痩せた大地が広
がるばかりだ。俺の故郷、ガルフ島も昔は豊かな島だった。それを思えば、この島もガルフ島 と同じ運命を背負っているのかもしれない。
ゴットフリーの心は、深く沈みこんだ。何故、豊かさや幸福は,一つの場所にとどまっていられ
ないのだろう?およそ人の力では、変えられない現実。それでも、俺は至福の島……レインボ ーへブンを探さずにはいられない。
「わしは古物商が本業だが、こう見えても、この黒馬島の経済を取り仕切っているんだ。ここ
で育てられる馬や花は極上もんだぜ……お前さんの母、島主リリアと面会したのも、その取引 の話があっての事だ」
ザールはいかにも真っ当な商人の顔をして言った。だが、ゴットフリーはそのほとんどが胡散
臭いと見きっていた。リリアが自分の知らない所でよそ者と会うなんて、どうせ、ろくでもない骨 董品をいかにも珍品と偽って、売りつけようとしたのだろう。
「その時なんだよ。お前さんの両親の遺品を島主リリアから、預かったのは」
金細工のロケット……俺の父の写真が入っている……
ゴットフリーは、一瞬、言葉に詰まったが、
「何故、リリアが見も知らぬお前にそれを預ける事がある?」
と、ザールを睨めつけた。
「どこか、遠くへやってしまいたかった……と島主リリアは言っていたぞ」
「……」
「お前の身元が知れる唯一の証拠だ。彼女はきっと、お前を手放したくなかったんだろうな。だ
が、捨てるに捨てれない。それならば、誰か他人に渡してしまおう……て理由だ。幸い、わしは 外海の人間だ。島主リリアはそれを話すと大喜びでロケットを渡してくれたよ」
ザールの言葉には、どこかしら島主リリアに対する侮蔑が含まれていた。晩年のリリアの精
神は半分狂っていた。この善良さの欠片もない古物商は、どんな美味しい言葉で彼女から金 品を巻き上げていったのだろう。ゴットフリーは、自分を大切に思ってくれていたリリアに感謝す る反面、哀れさを感じずにはいられなかった。
「もう一つ、聞きたい事がある」
ザールがその質問に簡単に答えを返すとは思えなかった。だが、ゴットフリーは敢えて言葉
を続けた。
「この黒馬島から、出て帰ってきた者はいないそうだな。だが、お前には何故、それができるん
だ?」
ザールは、うすら笑いを浮かべながら言う。
「別に隠しているつもりはないがな、黒馬島の住民なら、ほとんどが知っている事だ。西の山の
麓一箇所だけ靄の晴れた場所がある。そこから、わしは外海に出るんだ。ただし……そこに行 けるのは西の盗賊と取引のあるわしだけだ。それに……」
「それに、何だ?」
「何時、その場所から、出ても戻ってこれるわけじゃない」
「……」
「タイムリミットは長くても、せいぜい5日だ」
「どういう事だ?」
「まあ、その話は、お前にロケットを渡してからだ。俺が私腹をこやしていると変に誤解している
奴もいるが、わしは黒馬島と黒馬島の住民の為に西の盗賊と付き合っているだけなんだ。そ れを解ってもらう為にもな」
何個か扉の前を通り過ぎた一番奥の扉の前でザールは足を止めた。
「この扉の奥に蔵がある。ちょっと、待ってくれ。今,鍵を開けるから」
ポケットから、鍵束をとりだすと、じゃらじゃらと蔵の鍵を探し出す。ふと気づいて、ゴットフリー
は蔵の扉に目をむけた。
あの花の香りがする……
扉の向こうから、かすかだが花の香りが漂ってくるのだ。
「まったく、扉が多すぎて鍵探しにはいつも苦労する」
がちゃんと鍵がはずれるのを待ちきれないように、ザールは扉を開けた。白壁の何もない部
屋。ただ、紅い花の香りだけが満ち溢れていた。
「ここが蔵か?荷物など何も見えないが」
ザールは小ずるそうな笑顔を作る。
「この奥にもう一つ扉が見えるだろ。それが、蔵の入り口だ」
「それにしても、この花の香は……」
「ああ、屋敷の中から来たからな。気づかないのも無理はない。この部屋は前にお前と会った
花園の隣にあるんだよ」
再び、鍵の束をいじりだすザールに、一体、何個の鍵をもってやがると、ゴットフリーは苛立
ちはじめた。
「あった、あった。待たせたな、さあ、中に入ってくれ」
扉が開いた瞬間、ゴットフリーは目の前が真っ白になった。花園でかいだ香りより何倍もきつ
い刺激臭が彼に襲いかかってきたのだ。
「……!」
立っているにも耐え切れず、その場に膝をつく。喉がきつく締まり、呼吸すらできない状況に、
激しく喘ぎだす。
ザールはあらかじめ用意しておいたハンカチごしに、勝ち誇った声を出した。
「ゆっくりしていってくれと言っただろ?この島を出て、帰ってくる方法?誰がそんな事を教える
ものか。この島の金はすべて俺が管理する。島の人間にはそれなりに分け前をくれてやってい る、誰も文句など言わせないぞ。それに、お前のその髪……が気に入ったんだ。お前はわしを 虫けらみたいに扱いやがる。だから、お前の息が止まってから、たっぷりと時間をかけて、そ の髪を拝ませてもらうよ」
がしゃんと扉を閉めると、ザールはしゃがれた声で高々と笑った。
ザールの奴……甘く見すぎていた!
ゴットフリーは、壁を這い登るように立ち上がると、無理矢理に心臓の鼓動を整えた。苦しくて
倒れてしまった方が楽だったが、少しずつの呼吸なら、きつい花の香りにも何とか耐えられそう だった。そうしているうちに、徐々に意識がはっきりとしてきた。
……声が……聞こえる。
声というより、それはむしろ嘶きに近かった。
馬?……これは、馬の声か。
急に悪寒を感じて、ゴットフリーは剣を身構えた。盗賊の剣でも伐折羅のいうように、持ってき
たのは懸命だった。その時、部屋の白壁がゆらゆらと動き出した。二箇所で盛り上がり、おぼ ろげだった輪郭が次第にはっきりと姿をととのえだした。
その瞬間、ゴットフリーは驚愕に身震いした。
二足の白い馬……!
実際、壁が盛り上がったわけではなく、馬はもともと、この部屋に飼われていたらしい。だが、
その体は異様に白く白壁に溶け込むように同化していたのだ。数多の修羅場を通り過ぎてき た……だが、そのゴットフリーでさえ、驚きを隠せなかった理由は――
地獄からきた使者……その言葉しか、脳裏には浮かばない。それほど、二頭の馬の姿は悪意
と後悔に満ちていた。
白い胴体とは裏腹に、顔面からこぼれるように飛び出した瞳は、燃えあがる炎の色をしてい
た。激しい鼻息をあげながら、嘶いた鳴き声は天地を恨むかのようにきしんで聞こえた。そし て、口元から、だらだらと垂らした長い唾液からも、あの花の香が漂ってくるのだ。
このおぞましい香りは、こいつらの吐息か!?
ゴットフリーは、片腕で口元を押さえ、もう一方の手で真一文字に剣を構える。一寸の隙をつ
いて、二頭の馬は襲いかかってくるに違いない。緊張感が、白い部屋の時間を止めた。
灰色の瞳が、二頭の馬を見据えている。どちらが先に動いてくる?右か左か……ぎらりと睨
みつけ、視線が赤い瞳と交錯した時、
血の涙を流しているのか……
馬たちの赤い涙に、ゴットフリーは一瞬、息を呑んだ。
見ないでくれ……あさましいこの姿を……
見ないでくれ……惨めに崩れてゆくこの体を……
頭に入りこんできたその声に、気をそらした瞬間!
二頭の馬は大きく嘶き、彼に襲いかかってきた。
わずかに先に踏み出した右の馬!ゴットフリーはその方向に、渾身の力をこめて剣を振りぬ
く。
「つッ……!!」
だが、ぽきりと鈍い音と共にその切先は、宙を飛んだ。
ちっ、あの盗賊、安物の剣を使ってやがったな!
役に立たなくなった剣の柄を投げ捨て、踊りかかったきた馬の蹄を頭上ぎりぎりで、身を伏せ
てかわす。ひやりと冷たい汗をかき、ゴットフリーは、馬と逆方向に床を転がりながら距離をと った。
呼吸するごとに、花の香りが心臓を圧迫してくる。ひどい眩暈を感じながら見た馬の体は、ゆ
らゆらと青白い炎に包まれていた。
恨んでいる……おぞましい奴らの姿を見てしまった、この俺を。
剣を失い、武器になりそうな物は一つも見当たらない。タルクのような巨漢ならば、力まかせ
に戦う事もできただろうが、ゴットフリーが素手で二頭の馬を倒せる確率はほとんど無に等しか った。
ザールの奴、俺がやられたら、頭の皮でもひっぺがす気なんだろう。ふざけるな!こんな所で
死んでたまるか。
だが、どうすればいい?
花の香はますます、ゴットフリーを息苦しくさせた。思考がおぼろげな時とやけに明確な時が
交互にやってくる。目前の敵に集中しろ、気を散らすなと、二足の馬を睨めつける。よく見てみ れば、普通の馬より小ぶりでまだ、成馬とはいえなかった。似た姿の二頭は決して離れようと はせず、寄り添うようにゴットフリーの出方を伺っている。
こいつら……ゴットフリーは無意識の内に言葉を発していた。
「兄弟か?」
すると、馬の荒々しい吐息が一瞬、止まった。
「兄弟なんだな。しかも、仲の良い。なぜ、こんな部屋に閉じ込められた?その花の香、姿ゆえ
に幽閉されたか!」
ゴットフリーの言葉に、二足の馬は大きく嘶いた。
だれが、こんな姿にした!
平和な日々を過ごせるはずの、栗毛の兄弟は
紅の花園、あの花の香にまみれて……
白妖馬と化したのだ。
「白妖馬?今のお前たちにお似合いの名前ではないか」
ゴットフリーは、冷たくせせら笑う。こいつらもあの花園でおかしくなった口か……心だけでな
く、姿をも狂わされたか。
「つけこまれたな。疑う事のない平和など、何処にもありはしない。その妄想が崩れた時、お前
たちは嘆いただろう?恨んだだろう?そこに邪心が生まれたのだ。白妖馬こそがお前たちの 望んだ姿。ならば、嘆くな!意にかなわぬ者は始末しろ。お前たちの心は、そうしない事には 癒されはしない」
ゴットフリーの言葉に白妖馬は、狂ったような雄叫びを上げながら高々と蹄を持ち上げた。怒
りに身もだえた姿はまさに地獄の使者にふさわしかった。
そして、お前たちをそこまで貶めた張本人を俺は知っているぞ。
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