1.

「伝説の書などというものは、年月とともに風化してゆくものなのです。ましてや、五百年という
膨大な時間が過ぎたとなれば、その真実を信じる者がいることでさえ信じがたい」

 夏の終り、大海の孤島ガルフ島の最東端、サライ村。ガルフ島警護隊の宿営地がここにあっ
た。ガルフ島警護隊は、島主リリア・フェルトにより集められた島きっての猛者たちの集団だ。

 「ゴットフリー?」
さらさらと流れるような美声にもかかわらず、この声には有無をいわさぬ力があった。
「眠っているのですか?」
ひょろりと長身の男が執務室の窓辺に立っていた。その声にたがわぬ端正な顔立ちでくすりと
笑う。
風変わりな緑の髪、ほとんど色のない切れ長の瞳。顔色はひどく青白いが不思議と不健康さ
は感じさせない。
BW(ブルーウォーター)。この男、一応はガルフ島警護隊、警護隊長の参謀ということで名が
通っている。

さすがの警護隊長もガルフ島のお守りに疲れ果ててしまいましたか。

BWは開きかけた古い本をそっと閉じると、少しだけ表情を曇らせた。

 ……それとも、何か夢でも見ているのですか。


                             *     *     *

サライ村。
―ぬかるんだその土地は、蓮の花の香りがした―

 「見つけた!レインボーヘブンの残り香」
 少年は、にこと人なつこい笑顔を浮かべた。小麦色の髪。快活なとび色の瞳。
胸には透き通るような蒼い石のペンダント。
 少年の名はジャン・アスラン。
 どくんどくんと高鳴る鼓動。抑えきれず、ジャンは叫んだ。
 “意味もない言葉を。人の声とは思えぬ咆哮を!”
 
 それは、大地が軋むかと思うほどの荘厳な響き……。

  *   *   *


  「ゴットフリー」
 呼ばれた男は、不機嫌な表情で灰色の瞳を窓辺に向けた。眼差しは氷の刃のように鋭い。
 ゴットフリー・フェルト。ガルフ島の島主、リリア・フェルトの一人息子であり、また二十歳そこ
そこの年齢にもかかわらず、島全体を統治するガルフ島警護隊の隊長でもある。
「五月蝿い声で目が覚めた」
「それは悪い事をしましたね。起こさない方が良かったですか。」
 ゴットフリーの視線の先に、ひょろりと背の高い男が立っていた。緑の髪、切れ長の瞳。先ほ
どから執務室にいた参謀のBWである。

「いや、あの声は足元から響いてきた……」
「地鳴りではないのですか。ここ頻繁に起こる地震のせいですよ。それとも……ガルフ島が海
に沈む夢でも見ましたか?」
 BWの微笑を刺すような一瞥で打ち消したものの、ゴットフリーはいぶかしげに眉をひそめ
た。

 夢?だが、妙に胸騒ぎがしてたまらない。意味のない言葉……あの声は、有無をいわさぬ力
で頭の中に入りこんできた。

 その時、二人のいる警護隊の宿営地に甲高い声が響いてきた。
「やれやれ、また、サライ村のココですか。私にとっては、あの騒ぎの方がよほど、五月蝿い」
 BWは半ばあきれ顔で、開いた窓から外をうかがった。
「このままでは、宿営地の備品は全部持ってゆかれてしまいますよ。それに警護隊一の精鋭、
タルクがあの娘に振り回されている姿はなんとも情けない」
 だが、ゴットフリーは瞳にかかる漆黒の髪をかきわけもせず、深く考え込んでいる。毎度の事
ながら、BWにとっては無視をきめこまれるのはいい気分ではなかった。
「ゴットフリー、このままではガルフ島警護隊の沽券にかかわりますよ」
「なら、殺してしまえ」
「……」
 二の句がつげなかった。苛立った様子でドアに向かって歩き出す警護隊長を、BWは目で追
いかける。全身黒ずくめの隊服に光る隊長の印、鷹形の金バッジだけがやけに眩しく輝いてみ
えた。
「タルクにあの娘を殺せと命じればいいのだろう」
 壁からとったつばの長い帽子を目深にかぶると、ゴットフリーは闇にとけこんだように漆黒に
なり、影と一つになって部屋を出て行った。その後姿を目で追いながらBWは、複雑な表情で
笑う。 

 残酷無比な警護隊長……あれではそう呼ばれても仕方ない。しかし……大地の声が聞こえ
るとはね。困ったものだな。“アイアリス”の伝説がこんな荒廃の島で目覚めても……私にはあ
の力に対抗する術が、まだ見つからないというのに。



 「タルクの馬鹿っ!お前、しつこすぎるよっ!」
  はあっ!
 息をはずませて、ココは真正面に駆けて来た“安全地帯”の背中へまわりこんだ。
「タルクっ、小娘相手に熱くなんなって言ってんだろっ!」
「ラガー、お前はサライ村のリーダーだろう?その娘のしつけは何だ?!小娘だって、盗みは
盗みだっ!さっさと、そいつをこっちへ渡せ!」
 爆風が舞いあがった。それと共に2mほどもありそうな長剣が、ココの真横を通り過ぎてゆ
く。
 マズい、マズすぎるよ。この状況!
 タルク……警護隊一の長剣使い。大入道のような体はその長剣の長さを軽く越えている。
「ラガー、ごめんっ。もっと、うまくやれるはずだったのに……」
 左の耳にピアス。それと同じ側の頬の傷、それを微妙にゆがめながら、ラガーは苦い笑いを
浮かべる。“安全地帯”にされるのは、もうご免だ。そう思いながらも、ココをつきはなせない自
分がはがゆかった。
「警護隊の宿営地に入りこむのはご法度だ……それに盗みはやめろとあれほど言ったのに…
…」

 ココは、一見すると、小リスのように可愛い娘だ。年は十四。だが、毎日の食い扶持は自分
で稼いでいる。親がいないのだ。だが、それは窃盗だったり、掏りだったり、時には詐欺めいた
ことだってやる。サライ村に住んでいる手前、リーダーのラガーはいつもココの尻ぬぐいをする
羽目になる。けれども、今回ばかりは相手が悪かった。

 宿営地で騒動?駆けつけてみれば、原因はやはりこの娘か……。
ふぅっと、深いため息をつくと、ラガーはだらしなくはだけた胸元からパイプ管を一本、取り出し
た。そして、着ている派手なシャツでごしごしとしごきだした。
 小声でラガーがココにつぶやく。
“俺が、あいつの気をそらしてやるから、お前は逃げろ”

 「なんだ?そんなパイプで俺に勝とうっていうのか?」
 いかにも切れ者そうな顔で笑うと、ラガーはパイプ管をゆっくりと振り上げた。
「パイプ管はたっぷり帯電。今日は、湿度も低い……タルク、知ってるか?自然放電で人がチ
クっと感じる電気は3Kボルト……」
 すると、周りの空気が微妙にゆがみだした。 
「でもな、雷の電圧は1億ボルト。条件をそろえてやれば、パイプだって立派な武器になるんだ
ぜ!」
 バチッ!青い炎が、空気を切裂いた。その瞬間、
「痛っ、たたっ!!」
 タルクは腕に走った衝撃に、堪らず長剣を放り出す。
「今だっ、行けっ!」
 ココは一気に走り出した。逃げ足だったら、誰にも負けないっ。
 が……

 警護隊の輪が、潮がひくようにすっと二つに割れたのだ。その中心をゆっくりと黒い影が歩い
てくる。
 黒い影……ううん、あれは……
 異様に空気が密になり、目に見えない壁が影の周りをとりかこんでいる。逃れたくても逃れら
れない……いや、逃しはしないと。
 黒い男……
 ココはぴたりと足をとめた。

 「タルク、お前はいったい何をやっている」
 ツバの長い帽子を目深にかぶり、長い上着をひきずるように羽織っている。帽子も黒なら上
着も黒。夏の終わりにもかかわらず……だ。まるで闇にまぎれてしまったような、奇妙な感覚。

「やばい……警護隊長のゴットフリーだ……」

 残酷無比なガルフ島警護隊長。そして、島主リリア・フェルトの一人息子……
 ゴットフリーは、まだ、二十歳になるかならないかの若さではあったが、圧倒的に他の男達と
は違っていた。鋭敏な判断力、並外れた剣の腕。だが、長身ではあったが、筋骨隆々というわ
けでもない。容姿の面だけでいえば、なかなかの美丈夫なのだが……
 しかし、その存在自体に島の人々は畏れを抱いていた。髪は鋼のように黒かった。だが、こ
の髪は陽光にさらされると色を変え、神々しくさえあった。そして、何よりも人々を凍りつかせた
のは、その灰色の瞳。
 底のない沼のように、見つめられた者の心を引きずり込み、その奥底までを見透しまう…
…。

 ゴットフリーは、ココには目もくれない。そして、ゆっくりとした足取りでタルクとラガーに歩み寄
った。
「隊長!」
 明らかに年下の隊長に向かってタルクは、直立不動の姿勢で敬礼する。
「随分、おもしろいマネをしてくれるじゃないか」
 ゴットフリーの灰色の瞳が向けられた時、ラガーはびくりと身を震わせた。
「あ、あれはただの静電気で……ぜんぜん、害はなくて……」
 声が震えていた。そして、ラガーはじわじわと後ずさりを始めながら、ゴットフリーの視線から
逃れる術を探し出した。タルクを相手にしていた時の不敵な態度は見る影もない。

 こんなラガーを見るのは初めて……

 ラガーはサライ村の若きリーダーで、ガルフ島一の地質学者。ココにとってラガーは、この世
で一番頼りになる存在ではなかったのか。
  
 「ラガー、お前は埋立工事の責任者だろう。なぜ、こんな場所で油を売ってる?」
 薄く笑いながら、ゴットフリーは足元に転がっているタルクの長剣を手にとった。
「タルクの長剣がこうたやすく、弾きとばされるとはな」
 あざけるように言うと、長剣の切先をラガーに向けて振りおろす!
 その瞬間、ラガーの頬からつうっと赤い血がこぼれだした。傷があるちょうど下あたりだ。ゴッ
トフリーは、口元で軽く舌をうった。
「その頬の傷。もう一度引き裂いてやろうと思ったが……この長剣ではさすがに難しいな」
「ま、待ってくれ!仕事にはすぐに戻る。だから、こ、殺さないでくれ」
「殺す……殺すものか。お前に今、死なれては、後々面倒だ。だが……」
ゴットフリーはタルクの長剣を、ゆっくりと空にもちあげた。
「島主リリアの命令を、ないがしろにする奴を許すわけにはゆかないっ!」

  殺しはしない?
 これだけ殺気をばらまいといて……。
「ラガー!!」
 ココは万事休すと目を閉じた。

 サライ村の住民は、何年も前にガルフ島へ漂流してきた難民だ。ただ、ガルフ島の近海では
海賊等が横行し、難民になる人々が後を絶たない状態だった。ガルフ島は、警護隊を中心に
力をもって難民たちを受け入れを拒否し、治安を守っていたのだ。
だが、ガルフ島の中心地、ゴッドパレスの南には活火山である火の玉山が噴煙をあげていた。
長年の火山活動は、ガルフ島の地盤を徐々に海面に押し下げていった。それ故、島主リリア
は、仕方なくサライの住民を島に受け入れたのだ。水没が進む島の埋め立て作業には、その
優秀な技術がどうしても必要だった。
 だが、島主リリアは、彼らを半ば奴隷のように扱い、居住区も島で一番水没の進んだサライ
村に限定した。そして、サライの男たちは強制的にゴットパレスに連れてこられ、重労働を担わ
されていたのだった。

 ラガー、死んだ。もう、絶対、死んだ!
 ココは、おずおずと目を開けてみる。ところが……

 「ここの住民を傷つけるなっ!!」
 足元から声が聞こえた。それから、砂塵がもうもうと舞いあがった。遮られた視線の隙間から
何かが眩しく漏れ出している。
 
  大地が震え
  淡光色の影が、まばたきする間に光になって
  人の形をとりはじめ……

  ―― 小麦色の髪、快活そうなとび色の瞳、胸には透き通るような蒼い石のペンダント ―

  少年?……
 
 な、何?この子?どこから沸いて出たの?
 ココは、大きな瞳をさらに丸くして、目の前の少年を見つめた。
その視線に気付くと、少年は一瞬、まぶしげに目を細めた。晩夏の陽の光にココの紅い髪が
あざやかにきらめいている。
「やあ」
 少年はにこと人なつこい笑顔を浮かべた。










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