3.
萬屋黒馬亭 −天喜(あまき)の白い鳥−
辺りには建物は一件も見当たらない。
《萬屋黒馬亭》
と書かれた木製の看板の文字は、部分的に脱色し剥げ落ちてしまっていた。所々欠け落ちた
壁には、深い緑の蔦がびっしりと這い登り、それらは煉瓦を敷かれた暗紅色の屋根へと続い ていた。
「随分、古い建物なのに、あのモダンな屋根はなんだか不釣合いですね」
タルクの言葉にゴットフリーも同感だった。なぜなら、《萬屋黒馬亭》の煉瓦の屋根には普通
の二倍はありそうな天窓があったのだ。
「おい、タルク、あれは一体どういう趣向だ?あの天窓の中には剣が据えられている」
「あ、本当だ。陽が眩しくて気付かなかった。でも……窓の飾りにしてもあんな所に剣を置くなん
て……妙ですね」
ゴットフリーは、食い入るように天窓の剣を見つめた。そして、にやりと笑った。
……おもしろい……ここにはきっと何かがある……
「いらっしゃい。お待ちしておりました」
ゴットフリーとタルクが店の扉を開けたとたん、中から花の香がどっと流れ出してきた。
そして、沢山の花篭に囲まれ満遍の笑顔で二人を迎えたのは、少女、天喜(あまき)だった。
「何だ?ここは花屋だったのか?」
「違う、違う。ここは萬屋。でも、入口は私、天喜の花の店なの。お兄さんたちは、きっと恐ろし
げな武器か何かをお求めなのでしょ。でも、たまにはお花もよいものよ」
こぼれおちそうな笑顔で天喜は、二人を見やる。見たところ年はジャンと同じくらいだろうか。
蜜のような甘い声音、白桃の色合いをした頬。琥珀色の瞳。そして、自然に伸びた薄い褐色の 巻毛が、その背中で揺れる度、辺りの空気を花の香に染めてゆく。
タルクは意味もなく赤面してしまった。
だが、可憐な微笑みの奥で天喜は見知らぬ客をしたたかに観察していた。
"こいつら、いったい何者?あの大男の剣の長さったら、どう?もう一人の方は……ちょっと
いい男ね。若く見えるけど、着ているものは上等。いずれにしたって、この島に観光客がくるわ けでなし、流れ者の武人ってところかしら"
「そこのお兄さん、きっとかわいい恋人がお帰りを待っているのでしょ。いかがです?今の季節
はコスモスが綺麗よ」
"どうせ客なんてほとんど来やしない。こいつらをうまく手玉にとって、大枚はたかせてやるわ"
ゴットフリーは話しかけてきた天喜の口上にあからさまに嫌な顔をする。
「花には興味がない。恐ろしげな武器ってやつには用があるがな」
「あーあ、つれないのね」
天喜は再び、華やかに笑った。
店の奥のカウンターでは、小太りで赤毛の中年男が天喜を見つめて、にやりとほくそえんで
いた。どうも、この店の店主らしい。
「お兄さんって、海兵でしょ。きっと極悪な海賊たちを蹴散らしてる海の英雄ね。私ね、前からあ
こがれてたんだあ、そういう人に」
天喜が甘ったるい声を出す。だが、ゴットフリーは、軽蔑の色を露にして天喜を斜めに睨めつ
けた。
「……その小賢しい口を閉じろ。下衆な笑顔も止めろ」
灰色の瞳が自分に向けられた時、天喜はひやりと背筋が寒くなった。
"怖い……心の奥をみすかされているようで……この人の瞳は……とても怖い"
天喜の心臓の鼓動がどくんどくんと波打ち出した。体が震える。無意識に零れだした大粒の
涙が、白桃色の頬をつうっと流れ落ちた。
「わ、わっ!泣くな。お嬢さん」
それを見て慌てたタルクは、天喜のそばに大急ぎで歩み寄る。
「隊長、ちょっとは気を使って下さいよ……隊長に睨まれたら大の男だって、びびっちまうって
いうのに……」
「なら、お前が使ってやれ」
うろたえるタルクを尻目にして、ゴットフリーはぷいとそっぽを向いてしまった。
「隊長ぉーー」
天喜はタルクの後ろに隠れるようにしてベソをかいている。その時、
チチ……チチチ……
店の天井から鳥の囀りが響いてきた。
ゴットフリーはその方向を見据え、目を細める。
天窓だ……剣が据えられた……天窓。あの剣はいったい……そしてあの鳥は?
「ああ、あれは、私の白い鳥。そして、あの剣は黒馬島の宝剣、闇馬刀(やみばとう)」
天喜の顔にようやく笑みがもどった。
黒馬島の岬の近く、大木のある丘にジャンとミッシェはいた。
さらさらと潮風が吹いてくる。
じゃあ……な。
ミッシェは足元にふわりと通り過ぎてゆく感触に小さく手を振った。
再び、ジャンに目を落そうとした時、ミッシェははっと、強張った顔をした。丘の向こうから、見
知らぬ男がやってくる。何やら不審な雰囲気を感じて、ミッシェは思わず、大木の裏側に身を 隠した。
痩せぎすで赤毛の中年男は、大木の下で眠っているジャンを見つけると、一瞬、驚いた顔を
した。だが、次には狡猾な笑いを浮かべ、その元に歩み寄ってきた。
男はジャンの頬を軽く手のひらではたいてみる。だが、ジャンは死んだように動かない。
すると、次にはジャンの肩に両手をまわし、その体を起こしにかかった。
ジャンの体は、全く重力を無視していた。軽いのだ。まるで赤子のように……。
「すげえ!また、見つけちまった。また、俺は見つけた!」
ミッシェはその様子を眺めながら、心臓の鼓動を一生懸命押さえようとしていた。大木の裏に
いるミッシェと男の距離は手を伸ばせば届く程近い。
「また、埋めなくちゃ。また、埋めなくちゃ」
男は、ジャンをひょいと背負うと、意味不明な言葉をつぶやきながら元来た道を歩き出した。
ミッシェは困惑しながら、その後姿を目で追った。
つんと鼻を刺激する残り香がある。
これは、花の香り……この丘に来るときに潮風が運んでいた、花の香り……
「闇馬刀?宝剣といったか。ということは、あの天窓はただの飾りではないな」
ゴットフリーは、つかつかと店の奥の天窓の下へ歩いて行く。だが……
「待ちなよ。兄さん、あれは売り物じゃねえ」
しゃがれたような声が、彼を制止した。
「お前は?」
「ここの店主のサームだ。剣が入りようなら、これなんかどうだい?この店自慢の一品だ。柄の
装飾は象牙と金。この界隈でも折り紙付の彫物師の作だ」
だが、ゴットフリーは気のない一瞥をサームに送る。
「装飾などは、問題外だ。何よりも俺が剣に求めるのは、その殺傷力だ」
サームの差し出した剣を目で拒絶すると、ゴットフリーは踵をかえして、天窓の下へ歩いてい
った。上を見上げ、にやりと笑う。
やはりな……
−闇馬刀−
刀身は鏡のように輝き、その切れ味の鋭さは疑う余地もない。天窓の剣はゴットフリーが求
めた剣……まさに、そのものだった。
「俺は、あの剣が欲しい」
こともなげに言ってのける。
「と、とんでもない!闇馬刀はこの島の宝剣だ。それに、あの天窓は祭壇だ。あの剣は天窓か
ら出すわけにはゆかない」
「祭壇?」
「黒馬島の闇馬刀は、光をもって神剣となり、闇にあっては魔剣となる。それ故、夜明けに東か
ら差す陽光をもって剣を清め、日没まで光にさらす。その間、あの剣はまさに黒馬島の守り主 となる。だが、闇は剣の魔性を呼び覚ます。日没とともに、天窓は閉めねばならない。闇馬刀 に闇を見せてはならない。もし、そんな事が起ころうものなら……」
−剣は、黒馬島に必ず仇をなす−
その時、天窓から入りこんでいた日の光が雲に遮られ、店の中が暗く翳った
「なるほど……天窓は東を向いているな。だが、それほどの宝剣なら、何故もっと然るべき場
所に祭壇をつくらない?」
「さあな、うちの爺さんが、寺院から譲り受けたとは聞いているが……そこは燃えちまったらし
い。寺の坊主が一日だけ天窓を閉めるのを忘れたんだそうだ。その夜、火口から沸きあがっ てきた御神体……炎の馬に導かれるように西の山が火を噴いて」
「炎馬が火山を噴火させたというのか……」
「闇の中を飛び散る西の山からの火の粉が、炎馬の後を追いかけるようについていったそうだ
……そして、業火は村の大半を燃えつくした……」
火山噴火……サームの言葉はゴットフリーに故郷、ガルフ島の火の玉山を思いおこさせた。
あの日食の日、火の玉山に集結した邪気の群れ……迫りくる海……そして噴火……ガルフ
島は崩壊した……それ故、俺はレインボーへブンを探すのだ。第二の故郷を彼地に求めて… …
一瞬、過去をさまよったゴットフリーの意識を呼び戻したのは、頭上から伝わってくる微かな
振動だった。
天窓が揺れている?
雲が去り、翳っていた店の中に陽が差しこんできた。それがちょうど、ゴットフリーの頭上にさ
しかかった時、パリパリと乾いた音が響いてきた。
その瞬間、
空気が炸裂した!
「ああっ!!」
天喜が叫んだ。鋭い金属音。そして、光が飛散する!
天窓のガラスが砕け散ったのだ!そして、天窓の中の宝剣はガラスの欠片を突き抜けるよう
に、ゴットフリーの頭上めがけてまっすぐに落ちてきた。
−闇馬刀−
「隊長!危ないっ!!」
タルクは蒼白になって絶叫した。
だが、ゴットフリーは、目を見開き、天窓を見つめたまま微動だにしない。
ちょうどその時、店の柱時計が正午を打った。太陽はまさに天頂にあり、ガラスのなくたった
天窓からは強い太陽光が差し込んできた。
ゴットフリーはかすかに首をかしげた風だった。だが、眩しすぎる陽光は一瞬、剣とゴットフリ
ーの姿をかき消したのだ。
一気に貫かれた?
串刺しにされた?
天喜は、手で顔を覆い、タルクの横にぺたりと座り込んでしまった。
正午の時計の鐘が三つ目を打ち鳴らした時、黒馬島の宝剣、闇馬刀はぎらりとその身を輝
かせながら、店の床に深く刃を突き立てていた。
ジャンを背負った中年男がたどり着いたのは、展望塔が正面にある黒瓦葺きの洋館だった。
かつては優美をきわめたであろう館は、今は古びて幽霊屋敷のように荒れ果てていた。その 庭だろうか、館の隣には周りを高いトタン壁で囲われた敷地があった。男は注意深く辺りを見 まわすと、敷地の入口の錠をはずし、扉を開ける。
そのとたん、つんと鼻をつく強い香りが流れてきた。男はジャンを背負ったまま、中へ入って
行く。男の跡をつけ、敷地に入りこんだミッシェは、目前に広がる光景に思わず声をあげそうに なった。
……この場所は空気までが赤く染まって……何て芳しく、何ておぞましい……
ミッシェの腰のあたりまで丈を伸ばした未知の花々。
その場所は、見渡す限りの紅い花園。
花園の中央に一箇所だけ、土肌をさらけだした窪んだ場所があった。男はジャンをそこに無
造作に放りこむとシャベルを手にとった。
「埋めなくちゃ、埋めなくちゃ」
男は喜気として、ジャンの上に土を盛り出す。
いったい、どういうつもり?あの男……
窪地が小山に変わると、男は満足げに微笑み、シャベルでぱたぱたと、小山の土を固めだし
た。
ミッシェは、紅い花の下にかがみ込んで、その異様な光景をなす術もなく見守っている。
ジャンは埋められたって大丈夫……でも、ここはとても嫌な場所。ゴットフリーとタルクを探し
て、早くジャンを出してあげなきゃ。
だって、
この紅い花の香は、
人の心を狂わせる……
「ああ……なんて事!」
天喜は手足の震えを止める事ができない。陽光に照らし出されたゴットフリーの顔面は真紅
に染まっていた。天喜はその時、剣はゴットフリーを真上から貫いたと思ったのだ。
だが、ゴットフリーは倒れもせず、天窓の下にまっすぐに立っていた。そして、静かに足元に
刺さった剣に手を伸ばした。
天窓の光が再び翳った時、
え?血の色が……黒く……変わった?
天喜はゴットフリーを唖然として見据えた。天窓から差す光がその髪を紅く染めていた。ゴット
フリーの黒髪は陽光にさらされると、紅に色を変える。それが天喜には血のように見えた。
ゴットフリーは、剣の柄を軽くつかむとふと口元をゆるめ、天喜の横にいたタルクを上目使い
に見やる。そして、小気味よさそうに笑った。
「望むまでもない。この剣自ら、俺の元へやってきたのだから」
そう言い放つと、ゴットフリーは床から一気に闇馬刀を引き上げた!すると……
その剣は、切先から急速に色を失い始めた。そして、それに逆流するかのように、黒い閃光
が刃の上を駈けぬけてゆく。
そんなっ!?闇馬刀が……
天喜は驚愕に身を震わせた。その光景を以前、目の当たりにしたタルクでさえ、呆気にとら
れ立ち尽くしている。
剣の色が変わった……ガルフ島で隊長とジャンと戦ったあの時とまるで逆に……白銀から黒
刀へ!!
「そうか……黒剣に紅く変わる髪!お前、ガルフ島の警護隊長だな……確か、島主の息子…
…ゴットフリー」
強張った顔のサームを、ゴットフリーは怪訝そうに睨めつける。
「何故、俺を知っている?こんな外海の島で知られるほど、俺の名は有名ではないはずだが」
「わしの兄者が行ったんだ。ガルフ島に……随分、前の話だが……その時にえらく変わった奴
を見たと……若いのにただならぬ雰囲気の……」
「俺がその変わった奴か?」
ゴットフリーは、くすりと苦笑いをする。
「しかし、妙だな、ガルフ島はよそ者の入島には相当厳しかったはず。お前の兄はよく島に入
れたな」
その時、言葉をはさんできたのはタルクだった。
「もしかして……お前の兄っていうのは、あの古物商じゃないか?リリア様がえらく気に入って、
特別に入島を許した……外海の珍品を見せるとかいう条件で」
「ほお、長剣の兄さんは兄者を覚えてくれてるのか……その通りだ。兄者の名はザール。岬の
先の洋館に住んでいるんだが、この界隈の海の珍品を収集する、ちょっとは有名な古物商だ」
ゴットフリーは小馬鹿にした笑いを浮かべる。
「兄は古物商で弟は萬屋か……ろくなもんじゃないな。商品は兄からの流れ物……そして、娘
はポン引きまがいか?」
天喜はゴットフリーの言葉に顔を真っ赤にして、小さく震えている。タルクは、また天喜が泣き
出しはしないかと、はらはらとその姿を見つめている。
「余計なお世話だ!それに天喜はわしの姪っ子だ、娘じゃねえ。ぐたぐた言ってねえで、その
剣をとっとと、こちらへよこしな!」
サームは、ゴットフリーから闇馬刀を奪い取ろうと手を伸ばした。が、その瞬間、サームは見
えない火花に触れたかのように後ろに飛びのいた。
「お前!闇馬刀に何をした?!握るどころか触れもできねえ……体がしびれちまって……この
剣の色といい……お、お前、まさか、黒魔術師か……」
ゴットフリーは、白けた様子で闇馬刀の切先をサームに向けてみる。サームはびくりと体を強
張らせ、後ずさりをする。
沈黙が、不安と合いまみれながら、《萬屋黒馬亭》に広がっていった。天喜は空気の重さに堪
えかね、タルクの肘をつんと突つくと小声で囁いた。
「あの嫌な奴……本当に黒魔術師?闇馬刀にしても……髪の色にしても……あいつ、バケモノ
じみてる……」
タルクは、困ったように笑うと天喜を軽く制した。
「隊長は嫌な奴でもなければ、黒魔術師でもないぞ。ましてや、バケモノなんてとんでもない!」
そして、付け加えるように言った。
「俺らの船にはもっとバケモノっぽい奴が乗ってる」
天喜は、きょとんとタルクを見つめる。花屋で客引きをしている時の笑顔より、その表情の方
がずっといい。タルクは、本気にそう思った。だが、同時にサームとかいう粗野な店主に、これ 以上ゴットフリーの相手をさせるのは酷な話だ……とも考えた。二人はあまりにも格が違い過 ぎる。
タルクは、思い余って二人の間に入ってゆこうとした……が、一歩踏み出したとたん……そ
の場につんのめって床の上に転がってしまった。
「な、何だ??」
タルクは狐に化かされたようにきょとんとしている。
"おい、誰がバケモノだって?"
背後から誰かの声がする。タルクは、きょろきょろと辺りを見渡してみた。だが、声の主の姿
はない。
「タルク、何を遊んでいる?」
手にした黒剣をカウンターに置くと、ゴットフリーは訝しげにタルクを見やった。
「い、いや……遊んでいるわけではなくて……」
タルクがカウンターの方に戸惑ったような視線を送った時、ゴットフリーがはっと表情を変え
た。
かたかた……かたかたと……
闇馬刀が震えている。
ゴットフリーはすばやく闇馬刀を手にとると、その黒い刀身を目前にかかげた。
剣の中から何かが来る……
黒剣に変化した闇馬刀の刀身には、その名のごとく、暗黒の闇が広がっていた。だが、ゴット
フリーの灰色の瞳には、闇の奥へと続く一本の道が見えたのだ。そして、そのはるか先の消失 点から……何かが道をやってくる……小さな黒い点が、速度を増しながら真直ぐに駈けてく る!
「馬だ!黒馬が剣の中を駈けて来る!!」
ゴットフリーの叫びに、《萬屋黒馬亭》の面々は唖然と闇馬刀を見据えた。
「た、隊長、冗談もほどほどに……」
タルクは、軽く笑いながらゴットフリーの横へ歩み寄った。だが、闇馬刀を覗き込んだ瞬間、タ
ルクはぎょっと目を見開いた。
馬だ!本当に、剣の中から黒馬が……
一瞬、時が止まったように何もかもが静止した。
どこか遠くから聞こえてくる蹄の音。それが、大きく響きだした時、
闇馬刀はゴットフリーの手の中で大きく揺れ出した!
《萬屋黒馬亭》さえもが震えている!
「タルクッ!伏せろ!」
闇馬刀を投げ捨てると、ゴットフリーはタルクを力まかせに床に押し倒した。
旋風……そして、
影のような、闇のような……巨大な黒馬が……
ゴットフリーとタルクの上を霞めるように、飛び越えて行く!
ゴットフリーは信じられない面持ちで、その姿を目で追った。
黒い大地……この島に着いた時、俺たちの船の上に突然現れた断崖の屋根。あの黒だ…
…あれと同色の黒馬!
黒馬は、《萬屋黒馬亭》の窓ガラスを突き破ると、矢のような早さで外に飛び出していった。
窓に続く店の壁は、大音響と共にがらがらと崩れ出した。
崩れおちた壁に恐る恐る歩み寄り、天喜は空を見上げた。そして、小さく声をあげた。
「空が……青空が……闇に攫われてしまう」
暗幕を引くように、闇は東から青い空を覆い隠していった。巨大な影の下で真昼の光は急速
に翳り出し、そして、空は不自然に暗に色をかえてゆく。
かろうじて西の空の一角だけに、青の光が残っていた。天喜はその空へ誘われるようにゆっ
くりと一歩、歩を進めた。
「だめだっ、外へ行っては!!」
タルクが叫ぶ間もなく、天喜は闇の中へ消えてしまった。
「天喜!」
サームは、泣くような声をあげて天喜の名を呼んだ。
だが、天喜がいた場所には、闇の帯が竜巻のように渦を巻き大きく膨らんでいる。禍禍し過ぎ
るその姿は、サームを震えあがらせた。
だめだ……とても、近づけない。近づけはしない……。天喜は闇の餌食にされたんだ。闇馬
刀を天窓から出したから、これは天罰だ……。
その時サームの後ろで突風が舞い上がった。
タルクの長剣が闇に向かって振り下ろされたのだ。
「うわああああああっ!!」
タルクは天喜に対して責任があった。それならば、お前が気を使ってやれと、ゴットフリーに
言われた言葉がタルクの心を捉えて離さない。あの娘は俺が助ける!
だが、タルクが渾身の力をこめて振り下ろした長剣は、いとも簡単に闇の壁にはじき飛ばされ
てしまった。
ゴットフリーは、自分が投げ捨てた闇馬刀を探して床に目をやった。だが、その姿はどこにも
ない。
あの剣、黒馬に化身したか!
仕方なく、カウンターにあった適当な剣に手を伸ばした時、
"剣を探す暇があったら、早くあの娘を助けてやれよ"
背後からの声にゴットフリーは、一瞬、虚をつかれた。
"剣などなくともいけるだろ?なんせお前は、悪の象徴だからな"
「この声……ジャンか!?お前、どこにいる!」
"そんな事より、早く行け!あの娘、死んじまうぞ。この唐変木!"
「お前に言われなくてもっ!」
ゴットフリーは、そう言い捨てるとサームとタルクの間をかいくぐるように通りぬけ、闇の渦の
前に出た。そして、天喜を捕らえているそれに向かって無造作に手を伸ばした。
「これは何っ?前が見えない……。私、闇の中にいるの?嫌だ!出してよ、誰か助けて!!」
天喜は闇の檻に囚われていた。夜とは違う全くの暗黒。息をすると蒸せるような空気が胸を
支えさせる。
苦しい、息ができないわ。
それは、天喜が生まれて初めて感じた恐怖だった。
釣り上げられた川魚……
網にかかった紋白蝶……
今までは傍観し、楽しんでさえいた物の死が、今は自分の身近にある。
「死ぬのは嫌!!絶対、嫌!誰か助けて!」
天喜は、もがきながら闇の中で叫んだ。だが、その声に答えは返らない。
天喜はなす術もなく泣き出した。その時だった。
天喜の目の前がいきなり、白く裂けた。
「こっちへ来い!」
長い五指を広げた手が、その裂け目から天喜を呼んだ。驚く間もなく、その手は天喜の腕を
掴み、有無をいわざず自分の方へぐいと引き寄せる。その瞬間、白い裂け目が大きく広がっ た。天喜はその腕につかまりながら、呆然と手の主の姿を見上げる。凍てつくような灰色の瞳 ……この男は、ゴットフリー!
怖い……この瞳はとても怖い……でも
天喜はゴットフリーを怖いと思った。だが、それは闇の中の震え上がるような恐怖とはかけ離
れた感覚だった。
でも、この懐にいれば……きっと免れる……死や得体の知れないこの闇から……
天喜は震えながらもゴットフリーにしかとしがみついていた。
闇は弾かれていた。
それは再び天喜を採りこもうとゴットフリーと天喜に触手を伸ばしてきた。だが、どうしても二
人に近づく事はできない。しかし、闇とゴットフリーとの均衡は徐々に崩れ出していた。
さて、どうすればいい?この闇は剣で斬れるような代物ではないぞ。
ゴットフリーは苦笑した。
一方、タルクはゴットフリーと天喜の後方で、長剣を構えたまま立ち尽していた。
だが、俺はなんとしても助ける、助けたいんだ……隊長もそしてあの娘も!
その時だった。
"大丈夫。お前の長剣でぶった斬れ!ゴットフリーもろとも、ふっとばしてもいい
んだぞ"
再び、響いてきた声にタルクは、訝しげに眉をしかめた。
「お前……ジャンだな。ふざけてないで出てきて手伝えっ!」
"手伝うから、早くやれっ!!"
タルクは、不満げにちらりと目を動かしてみた。だが、ジャンの姿はない。
「畜生!あんな奴は無視だ。隊長、伏せろっ、俺がその闇、ぶった斬ってやるっ!!」
大声で叫ぶとタルクは、長剣を高く振りかざした。
ゴットフリーは、ちらりとタルクを見やるとかすかに笑った。自分にしがみついている天喜の頭
をぐいと押し下げる。と、同時に、自らも身を低くした。その瞬間、
「うおおおおおおおおっ……!!」
タルクの雄叫びと共にその長剣が空気を横一文字に切り裂いた!
爆風がゴットフリーの頭上を通り抜けてゆく。
そして、その後を追うように蒼い光が炸裂した。
びくりと一瞬、闇が震えた。
そして、突然、飛散した。
後に残ったものは、静寂と……月も星もない……闇とは違う、まるで毒気のない夜だった。
「夜なのか?……確か今は、真昼だったな……」
ゴットフリーは、床から立ちあがると、訝しげに窓の外を見やった。天喜は、小刻みに震えな
がらその足元にすがりつく。ゴットフリーは、閉口したように眉をしかめると、灰色の瞳を天喜に 向ける。
怖い……でも、この男から離れるのは嫌……天喜は混乱し、訳のわからぬ声をたてだした。
すると、ゴットフリーはいきなり天喜をどんと後ろへ突き飛ばし言う。
「タルク、お前の役目だろ」
ゴットフリーの後ろへ控えていたタルクは、大慌てで、天喜の体を手で支えた。大きな手は暖
かかった。天喜は、はっと我にかえるとタルクの顔を見やった。
「おい、大丈夫か?」
気のよさそうなタルクの顔が、心配げに天喜を見つめている。天喜は心底ほっとした。そし
て、その大きな胸に顔をうずめると、放心したように泣き出した。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |