3.
ジャンが目覚めたのは、きしんだ音のするベッドの上だった。
「大丈夫?ずっと眠ってたのよ」
「お前、無事だったのか!?」
「うん。少し痛いけど、どうってことないよ。あんなに血がでたのが嘘みたい」
と、ココは胸のあたりを指差した。BWに巻いてもらった白い包帯が痛々しい。 ジャンはそ
れを見て一瞬、顔をしかめたが、とりあえずはほっと胸をなでおろした。
「あんた、確かジャンっていったよね。私はココ。サライ村のココ!」
「ココ……?でも、僕はなんでこんな所に?」
「こんな所とは失礼ね。ここは私の家なのよ!」
ココに言われて、辺りを見渡してみると、そこは窓辺の小花の植木鉢が、かろうじて部屋の殺
風景さを和ませているだけの古びた板壁の部屋だった。
「BWがジャンをここに運んだんだよ」
「BW……って?」
「何かよくわかんない風来坊よ。ゴットパレスとサライ村を行ったり来たりしては、ああしろ、こう
しろってうるさい奴!ゴットフリーのスパイだって、噂もあるくらい。でも……親代わりのゴメスさ んも家もなくした私にここを用意してくれたのもBWなんだけどね」
「親がわりも家もなくした?」
ジャンはとまどうようにココを見る。すると、
「もう、夜よ。サライ村一の料理上手、フレアおばさんが夕飯を用意してくれてるって。早く行か
ないと、なくなっちゃうかもよ」
と、ココはおどけるように笑ってみせた。
首都ゴットパレス、島主リリア・フェルトの館。
BWに助けられたゴットフリーは、館の自室で目をさました。不思議と傷はほとんどなく、ジャ
ンとあれほどの激しい戦いをした後とは思えない程だった。
目覚めて間もなく、母親でもある島主リリアからの呼び出しにゴットフリーはその部屋へ向か
った。だが……
「リリア、これは……?」
ゴットフリーは、部屋の扉をあけ、思わず眉をしかめた。その部屋は完璧な白さで保たれてい
た。鷹の地模様が入った白壁に大理石の床。白いテーブル、白い椅子。その椅子にリリアは ぽつんと座ってゴットフリーを不安げに見据えていた。
高齢のため小さく縮んでしまった背をまるめ、皺だらけの顔に落ち込んだ瞳は恐怖の色を帯
びている。
リリアは汚れを嫌った。汚れは邪気を呼び起こす。深くそう思いこんでいた。それゆえ、彼女
の部屋は使用人により常に白く磨かれていた。それは責務なのだ……それを怠る者をリリア は容赦なく処分した。
だが、その完璧に白いはずの大理石の床は……血で赤く染まっていた。羽根がちらばり、そ
の中央には無残に引き裂かれたカナリアの骸が横たわっていた。
「リリア……」
ゴットフリーは、リリアの傍に歩み寄るとそっとその手を開かせ、握りしめた小刀を取り上げ
た。リリアの手も血で染まっていた。
「海の鬼灯(うみのほおずき)が……部屋にいたんじゃ……怪しい声で鳴きながら、ほら、あそ
こに赤い、赤い……私が始末してやったから、もう大丈夫……」
カナリヤを海の鬼灯だと、思いこんだのか……カナリヤが赤い?……あの赤はリリアが切裂
いた血の色だ……
ゴットフリーは、寂しげな笑いを浮かべる。ゴットフリーはリリアの肩に手をおくと優しく言っ
た。
「そう……あなたには私がついている。だから、何も心配入りません。あれは、すぐに片付けさ
せましょう。誰か呼んできますから、あなたはそこにいて……」
ゴットフリーはリリアから目をそらすと、踵をかえして部屋から出てゆこうとした。
だが、しわがれた声がゴットフリーの足を止めた。
「私のカナリヤは?カナリヤは何処じゃ?」
ゴットフリーは、感情のない顔でリリアを見つめた。
「お前がくれた黄色いカナリヤ!あの歌声は美しい。あれを聞かぬと一日が始まらない……
で、カナリアは何処へいった?」
もう、彼女には床にちらばった血もカナリアの骸も見えてはいないようだった。
「前のカナリアは飛び立って何処かへいってしまったようだ。でも、大丈夫です。また、私が別
のを持ってきてあげますよ」
ゴットフリーは、薄く笑うと白い部屋から出ていった。
得体の知れない紅い灯、海の鬼灯が現われるまでは、リリアは少し頑固で厳しいだけの島主
だった。学問にも長け、住民たちの尊敬もそれなりに集めていた。そして、早くに夫を亡くしたリ リアは、ゴットフリーを溺愛した。
数日前、BWとかわした言葉……ゴットフリーの脳裏には、それがフラッシュバックのように浮
かびあがってくる。
「もっと、住民に情報を与えるべきなんだ。短期間のうちにガルフ島の侵食と沈下は不自然な
程、進んでしまっている」
「不自然というと、やはりあれのせいですか?」
「“海の鬼灯”か?あの得体の知れない紅い灯がガルフ島を侵す……か?巷ではそのような噂
もあるが、まるで根拠のない話だ」
「しかし、リリア様は“海の鬼灯”をひどく恐れている。あの灯に触れたくないが為にガルフ島は
今や、鎖国状態ではないですか」
BWは、棘をたっぷりと含ませた声音で言う。だが、ゴットフリーと目線を合わせた瞬間、強張
った表情で口を閉ざした。ゴットフリーの灰色の瞳が冷たくBWを睨めつけている。
「BW、調子にのるのもいい加減しろよ。島主を愚弄する奴はたとえ、お前でも許さない」
ひやりとした感触にBWは、一瞬、びくりと体をこわばらせた。
“海の鬼灯”は確かにリリアの精神を侵している。
だが、その時、ゴットフリーは敢えてその事には触れずに言った。
「ガルフ全体が動きださねば、この土地を維持するのは難しい。その指導者にラガーは最適な
人材だとは思わないか?奴ほど今のガルフ島の状態を把握している者は他にはいない。」
BWは、軽く眉をしかめる。
「しかし、ラガーはサライの人間ですよ。まずはリリア様がお許しにならない。それに、信用とい
う点ではどうですかね。……おまけに、あの派手な服装では人々がついてくるかどうかも疑わし い」
BWの言葉にゴットフリーは微妙な笑いをもらして言った。
「服装といえば……お前」
「何です?」
「裸同然の姿で、海岸を歩いていると報告を受けているぞ」
「人聞きの悪い……単に泳いでいただけですよ」
「別に悪いとは言わないが、お前、一日に何度海に行けば気がすむんだ?」
BWはつんとすまして答えた。
「さあ、数えた事はないですからね。まあ、いいじゃないですか」
少し険のこもった目つきでゴットフリーは、BWを見る。
「あまり目立つ事はするな。ラガーといいお前といい、使えそうな奴は皆、得体が知れない所が
ある」
特にBW……こいつとて、信用という点では、かなり疑わしい……
その心の内を感じとったかのように、BWは笑う。
「話を元にもどしましょうよ。ガルフ島の指導者ですか?それはラガーというより、正にゴットフリ
ー、あなたの役目ではないのですか?指導力の面では、あなたに匹敵する者はこのガルフ島 にはいない」
ほんの一瞬、沈黙があった。
「あなたは、この島を出たいのではないですか?」
「何を馬鹿な事を……」
ゴットフリーは上目使いにBWを見やる。
「レインボーヘブンでしょう?……あなたは、ガルフの第二の故郷を彼の地に求めている。あ
なたは、レインボーヘブンを探したいのだ。だが、そのためにはガルフ島を任せられる人材が 必要だ。それがよりによって、あのラガーとはね」
「よくもそこまで口がまわるものだな。俺は一言だってそんな事は言ってはいないぞ。それにレ
インボーヘブンは伝説の島だ」
「そう、以外でしたね。あなたが伝説の島に興味を示すなんて。だが、あなたは確信をお持ちの
ようだ。その根拠はどこからきたのでしょう?あの本ですか?」
“アイアリス”……館の書庫に眠っていた“レインボーヘブンの伝説”
「あなたが行くというなら、私は喜んでお供しますよ」
射るようなゴットフリーの眼差しを、BWは敢えて避けようとはしなかった。
レインボーヘブン……だが、俺はまだ見つけてはいない。レインボーヘブンへの真の道標
を。
白い回廊を歩きながら、ゴットフリーは深く息を吐く。その姿を見つけ、使用人の男がそそくさと
駆け寄ってくる。
「ミカゲ、リリアの部屋を片付けろ。それと馬を用意しろ」
「こんな時間にお出かけですか?」
また、リリア様が何かやったのか?隊長が突然、出かける時は決まってそうだ……
ミカゲと呼ばれた男は、落ち着かない素振りでゴットフリーを見やった。
「余計な口を聞くな!お前はさっさとやるべき事をやれ」
ゴットフリーに怒鳴られて、ミカゲは慌ててリリアの部屋に向かった。通り過ぎざま、ゴットフリ
ーは言う。
「リリアを刺激するなよ……お前から決して声はかけるな。気をつけて行って来い……」
泣きそうな表情をして、ミカゲはわかりましたと、小さくつぶやく。その後姿をゴットフリーは、
無表情に見送る。
回廊の天上まで届きそうなガラス窓の向こうには、夜の帳が広がっている。
あの狂気を止める術はもうないのだろうか……
ゴットフリーの灰色の瞳が夜の色に変わってゆく。暗く落ち込んだその色は彼の心の奥底を
映し出しているようだった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |