ーファミリー版ー かねさはの歴史 P 18
参考文献;集英社「図説日本の歴史」
旺文社「図説日本の歴史」
金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
〃「金沢ところどころ・改定版」
和田大雅「武州金沢のむかし話」
杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか
・・・P明治時代T(近代国家への出発)・・・
王政復古により明治天皇の下に新しい政府が生まれることになりましたが、旧幕府はこれに抵抗し戊辰戦 争がおこります。 五稜郭の戦いでようやく内戦が終結し版籍奉還、廃藩置県により新政府は本格的に統一国家をつくり上げ ていきますが、憲法を制定したり議会を開催して近代国家の形を整えるのは明治時代も後半になります。 金沢藩から名を改めた六浦藩も六浦県となり、やがて神奈川県に統合され新政府の組織に組み込まれてい きます。
日 本 で は |
か ね さ は で は |
略 年 表 |
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維新政府の成立 |
<新政府の発足>1867(慶応3)年12月9日王政復古の宣言に よって明治天皇のもとに新しい政治が生ま れることになりました。 新政府の総裁(首相)には有栖川熾仁親王、 議定(大臣)には二人の親王と三人の公家及 び前土佐藩主の山内容堂、前越前藩主の松 平慶永(春獄)らが任ぜられ参与(次官)には 岩倉具視などの公家や薩摩藩の西郷隆盛や 土佐藩の後藤象二郎、長州藩の木戸孝允ら が選ばれました。
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<戊辰戦争と金沢> -六浦藩の活躍- 鳥羽・伏見で戊辰戦争が始まったのは186 8(慶応4)年1月ですが、戦争の勃発を知っ た六浦藩は比較的早い段階から官軍とし て戦います。 藤沢宿から神奈川宿までの 輸送と食料確保に当たったほか横浜や浦 賀の警備に当たり官軍として激動の時代 を過ごしました。 -戦争と金沢の人々- 3月になると新政府軍が続々と横浜に入 ってきますが、それに伴い東海道の各宿場 では兵糧や兵器を運搬する人足や馬が足 りなくなり、金沢の人々も荷物の運搬に動 員されました。 また4月には軍事費に不足 を生じた政府軍が金沢の人々に軍事費の 負担を求めるようになり現在の金沢区と 磯子区の村々に住む人たちから持ち高100 石につき金3両を出すことを命じました。 さらに直接銃を持ち警備することを命ぜ られたり新政府軍の軍艦を修復するのに 使用する材木が富岡村から献納されるな ど金沢の人々は様々な形で負担を強いら れることになりました。 | |||||||
戊辰戦争 |
<五ヶ条の御誓文> 1868(慶応4)年3月14日新政府は五ヶ条の御 誓文と呼ばれる国政改革の基本方針を立て 天皇が京都の御所に大名や公家を集め、神に 誓うという儀式を行ってそれを国民に発表 しました。 <江戸城の明渡し> 官軍の総攻撃の時が迫っていた江戸では3 月13・14の両日薩摩藩邸で行われた勝海舟と 西郷隆盛の話し合いで15日に予定されてい た官軍の江戸城総攻撃は取りやめになり、徳 川方は慶喜の引退と江戸城は明渡し一切の 武器を引き渡すなどの条件を受け入れ4月11 日江戸城は無抵抗で官軍の手に明渡されま した。(関連サイト・江戸無血開城) こうして江戸は新政府の支配下に入ること になりましたが、これに不満な旧幕臣たちは 彰義隊を結成し、上野の山に立てこもり抵 抗したものの大村益次郎の指揮する官軍の 猛攻撃に一日で鎮圧されました。 <奥羽越諸藩の抵抗> 奥羽地方と越後(新潟県)の三十余りの国が 同盟を結び薩長のやり方に反対し新政府に は従いませんでした。 これらに対して7月に入ると官軍が一斉に 攻勢をかけると奥羽越列藩同盟の諸藩も激 しく抵抗しましたが、9月末には中心となっ ていた会津藩が降伏し(関連サイト・白虎隊)長 岡、米沢(山形)、仙台、盛岡(岩手県)、庄内な どの各藩も次々に降伏しました。 <榎本政権> 幕府の海軍を握っていた榎本武揚を中心に 新撰組生き残りの土方歳三らは北海道へ逃 れて箱館の地に着くと榎本を総裁とする独 立政権の樹立を宣言しました。 新政府は1869(明治2)年の3月から遠征軍を 送り、立てこもった五稜郭を攻撃してこれを 破り新政府の全国支配が確立しました。 鳥羽伏見の戦いから五稜郭攻撃までの一連 の戦争は慶応四年が戊辰の年(関連サイト・六 十花甲子表)だったので戊辰戦争といわれてい ます。 | ||||||||
幕藩体制の清算 |
<改元と東京遷都> 1868(慶応4)年7月江戸が東京と改められ、 9月には年号も明治と変わり一世一元の制 (天皇が変わらなければ年号は変えないこ と)がたてられました。 同年10月には明治天皇が東京に行幸し、翌 1869(明治2)年初めには政府もここに移り、 東京が新しい都になりました。 <版籍奉還> 新政府は全国統一を更に強めるために地 方における藩の支配を打破する必要があり ました。 新政府の中心となっている薩摩の大久保 利道、長州の木戸孝允、土佐の板垣退助、肥 前(佐賀県)の大隈重信らは相談して1869年 薩摩、長州、土佐、肥前の四藩が先に立って、 大名が支配している領地(版)と領民(籍)を 天皇に返上しました。 外の藩も次々とこれにならったので全国 の土地と人民は天皇の支配する土地・人民 に改められました。 この結果旧大名の藩主には華族の身分が 与えられ、天皇から知藩事に任命され藩の 治め方も中央の政府から指図されることに なり、統一国家への道を踏み出しました。 | ||||||||
富国強兵への道 |
<廃藩置県> 版籍奉還によって形は中央集権となりまし たがまだ旧藩主が知藩事として残り、実質的 には前と同じ体制が残りまた、庶民の間にも 新政府への不満の声が起こり各地で世直し 一揆がおこりました。 そこで大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが 中心になり西郷隆盛らも加わってまず1871 (明治4)年2月薩摩・長州・土佐の三藩から選 ばれた1万の兵を東京に集めて政府直属の御 親兵として中央の軍事力を固めました。 ついで7月政府は廃藩置県の詔を発して一 挙に藩を廃止し、県を設置してこれまでの知 藩事を罷免して東京に住まわせることにし て新しく政府の官吏を派遣して県知事(のち いったん県令に改称)に任命し、ここに幕藩 体制は解体され全国は名実ともに政府の直 接統治の下に置かれることになりました。 この改革を進めた薩摩・長州・土佐・肥前の 四藩の出身者は政府の実権を握るようにな り藩閥専制といわれる体制が次第に出来て いきます。 <身分制度の改革> 版籍奉還によって藩主と藩士との主従関係 が解消されたので、これを機会に政府は封建 的身分制度を改革して大名・上級公家を華族 下級公家・一般武士は士族、農工商はまとめ て平民とし身分を超えた結婚も出来、どんな 職業に就くこともできるようにしました。 1871(明治4)年には開放令を布告してこれ までのえた・非人の呼び名を廃止して身分・ 職業ともすべて平民と同じにしました。 しかし実際上は結婚・就職・住居などの面で 以前と変わらず西日本ではえた・非人の開放 に反対する農民一揆などもおこり、社会の一 部ではえた・非人であった人たちを「新平民」 と呼んで差をつけようとすること等も行わ れ「四民平等」への道は長く険しいものでし た。 <徴兵制度> 新政府は1873(明治6)年1月徴兵令を発布し て士族でも平民でも20歳になった男子は徴 兵検査を受け合格したものは常備軍として3 年間の訓練を受け、終わってからも4年間は 後備軍という名で待機することが決められ ました。 人々は徴兵をいやがり、これに反対する運 動が各地におこり、はじめのうちは男子の2 割程度しか徴兵できませんでした。 <地租改正> 新政府の財政は農業からの収入が主体でし たが年貢収入も減っており苦しく、1873(明 治6)年7月地租改正条例を制定し農民からの 税収入を確保しようとします。 これにより農民たちの負担は重くなり地租 改正反対を叫んで各地で激しい農民の一揆 がおこりました。 |