第10日目(4月29日 月曜日) 和田峠〜下諏訪宿〜塩尻宿


★東餅屋跡説明板 / 和田峠遺跡の集中する場所(キャンプ場付近)

今日は和田峠を越え、下諏訪を経て塩尻まで歩く予定である。ロッジを7:30頃出発した。すぐそばに国道142号線が走っているが、有料の新和田トンネルでバイパスされているためこの峠道を通る車は少ない。
国道を少し歩くと「東餅屋跡」の説明板が立っている。標高1531mの和田峠は急坂が多く、降雪の際はもとより雨や霧の日にも旅人は難渋した。この東餅屋には5軒の茶屋があり、名物の餅を売っていた。また、幕府から扶持米を与えられ、難渋する旅人の救助にもあたっていたという。現在、この場所にはドライブインの廃屋が建っているが、茶屋の跡は石垣が残るのみである。
また、近くに「和田峠遺跡群」の説明板も立っている。旧石器時代の石器の材料とされた黒曜石は、和田峠周辺に多く産出した。平成2年〜4年の分布調査により、黒曜石の露頭は10ヶ所ほど確認された。遺跡は、キャンプ場から湿原の周辺にたくさん集中しているという。出土した石器は、昨日立寄った石器資料館に保管展示されている。


★和田古峠へ向かう中山道旧道 / ビーナスラインと交差する旧道

東餅屋跡のすこし先で中山道旧道は国道から分かれ、山道に入ってゆく。林の中の細い道だが、要所には「中山道」の矢印標識があるので迷うことはない。途中で4回ほどビーナスラインと交差するので、特に霧の時などは車に注意が必要である。
東餅屋跡から和田古峠頂上までは約30分くらいである。


★中山道和田古峠頂上 / 頂上から諏訪盆地、木曾御嶽山方面を望む

峠道は頂上手前で広くなり、空も大きく開けて明るくなる。頂上には馬頭観世音碑などの古い遺跡、中山道の道標、古峠の説明板などが建っている。左手広場には御嶽山遥拝所がある。4月に歩いたときには御嶽山が遠くにはっきりと望めたのだが、8月に再訪したときには姿を現してくれなかった。眼下には諏訪の市街地や中央高速道の長い高架陸橋などが望めた。



★万治の石仏への道 / 万治の石仏

国道はやがて下諏訪市街と諏訪湖を見下ろせる場所に出る。この坂を下れば諏訪大社下社春宮である。
春宮を見学する前に「万治の石仏」に立ち寄る。春宮入口の前を通り過ぎ少し行くと川があり、橋を渡ると「万治の石仏 川沿い170m」の案内板が立っている。
万治の石仏は近くで見ると意外に大きく、一種独特の雰囲気をもっている。近くに説明板が立っている。この石仏は万治3年(1660年)に祀られた。伝説によると、諏訪大社春宮に石の大鳥居を造るとき、この石を材料にしようとノミを入れたところ、傷口から血が流れ出したので石工達は恐れをなし仕事をやめた(ノミの跡は現在も残っている)。その後、石工達はこの石に阿弥陀如来を祀って記念にした、という。


★諏訪大社下社幣拝殿(春宮) / 一の御柱(春宮) / 幣拝殿前の社殿(秋宮)











諏訪大社はわが国最古の神社のひとつであり、上社(本宮、前宮)、下社(春宮、秋宮)の四社がある。下諏訪には下社春宮と秋宮がある。両宮の建物の配置、造りは全く同じである。主殿として幣拝殿がある。これは御幣を奉ずる幣殿と拝殿が一体となったもので、二重楼門造りと呼ばれる。
御柱(おんばしら)は、寅と申年の7年目ごとに御宝殿の造営とともに建替えられる御神木で、社殿の四隅に建てられる。柱は直径1m、長さ17mにも及ぶもので、伐採された大木は数千人の氏子の奉仕により曳行されるという。なお、次回の御柱祭は平成16年だそうである。
幣拝殿の前には大きな注連縄を飾った社殿、その前には一対の狛犬が建っている。これらの造りは春宮、秋宮とも全く同じである。


★下諏訪宿本陣岩波家 

春宮から秋宮までは約1Kmほどの距離がある。この間は古い中山道が残されている。昔ながらの道幅の両側には、古い造りの温泉旅館や商店などが並んでいる。下諏訪宿は中山道で唯一温泉のある宿であった。
秋宮の少し手前に、下諏訪宿の本陣、問屋を勤めた岩波家の建物がある。現在残されているのは、門、本陣主屋の一部、庭園であり、これらは一般公開されている。(観覧料 400円 9:00〜18:00))
現存する奥座敷から見る庭園は、秋宮の森を借景とし、京風に洗練されたものである。また、建物の柱を少なく、細くするなど、座敷からの景観を損なわないようにする配慮もされている。ここは明治天皇御小休処、和宮宿泊処、諸大名宿泊処として利用され、大名の関札なども玄関に飾られている。


★甲州道中・中山道合流地点 / 「甲州道中・中山道合流地点」標識 / 下諏訪町歴史民俗資料館












本陣岩波家の少し先で中山道は直角に右に曲がる。曲がらないでまっすぐ行くと甲州道中である(写真は甲州道中側から)。合流地点脇の駐車場内に「甲州道中・中山道合流地点」の標識が建っている。この付近に建っている桔梗屋、みなとや、まるやなどの旅館は建物は新しくなっているが昔からの旅籠屋である。合流点を右に曲がった中山道筋にも古い建物が残っている。この一画に旧民家を利用した下諏訪町歴史民俗資料館がある。建物は、江戸時代の民家の特色を残している。
下諏訪宿は、@諏訪大社下社があった、A甲州道中との分岐点であった、B難所の和田峠と塩尻峠の中間にあった、C温泉が出た、などの理由により商人や旅人達で非常に賑わった。現在も、近くにJR中央本線下諏訪駅があり、一般の観光客でたいそう賑やかである。


★旧茶屋本陣今井家 / 中山道道標と説明板

右に曲がった中山道は、200mくらいで国道20号線に合流する。この後、中山道旧道は国道20号線とほぼ並行しながら進む。市街地の中の普通の道で、見るべきものはあまりない。このような道が4Kmくらい続くが、道は次第に旧道らしくなり、やがて旧茶屋本陣今井家の建物が見えてくる。立派な門の脇には「明治天皇今井御小休所」の大きな碑も建っている。
少し先には「中山道」の道標と付近のコース案内板が立っていた。
これから先の道は、中央道岡谷インターチェンジのため付け替えられ、塩尻峠への入口が少々分かりずらい。道脇に「石船観音」の標識が見えてくれば正解である。


★石船観音より岡谷IC方面を望む / 塩尻峠頂上 / 峠の頂上より岡谷、諏訪湖を望む












石船観音からは岡谷インターチェンジ、岡谷市街、諏訪湖が望める。ここから先、塩尻峠の頂上までまっすぐなアスファルトの急坂が約1200mくらい続く。あえぎながら登ってゆく脇を時折、地元の軽トラックが通り過ぎてゆく。途中、工事用の長い塀が続くなんとも殺風景な道である。
塩尻峠頂上到着15:00頃。峠の頂上には何やら古い碑なども建っている。その奥は開けた公園になっていて、そこに展望台が設けられている。この展望台からの眺望はすばらしい。今歩いてきた峠道の先に、岡谷、諏訪市街、諏訪湖さらには霧が峰、八ヶ岳連峰まで見渡せる。富士山も見えるはずだが、残念ながらこの日は見えなかった。この展望台は、頂上の少し奥にあるので見落としやすいが、絶対のおすすめポイントである。


★小野家住宅(国の重文) / 塩尻宿本陣跡 

塩尻峠からの下りは、これまでの上りほど急ではなく、のんびりと歩ける。農村風景の中をだらだらと下り、やがて国道20号線と合流するがすぐに分かれる。やがて国道を地下道でくぐり、長野自動車道を渡り越すと柿沢集落に入ってゆく。柿沢集落には、すずめおどしのつけられた本棟造りの旧家が多く残されている。
この後、道なりに進むと国道153号線に合流し、この辺りから塩尻宿に入る。塩尻宿は文政と明治の二度の大火で焼き尽くされて、宿場中央には小野家住宅以外はこれといった建物は残されていない。小野家住宅二棟は国道沿いに残されている。現在、国の重要文化財に指定されている。居住しながらの指定なので、公開はされていない。少し先に本陣跡の碑と案内板、さらにその少し先に脇本陣跡の碑が建てられている。


★堀内家住宅

脇本陣跡碑の少し先で、中山道旧道は右に分かれてゆく。この旧道沿いに堀内家住宅がある。ここには説明板が立っている。堀内家は江戸時代、旧堀ノ内村の名主を勤めた豪農である。建物は、建築手法から18世紀後半の建築とみられる。堀内家住宅はいわゆる「本棟造り」の中で大型上質の家であり、この系統民家の一頂点を示すものとして価値が高い。現在、国の重要文化財に指定されている。
この後、中山道はまた国道に合流するが、今日は塩尻駅に向かうため少し先で中山道とは別れる。ここから駅まではまだ1Km以上あるので、相当に早いピッチで歩く。そのおかげで、塩尻駅17:05発のスーパーあずさに何とか間に合った。車中でのビールがうまかった。


歩行距離 約28Km   歩数 47,100歩


 

★和田峠から西餅屋跡を経て下諏訪まで

頂上から西への下り道は、これまでよりも傾斜のきつい登山道である。頂上付近は岩もごろごろしている。これまでの東側の道とはかなり様子が違う。林の中の急な山道を40分くらい下ると「西餅屋跡」の広場につく。西餅屋にはやはり茶屋があった。現在ここには説明板が立っているが建物はなく、石垣などが残っているのみである。
旧道は西餅屋跡のすぐ先で、国道142号線にぶつかる。この国道には新和田トンネルを抜けてきた車が合流しているので、交通量も多く道幅も広い。
西餅屋跡から下りて国道を渡ると、ガードレールが切れて下に向かって細い道が続いている。道標も何もないのだが、これが中山道旧道のようである。この道をしばらくゆくと西餅屋一里塚碑があったので、これは確かに中山道だ。道は少々荒れているが、何とか国道に合流した。この後は国道をせっせと歩く。途中に「浪人塚」の道標があるので、国道をそれて立ち寄った。1864年(元治元年)水戸天狗党の浪士が幕命を受けた高島、松本両藩とここで戦った。このときの戦死者を埋葬したところに碑を建てて祀ったのが浪人塚である。
これから先は一部旧道の残っている部分もあるが無視し、ゆるい下りの国道を一気に下諏訪まで歩く。浪人塚から諏訪大社下社春宮まで約6Kmの道のりである。