4.
 ガルフ島の夜。下弦の月が静かに海を照らしている。
 長潮のおだやかな波は切り立った岸壁をやさしげになで、波音はしんと冴え渡った空気の中
に、竪琴のような透明な響きを奏でている。
 だが、表面の優美さとは裏腹に、島は病んでいた。
 水平線と闇の合間には妙に違和感のある紅い灯が横一列にただよっていた。ガルフ島は近
い未来を憂うように沈黙している……その紅い灯と奇妙な緊張感を保ちながら。

 波が少しばかり高くなった時、にわかに白い影がその中から現われた。弾ける波飛沫から生
まれでたように、青白い裸体が月明かりに照らし出される。
 体から、銀の糸のような雫をしたたらせながら、それは海岸の岩に軽々と這い登ると岩の上
に腰を下ろした。
 水平線に並ぶ紅い灯。ガルフ島の中腹から、その灯に向かって新たな光が一つ、二つと飛
んでゆく。血のような不吉な紅い色……。

 「もう、私の子守唄にも飽きましたか」
 BWは岩の上で深く息をつくと、濡れそぼった体を気にもせず、沖合いに目を向けた。 

 そうして、お前たちはいくつの大地を憎み、恨み、破滅に導けば気がすむのだ?

疲れた仕草で髪をかきあげると、BWはふと前方に視線を向けた。
 「何をそんなにこっそりと、通り過ぎようとしているのです?」
 すると、闇の中から艶のある美しい声が聞こえてきた。
“いつもながら、目のやり場に困ってしまうのよ……服を忘れたわけではないのでしょう?”
 BWは、平然と笑ってみせる。
「あなたまで、そんな事を言う……服ってやつはどうも窮屈でね。それより、何か変わった事で
もありましたか?」
 声の主の姿は見えない。
“あなたは、何も感じなかった?”
「ああ、あの大きな力の事ですか?予想外でしたね。彼と会うのはもっと後だと思っていたか
ら」
 BWは、岩の傍においたシャツにようやく手を伸ばし、かったるそうに袖に手を通す。しばらく
すると、また、声が響いてきた。
“これで、ガルフ島を出れるかしら?”
「どうですかね。あの力はまだ不完全だ。それに、今の状態のガルフ島をそのままに、島を出
るのは難しいでしょうね」

 てっとり早く、ガルフを海に沈めてしまえば、話は早い……だが、そんな事をしたら、あの警
護隊長はどんな顔をするのでしょう。その顔を少し見てみたいような気もしますが……
 BWはくすりと笑った。
“ゴットフリー……彼は元気?……”
 BWの心を読みとったように声は言う。
“……こちらまで気難しくなりそうな程、思い悩んでいますよ。外向きには強者のようでも、まだ
まだ若造だ……それに以外と繊細ですしね」
“知ったような口を聞く……逆らえもしないくせに”
 闇の中の声は少し怒ったような口調になり、それと共に、BWの耳元を夜風がびゅうと通り過
ぎていった。
「今日もお仕事ですか?あなたの生真面目さには全く敬服しますよ」
 声の気配はもう消えていた。紅い灯がゆらゆらと水平線に揺れている。
 
面倒が多過ぎて、私も少し疲れました……
 BWはふっと息をはくと、くるりと背を向け海岸とは逆の方向に歩き出した。


 「フレアおばさんの家はサライ村のちょうど入り口、海沿いにある小さな食堂なの。歩いてニ
十分くらいかな。ジャンが私を助けてくれた話を聞いて、ぜひ来てくれって」
 ココとジャンは、フレアおばさんの店に向い、夕暮れの小路を歩いていった。
 ジャンは、ふと、足を止めるとサライ村の居住区の景色に目を細めた。
「……しかし、美しいものだな」
 サライ村の家々は物資を運ぶ為の荷車をロープウェイのように屋根から屋根へと動かしてい
る。夕刻にもなると、その受け渡しは頻繁で、滑車の車輪の音がひっきりなしに聞こえてくる。
そして、荷車につけられた小さなランプが、まるで蛍のように夕闇の中を行き交っていた。
 サライ村の建物はどれもこれもが古びていた。だが、その作り方は不便な土地を有効に使う
ためのあらゆる工夫がなされていた。
「さすがだな……ここにはレインボーヘブンの遺志がある」

 ココとジャンは、昼間の騒動がなかったかのように、のんびりと歩いてゆく。
 「レインボーヘブンの住民を探しにきたですって?あの島は伝説の島で、おまけに五百年も
前に消えてなくなった島じゃない?!」
 ジャンの言葉にココはあきれたように言った。
「だいだいジャンは、どこから来たのよ」
「どこといわれても……海の向こうからだよ」
「また、秘密っぽい!そういうのよくないよ」
「……いちいち、いた場所の名前なんか覚えてないんだ。でも、サライ村……ここの名前だけ
は忘れそうにないな……」
 ジャンは軽く笑った。
「探し物を見つけたから」
 一寸、考えてココは目を輝かせる。
「まさか……サライ村の人達に何か関係があるとか……」
 ジャンは、ココのまっすぐに自分を見つめてくる眼差しを気に入っていた。目線が合うように
少し膝をおって、その顔をのぞきこむ。
「ココは、違うな。残念だけど」
「何が違うのよ。そりゃあ、私は海で拾われた子だけど!」
「海で拾われた?」
「お父さんもお母さんも海で死んだの。乗っていた船が沈んだんだって。私が、まだ赤ちゃん時
の事よ」
「……」
「私ってつくづく不運な娘よね。そのあとお世話になっていたゴメスさんも亡くなって……」
「だから、BWってやつの世話になってるのか」
「誰があんな奴に!毎日の稼ぎには困ってないわよ。ここの島はね、サライ村以外の奴等はみ
んな馬鹿。だから、騙すのなんてすごく簡単!あ……お父さんの写真、持ってるんだ、見る?」
 ココは悪びれる様子もなく、首にかけたロケットを取り出した。古ぼけてはいるが見事な細工
の銀のロケット。
「なかなかいい男でしょ。全然、記憶にない人だけど、私が持っていたのはこのロケットだけだ
ったんだって」
 ロケットの中では、ちょっと斜に構えた海賊風の男が笑いかけていた。だが、粗野な面構えで
はなく、その男には頭領の観があった。

 ココの父は海賊か?この子はその血をストレートに受け継いでる感じだな。

 ジャンは、くすりと苦笑いをした。だが、再びロケットをのぞきこんで首をかしげる。

 誰かに似ているな……あの傷の男?いや、あいつより線が太いか……どこかで見た顔なん
だが……

腑に落ちない気分で居住区を出たが、突然目の前に開けた景色に、ジャンは思わず身をのり
だした。

  サライ村……その入り口は一面の蓮の花。

 「あの蓮池から立ち上る無数の花粉の光の粒は……」
 美しかった。あの光はレインボーヘブンの……ジャンはその夢のような光景に我を忘れたよ
うに見入っていた。
「光りの粒?あの蓮池から……、そんなの何も見えないわ」
 ジャンはふと気付いたようにココを見た。
「ああ、そうか。いいんだ、あれは、きっとそういうものなんだ」
 
 そういうもの……そう、ジャンでさえも…

 もう、ココはジャンに何も聞かなかった。ジャンは違う……ジャンの世界はまるで違う……な
んとなく、ココにはそれが理解できていた。

 蓮池を過ぎて少し行くと、ジャンとココは海岸に出た。すると、海沿いにぽつんと建っている一
件家の明かりが見えてきた。
「あれがフレアおばさんの店よ」
 ココがジャンの腕を引いた時、海鳴りの音が一段と高く響いてきた。ジャンは、海の方に思わ
ず目をやった。波の間にいくつもの赤い小さな灯が、横一列にちらちらと見え隠れしている。し
かし、それらは村で見る美しい灯とはうらはらに、何か不吉な濁った色をしていた。

 「ココ、あそこにも灯が……?」
「ああ、あれは海の鬼灯よ。いやな灯!」
「海の鬼灯って?」
「よくわからない……、でも、海の鬼灯はああやって、ガルフ島の周りをぐるっと取り巻きなが
ら、近づいたり遠ざかったり……そうしながら、年々少しずつ輪をせばめているんだって。あれ
が、近づいた時は必ず悪い事が起こるって、みんなが言ってる」
「悪い事って?」
「必ず、火の玉山が火を吹くもの。それにあの灯を見てるとなんだか怖くなる」
 ジャンはいぶかしげにココの顔を見た。そして、ふと遠くの音に耳をすませた。

 ガルフ島は沈黙していた。だが、その思いは激しく悲哀に満ちていた。
  “崩れてゆく……内側から。なぜ、この崩壊に誰も気付かない……”

  ……嫌な音だ。がらがらと哀しげに崩れてゆく……
 急に黙り込んでしまったジャン。ココは、何だか不安になって、早く行きましょうと、その手を引
いた。
 そうこうしているうちに、ジャンとココはフレアおばさんの店の玄関までやってきた。

 「さあ、入りましょ」
 ココはドアノブの上についた呼鈴に手をかけたが、ふとその手を止めた。
「ジャン、なくしちゃったの?」
「何、何の事?」
「あの蒼い石……、ほら、ジャンが胸にかけてた。すごく綺麗だったのに……」
「ああ、あの石か」
 ジャンは、くすりと笑った。
「気にしないでいいよ。そのうち、あちらから出てくるから」
 そして、ジャンはココの手と一緒に呼び鈴を握ると、軽くそれを打ち鳴らした。









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