ーファミリー版ー かねさはの歴史            P 18

 参考文献;集英社「図説日本の歴史」
旺文社「図説日本の歴史」
金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
〃「金沢ところどころ・改定版」
和田大雅「武州金沢のむかし話」
杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか

・・・P明治時代T(近代国家への出発)・・・


 王政復古により明治天皇の下に新しい政府が生まれることになりましたが、旧幕府はこれに抵抗し戊辰戦
争がおこります。
 五稜郭の戦いでようやく内戦が終結し版籍奉還、廃藩置県により新政府は本格的に統一国家をつくり上げ
ていきますが、憲法を制定したり議会を開催して近代国家の形を整えるのは明治時代も後半になります。

 金沢藩から名を改めた六浦藩も六浦県となり、やがて神奈川県に統合され新政府の組織に組み込まれてい
きます。
 
 
日 本  で は

か ね さ は  で は

略 年 表


維新政府の成立

<新政府の発足>
 1867(慶応3)年12月9日王政復古の宣言に
よって明治天皇のもとに新しい政治が生ま
れることになりました。 
 新政府の総裁(首相)には有栖川熾仁親王、
議定(大臣)には二人の親王と三人の公家及
び前土佐藩主の山内容堂、前越前藩主の松
平慶永(春獄)らが任ぜられ参与(次官)には
岩倉具視などの公家や薩摩藩の西郷隆盛や
土佐藩の後藤象二郎、長州藩の木戸孝允ら
が選ばれました。
   
  明治維新
  1867(慶応3)年10月15日の将軍慶喜による「大政
 奉還」から同年12月9日明治天皇の王政復古宣言、
 江戸幕府倒壊を経て明治新政府成立にいたる一
 連の近代統一国家形成への政治改革過程をいい
 ます。
  広くには1830年代の天保期から明治憲法成立の
 1889(明治22)年乃至1890年迄をいい、又もっとも
 狭くには元治、慶応(1864〜67)年の討幕運動から
 1871(明治4)年の廃藩置県前後までを指します。
  なお1877(明治10)年の西南戦争を維新の終期と
 する見方も有力で維新の時期区分については諸
 説があるようです。
<将軍慶喜の追放> 政権を返上した徳川慶喜は同日京都御所 において行われた小御所会議で薩摩の西郷 隆盛や大久保利通と公家の岩倉具視らの倒 幕派の意見により内大臣を辞めさせられ、 将軍家の領地はすべて取り上げられること になりました。 慶喜は京都から大坂城に引き上げ、宮内の 警護役を薩摩藩などに引き継いだ会津藩 (福島県)や桑名藩(三重県)の兵も慶喜に従 いました。 <鳥羽・伏見の戦い> 1868(慶応4・明治1)年1月大坂の幕府軍は会 津藩、桑名藩の兵や新撰組も加わり京都へ進 軍し京都の南の入り口にあたる鳥羽と伏見 で戦いが始まりましたが、薩長を主体とする 兵に敗れ慶喜は江戸へ逃げ帰りました。 薩長軍が京都から攻め込んで大坂を占領す ると西日本の殆どの大名は徳川方から離れ 朝廷に従うようになりました。 この時から京都の朝廷についた軍勢は官軍 と呼ばれ、これに逆らうものは朝敵の名がつ けられるようになりました。 <東へ進む官軍> 官軍は徳川方の本拠地江戸を攻めようと2 月から東海道・東山道・北陸道の三つに分か れ進軍、途中激しい農民一揆などに悩まされ ながらも3月初めには江戸を取り巻くとこ ろまで迫りました。赤報隊事件が起きたのも この時のことです。

<戊辰戦争と金沢>
-六浦藩の活躍-
 鳥羽・伏見で戊辰戦争が始まったのは186
8(慶応4)年1月ですが、戦争の勃発を知っ
た六浦藩は比較的早い段階から官軍とし
て戦います。 藤沢宿から神奈川宿までの
輸送と食料確保に当たったほか横浜や浦
賀の警備に当たり官軍として激動の時代
を過ごしました。
-戦争と金沢の人々-
 3月になると新政府軍が続々と横浜に入
ってきますが、それに伴い東海道の各宿場
では兵糧や兵器を運搬する人足や馬が足
りなくなり、金沢の人々も荷物の運搬に動
員されました。 また4月には軍事費に不足
を生じた政府軍が金沢の人々に軍事費の
負担を求めるようになり現在の金沢区と
磯子区の村々に住む人たちから持ち高100
石につき金3両を出すことを命じました。
 さらに直接銃を持ち警備することを命ぜ
られたり新政府軍の軍艦を修復するのに
使用する材木が富岡村から献納されるな
ど金沢の人々は様々な形で負担を強いら
れることになりました。

新政府の命令を記した「御用状」 (鹿島市太郎氏蔵・横浜開港資料館保管) 1688(慶応4)年3月のもの、金沢区の人々に兵糧 などの運搬を命じています。

<廃藩置県と米倉氏> 1869(明治2)年に実施された版籍奉還に より米倉氏領の宿、赤井、寺前、平分、寺分、 社家分の六か村は六浦藩となり米倉昌言 が六浦藩知事に任命されました。 1871(明治4)年7月廃藩置県により六浦 県と変わり県知事は米倉昌言でしたが、 11月には六浦県は陸奥宗光が知事となっ た神奈川県に併合され米倉昌言は華族 (子爵)の身分を与えられました。

六浦藩知事辞令(米倉家文書)

<村々のうつりかわり> 現在の金沢区のあたりは江戸時代までは 谷津村、寺前村、州崎村、町屋村を概して金 沢といい、社家分村、平分村、寺前村を六浦 郷または六浦荘といいました。 また宿村、赤井村、坂本村の三村を釜利谷 郷といっていました。 1872(明治5)年平分、寺分、社家分の三村 は合併して三分村となります。 1873年神奈川県は大規模な行政区画の 編成を行い、全県を20区に区分して各区 の下に数ケ村を合併した番組を設け区に は区会所、区長・副区長を番組には番組会 所、戸長・副戸長を置きましたが、翌年区 は大区、番組は小区に改められました。 (関連サイト・金沢区域行政の変遷> ・第二大区七小区・・・富岡村、柴村、寺前村、 谷津村、町屋村、州崎村、野島浦、泥亀新田 ・第二大区八小区・・・三分村、赤井村、坂本村、 宿村

第二大区は横浜の関内付近を除いた久良 岐地方の各村(保土ヶ谷村付近を含む)で 構成され、大区会所は関村(現港南区)に置 かれ七小区会所は町屋村、八小区会所は三 分村に置かれました。 1875(明治8)年6月宿、赤井、坂本村は合併 して釜利谷村の旧称に戻ります。 しかし各村は歴史や地理などの背景があ り日常生活の上でのつながりから新区域 としてのまとまりは良くありませんでし た。 このため1878(明治11)年11月大区小 区制は廃止されて旧村に戻し町村と県の 間に郡を置き金沢の村々は久良岐郡とな り久良岐郡役所は現在の港南区笹下に置 かれました。

<村人たちのくらし> 明治のはじめ土地に自由な作付けを認め られ、また土地の売買禁止がとかれると村 の人達は自由に各種の商売を始めるよう になり1877(明治10)年前後には七小区に は質屋が5軒、鍛冶屋が3軒、古鉄買2軒など がありました。 三分村(六浦)は幕末から引き続いて薪と 塩を特産物として東京や横浜方面に出荷 し1876年には薪3万9千束、塩450石を産出 していました。内川湾にはこれらを結ぶ船 が年間100艘ほど出入りし、商家も50軒は どあったといわれます。 町屋村は幕末に三浦半島方面への人馬継 立(人夫や馬の乗り換え)地として賑わい 集落の中心地となっており明治初年には 宿屋が三軒、そば屋、すし屋のほか銭湯、石 炭油屋などもあり1881(明治14)年には郵 便局も開かれていました。 1881(明治14)年7月の町屋村々勢(松本ナ ミ家文書)には当時の町屋の様子を次の様 に伝えています。 「乙艫海岸は遠浅でせまく船を停泊するにはき わめて不便で、飲み水は潮気を含んで良くない。 人情は厚く人々は仕事に励むが智は少ない」 江戸時代から金沢八景としてよく知られ ていたこの区域は明治に入っても、なを観 光地として訪れるものが多く、明治10年代 には11軒の宿屋がありましたが州崎と野 島には各3軒あってここが房総半島方面か ら大山への参詣ルートとして船着場とな っていました。三分村には有名な千代本、 東屋などがあって八景への遊覧や避暑に 利用されていました。

現在も盛業を続ける千代本

<殖産興業と金沢> 明治政府は殖産興業に力を入れましたが 金沢の地にもいくつかの企業や組合が作 られました。 海岸に臨み江戸時代から薪や塩などを江 戸方面へ船便によって売り出していた実 績は企業化され、海運会社も次々と設立さ れましたがその規模はいずれも大きなも のではありませんでした。 1882(明治15)年州崎村に弘通社(出資者 102人・資本金270円)がまず出来、1884年富 岡村に富岡社(103人、1000円)1886年三分 村に六浦回漕店(69人、500円)1889年頃に は金浦回漕会社と続きました。入荷より出 荷が多いことから地元の産物の売りさば きが主だったようです。 1884(明治17)年には金沢茶業組合が出来 金沢全域に亘って45人の組合員がいたこ とが知られています。

<村人たちと民権> 明治10年代は自由民権運動が国民的規模 で燃え上がりを見せ、神奈川県下では国会 開設運動をピークに活発な動きが広がり ましたが、金沢地方でも人民の権利を主張 するような事件がおきています。 1879(明治12)年州崎村で村民が戸長(村 長)に1876年以来の村費帳簿の公開を要求 して戸長と激しいやりとりの結果、郡役所 に訴え翌年戸長は交代しました。 1885(明治18)年10月には村の有力者たち 12人が連名で官選戸長の改選願書を出し、 翌月戸長は免職となりましたが、これらの 事件は江戸期から明治初年にかけて村の 政治をリードしてきた村の有力者層に対 して村の人々が村政への発言力を強めて 来た事を示すものとされています。

岩崎角太の国会開設の檄文 (斎田助一氏寄託・横浜開港資料館蔵)
金沢区柴村の旧家から発見されたもので横浜での 国会開設運動を示す貴重な史料とされています

<地租改正と村人たち> 1873(明治6)年7月に公布された地租改正 条例により神奈川県では翌年3月から土地 の調査が始まりましたが、地租改正事業に 関係した有力者が村民の知らない間に自 分に有利なように土地を登録したケース もあったようです。 1875(明治8)年屋敷つづきの海面を埋め 立てた州崎村の五人の村人が、東屋へ出張 中だった県の役人に対して県への嘆願書 を出して先に登録した泥亀新田の有力者 某との間の問題を解決した記録が残って います。 町屋、谷津組合村では1881(明治14)年3 月「地価等級に不平がましく申し立てはし ない」として百人ほどの村民が役所に書類 を出していますが、地租改正による一方的 な地価確定に村民たちは不満はあったも のゝ苦情のある分は再調査するからとい う役人の説得に応じ激しい反対運動には ならなかったようです。

東屋にて(翔べ金沢-金沢区制40周年 記念事業委員会刊行-より)

<金沢の学校> 1872(明治5年)8月学制が発布され、学校 の設立計画が示されましたが神奈川県で は翌年2月小学規則が定められて各地に学 舎が設立されました。 金沢地方でも6年5月に三分学舎(三分村、 のちの六浦小学校)、赤井学舎(赤井村、の ち釜利谷小学校)、富岡学舎(富岡村、のち 富岡小学校)、知足学舎(州崎村、のち金沢 小学校)、養善学舎(野島浦、のち野島小学 校)が作られ、ほかに小柴学舎(柴村、明治 8年に知足学舎に統合)も設立されました 学校の先生方には旧六浦藩士が多く任 命され、六浦藩の文化的伝統(六浦藩には 1868年設立の藩校明允館があり漢学を中 心に算術や習字が教えられ1869年4月迄 存続しました)がこの地方の初期の教育 に貢献しました。 はかに1881(明治14)年10月旧藩校の教 師で漢学者の佐藤忠蔵が私立の慎行学舎 を興しました。

久良岐郡町屋村の学齢簿・明治15年 (松本ナミ氏寄贈、横浜開港資料館蔵)

<金沢を訪れた外国人> 横浜居留地の外国人たちは横浜での生 活が安定するとともに本国での習慣と同 じように夏は近郊に避暑をするようにな り1875(明治8)年頃から海水浴に適した 海岸線を持つ富岡村に逗留するようにな りました。 米国教師ゴフリが家族で1ヵ月海水浴を し、ドイツ商人エーレスが一週間、お雇い 外国人として有名なフルベッキが20日間 お寺を利用しています。 ローマ字を考案したヘボン博士も富岡 の慶珊寺に逗留していたことがあり、そ の時付近の住民に保健のために塩湯治 (海水浴)を奨励したそうです。

逗留表札(慶珊寺所蔵) 慶珊寺に残る表札。ヘボン博士の名前が見えます。


明治時代
T(1868
    〜1887)

1868.1 
 鳥羽・伏見
の戦
1868.3
 五ヶ条の
御誓文
1868.7 
 江戸が東
京に改まる

1869 東京
遷都
 〃版籍奉
還が行われ
る

1871 廃藩
置県

1873 地租改
正の実施

1874 板垣退
助らが民撰
議院設立を
建白


1877 西南
戦争



1881 板垣退
助、自由党を
創設
1882 大隈重
信、改進党を
創設
 〃 福島事
件おこる

1884 加波山
事件発生
1885 内閣制
度出来る

1887 保安条
例制定











 





戊辰戦争

 <五ヶ条の御誓文>
 1868(慶応4)年3月14日新政府は五ヶ条の御
誓文と呼ばれる国政改革の基本方針を立て
天皇が京都の御所に大名や公家を集め、神に
誓うという儀式を行ってそれを国民に発表
しました。
<江戸城の明渡し>   
 官軍の総攻撃の時が迫っていた江戸では3
月13・14の両日薩摩藩邸で行われた勝海舟と
西郷隆盛の話し合いで15日に予定されてい
た官軍の江戸城総攻撃は取りやめになり、徳
川方は慶喜の引退と江戸城は明渡し一切の
武器を引き渡すなどの条件を受け入れ4月11
日江戸城は無抵抗で官軍の手に明渡されま
した。(関連サイト・江戸無血開城)
 こうして江戸は新政府の支配下に入ること
になりましたが、これに不満な旧幕臣たちは
彰義隊を結成し、上野の山に立てこもり抵
抗したものの大村益次郎の指揮する官軍の
猛攻撃に一日で鎮圧されました。 
<奥羽越諸藩の抵抗>
 奥羽地方と越後(新潟県)の三十余りの国が
同盟を結び薩長のやり方に反対し新政府に
は従いませんでした。 
 これらに対して7月に入ると官軍が一斉に
攻勢をかけると奥羽越列藩同盟の諸藩も激
しく抵抗しましたが、9月末には中心となっ
ていた会津藩が降伏し(関連サイト・白虎隊)長
岡、米沢(山形)、仙台、盛岡(岩手県)、庄内な
どの各藩も次々に降伏しました。       
<榎本政権>  
 幕府の海軍を握っていた榎本武揚を中心に
新撰組生き残りの土方歳三らは北海道へ逃
れて箱館の地に着くと榎本を総裁とする独
立政権の樹立を宣言しました。
 新政府は1869(明治2)年の3月から遠征軍を
送り、立てこもった五稜郭を攻撃してこれを
破り新政府の全国支配が確立しました。
 鳥羽伏見の戦いから五稜郭攻撃までの一連
の戦争は慶応四年が戊辰の年(関連サイト・六
十花甲子表)だったので戊辰戦争といわれてい
ます。


幕藩体制の清算

<改元と東京遷都>   
 1868(慶応4)年7月江戸が東京と改められ、
9月には年号も明治と変わり一世一元の制
(天皇が変わらなければ年号は変えないこ
と)がたてられました。
 同年10月には明治天皇が東京に行幸し、翌
1869(明治2)年初めには政府もここに移り、
東京が新しい都になりました。
<版籍奉還>    
 新政府は全国統一を更に強めるために地
方における藩の支配を打破する必要があり
ました。
 新政府の中心となっている薩摩の大久保
利道、長州の木戸孝允、土佐の板垣退助、肥
前(佐賀県)の大隈重信らは相談して1869年
薩摩、長州、土佐、肥前の四藩が先に立って、
大名が支配している領地(版)と領民(籍)を
天皇に返上しました。
 外の藩も次々とこれにならったので全国
の土地と人民は天皇の支配する土地・人民
に改められました。
 この結果旧大名の藩主には華族の身分が
与えられ、天皇から知藩事に任命され藩の
治め方も中央の政府から指図されることに
なり、統一国家への道を踏み出しました。


富国強兵への道


  
 <廃藩置県> 
 版籍奉還によって形は中央集権となりまし
たがまだ旧藩主が知藩事として残り、実質的
には前と同じ体制が残りまた、庶民の間にも
新政府への不満の声が起こり各地で世直し
一揆がおこりました。
 そこで大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが
中心になり西郷隆盛らも加わってまず1871
(明治4)年2月薩摩・長州・土佐の三藩から選
ばれた1万の兵を東京に集めて政府直属の御
親兵として中央の軍事力を固めました。 
 ついで7月政府は廃藩置県の詔を発して一
挙に藩を廃止し、県を設置してこれまでの知
藩事を罷免して東京に住まわせることにし
て新しく政府の官吏を派遣して県知事(のち
いったん県令に改称)に任命し、ここに幕藩
体制は解体され全国は名実ともに政府の直
接統治の下に置かれることになりました。
 この改革を進めた薩摩・長州・土佐・肥前の
四藩の出身者は政府の実権を握るようにな
り藩閥専制といわれる体制が次第に出来て
いきます。
<身分制度の改革>
 版籍奉還によって藩主と藩士との主従関係
が解消されたので、これを機会に政府は封建
的身分制度を改革して大名・上級公家を華族
下級公家・一般武士は士族、農工商はまとめ
て平民とし身分を超えた結婚も出来、どんな
職業に就くこともできるようにしました。
 1871(明治4)年には開放令を布告してこれ
までのえた・非人の呼び名を廃止して身分・
職業ともすべて平民と同じにしました。
 しかし実際上は結婚・就職・住居などの面で
以前と変わらず西日本ではえた・非人の開放
に反対する農民一揆などもおこり、社会の一
部ではえた・非人であった人たちを「新平民」
と呼んで差をつけようとすること等も行わ
れ「四民平等」への道は長く険しいものでし
た。
 <徴兵制度>
 新政府は1873(明治6)年1月徴兵令を発布し
て士族でも平民でも20歳になった男子は徴
兵検査を受け合格したものは常備軍として3
年間の訓練を受け、終わってからも4年間は
後備軍という名で待機することが決められ
ました。
 人々は徴兵をいやがり、これに反対する運
動が各地におこり、はじめのうちは男子の2
割程度しか徴兵できませんでした。
<地租改正>   
 新政府の財政は農業からの収入が主体でし
たが年貢収入も減っており苦しく、1873(明
治6)年7月地租改正条例を制定し農民からの
税収入を確保しようとします。
 これにより農民たちの負担は重くなり地租
改正反対を叫んで各地で激しい農民の一揆
がおこりました。


海外への関心


 
<岩倉遣外使節>
 1871(明治4)年右大臣岩倉具視を大使とす
る欧米諸国の使節団の一行が出発しました。
 目的は幕末に欧米諸国との間に結ばれた不
平等な条約改正のための予備交渉を行うこ
とと日本の近代化のために西洋諸国の文明
を学ぶことでしたが、外国では日本の評価が
意外に低く、条約改正のためには西洋なみの
文明国にならなければならない事を知りま
した。
 一行は1873年9月に帰国、条約改正は進みま
せんでしたが法律、教育、財政、軍事など先進
諸国の実情を直接見聞きしたことは日本の
近代化にとって大きな収穫となりました。
<征韓論の高まり>
 日本は幕末、欧米諸国の圧迫にさらされる
とその代わりとして朝鮮・満州を征服すべし
という議論が吉田松陰らによって主張され
明治に入ると鎖国政策をとっている韓国に
武力を使ってでも国交を開かせようという
動きが生まれました。
 西郷隆盛は大久保や木戸たちが進めている
新しい改革に不満をもつ士族たちに同情し
朝鮮へ出兵することを主張しました。
 1873(明治6)年夏頃には西郷の主張は板垣
退助や後藤象二郎らの支持を受けて政府内
部の大勢を占めるようになりましたが、同年
秋に遣外使節から帰ってきた岩倉・大久保・
木戸らは国内の改革を優先すべしとして西
郷と対立、激しい討議の末に西郷たちの征韓
論は敗れ、西郷隆盛・副島種臣・後藤象二郎・
板垣退助・江藤新平の各参議は辞職しました
<台湾への出兵>
 1874(明治7)年日本は琉球(沖縄県)や岡山
県の漁民が原住民の高砂族に殺されたこと
を理由に台湾に3600人あまりの兵を送りま
した。
 これに対し清国も直ちに出兵、にらみあい
ののちイギリスの仲介により和解しました。
 この出兵は大久保が西郷らの不満をなだ
めるために薩摩の士族を主体に行わせたも
のでしたが日本はその後琉球を沖縄県とし
て正式に日本の領土としました。
<江華島条約>
 国交を開く交渉が思うように進まない日本
は1875(明治8)年9月朝鮮半島の江華島を占
領して朝鮮政府に開国を強く迫りました。
 朝鮮政府は屈服し翌年日朝修好条規(江華
島条約)を結んで開国しましたがその内容は
幕末に日本が欧米諸国と結んだと同じよう
な朝鮮にとって不利な不平等条約でした。


士族の反乱と農民の一揆

<佐賀の乱>   
 征韓論で敗れた江藤新平は故郷の佐賀に帰
りましたが佐賀の士族たちは、江藤をかつい
で大久保らの改革に反対して県庁のある佐
賀城を占領しました。
 大久保はただちに政府軍を佐賀に向かわせ
これを鎮圧、江藤をはじめ13人は死刑という
重罪に処せられました。
<追いつめられる士族>    
 1876(明治9)年には秩禄処分が行われ士族
は生活に困窮するようになります。
 更に廃刀令により不満は一層つのりこの年
の秋には士族の反乱が次々と起こりました。
 熊本では太田黒伴雄をリーダーとする「神
風連の乱」が、福岡では「秋月の乱」、山口では
前原一誠のもとに「萩の乱」がおこり政府は
軍隊の力でこれを鎮めましたが動揺の色は
隠せませんでした。
 ―西南戦争―
 征韓論が受け入れられず郷里に帰った西郷
隆盛の影響下にある鹿児島では政府の進め
ている改革に従おうとせず、士族を中心とし
た西郷王国のようなものでした。
 1877(明治10)年2月私学校の生徒を中心と
する不平士族たちは西郷を先頭に鹿児島を
出発して北上、熊本鎮台を攻撃しましたが谷
干城らの政府軍の反撃に遭って、田原坂の戦
いに敗れ西郷も都城、宮崎方面へと敗走し鹿
児島の城山で自殺、反乱は鎮圧されました。
<農民一揆> 
 御一新によって幕府政治による苦しみから
救われ年貢の軽減を期待した農民は地租改
正によっても負担は軽くならず、全国各地で
一揆をおこしました。
 特に1876(明治9)年には地租改正に反対し
て三重・岐阜・愛知・堺の四県にまたがる大規
模な農民一揆がおこり翌年政府は地租率を
地価の3%から2.5%に引き下げましたが明治
の初めに全国におこった農民一揆は500あま
りに達したといわれます。 


自由民権運動






































政党の変遷

<国会開設の要求>   
 1874(明治7)年征韓論で下野した板垣退助
や後藤象二郎たちは「民撰議員設立の建白
書」を政府に差出し国民の代表による議会の
制定を主張し、国内には活発な論争「民撰議
員論争」がおこり自由民権運動の口火が切
られました。
 板垣は郷里の高知で片岡健吉らとともに立
志社をつくり活動を始めましたが、全国各地
に政治結社がつぎつぎと生まれ、これら地方
の政治結社が集まり愛国社という全国組織
が結成されました。
 政府は讒謗律や新聞条例を制定しこれを厳
しく取り締まり運動は一時下火となります。
<国会期成同盟の結成>    
 1877(明治10)年立志社が国会開設の建白書
を天皇に提出し運動は再び盛んになり、1880
(明治13)年には愛国社は国会期成同盟を結
成、運動は最高潮に達しました。
 政府は集会条例を定めて厳しく取り締まり
ますが、自由民権運動の声は高まる一方でし
た。
<明治14年の政変>     
 1881(明治)14年開拓使官有物払い下げ事件
がおこり民権論者や肥前出身の参議大隈重
信が国会を早く開くことを主張、政府は大隈
を辞職させると共に10年後の1890(明治23)
年に国会を開くことを宣言しました。
<政党の成立>  
 国会開設の宣言が行われると自由民権派の
政党が次々と生まれました。
 まず1881(明治14)年10月、国会期成同盟を
母体に板垣退助を総理(党首)とする自由党
が結成され、翌年には大隈重信を総理として
立憲改進党が成立しました。
<民権運動の激化>     
 政府は近代化政策を進めるため莫大な費用
を必要としたため、大蔵卿(のち大臣)の松方
正義は厳しい財政引締めを行い、そのために
農作物の値段が下がり農村は深刻な不況に
見舞われ、関東はじめ各地に困民党とか借金
党とかいう困窮した農民の組織が作られ、急
進派の自由党員の指導の下に騒動が続きま
す。
 1882(明治15)年福島県で起こった福島事件
をはじめ翌年の高田事件、1884年には群馬事
件、加波山事件、秩父事件などがおこりこれ
らに対する政府の圧力が厳しくなると板垣
の自由党は解散し立憲改心党も活動を停止
し、自由民権運動も一旦下火になります。


文明開化


 明治政府は近代化政策を推進し、熱心に欧
米の新しい制度や知識を取り入れたので国
民生活などの広い範囲に亘って大きな影響
を与え文明開化と呼ばれる風潮が急速に広
がりました。
<交通と産業の発達>
  鉄道ではまず新橋・横浜間が1872(明治5)
年に開通、次第に全国に延長され、郵便制度
も変わり、1871(明治4)郵便切手を貼るよう
になりました。
 電信も官営事業として1869(明治2)年東京
・横浜間が開通、海運も政府が三井や三菱な
どの政商に手厚い保護を加えて育てた船会
社を中心に発達、やがて土佐藩士岩崎弥太
郎の創立した三菱汽船会社が日本海運の中
心となりました。
 新政府は二大スローガンとして富国強兵
と殖産興業を掲げ産業の近代化に力をいれ
1870(明治3)年に工部省を新設、富岡製糸工
場などの官営の模範的工場を作りました。  
<鹿鳴館外交> 
 幕末に欧米諸国と結んだ不平等条約の改
正のために政府は欧化政策をとり、日比谷
に鹿鳴館を建て連日のように華やかな舞踏
会や園遊会が開かれ欧米に日本の開化を認
めさせようとします。
 しかし1887(明治20)年に外相井上馨によ
ってまとめられた改正案は中途半端なもの
であったことから国民の反対も多く自由民
権派の人たちも再び立ち上がり、対等の条
約を要求して政府を攻撃しました。
 政府は保安条例を制定して反対する人達
を東京から退去させたりしましたが、政府
内部からも反対の声があがり、政府は条約
改正を中止しなければなりませんでした。





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