第1日目 (2001年1月7日 日曜日)  日本橋〜板橋宿〜蕨宿


★日本橋 / 日本国道路元標(道の脇のレプリカ)

街道歩きの第1日目である。最初にどの街道を歩くか迷ったのだが、まずは中山道を歩くことにした。中山道の起点は東海道と同じ日本橋である。日本橋は日本の道のすべての起点になっており、道の真中には「日本国道路元標」の表示板が埋め込まれている。
橋の周りにはこの他に「日本橋記念碑」、「魚河岸記念碑」、「東京市道路元標」などが建っている。これらの写真をとって、いざ北に向かって出発である。


★三越(本店)界隈 / 昌平橋

日本橋をたってすぐのところに三越本店がある。昔の三井越後屋呉服店である。この先、道の両側にはオフィスビルが立ち並ぶ。道は神田駅脇のガードをくぐりまっすぐ進むが、この先どの道が中山道の旧道なのかはガイドブックを参照しないと分からない。
実は、この日は地図をよく見ないで歩いてしまい、うろうろした挙句に湯島天神に出てしまった。しかもこれを湯島聖堂と勘違いしてしまい、その先を続けた。その後誤りに気が付き、最近この部分だけ歩きなおした。
神田駅脇のガードを越えた後、少し行くと道は二又に分かれるが、これを左手のやや細い道に進む(前回ここで間違えた)。中央線のガードをくぐり、昌平橋を渡って左に曲がり、坂を登ってゆくと湯島聖堂に出る。このあたり、またこれから先しばらくはガイドブックと首っ引きでもわかりにくい。詳細地図がほしいところである。


★湯島聖堂入徳門 / 大成殿

中山道沿いには聖堂の長い塀が続き、小さな裏門がある。ぐるっと回って正門から入ると立派な説明板がある。
儒学に傾倒した将軍綱吉は、1690年(元禄3年)にこの地に湯島聖堂を創建。孔子を祀る「大成殿」や「学舎」を建てた。1797年(寛政9年)幕府は「学舎」の規模を拡大し、孔子の生まれた地名をとって「昌平坂学問所」を開いた。これは明治維新に至るまで70年間官立の大学として江戸時代の文化センタの役割を果たした。現在の建物は昭和10年に鉄筋コンクリートで再建されたものである。ただし、入徳門は1704年に建てられたものがそのまま残っており、貴重な文化財となっている。
大成殿の両脇前には合格祈願の絵馬が、8月という時期はずれにもかかわらず、たくさん掛けられていたのが印象的だった。なお、中山道の聖堂と反対側には神田明神があるので寄っていこう。




★中山道を横切る都電荒川線 / 巣鴨庚申塚

旧道はやがて都電荒川線にぶつかる。荒川線は都内で唯一残っている都電である。道のすぐ脇に「庚申塚」停留所があるので商店街の人の流れはここまで続くのである。
線路の手前右手に庚申塚がある。これは「江戸名所図会」にも載っており、今でもとげぬき地蔵とあわせてお参りする人が絶えない。
この都電の線路を境に人の流れはぱたりととまり、静かな庚申塚商店街となる。


★滝野川銀座商店街 / 近藤勇、土方歳三の墓碑

さらに歩き、明治通りを渡ると北区滝野川である。この中山道旧道は地元では滝野川銀座商店街と称している。巣鴨ほどではないが近くにJR板橋駅もあり、それなりに賑わいのある商店街である。私はこの近くに6年ほど住んでいたので懐かしい道筋であった。
この付近一帯は幕末には刑場があり、新撰組の近藤勇はここで処刑された。JR踏切手前の信号を左に曲がって少し行ったところに近藤勇、土方歳三の墓碑が建てられている。


★板橋駅西口の「旧中山道」標識 / 板橋宿の旧道風景

旧道は埼京線の踏切を渡り、板橋駅西口に出る。ここには「旧中山道」の標識が立っている。この先も商店街が続き、広い国道17号線を横切ると板橋宿に入ってゆく。商店街の入り口には板橋宿と書いたアーチがかかっている。大きなスーパーなどもあり、活気のある商店街である。
板橋宿は品川、新宿、千住と並び江戸四宿のひとつであった。昔は中山道を旅する人の見送り、出迎えなどでかなりの賑わいだったという。飯盛女も多く、宿場が廃止された明治以後、昭和時代まで遊郭として存続したようである。


★地名の元となった「板橋」 / 縁切榎

宿場に入ってすぐの石神井川に地名の元になった「板橋」がかかっている。昔は木製の太鼓橋だったそうである。板橋宿はこの橋を境に京よりを上宿、江戸よりを仲宿、平尾宿と称していた。中心は仲宿で、本陣・脇本陣・問屋などがあった。なお、橋の脇に「日本橋から二里二十五町三十三間(10.642Km)」の距離標識が立っている。
さて、橋の少し先に「縁切榎」というのがある。この木に祈ると男女の縁が切れるという信仰があり、嫁入り行列は決してこの木の下を通らなかったという。皇女和宮の通行の際にはこの木を菰で隠して見えないようにしたといわれている。


★志村一里塚 / 新しい「中山道蕨宿」標識

板橋宿を出ると道は国道17号線と合流する。この国道の脇に「志村一里塚」がある。日本橋から3番目のものである。都内で塚として残っているのは非常に珍しく、国の史跡となっている。
このあと道は交通量の多い国道17号線を歩くことになる。荒川を戸田橋で越えると蕨宿は近い。旧道が国道と分岐する地点に「中山道蕨宿」の新しい標識が立てられている。
JR蕨駅まで歩き今日の旅は終了。


歩行距離  約 21Km    歩数 約 40,100歩


  

★「本郷もかねやすまでは江戸のうち」の兼安ビル / 赤門

湯島聖堂を出てしばらく行った本郷3丁目交差点脇に「本郷もかねやすまでは江戸の内」の江戸川柳で有名な兼安ビルがある。昔ここに兼安という家があり、乳香散という歯磨きを売っていたという。江戸の町並みはこの辺まで続いていたのだろう。
本郷通りをさらに歩くと右手一帯はかつて加賀前田家の上屋敷があり、跡地に明治10年東京大学が設立された。入り口の赤門は11代将軍家斉の二女溶(やす)姫が前田家に嫁いだときに建てたもので、現在国の重要文化財になっている。
旧道は東大農学部の前で左に曲がり、白山通りに入ってゆく。

★巣鴨地蔵通商店街 / 高岩寺

本駒込のあたりで中山道(国道17号線)は広くなり、JR巣鴨駅の少し先で旧道は左に分かれてゆく。この道は巣鴨地蔵通商店街となっており、近くに「巣鴨とげぬき地蔵」こと高岩寺があるので大変な賑わいである。特に今日は正月の初詣客が多く、駅から人の列である。お参りもそこそこに先に進む。お地蔵様を過ぎても商店街は延々と続き、人の流れが絶えない。商店街としてはすごい活気にあふれている。