アイアリス第2部 「黒馬島奇談」
プロローグ
レインボーヘブン、それはこの世の富をすべて集めた至福の島。……だが、五百年もの昔、
その島は突然、海に消えた。レインボーヘブンの守護神アイアリスは、その島を大地と六つの
欠片に分け、そして封印したのだ。遥か未来、住民たちの子孫にレインボーヘブンを返す約束
を残して。
レインボーヘブンの伝説にはこう記されている。
−レインボーヘブンは再び蘇る。その欠片たちが力を取り戻し、その血を受継いだ住民たち
が、その地を訪れた時に……また蘇る。
1.
やわらかな風が東から吹いていた。
「外海に出るか。ここからは未開の海。今までの経験も常識も全く通用しない領域だ」
朝の陽光に照らされた大海に一隻の船があった。
その船首で、一人の男が海を眺めていた。
ゴットフリー・フェルト。幼い時、この海の遥か西、ガルフ島でぽつんと路上に座り込んでいた
彼を拾い、自分の息子として育てた島主リリアはこの男をそう名づけた。そして、ゴットフリーは
島主の息子、また、ガルフ島警護隊隊長として島の権力を欲しいがままにしてきたのだ。
波の間に目新しい魚の群れが飛びはねる度、銀の鱗が反射鏡のようにきらめいて見える。
ゴットフリーの鋼のように黒い髪が、それに合わせるかのように紅く輝く。そう、この男の髪は
陽光にさらされると、紅に色を変える。
そのせいか、二十歳そこそこの若さにもかかわらず……ゴットフリーの周りには何か抗いがた
い大気のようなものが取巻いていた。
だが、船首で海を眺めるその表情は硬く、精彩を放つとはいい難いものだった。
ガルフ島を出航して十日……あの日食が起こるその前に、自分がこの見知らぬ海にいる事
を誰が想像しただろう?崩壊……俺の故郷、ガルフ島は、崩壊したのだ……わずかに残る大
地を残して。
ゴットフリーは目前に広がる東の空に目をやった。季節は晩夏から初秋へ移り変わろうして
いた。雲一つない、澄んだ青い空……だが、目を凝らして見つめていると、その灰色の瞳の中
には、鮮やかな七色の光が滲むように浮かび上がってくる。
虹の道標……
至福の島、レインボーヘブンへの道標。この虹の終わる場所にレインボーヘブンがあるとい
う。
だが、それは、強い海風にあおられた波しぶきを避け目を閉じた瞬間、彼の視界から消えて
しまった。
あの虹は不意に目前に現れる……そして、見え隠れしながら俺を呼ぶ。
ゴットフリーは、不思議な感覚にニ、三度目を瞬たかせた。だが、もう、虹の道標は現れては
こなかった。
「虹を眺めていたのか?」
後ろから声をかけられて、ゴットフリーは、憮然とした表情で振り返った。小麦色の髪、とび色
の瞳……彼とはまるで対照的な人懐こい笑顔の少年がそこにいた。
「いや……今はもう見えない」
「ふぅん……そんなものなのか。タルクなんて、虹って雨上がりに見えるあれか?なんてとぼけ
た事をいってやがるし……」
少年の名はジャン・アスラン。
「お前は?……」
と、言いかけてゴットフリーは言葉を飲みこむように黙りこんだ。ジャンは、軽く笑う。
「心配しなくても僕には見えているから。たとえ、夜の闇の中でも」
「夜でも、あの虹が見えるというのか?」
「だって、お前が生きている限りあれは輝き続けると、女神アイアリスは言ったじゃないか」
ジャンの言葉にゴットフリーは、思わず眉をしかめた。
あの女……レインボーヘブンの守護神アイアリスは言った。俺にレインボーヘブンの王にな
れと……
「誰が心配などするか」
「そうか?なら、いいけど……」
また海風が強く吹きつけてきた。船が大きく揺れた時、ジャンは立っているのに耐えきれず、
隣にいるゴットフリーの腕にふらりとつかまった。
「おい?何だ?」
ゴットフリーは、いぶかしげにジャンを見遣った。見かけは十五〜六歳の少年でも、ジャンに
は強靭な力が宿っている。自らをレインボーヘブンの大地……アイアリスに隠された欠片−し
かも、その礎なのだと言うジャン。そのジャンが船の揺れごときに足をとられるものだろうか…
…。
だが、ジャンは彼の腕をつかんだまま、崩れた態勢をもとどおりにすることができなかった。
「ジャン?」
ゴットフリーは、とまどいながら両の手でジャンの体をぐいと引き起こそうとした。ところが……
こいつ……体が燃えるように熱い……
ジャンはゴットフリーの腕につかまったまま、激しく息をきらしはじめた。耐えきれず、その場
にがくんと膝をつく。
「ジャン!」
「黒馬島が……近づいてくる……」
「何だって?ジャン、何を言っている?」
「黒馬島に……行って……」
だが、ジャンは次の言葉を言い終わらないうちにゴットフリーの腕の中に倒れこみ、それきり
意識を失ってしまった。
その時、二人の上に黒い影が覆い被さってきた。船の速度にあわすようにゆっくりと上空か
ら伸びてくる巨大な影法師……。ゴットフリーは、ジャンを抱えたまま唖然と空を仰ぎ見た。
黒い地層……船の上に突然現れた、こぼれおちそうな断崖の屋根。その表面には砂岩と泥
岩の筋が波のように続いている。だが、礫も砂もすべてが炭化した鉱物であるかのように光を
吸収し、その地を黒に染めていた。
……黒い大地……まさか、これが黒馬島?!……いったい、どこから沸いて出た?海には
島など一つだって見えなかったぞ!
そして、船は吸い込まれるように、断崖の下に広がる入り江の奥へと入り込んでいった。
「おい、こいつ、本当に大丈夫なのか?」
がっしりとした体躯を小さく折り曲げて、タルクは、ベッドにぐったりと横たわったジャンの顔を
覗きこんだ。どうもかなり熱があるらしい。
「ミッシェ、こいつは一体、どうなっちまったんだ?ガルフ島を出る時は、小憎らしいほど元気だ
ったのに……」
タルクは、腑におちない様子でベッドの傍らにいる少女……ミッシェの顔を見遣った。
「ジャンは、本当にお人好し……ガルフ島に力を与えすぎたのよ……もっと残しておけば良か
った……自分の為に」
ミッシェは独り言のようにつぶやいた。そして、軽く笑った。
「笑っている場合か?偶然だが船は入り江に入っちまった。島には医者くらいいるだろう?な
ら、早く医者に診せた方がいい!絶対に!」
「怒鳴らないでよ。仕方がないことなの。本当に仕方がない……」
ミッシェは不満そうに目元にかかった銀の巻毛をかきあげた。銀といっても髪はぼさぼさでお
世辞にも美しいとはいえない。この少女はジャンより少し年下に見えた。だが、女の子にして
は、身なりに気を使う事もなく、顔も服装も薄汚れていた。ただ、その瞳は澄みきった青。それ
だけが妙に人の心をひきつけた。
「……で、俺たちにどうしろというんだ?」
後ろから聞こえてきた声に振りむき、ミッシェは、かすかに眉をひそめる。
それは、船首から下に降りてきたゴットフリーだった。
「こいつは、倒れる前に黒馬島へ行けと言った。この黒い大地が黒馬島なのか?そこにいった
い何があるんだ?」
「黒馬島にはジャンの友達がいる」
「友達……こいつに?」
「そう……前に会ったのは確か……」
ミッシェは、小声でぽつりとつぶやいた。
「そう……前に会ったのは……百年前だったかな……」
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