2.
黒馬島は、意外にも緑の平原だった。
海へせり出している厳しい黒土とは裏腹に、その入り江から続く低い丘には、芝のような丈の
短い草が広範囲に続いていた。その丘の向こうからは、何やら甘い花の香が風にのって流れ
てくる。
なんだ、思いのほか、平和そうな島じゃないか。もっと怪しい土地を想像してたぜ。
ミッシェの後を追いながら、タルクはほっと息をついた。右の肩にはニメートルほどもありそう
な長剣をかかえ、背にはジャンを背負っている。その重量はタルクにとっては気にするほどで
もないらしい。ジャンは眠っているようだった。
ゴットフリーは、その後を、五、六歩ほどの距離をとりながらついてくる。つばの長い帽子を目
深にかぶり、丈のある上着をひきずるように羽織っている。帽子も黒なら上着も黒、まるで闇に
混ざってしまったような奇妙な感覚。
「隊長、ミッシェはどこまで行く気ですかね?」
「さあな。ついてこいと言うから、そうしているだけだからな」
「隊長、俺はまだ、こいつらの事よくわからないんだ。そんなに信用しちまっていいんですか?」
「お前が、勝手に付いて来たんだ。今更何を言う……」
薄く笑って、タルクの元に歩み寄る。長身であるにもかかわらず、巨漢のタルクの横ではゴッ
トフリーは頭二つは小さく見えた。だが、いかつい顎鬚の口元を不安げにへの字に曲げたタル
クの顔にはなんとなく愛嬌があった。
「まあ、あきらめろ。ここまで来て、一人で後戻りするわけにもゆかないだろう?」
「隊長ーー」
「情けない声を出すな……それと、俺を隊長と呼ぶのは、もう止めろ」
「そんな……隊長は隊長です!」
タルクの家はガルフ島でも、貧しい農家だった。そんな家の長男に生まれたのだ。働いても
少しも楽にならない暮らしと、兄弟姉妹の世話に明け暮れる毎日に嫌気がさしたタルクは十五
で家を飛び出した。
行くあてもなかったが、腕には覚えがあった。そんな時、彼を受け入れてくれたのがガルフ島
警護隊だった。
タルクがゴットフリーに初めて会ったのは、警護隊の認証式の日だった。自分より年下にもか
かわらず、彼はすでに隊長と呼ばれていた。
どうせ、島主リリアの七光で奉りあげられた若造だろう
そう高をくくっていたタルクは、その姿を人目見るなり、目をみはった。灰色の瞳が自分の方
へ向けられる度に、心の中を見透かされているような気がする。タルクは心臓の鼓動は高鳴っ
た。
冷静だが、大胆……そして、的確
隊長の直属隊として、働くにつれ、ゴットフリーへの侮りの気持ちは、それらの文字へと変わ
っていった。それ以来、タルクはゴットフリーを隊長と呼ぶことに違和感を抱いた事は一度もな
かった。
「ここには、ガルフ島警護隊はないんだ。お前一人が俺を隊長と呼ぶのは何か変だ」
「でも……他にどう呼んだらいいんです?」
「ゴットフリーと」
「とんでもないっ!そんな事できません」
タルクは天変地異がきたように目を見開いた。ゴットフリーは、あきれたような顔をする。
「その敬語も止めろ。うっとうしい」
「そんな――」
「敬称や敬語などというのは、集団の規律を守る為に使うものだ。年齢、階級、身分……使う
方と使われる方の線引きはその場によって違ってはいるが、明確な上下関係を口頭で示す事
で人は自分の位置を定め、そのように行動する」
「は?」
「だがな、ここには俺とお前とジャンとミッシェ、たった4人しかいないんだ。こんな小さな集まり
に階級も何もあったものではない。そんなものはかえって邪魔だ。だから、もう、俺を隊長と呼
ぶのは止めろ!敬語も使うな」
「でも……習慣になっちまってるんですよ……それをいきなり変えろと言われても……」
心底困った顔をして、ゴットフリーを見つめる。
「それに隊長を隊長と呼ぶ事が、私にとっては安心なんです……心の支えというか……お守り
のような物で……」
タルクの言葉に今度はゴットフリーが解せない顔をする。
その時、タルクの背が小刻みに揺れた。
ジャン?
タルクは、不審げに背負ったジャンに目をやった。くくっと小さな声がする。
「お前、笑ってやがるな!」
「だって、お前らの話があんまり、面白いもんだから……」
ジャンは、タルクの背から顔をあげると、にこと笑顔をみせた。同時にミッシェを指差して言
う。
「もう、降ろしてくれていいよ。ミッシェの所へ行くから」
ミッシェは、先に見える小高くなった丘の大木の下でジャンたちを待っていた。
「お前、もう大丈夫なのか?」
「海にいるより、ずっといいよ」
だが、タルクの背から降りた時のジャンの足元はおぼつかない。ふらりと倒れそうになったそ
の腕を後ろから捕まえたのは、ゴットフリーだった。
「いらぬ迷惑をかけるくらいなら、黙ってタルクに背負われてろ」
ジャンは笑う。
「ここは黒馬島だろう?だから、大丈夫。僕の事は気にしないで」
丘の上の大木の下に腰を下ろすと、ジャンはほっとしたように深く息を吸い込んだ。ミッシェ
はその横にちょこんと座ってジャンを見据えている。
「ぼくはここでちょっと、寝てるから、二人は島の見学にでも行っててよ」
「寝てるって、こんな海風が吹きつけてくる場所でか?冗談じゃない。必要なのは医者だろ、俺
たちが探してやるから、お前、医者に行けよ」
「いいんだってば。夕方には船にもどるから。だから、早く行った、行った!」
ジャンは、ニ、三度タルクに向かって手を振ると、大木の根に頭を乗せごろんと横になった。
本当にここで眠る気らしい。
「おい、お前!」
あわててジャンを起こそうとする、タルクを横にいたゴットフリーが手で制する。
「行こう、船には何もないからな。物資調達するにはいい機会だ。この島の様子も見ておきた
いしな」
「でも……」
「あいつが寝たいというんだから、好きにさせろ」
ゴットフリーは、タルクの背を強い調子で押すと歩きだした。タルクは渋々それについて行く。
だが、少し進んでゴットフリーは、思い立ったように着ていた上着を脱ぎ、後戻りをする。
もう目を閉じていたが、ジャンは、ばさりと上にかけられた布の感触に軽く目を開いた。
「それでも羽織ってろ」
ゴットフリーは吐き捨てるように、そう言うとくるりと背を向けて歩きだした。
「心配してくれて、ありがとな」
ジャンはにこと笑って、その背に声をかけた。だが、ゴットフリーは、タルクをせかしながら振
りかえりもせず行ってしまった。
「何だ、あの緑の平原は見せかけか……」
島の小道を歩きながら、タルクはつぶやいた。歩いてゆくにつれ、足元の柔らかい土の感触は
消えうせた。そして、ごつごつとした岩のような地盤ばかりが目立ってきた。
「これは、溶岩だな。 度重なる火山噴火……溶岩が冷え、上に土が堆積し、また溶岩が流れ
込む……。その繰り返しが何年も続いてこの島を作ってきたのだろう。あの岬の下に見えた、
おびただしい貝の化石に気がついたか?多分、火山活動はかつて海にあったこの土地を陸上
に押しあげたんだ。この島の土壌を黒く見せているのは、その溶岩の成分のせいかもしれない
……とすれば、土地はやせているな。木々や緑が育たないわけだ」
「しかし……隊長って、時々、学者のような事を言いますね。普段、警護隊を率いている姿から
は想像もできない……」
タルクはそう言った後、あっと気まずそうに口に手をあてた。
いかん……隊長という言葉も敬語も使うなと言われたばかりだった……
ゴットフリーは、眉をしかめタルクを見据える。そして、恐縮し、怯えたようなその表情に苦笑
する。
「俺の知識は上っ面だけだよ。俺が怖かったのか、小さい頃からあまり友達も寄りついてこな
かったしな。退屈しのぎに島主リリアの図書室で片っ端から蔵書を読みあさったものだ」
……いや、それだけだけではない。俺は知ってる。隊長はガルフ島のみならず、見知らぬ島
の事でさえ、自然と考えてしまうんだ……人々や土地、その未来の事を……根っからの統治者
……そんな人を呼び捨てになんてできるものか。
気まずいような空気に耐えかねて、タルクはぼそぼそと口を開いた。
「あの……すみません。俺はどうしても、できないんです。敬語を使うな。隊長というなといわれ
ても……」
ゴットフリーは、わずかに俯き、薄い笑いを浮かべる。
「そうか……規律、礼儀、絶対の服従……それは俺が散々使ってきた言葉だ。いきなり総てを
止めろといわれても困るのはお前か……」
「隊長……?」
「……だが、少しずつなら変えられるか?」
「それは……はあ、時間をいただければ……なんとか……」
「そうか、頼む」
ゴットフリーの言葉にタルクは思わず自分の耳を疑った。
頼む?隊長が俺に?そんな事一度だって言われた事がなかったぞ。それに、さっきジャンに
上着をかけたあの態度……隊長は巷で噂されているほど冷酷ではない。それは重々承知はし
ていたが、こうも露に態度に示すなんて……これはどうした事だ?
タルクは信じられない気持ちでゴットフリーを見つめた。
変わってきている……この人は……あのジャンと出会ってから……
その時、一羽の白い鳥が二人の頭をかすめて飛んでいった。ゴットフリーはなにげなく、その
軌道へと目をやる。
白い鳥が飛んでいった先に、看板が見えた。
−萬屋黒馬亭−
「お誂え向きの店があるな。ちょっと、行ってみようじゃないか」
それは、古い石造りの商店だった。
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