6.
花園の罠
夕日が西の山に褐色の縁取りを添えている。夕焼けの空は東側から群青の色あいをみせだ
した。太陽と月と星が同居する、夜明けと夕暮れ。この短い時間がジャンは好きだった。
だが、この日、黒馬島の月は急に広がりだした黒雲の影で怪しい光をたたえていた。
"ジャンは、もう大丈夫。だから、これ以上、分かれない方がいい。心が離れた体はじきに弱
ってしまう。もし、体が死んでしまったら、お前は幻ような存在になってしまうよ"
ジャンは、馴染みのあるその声に"わかっている"と、頷いた。とはいっても、それは、お互い
に体がある者同士の会話ではなかった。
西の洞穴を閉じた後、ジャンは再び元の道をもどりだした。多分、タルクあたりが自分の体を
拾ってくれているだろう。
何気なく見下ろした、海岸線に波の泡が月雫のようにきらめいた。ジャンはふと美しかったガ
ルフ島の海を思い出した。
海の鬼灯さえ、現われなければガルフ島はまだ、美しい島でいられたのに……。島が崩壊し
なければ、ゴットフリーも島主リリアの後継者として一生を終えられたかもしれない……。
その時、波がひときわ高く舞いあがった。
"それは、ありえない事ですよ……ゴットフリーは、レインボーヘブンの王だ。それは生まれな
がらにして抗えない運命なのですから"
ジャンははっと、意識を海に向けた。岩場に青い人影が見える。
"BW(ブルーウォーター)、レインボーヘブンの紺碧の海……やっと、姿を現したな"
風変わりな緑の髪、ほとんど色のない切れ長の瞳。至福の島の欠片の一つ。
"姿といっても、ほとんど幻のようなものですがね。ガルフ島で力を使いきってしまって、あなた
やミッシェ以外には、私の姿は見えないでしょうね"
ガルフ島の崩壊――火の玉山の噴火、そして、せまりくる海。
"BW、お前、何でガルフ島を飲みこんだ!レインボーヘブンが消えた時、アイアリスに見捨て
られた盗賊たちの声を聞いて、一番、苦しい思いをしたのはお前ではなかったのか?」
"……"
"黙っていないで何とか言え!"
"よく、覚えていないんです。ミッシェの強い力を受けて、自分の荒ぶる心が押さえられなくなっ
た。レインボーヘブンにさえ、怒りを感じた"
"海の鬼灯につけこまれたな。あの紅い灯は怨念の塊だ。恨み、憎しみ、怒りの力を吸取りな
がら、通り過ぎるすべての物を破滅に導こうとする……"
BWは一瞬、暗い目を海に向けた
"そうですか……また、私は沢山の命を飲みこんでしまったのですね"
が、あきらめたように笑みを浮かべた。
"ところでジャン、あなたは私よりひどい状態だ。全くの精神体じゃないですか。体をどこかへ置
き忘れましたか?"
体裁が悪くなって、ジャンはつっけんどんに言った。
"余計なお世話だ。僕はもう行くから"
"早く体に戻った方が賢明ですよ"
わかっているからと、ジャンは五月蝿そうにうなずいた。夜がやってくる。闇が黒馬島をつつ
みこむ前にゴットフリーの元にもどらなくては。BWはジャンの気持ちを読み取ったかのように、 こうつけ加えた。
"……ゴットフリーから離れないで。この黒馬島は彼にとっては鬼門の島です。あなたが繋ぎ止
めないと、あの人は……闇の王になる"
闇の王……BWの言葉が心に食い込んで、ジャンは不安でたまらなくなった。そうだ、あの紅
い花園で聞いた声……耳をふさぎたくなるほど邪心にまみれた……あの声も同じような事を言 っていた。
……もっと、もっと暗い場所へ……
……もっと、さらに闇の中へ……
……滅びの王、誘えり……
ゴットフリーは何処にいる?
ジャンの心は流れ星のように黒馬島の夜空をよぎっていった。
急いで、急いでと……耳元で囁き続けて、僕を後押しするのは夜風だろう?霧花……お前も
ここにいるんだな。
姿は見えなかった。もう一つのレインボーヘブンの欠片。
歌が聞こえる……海の歌が。……あれはBWの子守り唄。そう、黒馬島を眠らせておいてく
れ。
僕が行くまで……。僕が行くから。
"ゴットフリーは誰にも渡さない!"
「待ってよ。ゴットフリー、ザールおじさんの屋敷の入口はそっちじゃない。花園の方へ行っち
ゃだめなんだ」
後ろから呼びとめられても、振り返る事も歩を止める事もしない。伐折羅はかけ足で追いか
けて、やっとゴットフリーに追いついた
「歩くの速すぎるよ。着いてくるのが大変」
「誰が着いてこいと言った?邪魔だ。さっさと黒馬亭へ帰れ」
「僕も一緒に連れて行ってよ。おじさんに用があるんだ」
ゴットフリーの行く先はわかっていた。サームおじさんが、"あいつをザールの所へ行かせる
のはヤバイ"ってしきりにつぶやいていたから。
みんながいない場所でゴットフリーと話ができる。それだけで心が踊った。特にジャン、何故
だかわからないのだけど、伐折羅はジャンが煙たかった。
先に行かせまいとゴットフリーの腕をとる。だが、伐折羅の手が振りきられたのは、ほぼそれ
と同時だった。
「……ごめんなさい。手をつなぐの嫌なんだね」
半分、泣き顔の伐折羅にゴットフリーは、面倒臭そうに答える。
「ああ、嫌いだな。虫唾が走る」
「でも、小さい時は?父さんとか母さんとは?あと、友達とか」
「覚えがないな。そんな物はいなかったしな」
「えっ?」
「俺がいた島の島主が俺を拾って育ててくれた。といっても、世話をしていたのは館の使用人
だ。俺はそいつらを悉くひどい目にあわしていたしな」
ゴットフリーは、わずかに笑い伐折羅に目を向ける。
「なあんだ。一緒だね、僕と天喜も親がいないんだ。でも、僕は両親の顔を覚えてる。二人とも
すごくいい人だった」
「ということは、お前の両親は死んだんだな」
伐折羅は急に顔を曇らせて言った。
「父さんは西の山で盗賊に殺された。その後、母さんはザールおじさんの所で働きながら僕ら
を育ててくれたんだ……でも、今は行方がわからない」
おもしろくもない話だな……
再び伐折羅の先を歩き出したが、ゴットフリーには一箇所だけひっかかる点があった。
西の山の盗賊……こんなさびれた島で賊を組んでもたいした儲けになるとは思えない。大
方、ここを根城に他で仕事をしているのだろう。伐折羅の父は、多分、その盗賊と関わってい たな……普通の島民ががわざわざ西の山まで行くとは思えない。
「ゴットフリー、ここから入って花園を横切って行こう。その方が屋敷には近いから」
花園をとりかこむトタン板の壁に、ちょうど人一人が通れるほどの切れ目があった。それは、
伐折羅がザールに内緒で作った花園への秘密の扉だった。
きつい花の香は、相変わらずだった。鼻につんと刺激をうけた瞬間、頭の奥にしびれたような
感覚が走る。白色灯に照らされ、花園は紅色に揺れていた。
何度、足を踏み入れても、この花園は異様な空気を撒き散らしているな。だが、不思議と危
険を感じない。何故なんだ?これほど怪しい状況はめったにないというのに……。
ゴットフリーは、隣にいる伐折羅に目をやった。
そういえば、こいつも平然としてここに立っている。時折ひどく冷めた目をして作る笑顔は、臆
病な普段の態度とは似ても似つかない。
「母さんはここで花を摘んでいた。天喜と良く似た、とても綺麗な人だったんだよ」
ゴットフリーの思考を中断させるように、伐折羅が話しかけてきた。
「いっぱい花束を作ったら、ザールおじさんが他の島で売ってくれる。ゴットフリーに採ってもら
った蝙蝠の目玉もそうなんだ」
「他の島にか?黒馬島ではなく」
「その方がずっと高く売れるから。蝙蝠の目玉は薬になるんだ。それに黒馬島では薬を作る方
法も知らないしね」
「ならば、お前が直接行って、商売をした方が金になるんじゃないのか?あがりといっても、どう
せザールに、ほとんどを持ってゆかれるんだろう」
「外の島へ行く方法はザールと……西の盗賊しか知らない」
「どういうことだ?」
ゴットフリーは訝しげに問う。
「気がつかなかった?黒馬島の周囲は靄でおおい隠されている。島の人間からは外海の様子
はわからないし、一旦、船を出して島を離れれば、まずは帰ってこれない。たまにゴットフリー たちのように迷いこんでくる人たちがいても、一度、島を出た人が再び戻って来る事はないん だ」
周囲を靄につつまれている?そういえば、この島は突然、俺たちの前に現われた。ジャンが
甲板で倒れた時だ。だが、あの時の海には水平線が見渡せるほど何もなかった。たとえ靄に 包まれていたとしても、島があればわかるはずだ。
矛盾している……
ゴットフリーはそうつぶやくと、強い口調で伐折羅に言った。
「島を出て、帰ってきた者はいないと言ったな。ならば、ザールはどうなんだ?お前は蝙蝠の目
玉を売ってもらうのだろう。それに奴は以前、俺の島に来て島主リリアと会っている」
「だから、ザールは西の盗賊とつながっているんだ。多分、西の山に外海に出る秘密がある。
黒馬島の住民はそれに気付いていても、自分たちの商品をお金に替えてくれるんだもの、見て 見ぬふりをしているんだよ。それに、盗賊たちは決して町には下りてこないしね」
それは……と言いかけて、ゴットフリーは口をつぐんだ。
「伐折羅、話は後だ。この花園に誰かいる。声がするだろう……一人はザールか?で、あと一
人は……誰だ?」
いっそ、ここでゴットフリーがザールおじさんを殺してくれたら……僕はもっと愉快になれるの
に。
ゴットフリーの剣が血で染まる……それを思うだけで、伐折羅はひどく嬉しくなった。
−萬屋黒馬亭−
"見つけた、僕の体。やはりここか"
黒馬亭の一室のベッドの上にジャンは横たわっていた。こざっぱりした部屋には、一通りの
家具が揃っており、天喜が言うように、まだ十分宿屋として使えるように思えた。
ジャンは自分の体に降りて行くと、それきり考える事をやめた。意識を強く持ちすぎるとうまく
体に入れない。心と体が一緒になって目が覚めるまでには、それなりに時間がかかるのだ。
「ジャン?」
かすかに動いたジャンの顔をタルクが覗きこむ。黒馬亭に運んだは良かったが、ジャンは死
んだように眠っている。ゴットフリーは出かけたきり戻らない。おまけに伐折羅までがいないの だ。普段、豪胆なタルクもさすがに心配で胃が痛くなったきた。
「タルク、ジャンはどう?」
「まあ、おんなじだな。眠っているだけだから心配いらないだろ」
部屋に入ってきた天喜にタルクは、心と裏腹に笑ってみせる。ここにきて、天喜の明るさだけ
が救いだった。
「ミッシェはどこへ行った?」
そういえば、いつもジャンにはりついているミッシェがいない。ミッシェまで行方知れずなんて
とんでもないぞと、タルクは眉間にしわを寄せる。ところが、
「お風呂」
「え?」
「お風呂に入れてるの。だって、あの娘、泥だらけなんだもん。嫌がるのよ。でも、女の子なん
だから、ちょっとは綺麗にしなくちゃね」
天喜はちょっと自慢げに手に持った布をひろげてタルクに見せた。
「これ、私には少し小さくて着れなくなった洋服なの。どう、ミッシェにちょうどいいでしょう」
薄い桃色の柔らかそうな布目。襟と裾に軽くレースがあしらってある。いかにも天喜が選びそ
うな仕立てのドレスにタルクは首をかしげる。
あいつは、ああいうのを着たがるかなあ……。なんだか、暗い色を好んで着ているような気
がするんだが。それにあんなドレスを着て、そばにいられたら俺はかえって落ち着かない。
「ちょっと、行って着せてくるね。もう、お風呂から出てくる頃だから」
上機嫌で部屋を出て行く天喜の後ろ姿を、タルクは苦笑いを浮かべながら見送る。
……タルク、タルク……
僕が呼んでいるのが聞こえないか?
ジャンの心はとっくに体に戻っていた。だが……
体が動かない。声も出せない。目を開くことさえままならない。
体を離れ過ぎたのか?こんな時に動けないなんて!
タルク、お願いだから気付いてくれ、ゴットフリーは何処にいる?早くあいつを見つけないと、僕
らは指針を失ってしまう。
「ミッシェ、まだ入っているの?着替えをもってきたんだけど」
黒馬亭の1階にある風呂場の戸口を天喜は軽くたたいた。昔、宿として使っていた2階の部
屋の水道はすでに止められており、風呂が使えるのは1階の風呂場だけだった。そういえば、 天喜には黒馬亭が宿屋を営んでいた記憶はない。過去には黒馬島を訪れる人が沢山いたら しいが、今はゴットフリーたちのようにたまたま、迷いこんだ客が年に数人いるだけだった。
おかしいな?もう出ちゃったのかしら……。ミッシェからの返事がない。天喜は風呂場の扉を
そっとあけてみた。
「ミッシェ……ェ……えっ!だ、誰っ?」
湯気の中の姿ははっきりとはわからない。それでも、垣間見た少女はミッシェとは別人だ。髪
は白銀に輝いていた。白い肌は水滴の珠を弾きながら、絹の艶やかさで薄明かりを放ってい る。
白い妖精?
天喜の脳裏に、昔読んだ、御伽噺の挿絵が浮かんできた。はっと、天喜に気づいて湯気の
中で少女が言った。
「もう、出るからあっちへ行ってて」
眩しすぎる白さの中で、青い瞳だけが、唯一色をなしていた。
青い瞳……やっぱり、ミッシェだ。
「ご、ごめん。ここに着替えを置いておくから、私は2階に行ってるね」
天喜はどきどきと高鳴る鼓動を懸命に抑えながら、逃げるようにその場を離れた。
何?あの娘、
今まで……あんな綺麗な子……
見たことない……。
さわさわと夜風に揺れる紅い花園。
ザールを見つけたゴットフリーと伐折羅はもう一人との会話を聞き取れるよう、そっと近くまで
忍び寄っていった。伐折羅はゴットフリーの腕をしっかり握って放さない。先程とは場面が違う。 ゴットフリーにしてみても、頼りなさげな伐折羅を振り切るつもりは今はないようだ。
なんだか、ゴットフリーと二人で悪い事をしているみたいだ……伐折羅はかすかにほくそえむ。
波打つ心臓の音が心地良かった。
「まだ、荷が出来ていないって?期限は明朝だ。それを逃したら、もうここへは戻れねえ」
「だから、お前、少し手伝ってくれよ。わし一人じゃとても間に合わん」
「またかよ!売ってやる立場の人間を使うのかよ」
ザールと話しているのは、どこから見ても堅気とは思えない派手な服装の男だった。話の内
容からして、どうも何かの商品を取引をしているらしい。
「あの女が、いなくなってから、いつもこうじゃんかよ。お頭の手前、黙っていてやったが、俺た
ちがここを仕切ってもいいんだぜ」
男の言葉にザールは血相を変える。
「お前、天地が裂けてもそんな事をいうもんじゃない。お前ら、西の盗賊が島へ降りて来ていい
のは、この屋敷までだ。それは先代からの掟だろう?その代償にわしらは、ここで花を育てて いるんだからな。それに仕切ると言ったって、お前ら盗賊にこの難しい花の栽培ができるとは 思わんがね」
男はちっとつぶやくと、みだらな笑いを浮かべて言った。
「あの女の娘……天喜とかいったか?サームの店で花屋をやってる、あの娘はどうなんだ?」
「……だめだ。わしだって、ここに長時間はいられない。天喜の母親に手伝わせたのはまずか
った。この花の香は少量ならば快楽を味わえるが、一つ間違えば命とりだ」
「違うって。天喜はえらい器量良しと聞いた。俺たちに預けてくれりゃ、もっと稼がせてやるぜ。
他の島には金をもった助兵衛おやじがいっぱいいるからな。きれいなドレスを着て、ちょっと相 手をするだけで、大枚もうけられるってわけだ」
「あいつ、西の盗賊なんだな。ひどいよ、天喜の事をあんな風に……」
許さない……あいつ、絶対に。
伐折羅の目からは知らず知らずのうちに、大粒の涙が流れていた。だが、ゴットフリーの興味
は天喜の事より、紅い花園に向けられていた。
栽培が難しく、少量ならば快楽、長時間は耐えられない……この花の香り、確かにここに長く
いると、おかしな気分になってくる。
麻薬か。
ザールが、この花園で麻薬花を栽培し、西の盗賊がそれらを他の島で売りさばく。伐折羅と天
喜の両親はその売買に関わって……多分、殺されたんだ。
「ゴットフリー、僕……」
「しっ、声を出すな」
ザールと男は話の段取りが付いたのか、挨拶もかわさぬまま、二手に別れた。ザールは屋
敷の方へ、男は逆に花園の奥へと進んでいった。
「僕、今日は帰るよ。今、ザールおじさんが行った道をたどれば、屋敷の入り口に出られるか
ら」
そう言い終わらないうちに、伐折羅は、もと来た道を小走りに駆けだした。
ゴットフリーはいぶかしげに、その後姿を眺めていたが、やがてザールの屋敷に向けて歩き
出した。
伐折羅の鼓動が早くなる。怖くてたまらないけれど、天喜の事は絶対に許せない。
あいつは西の山の盗賊だ。下手に手を出すと、きっとひどい目にあわされる……。殴られ
る、ううん、剣でさされるかもしれない、そして、心臓を突き上げられて……殺さ……れ……
コロシテヤロウカ
盗賊の姿を目の前にした時、伐折羅の胸のつかえが急に消えた。
「なんだっ、お前?!まさか俺とザールとの話を聞いていたのか」
「お前は天喜を愚弄した……」
「何?ははあ、思い出したぞ。お前は天喜の双子の弟だな。ふうん、綺麗な顔してやがる」
品定めをするように伐折羅を見渡す盗賊の目を、伐折羅は軽蔑の色を露にしてねめつけ
る。
静まり返った湖底のように悲しげな漆黒の瞳、人の心を引き付けずにはおられない表情の
危うさ。盗賊は思わずごくんと生唾を飲み込んで言った。
「お前たち、そっくりなんだってな。こりゃあ、ますます天喜を連れて行きたくなったぜ。何ならお
前もどうだ?そういう趣味のおやじもけっこういるからよ」
馬鹿にしたような笑いを浮かべると、盗賊は伐折羅の肩に馴れ馴れしく手をまわす。
「……何なら俺が買ってやってもいいんだぜ」
だが、次の瞬間、盗賊はその場にうずくまった。
「お、お前、やりやがった……な」
盗賊の腹からは、おびただしい量の血が流れていた。
「子供だと思って、油断した?剣を奪われたのもわからなかったの?」
「ち、畜生……こんな事をしてただで済むと……思うな……」
そう言うと、盗賊はばったりと前のめりに倒れ、それきり動かなくなった。
最後までしっかり、殺してあげるよ。
伐折羅はもう一度盗賊の心臓を貫こうと、血に染まった剣を振上げた。その時だった。
「伐折羅っ、待て!」
びくりと振り返った瞬間、伐折羅の心臓は再び鼓動を打ち出した。冷たい灰色の瞳が自分を
見つめている。
「ゴットフリー、ぼ、僕……」
伐折羅は握り締めていた血ぬられた剣が急に恐ろしくなり、急いでそれを地面に捨てた。
「様子がおかしいと後を追いかけてみれば、この有様か。お前、自分が何をしているのか、わ
かっているのか!?」
「あ……ぼ、僕……こいつが僕まで連れてゆくって言って、怖くて夢中で……それで、刺してし
まったんだ……」
「馬鹿な事を!お前は西の盗賊は町には下りてこないと言っていたな。多分、奴らとザールと
の間に何か協定があったんだ。仲間を殺されたとあっては、きっと奴らは報復にやってくるぞ。 そうなれば、お前だけでなく、他の島の住民だって危ないんだ」
「他の人たちまで……じゃ、天喜は……?」
「あいつの言っていたとおり、盗賊に連れてゆかれるだろうな」
「ど、どうしよう。僕、どうしたら……」
伐折羅は完全に我を見失い、ぽろぽろと涙をこぼした。おびれきった蒼白の顔を見て、ゴット
フリーはため息をもらす。
「仕方ない、お前はどいてろ!」
うつ伏せに横たわっている盗賊の向きを、足でごろんとあお向けに変えると、ゴットフリーは
腰の剣を引きぬいた。盗賊はぴくりとも動かない。すでに事切れているようだ。
「ゴットフリー、どうするの?」
伐折羅の質問が終わらないうちに、ゴットフリーは迷いもせず、自分の剣をぐさりと盗賊の胸
に突き立てた。
「こいつは、このままにしておけ。その内、盗賊の仲間がやってきて気づくだろう。鷹の紋章が
入った剣の持ち主が、こいつを殺したと。俺は外海の人間だ。島の人間が恨まれる事は避け られる」
確かに盗賊の胸に突き刺さった剣は、島の武器屋で見られるような代物ではなかった。柄に
入った鷹の見事な細工とはめ込まれた宝石。レストランであれだけの立ちまわりをしたのだ。 おまけにその目立つ風貌、島の連中に聞けば、剣の持ち主がゴットフリーだという事は一目瞭 然だ。
「でも、それじゃあ、ゴットフリーが狙われるよ」
「おもしろすぎる展開だ。伐折羅、今度は蝙蝠ではなく、盗賊たちの頭でも集めてみるか」
不敵に笑うゴットフリー。
「もう、そいつの事はなりゆきに任せておけ。俺はザールの所へ行く。伐折羅、お前は……」
伐折羅の服は盗賊の返り血をあびて、真っ赤に染まりあがっていた。さすがに、このままで
は黒馬亭に戻すのはまずいか……。ゴットフリーはしばし考えこんだ。
「大丈夫だよ。帰る前に近くの池で洗ってゆくから、さっきの蝙蝠さわぎで血がついて、嫌だっ
たんで洗ったって、天喜には言うから」
ゴットフリーは無言でうなずいた。それにしても、先ほど怯えきっていた伐折羅はどこへ行っ
た?今はおそろしく冷静に事の判断をする別の彼がいる。
「そうだ、ここに剣をおいていってしまったら、ゴットフリーが持つ剣がないね」
伐折羅は、こわごわ、地面におとした盗賊の剣を拾い上げた。
「血だらけだ……でも、鷹の立派な剣とは大違いだけれど、ないよりはいいでしょ」
伐折羅は盗賊の剣をゴットフリーに差し出した。
いかにも下世話な剣だが、護身用くらいにはなるか。それに、これを持っていた方が盗賊殺
しの犯人ぽいな。
ゴットフリーは多少、不満げにそれを受け取り、血を払い落とそうとする。……が、
「あ、待って、ちょっとだけじっとしてて」
「何だ?」
「ごめん、もういいよ」
伐折羅は透き通るようなあの笑顔を見せた。血にそまった剣を持つゴットフリーの姿に伐折羅
は見とれた。彼にとってそれは、どんな有名な画家にもかけない最高の名画だったのだから。
「あ、あれは?」
伐折羅の視線は、空の上に移っていった。月明かりを受けながら、黒い翼が舞い降りてくる。
伐折羅は軽く手を差し出した。
「その鳥は?」
「これは、僕の黒い鳥。僕が困っていると、決まったように現れるんだ。きっと、この鳥は母さん
の化身なんだよ」
手に止まった黒い鳥に伐折羅は愛しげに頬をよせる。
"伐折羅の黒い鳥"……確か天喜にも……ゴットフリーの考えを読み取ったかのように、伐折
羅は言葉を続ける。
「天喜は白い鳥を持っているんだ。黒い鳥と白い鳥、こいつらは母さんがいなくなった日に、僕
らの元へやってきた。だから、僕らはこの鳥を母さんだと思って大切にしているんだ」
その時だった。黒い鳥がひらりと身をひるがえして、ゴットフリーの肩に飛び乗ったのだ。
「あれ、珍しい。この鳥が僕以外の人の肩に乗るなんて」
ゴットフリーは迷惑げに、肩の鳥を払いのけた。
「お前は早く帰れ。盗賊とザールの話を聞いていただろう?盗賊たちは今夜中に荷物を運び出
すつもりだ。ここで盗賊たちと鉢合わせてしまったら、仲間殺しの犯人だと、お前も疑われる ぞ。それでは、死体に工作した意味がない」
何度もゴットフリーの方を振り返りながら、伐折羅は花園を去っていった。その頭上を黒い鳥
が距離を開ける事なく着いてゆく。
胸を貫かれ無残な姿で横たわっている盗賊の躯に目をやり、ゴットフリーはふとジャンの事を
思って苦い笑いを浮かべた
俺は盗賊一人、殺しても何とも思わんが、あいつは俺と伐折羅で死体に工作していると知っ
たら、さぞや腹を立てるんだろうな。
それにしても伐折羅……、七億の夜叉をひきつれた夜叉王の名……か。
妙に気になる……ジャンに感じた感覚とはまた違う興味が湧いてくる。
さわさわと紅い花園が揺れていた。ザールの屋敷へ歩き出したゴットフリーの後を、紅い光
が追いかける。
破滅の王、誘えり……誘えり。
ゴットフリーには聞こえない、そのつぶやきは、紅い花園全体に広がっていった。
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