京都故事  −京の水と道  全20話−
疎水の水と哲学の道鳥羽の作り道に車牛神泉苑大沢・広沢の池鳴滝清滝と三尾一条戻り橋五条大橋三条大橋京の名水
京で上がりの初日の出(京の七口)粟田口(東三条口)鴨川の水伏見口長坂から超えれば山国へ我が待つらん宇治の橋ひめ
丹波から山城への水路 - 舟下嵐峡堀河や声ききたらぬ蛙かな淀の川瀬の水車春雨やすこし水ます紙屋川白河の花|                  
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■ 疎水の水と哲学の道

今の京都の地は、むかし湖の底であったといわれている。
東山、北山、西山と周囲を包む山々が、この盆地いっぱいにたたえられた湖の上に姿を落として、それは千古の謎を秘めたように静まりかえっていた。

ところが、それが南の方、山崎のあたりで切れて淀川の流れとなり、しだいにその底の地表をあらわしていった。
加茂川、高野川、桂川などは大きな流れとなって、その地表を北から南へ流れていったが、そのほかにもいくつかの流れが、地表をはっていた。
ところどころには大きな水の溜りがあった。

この地に平安京がさだめられたころは、まだこの地はそのようにして干上がった湖底の姿をよくとどめていたようである。
だから、いつも京都で問題になるのは、そうした水のことであった。
後白河法皇の有名な「朕の意のままにならぬは、山法師と双六の賽に加茂川の水」というのがあるが、この法皇をもってしてもどうにもならないのが、京の水であったのである。

それだけに、水についてはいろいろと配慮がなされてきた。
川の幅はゆったりととられて、それに強固な堤防が築かれ、池の周辺も広々と残されていたのだ。
ゆったりととられた河原のところどころが、人びとの娯楽の場所となっていたのも当然のことであろう。
糺の森に近い鴨の河原では勧進能が催され、四条河原はあらゆる種類の見世物ににぎわった。
そして、人びとは夏の暑さを避けるのにも、この河原を利用した。

京都は、水には不自由をしなかった。
しかし、その京都にさらに新しく加えられたのが疎水の水である。
これは、東京奠都によって王城の地を東京にゆずることになった京都が、起死回生の策として交通と産業の二つの面から計画した大事業であった。

大学を出たばかりの青年技師田辺朔郎が、この大事業の設計者であった。
当時の我が国の技術水準で、その可能性を信じた者は一人もいない。
外国人技師のワグネルなどは、こぞってこれに反対した。

しかし、当時の京都が”第二の奈良”にならないためには、大勇断が必要であった。
そして、それは明治十八年という年に始まって、五年の歳月をついやし、明治二十三年になってはじめて完成した。
それは、琵琶湖の水を三井寺のあたりから導いて蹴上に出、そしてそこから一方は南禅寺、一方は動物園へと切っておとして伏見につなぐという大水路なのであった。

世界で二番目に早いといわれる水力発電所も、このときにつくられた。
蹴上から動物園にきっておとす水の落差が利用せられたのだ。
この疎水が京都の産業界に与えた影響は決して小さいものではない。

ところで、この疎水が南禅寺の境内をとおり、トンネルで若王子の山をぬけて北の方に導かれるているところで、いつのまにか”哲学の道”とよばれるようになった川沿いの小道がある。

この小道は、沿道に桜の並木をつくって、若王子から銀閣寺のあたりまでつづくが、それが西田幾太郎や田辺元といった哲学者の恰好の散歩道となっていた。
京都大学からあまり遠くない小道の、しかも人通りの少ない静かな雰囲気が、かれらの思索を助けたのであろう。
「逍遥の思索」、その言葉のひびきに、若い学生の心も惹かれた。

その頃は、桜の季節といっても、それほどに人びとは集まらなかった。
この桜は、銀閣寺のほとりに居をいとなんで白沙村荘といった橋本関雪の夫人が、その夫の画料のなかから一部を割いてこれを積み、その金を寄付して植えられたものである。

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琵琶湖疏水記念館】【京都の水道 -水道局-】【琵琶湖疎水】【琵琶湖詳解】【土木と風景】【京の川 疎水と加茂川】【疎水の船について

* 「哲学の道」に関するお勧めサイトなし
 

■ 鳥羽の作り道に車牛

慶応四年正月三日、鳥羽街道は、家財道具を山と積んだ車牛が右往左往し、官軍の斥候が白い息をはきながら駆け抜けていった。

一気に幕権を回復しようとした徳川慶喜は、幕軍約一万五千を率いて大坂から上洛を狙った。
これが鳥羽・伏見の戦いのはじまりである。
慶喜上洛、幕軍先遣隊がという報に接した京都新政府は、まるで蜂の巣をつついたような状況になっていた。
日ごろ大きなことをいっていたお公卿さんも、在京新政府軍がわずか五千の兵力であることを知って驚天動地、上を下への大騒ぎであった。
三日の夕方、鳥羽には幕軍の尖兵桑名藩兵が到着し、四塚の関門で入京させろ、させぬの押問答が続いていた。
幕軍の後続部隊は、長い縦列をつくって鳥羽街道を進軍し、城南宮あたりに布陣し、入京の機会を狙った。
そうこうするうちに新政府軍側では、兵力の不足を奇襲攻撃によって優位にたとうとし、薩軍を主力とする鳥羽方面軍が、着陣まもない幕軍に対し猛烈な砲撃を加えた。
火蓋は切っておとされたのである。

驚いたのは幕軍である。
長い縦列でやってきたため体勢をたてなおすのにまず手間どった。
それでも一時間にわたって反撃を試みたが、先鋒隊の損害は甚大であった。
夜に入って幕軍は陣容を整え、切り込み隊を組織して猛烈な夜襲をかけた。
この夜襲に一時は、新政府軍も窮地に落ちたが、薩軍の奮戦によってどうにか攻勢をくいとめた。
反撃を撃退した新政府軍は、今度は勝ちに乗じて四日未明、鳥羽村を襲い民家に放火した。
幕軍はなだれをうって鳥羽街道を退却した。

新政府軍の放火作戦によって鳥羽街道筋の民家はまる焼け。
避難した村人たちは、ただ手をこまねいて茫然とみまもるだけだった。

鳥羽街道、それは大坂街道ともいわれ、東寺の南大門にあたる四塚から淀にいたる街道であった。
上鳥羽・下鳥羽にはこの街道の運輸をつかさどる車宿があって、大量の商品を車牛に積んで往復していた。
大沢家、伊藤家などという旧家は、この運送の取締役りである。
伊藤家などは屋号を「輪屋」といったが、鳥羽・伏見の戦いで例外なく丸焼けとなり「わや」(京都弁でだめになる)になったという。

重要な街道であったから、維新の時をつげる大戦争もおっぱじまることになったが、この街道を中心にした戦は古来たびたび行われた。

頃は建武の昔、足利勢と後醍醐勢は両朝にわかれて激戦を展開していた。
後醍醐軍の将、四条隆資は八幡より三千の軍勢を率いて「鳥羽ノ作道ヨリ東寺ノ南大門ノ前」にどっと押し寄せ、京に入らんとした。
鳥羽口に守備する軍勢は、高師直き下の五百余騎。
四条軍をむかえ討って作り道にまで出てきたが、四条軍の足軽が放つ矢にやられてほうほうの体で東寺に退いた。
この報せに足利軍は大いに驚いたが、さすがに将軍足利尊氏は顔色ひとつ変えず、静かに鎮守の前で読経を続けていたという。

足利軍ではすぐさま軍議を開いて、猛将の誉れ高い土岐頼直を援軍に差し向けた。
この時、尊氏は頼直に声をかけ、みずから腰にさしている”御所作り兵庫(金へんに巣)の太刀”を与えたという。
尊氏という人はまことに人使いのうまい器量人である。
この武勇一点ばりの頼直を腰のもの一本でコロコロにしてしまったわけだ。
『太平記』にも「此太刀ヲ給テ、ナドカ心ノ勇マザラン」と記しているから、そのタイミングのよさは作り話にしても、大変なものである。

尊氏直々に太刀をいただいた頼直、悪源太の異名もあるように、まさに勇気百倍、三人張りの弓を小脇に抱え、作り道付近に布陣する敵軍に突っ込んだ。
並みいる敵を一矢で二〜三人も射殺し、太刀をふるって寄せくる雑兵をなでぎりにする。
その有様に四条軍は浮き足だった。
そこへ師直軍勢千騎が作り道正面より突撃を開始。
竹田村からは師秦の軍勢が退却する四条軍の縦隊へ激しい攻勢をくり返す。
四条軍はたまらず「我先ニト逃散リテ、元ノ八幡ヘ引返ス」羽目となった。

まもなく足利尊氏は室町幕府の基礎をきずくことになるが、この鳥羽作り道合戦は、南北朝内乱の歴史の一齣であった。

数々の歴史を眺めたこの街道 - 作り道という言葉がいつごろから呼びならわされたのか、さだかではない。
兼好法師も「鳥羽の作道は、鳥羽殿建てられて後の号にはあらず。昔よりの名なり」と書きつづっている。

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京都紀行記 鳥羽伏見の戦い戦跡】【京都市立下鳥羽小学校 鳥羽伏見の戦い】【徳川慶喜】【京都守護職/幕末&御陵衛士(新選組)日誌 慶応4(1868)年
 

■ 神泉苑

禁苑とは、いまも大宮の西に名残を止めている神泉苑。
平安京造営のさい、賀茂川を中心とする大規模な治水工事が行われ、神泉苑は大内裏の東南に、太古からの涌泉を利用してつくられた。
東西は大宮から壬生にいたる二町、南北は三条から二条にいたる四町あったというから壮大なものである。
天皇はこれを周の文王の霊囿になぞらえ、正殿乾臨閣をもうけた。
池には蓮が咲き、繁った樹林をぬって鹿が遊び、滝殿の方向からはさわやかな水音が風にのってくる。
延暦十九年(800年)桓武天皇の遊覧にはじまって、歴代天皇はここに来て宴を催すのを無上のたのしみとした。
が、淳和天皇天長元年(824年)の夏、神泉苑では雅な管弦の音にかわって請雨経の声が地を圧し、護摩壇の煙が天へたちのぼっていた。
都の人びとはその煙を仰ぎながら、不安げに首をかしげあった。
天皇の命を受けた弘法大師こと空海が神泉苑にこもってから、もう七日になるが、空には一片の雨雲も現れず、ただぎらぎらと照りかえす光は妖気をさえはらんでいるかにみえる。

一方、苑内の空海はひとり祈祷をやめて端坐していた。
人びとと同じ不安は。空海の心にもきざしていた。
かれの法力をもってすれば、雨は今夜にも草木を潤おすはず。
その効験をはばんで、何かしらよこしまな力が働いている・・・・・空海は精神を統一して無我の境に入り、その原因をつきとめようとした。
長い、寂とした時間であった。

にわかに、三千世界が彼の心眼にあらわれた。
驚くべきことに、雨をもたらす内海・外海の滝神らはことごとく、西寺の僧守敏のまじないによって水瓶の中に閉じ込められているのであった。
守敏は天皇から西寺を賜って、東寺の空海に事々に対抗するしたたか者である。
昔、空海は守敏と天皇の前で争って勝ったことがある。

空海が唐に渡っていた間に、守敏は巧に天皇にとり入った。
帰朝した空海に会うとさっそく、天皇は守敏の噂をした。
あれほどの法力を備えた者はほかにいない。
厚くとりたてるつもりだと。
即座に空海は反論した。
「この空海の前では、守敏もそのような奇特をあらわすことはできますまい。」
自身を菩薩にたとえ、守敏を調伏された鬼神になぞらえて啖呵をきった空海にあきれかえって、天皇は二人の法力を競わせることを思いついた。

或る日、参内した空海を物陰に隠しておいて、天皇は守敏を呼び寄せた、
官女が建ザンをその前に運び、天皇はいつものように水を湯にかえてみせよと守敏に命じた。
そのときまで、空海の心を占めていたのは、法敵でありかつ政敵である守敏に対する敵愾心であった。
しかし、建ザンにたたえられた水の前で得々と火印を結ぶ守敏を見たとき、烈火のような怒りが空海の身内をつきぬけた。
法はもともと、衆生の苦しみを救うためにこそある。
守敏はそれを、まるで手品師のようにもてあそんで天皇の好奇心をそそろうとしている。
守敏の顔にぬるぬるとはいまわる卑しさは、法そのものに対する冒涜であった。
瞬間、空海は自分でも気づかぬままに水印を結んでいた。
息づまる数秒・・・・・水はついに沸きたたず、守敏はにがりきった。
空海はすかさず前へ進み出て、からからと笑った。
「何と守敏、空海これにありとは知らなんだか。星の光は朝の日に消え、蛍の火は暁の月にかくれるものよのう」
守敏は青ざめて退出した。

それからの幾歳月、守敏の怨みは空海ばかりでなく天皇にも向けられていたのだろうか、国中を灼きつくそうと一念こって竜神をとりこめている守敏の祈りはすさまじい。
くらくらと目眩がして、空海は堂の床にうち伏した。
いかに祈祷をこらそうとも、先手をうって竜神が金縛りにあっていては一滴の雨を得る見込みはない。
術を失った心の隙を、七日間の疲れがどっと襲った。
起きあがろうとする肩を怪しい力が押さえつける。
「わしの敗けだ」
鼓動も止まりそうになって、空海は叫ぼうとした。
その耳に、不思議な音が床を伝わってきた。
朦朧としてくる頭の中で、低い、鈍いそのおとだけがしだいにはっきりと響きはじめた。
それは、大日如来を誦する群集の声であった。
いや、正確には、神泉苑のまわりに群がって水を乞う男女の呻きであったかも知れない。
しかし空海の耳には、いまだかつて聞いたことのない大唱和となってとどいたのである。
そればかりではない。
唱和のなかに空海は自分自身の声をも聞いた。
それは空海の声でありながら空海の声でなく、唱和全体もまた、数えきれない声をもちながらただひとりの声のようでもあった。
空海の身体は羽毛のように軽くなり、唱声にのって舞上がった。
そのまま海をこえ、唐土から、天竺へ・・・・・

飛翔する空海の眼下に、大雪山がさん然と輝き、その北に一つの池が深い碧緑をたたえて現れた。
と、金色の波が水面をふるわせ、池底ふかく潜り込んでゆく竜の姿があった。
空海は夢からさめ、暮色のたれこめる神泉苑におり立って深深と息をついた。

天皇は空海の奏請をいれて、さらに二十七日のあいだ修法を延長し、インドの無熱地にただひとり守敏の呪力をまぬがれている善女竜王を神泉苑に勧請することにした。
読経の声はふたたび苑内にみちみち、奇蹟は、ついにあらわれた。
二十七日の明け方、金色八寸の竜が、長さ九尺ばかりの蛇の頭上にのって姿を現したのである。
あっと声をのんだ弟子たちの前で、竜はしなやかに身をくねらせて水底に没した。
おりからの朝日を浴びて、まばゆいしぶきが禁苑に散った。
しらせを聞いた天皇は驚嘆し、和気真綱を勅使として種々の供物をし、竜王を祭ったと『太平記』の作者は物語っている。
待ちかねた雨が都の人びとを狂喜させたことはいうまでもない。

この後神泉苑は、ひでりのたびに雨乞いの祈祷所となり、その池の水を田畑に流して灌漑することが例となった。
しかし『太平記』の巷で語られた時代には、すでに荒れはてていたらしい。
門や築地もこわれ、俗世間の男女が出入りするのを静止することもなく、牛馬が水草を求めて往き来するのをはばかることもない、竜神もさだめし快からず思っているだろう。
早く修理して崇め重んじるべきだ、そうすれば国土が平安になると作者は結んでいる。
戦乱の世に、もしも弘法大師が生きていたら頼りになるのに、と作者はひそかに思ったかもしれない。

それにしても、歴史はしばしば、古いものを惜しげもなく破壊して突き進む。
慶長七年(1602)徳川氏が二条城を築くにあたって、神泉苑はその北側を大きく削られ、泉は城内の池に役立てられた。
残りの池は荒れるにまかせ、しだいに人家が建っていったが、元和年間に筑紫の僧覚雅が幕府に陳情してこれを再興し、東寺に属する寺として現在に至っている。
いまは半町四方にせばめられ、禁苑のおもかげをしのぶのは無理であるが、池の小島には形ばかりの祠があって、いまも善女竜王が祭られている。
文化財保護の苦肉の策であろうか、寺の大部分を祇園の料亭”平八”に貸して維持費にあてているため、苑内には入れるが南北に通り抜けはできない。

京都市民は、この苑を”ひぜいさん”または”ひぜん”さんと呼んでいる。
神泉苑が訛ったものだが、なかには皮癬が流行してこの池に患者が群がっていたのを、祈祷によって治した故事があるからだという人もある。
確かな事実があったかどうかはともかく、そんな話を抵抗なく人びとに受け入れさせるような歴史を、神泉苑はもっているのであろう。

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神泉苑の公式HP】【神泉苑修復工事 付:空海の神通力】【神泉苑 平安”都計の妙”】【探訪 京滋の庭】【龍神恋慕】【神泉苑図
 

■ 大沢・広沢の池

 心の澄むものは、霞花園夜半の月、秋の野辺、上下も分かぬは恋の道、岩間を漏り来る滝の水 (『梁塵秘抄』)

平安末期に庶民のあいだではやった歌謡のなかに、こんな一首がある。
花と月と恋と・・・・・古来人の心のあくがれるすべてをとりいれたこの歌を生んだのは、経の嵯峨野ではあるまいか。

その中心にある大覚寺は、もと嵯峨天皇の離宮であった。
寺となって一時衰えたのを、後宇多上皇が再興してここに住み、長く南朝の皇族から貴ばれてその隠れ家ともなったことで有名である。
火災などにあって建直され、いま残っているのは山楽の襖絵で名高い桃山時代の遺構なのだが、寺の東にある大沢池は、いまも王朝時代の離宮の名残をとどめている。
ひろびろとした池中に浮かぶ天神島・菊島の名のとおり、離宮の庭園には菊が咲き誇っていた。
『古今集』に紀友則の歌がある。

 ひともととおもひし花をおほさはの 池のそこにもたれかうへけん

友則は三十六歌仙の一人に数えられるほど、歌人としては名高かったが、宮廷での位は、さして高くない。
地方官から少内記、大内記と、もっぱら地味な書記の役を勤めた人である。
四十歳になっても無官であることを、左大臣時平に訴えたというから、昇進も遅かったのだろう。
そんな友則が、大沢の池のほとりに立って詠んだのは、はたして自然の美しさだけだったろうか、と思えてくる。
澄みきった水に映る花の影は、岸の花にもまして気高く艶に、月の光に照らされていたことだろう。
友則の心もまた、ひとつのかぐわしい女体を映していた。
高まってくる鼓動が池の面にまで伝わって、この世のものとも思われぬ花の姿を乱すのを恐れるかのように、友則はじっと息をひそめ、眼をこらしていた・・・・・。

格式や行事にしばられた宮仕えの男女の恋は、恐らくそのように憧れやためらいや、微妙な駆引きと充たされぬ物思いにみちていたことであろう。
そしてついには、花が影か、影が花か、恋する人自身にも見分けがつかなくなり、花と影とは遠くへだった別々の世界へと引裂かれいったかも知れない。
そうして生まれた王朝の文芸には、大沢の菊の影にもまごう至上の香りが漂うのである。

時代も下がって、武士が貴族をしのぐ世の巷の歌は、さきにあげたように、雅な風物をかりながらも、そのものずばりと恋の激しさをいいきっている。
『梁塵秘抄』が編まれたのは治承三年(1179)。
保元・平治の乱の中心人物であり、この歌謡集の編者でもある後白河法皇が平清盛に幽閉された院政権を奪われるという大変な年である。
変転する政争と戦乱の世には、かりそめの恋さえも不安にみち、動きに富んでいた。
「上下も分かぬ」恋とは、恋の盲目をいうばかりでなく、既成の秩序がゆるみ、貴賎の間の恋さえめずらしくなくなった世相の反映でもあろうか。

 波も聞け小磯も語れ松も見よ、我を我といふ方の風吹いたらば、いづれの浦へも靡きなむ。
 いざ寝なむ夜も明方になりにけり、鐘も打つ、宵より寝たるだにも、飽かぬ心を、や、如何にせむ。 (『梁塵秘抄』)

たくましさとも、投げやりともとれるこのような恋は、没落や、成上がりや、裏切り、殺人など、あからさまな人間模様のよこ糸となって織りなされていた。
嵯峨野の奥、奇岩を打つ滝の音にも似て、それは奔騰する。

大覚寺にも滝殿があった。
しかし貴族に愛された繊細な滝はこのころすでにすたれ、巨勢金岡が配置した名石も閑院に移されて、跡かたもなくなったという。

 滝の音はたえて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞えけれ

小倉百人一首にある藤原公任の歌はこの滝跡を詠んだもので、いまも池の北五十メートルばかりの所に”名古曾滝跡”の碑がある。

広沢池も、大沢と同様月の名所。
南の遍照寺は、近世に再建された小堂だが、もと湖畔にあり、永祚元年(989)東寺の長者寛朝が創建した。
広大な伽藍をそなえた勅願寺であった。
寛朝は、広沢の大僧正と呼ばれて名高かった。
寛平法皇の曾孫にあたり母は時平のむすめというから純然たる貴族の出だが、『宇治拾遺物語』などに語られている広沢の僧正のおもかげは、なかなかに親しみ深い。

或る年仁和寺を修理中、暮方に衣の裾をあげてたったひとり見廻りに出た。
高く組まれた足場の下まで行くと、黒い装束の男が烏帽子で顔を隠し刀をさかさまに持って立ちはだかった。
「何ものぞ」と問うと、「あわれな貧乏人様だ。寒くてたまらないから、その衣のおさがりを一つ二つ頂きましょう」と脅しておいて飛びかかろうとする。
「無礼者。恐ろしげ脅さずとも、着物をくれと頼めばよいではないか。けしからぬ心根」といいざま、僧正は素早く男の後ろに廻り、尻をぽんと蹴った。
その拍子に男は影も形もなくなってしまった。
不思議に思って法師共を呼び火をともして探しまわったところ、足場の間に挟まってしまった盗人が、みじろぎもできずほとほと疲れ飽きた顔をしていた。
盗人をおろしてやって寺へ連れ帰り、「今度は老いぼれの法師だからといって侮るなよ」と説教した末、綿の暑い衣をぬいで持たせてやったという。

月の名所広沢も夜はちょうど闇だったのか。
それとも月の出る前のひとときのことであろうか。
足場につめられた男のために、追取刀で仁和寺へと駆けつける法師たちの姿は、たいまつの火とともにわらわらと揺れて、池の面に映ったであろう。
勅興期の武士に代表される時代の感覚は、それをいかにも面白おかしくとらえて、「寛朝僧正勇力の事」をたたえた。

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大覚寺】【『徒然草』第162段.遍照寺の承仕法師
 

■ 鳴滝

その日、右大臣道綱の母は、十七歳になる息子のほかにわずか三人ほどの供人を連れて、西山への道をたどって行った。

山の緑が影を落として、その頬は一層もの思わしげに青ざめていた。
かの女は、昔この山路をたどった折々のことを思い出していた。
そのどの思い出にも、夫兼家の姿が灼きついている。
夫として迎えたのはかの女が十八歳の夏の終わりごろ。
夫は二十六歳だった。
太政大臣藤原忠平の孫にあたり、名門にふさわしい器量を備えていた。
強すぎる自信も才走りも、若さと男ぶりをいっそうういういしくみせるのに役立っていた。
ほとんど毎夜、かの女のもとに通ってき、時には宮仕えさえ休んで数日山籠りをともにしたこともある。
はじめてこの鳴滝への山路をたどったのも、そうした夢みるような一日のことであった。

しかし、現実の厳しさを思い知らされたのは、翌年の夏、道綱を生んだ直後のことだった。
夫が名もない町の女のもとへ通ってると知った時の驚きは、いま思っても胸がうずく。
幾夜か眠れずに歎きあかしていると、暁に門をたたく者がある。
夫だとわかっていながら、かの女は意地をはって門をあけさせなかtった。
そのくせ、すごすごと帰った夫のことが気になる。
朝まで待っても帰ってこなかった悔しさもあって、すがれた菊に歌をつけてもたせてやった。
 
 嘆きつつひとりぬる夜のあくるまは いかにひさしきものとかはしる

それ以来、かの女の苦しみは始まったのだった。
権力争いの激しい政界で、夫は持前の器量を発揮して出世の道を歩んでいるけれども、それはかの女に何の関係もないことだった。
そればかりでなく、多忙を口実にますます遠ざかってゆくことを思えば、怨めしくさえある。
幾人もの妻をもつことは、これほどのお方なら決して珍しいことではありませんと、したり顔をして述べたてる者もあったが、かの女にはどうしても我慢できなかった。
いっそ尼になるか死んでしまおうと思っては、道綱がふびんだからと思い止まるのだが、その底には、夫の愛を独占したい欲望が、おさえようもなくうずいているのであった。
その欲望と嫉妬の激しさみにくさは、我ながらほとほと疲れきってしまうが、自分で自分をみないわけにはいかない。
そんな心理の屈折があるので、夫がたまに訪ねてきたときも、優しい心にもなれないで、つい刺すような皮肉や恨み言をいってしまうのである。
苦しみに耐えかね、こうしてすべてを捨てて西山にこもろうとするいまでさえも、かの女の思いは夫の姿を追って深まるばかりだ。

鳴滝川のほとり、般若寺に入ると、かの女は読経三昧の生活に入った。
木立の深い山懐で、明方には霧とも雲ともつかぬものが立ちこめる、
恐ろしげなところである。
見る人もいないので昼は簾をまき上げているが、しきりに鳴きたてる鳥の声に、人が来たのかとあわてて簾をおろそうとする、
そんな自分の姿が狂ったのかと思われて気味悪い時さえある。

或る日、遠縁の者が訪ねてきて、鐘の音も尽きるころまで身の上をこまごまときいて帰った。
翌日、日用品とともに便りが届いた。

 世の中は思ひのほかに鳴滝に 深き山路を誰しらせけむ

という歌など書かれてある。
道綱の母は返事に思いのたけを述べて、次の返歌を添えた。

 身ひとつのかくなるたきを尋ぬれば さらにかへらぬ水もすみけり

鳴滝川の水がもとへ還らぬように、私の運命も京へは帰らずここに住みつくことになっているようです。
と、悲しみと決意をこめた歌である。

しかし、それから間もなくかの女は夫に連れ戻される。
夫が変わったわけではなく、苦しみは前にも増して続くが、かの女自身は鳴滝にこもる前とどこか変わっている。
夫への、つまりは自己への執着から逃れられぬことを知り、苦しみそのものへ自分を預けて、新たに人の世に生きはじめたのかも知れない。
道綱の母、三十六歳のときのことである。
そしてこのころから、かの女は日記をつけ始める。
貞元元年(976)、四十歳のころまでかかって綴った日記の序に、かの女は、当時形骸化しつつあった架空の物語を排して、自己の真実をこそ書き留めようと宣言する。
しかしまた、そうして書き綴ることをもふくめて、自分の生が何ともはかないものに思われてならない。
『かげろふ日記』と彼女は自分の生涯の記録を呼んだ。

嵯峨野に、その昔響いていた鳴滝の音を、いまきくことはできない。
しかし、この川のほとりで自己を擬視し、この世をはかなしと観じながら、なおそのただなかに生きぬいた道綱の母の執拗ないのちは、いまも、私たちの耳朶を打って語りかけてくる。

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■ 清滝と三尾

 きよたきのせヾのしら糸くりためて 山わけごろもをりてきましを  神たい法師(『古今集』)

山わけごろもとは、山の草木をわけて行くときの着物で、修行僧などが着たものである。
愛宕山の南麓にある清滝の流域は、むかし、修行僧の天然の道場だったので、歌も逸話も法師に関するものが多い。
平安の末すでに伝説化されていた「清滝川の聖の事」から。

「今は昔」、と当時の人々は語り始める。
清滝川の奥に、柴の庵をつくって住む僧があった。
水がほしくなると水瓶を飛ばして水を汲んで飲んだ。
長年たつと自分ほどの行者はあるまいと時々慢心を起こすようになった。
ところが或るとき上流から一つの水瓶が飛んできて、清滝川の水を汲むとすいすいと飛びかえって行く。
そんな術を使えるのは自分だけだと思っていた僧は、なたましくなり、水瓶の後をつけた。

五六十町川上に一つの庵があり、清浄な気配があたりに漂っている。
隙間からのぞくと香の煙がみちて、七八十にもなっている老僧が脇息にもたれて眠っていた。
川下の僧はこの老僧を試してみようと印を結び呪文を唱えた。
たちまちその指先から火焔が噴き出し庵を包む。
すると老僧は、眠ったまま杖をとり香水にひたして四方にそそいだ。
庵の火はたちどころに消え、川下の僧の衣に移ってぼうぼうと燃えあがった。
大声をあげて狂いまわるのを、老僧はやっと目をあけて眺め、杖で頭に水をそそいでやった。
火はやっと消え、川下の僧は平あやまりにあやまったが、老僧は気にもとめぬ風であったという。
これは仏が驕慢を戒めるためにされたことだと、人々は語り伝えた。

当時鉢を飛ばして食物を得た仙人の話はたくさんあるが、特に水が神通力を発揮した話は。清滝ならではのことであろう。
老僧の貴さはいうまでもないが、よこしまな火をしりぞけた水の冷たさもさこそと思われる。

清滝にふさわしく、ここは栂尾茶の発祥地でもある。
栂尾は、高雄・槇尾とともに三尾とよばれる名勝で、三尾中もっとも北にある。

建永元年(1206)、明恵上人はここの度賀尾寺を再興して高山寺と名づけた。
この時代は、浄土諸宗の進出におされて、奈良朝・平安朝にさかえた顕教や密教はふるわなかったが、明恵はその華厳宗を再興しようと苦心した。
その為の研究と修行は一宗一派にとどまらず、あまりに多くの尊者の法をとりかえ引きかえ行うので、弟子たちが疑いを抱いたほどであるという。
たまたま栄西が宋から禅を伝えたときくと、さっそく教を乞うた。
栄西もまた、天台宗に開宗当初の精神が失われているのを不満として、禅をとりいれようとしていた。
そのため、後に、本山である叡山から圧迫され、布教停止の命令を受けた上太宰府で訊問を受けることとなる。
しかし栄西は頑として自説をまげず、かえって、腐りきった天台宗徒をうち破るために『興禅護国論』を著わし、堂々と論陣をはるのである。
天台宗と華厳宗とはもとは対立する宗派だったのだが、初めの志に帰ってこれらを再興しようとする栄西・明恵の二人は、期せずして禅において結ばれた。
その底には、不安な世相におののく人々を救おうとする熱情が脈打っていた。
異なる宗派に立つとはいえ、この師弟が意気投合して仏法刷新を語り合ったであろうことは想像に難くない。

栄西が貴重な茶種を明恵に贈ったというのも、並々ではない間柄を示している。
この茶種は、仁安三年(1168)栄西が宋に渡ったとき茶種を持ち帰り、九州の背振山に植えたものだが、それが博多の聖福寺を経て明恵のもとへ届いたのである。
明恵はよろこび師を懐かしんでこれを栽培した。
これが、栂尾茶のはじまりであり、そこから仁和寺・醍醐・宇治、さらに大和や海道筋へと伝わっていったものである。

そのとき、栄西は抹茶法をも初めて伝えた。
それまでの茶の飲み方は、茶の葉を粉にして葛や生姜とまぜて団子にし、これを煎じて飲むというやり方だった。
したがって、いまでいう茶らしい茶を伝えたのは、栄西が初めてといっていい。
清滝川は、紅葉が美しい。
古い詩に、「林間に酒をあたためて紅葉を焚く」とあるが、紅葉を映した清流を汲んで茶をたてる師弟の高層を思うのも、いっそうすがすがしい心地がする。

一方、栄西入宋の年、三尾の一つである高雄山神護寺には一人の荒法師が入寺した。
文覚上人といえば、知られた名である。
それより前、上西門院北面に仕える、遠藤盛遠という武者があった。
美しい人妻に想いをかけて諦めきれず、直接行動に出ようとした。
人妻は思い余って、夫を殺してくれればあなたの思召のままになりますと約束した。
或る夜、夫を一人きりにしておくからとしめし合わせた時刻に、盛遠は寝所に忍び込み、闇の中で柄もおれとばかりに喉もとを刺し通した。
と、血糊にまみれた長い黒髪が盛遠の手に巻きついた。
盛遠の真情を否みきれず、夫を裏切ることもできず、自ら死を選んだ女の名を、袈裟という。
恋人を我が手で殺した盛遠は絶望して出家した。
名を文覚と名乗る。

しかしこの激情的な若者は、絶望の世界に出てなおかつ行動的であった。
那智で荒行をつんで高野山に入ると、神護寺の荒廃を歎き、寄付を募って再興しようと思いたった。
しかも、さすがはもと北面の武士だけあって、隠然たる時の権力者後白河法皇に目をつけ、強引に直訴して朱印をもらうことに成功した。

『平家物語』はそのときのようすを事細かに語っている。
文覚が院の御所へ出かけてゆくと、法皇は陳情を聞こうともしなかった。
怒った文覚は庭へふみこみ、大声で勧進帳を詠みはじめた。
折から法皇の前には人々が並み居て、琵琶や和琴をかき鳴らし今様などを歌っていた。
法皇も興にのtって附歌をし出した折も折、文覚の大音声で調子ははずれ拍子も乱れた。
「狼藉なり、そ首突け」との声に、院の男どもが進み出た。
文覚はびくともせず、「高雄の神護寺へ荘園一ヶ所御寄付下さらない限りは、絶対に引き下がりません」と怒鳴った。

真っ先に詰め寄った資行判官は、だいじな烏帽子を打落とされて、ほうほうの体で床の上へ逃げのぼった。
文覚は氷のような懐刀を抜き放ち、左手には勧進帳を持って捕手の間を駆け回ったので、怯えた殿上人たちの目には、両手に刀を持ったように見え、上を下への大騒ぎとなった。
多勢に無勢、とうとう寄ってたかって引立てられながらも、文覚は御所を睨み、「文覚をこんな目にあわすなら思い知らせてやりますぞ。たとえ法皇だろうと天皇だろうと、地獄に行ったら鬼共の責苦を免れることはできないものを」と躍り上がり躍り上がり叫んだというから、たいへんな世捨人である。

文覚は勧進帳のなかで高雄の環境を褒めちぎったらしい。
たとえばこんな風に。
「・・・・・谷閑にして、商山洞の苔をしけり。岩泉むせんで布を引き、嶺猿叫んで枝に遊ぶ。人里遠うして、囂塵なし。・・・・・」(『平家物語』)
信心にはもってこいの地だ。
ここに寺を興すのに奨励金を出さない奴などくたばってしまえ、といわんばかりの勢いである。
袈裟に命がけの恋をしたように、文覚はこの景勝に惚れこんだのであろうか。
念願の堂宇がほぼ再興されたのは寿永元年(1182)、平家一門が木曾義仲に都を追われた年である。
文覚は長くここに住むつもりだったが、相変わらず事を起こしては佐渡にやられ、ついには九州に渡されて死んだ。

ところで、さすがの荒法師文覚も一目おいた相手がある。
或る年、山桜が谷あいにほのぼのと浮かんでみえる夕暮れのことであった。
一人の旅僧が、神護寺の僧坊を訪れた。
法華会に出席して、桜の花を眺め歩いているうち日が暮れてしまったので、一晩泊めていただきたいとねんごろな挨拶である。
名は西行と名乗るのをきいて、弟子たちはあわてふためいた。
文覚上人は常々、西行法師をこきおろしていた。
出家した以上は仏道に専心すればよいのに、歌など詠んでうそぶき歩くとはけしからん、会ったが最後頭を打ち割ってやろうと憤慨していたのである。

その相手が、知ってかしらずか、一夜の宿を乞いにきた。
弟子どもがうろたえているうちに、文覚は目ざとくみつけてほくそ笑みながら西行を招じ入れた。
いまにも喧嘩が始まるかと弟子ははらはらして控えていた。
その心配をよそに、文覚の部屋からは夜明け近くまで歓談の声が聞こえ、翌朝、西行はおもてなし有難うと飄々として立去り、上人は上機嫌で茶などたてている。

弟子たちが今度は、口ほどにもない師の不甲斐無さに腹を立てて問いただすと、文覚はすましかえって答えた。
「なんと頼りない法師どもだ。お前たちの目はふし穴ではあるまいな。西行を見たか。では聞くが、あれは文覚に打たれるような面魂か。どうして、文覚を打ち負かすほどの者じゃ」

歌人西行も、もとは鳥羽院北面武士であった。
政争に明け暮れる俗世を捨て、頽廃した仏門からも脱け出て飄然と旅にさまよう西行と、文覚とは、心の深みで通じ合うものをもっていたのではなかろうか。
そういえば西行の歌は、技巧の勝った『新古今集』のなかで直接的叙情をもって異色とされる。
一方文覚の直情怪行の裏に、すぐれた詩の心をかいまみる独断が許されるならば、歌人法師と荒法師のこのような出合いも、自然なものに思われてくる。

栄西・明恵・文覚・西行・・・・・彼らは俗世を捨てながら、もっとも人間に近くいる人々だった。
思えば、清滝は、彼らに相応しい地であった。
それは詩と宗教との相違う聖域ともいえよう。
その精神は清滝の流れとともに後世に伝えられ、育まれた。
「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫通する物は一なり。しかも風雅におけるもの造化にしたがひて四時を友とす」と論じた芭蕉も、この地を訪れて一句をものした。

 清滝や波に塵なき夏の月

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■ 一条戻り橋

ここは、北山に源を発し紙屋川の水を集めて南下した堀川と、上賀茂から小川通りを流れ一条に沿って西行してきた小川とが出合う地点である。

延喜といえば、天暦と並び称された平安朝の黄金時代である。
その十八年十二月の或る朝、しめやかに橋にさしかかる行列があった。
雪をふくんだ黒雲のたれこめる下を、行列は一つの棺を守って進む。
悲しい喪のいろにいろどられながらも、棺の豪華さはおおうべくもない。
それもそのはず、棺の主は時の文章博士兼大学頭三善清行であった。
詩文ばかりでなく政治の実務にも優れ、前年宮内卿・参議に任ぜられた人である。
さしずめ文化人都知事とでもいったところであろうか。
町の人々には、陰陽道をきわめた善宰相として親しまれ、五条堀川の空家から鬼を追出して住んだなどという逸話も多い。
とはいえさすがの万能宰相も死はまぬがれえないのであろうか。
葬列を前に、人々は今さらながら生死の重大さをみる心地がした。
しかし、一条の橋にさしかかると、いまにも清行が法力をあらわして生返りはしないかという怪しい期待にもとらえられるのであった。

そのとき、はるか南の方からかっかっと馬蹄の響きが近づいてきた。
はっと身を沈める人々の群のなかへとびおりた男は、宰相の棺にとりすがって慟哭の声をあげた。
人々はどよめいた。
それは清行の子、浄蔵であった。
紀州熊野で修行中父の死をきいた浄蔵は、夜を日についで駆けつけ、いまやっとこの橋の上で父の野辺送りにまにあったのである。

ひとしきり身も世もあらず泣きもだえた浄蔵は、ふいに顔をあげ、念珠をおしもんだ。
旅やつれした浄蔵の頬を、憑かれたような痙攣が走り、祈りの声がその唇からほとばしった。
熱誠をこめた浄蔵の祈りはしだいに高まり、橋桁を震わせ、堀川の流れもせきとめるかと思われた。

その時である。
にわかに地は闇に包まれ「浄蔵。浄蔵」という声が虚空に轟きわたった。
おどろきおそれてひれ伏した人々の上を、閃光が西の空へとよぎった。
その光のなかで、棺の中から身を起こし浄蔵と抱き合わんばかりにして語り合っている清行の姿を見たという人が、一人増え、二人増え、噂となって都にひろがった。
それは冬雷のしわざだと、さかしらにいう者がないでもなかったが、人々はとりあわず、ついにはこの橋を「戻り橋」と呼ぶようになったという。

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■ 五条大橋

月のいい夜、五条大橋の上からりょうりょうと笛の音が鳴り響いて、鴨川の水をわたってゆく。
固唾をのんだ弁慶の前に、笛の音の方角から静かに歩いてくるのは、一人の童子である。
女の被衣をかぶって、一心に笛を吹きながら来る。
「何だ、子供か」ちっと舌打ちをしかけた弁慶の目に、童子の腰の刀がうつった。
「や」絶品らしい。
弁慶は躍り上がった。
今宵こそこの刀を手に入れれば、念願の千本の刀がそろうのである。
弁慶は両手をひろげて立ちふさがった。
 牛若丸はは飛び退いて
 持った扇子を投げつけて
 来い来い来いと欄干の
 上へあがって手を叩く

史実として確かめられる義経の伝説は、貧弱なものである。
鞍馬山で天狗に兵法を習ったという有名な話も、この五条の橋での弁慶との出合いも、室町期になって創られたものであろうという。
高橋富雄氏は、その著『義経伝説』のなかで、義経の歴史が実録から物語へ、さらに伝説へと発展していった過程を興味深く分析している。
それは義経への消極的同情から、歴史をつくる明るい英雄の物語への転化といえる。
人々は、義経のなかに自分自身の無限の可能性を夢み、義経とともに生きはじめる。
氏はこのような英雄伝説をつくりあげた人々の心を、ギリシャ神話のナルシスの心になぞらえ、「それは純粋な形では美しいロマンに結晶するが、くずれた形では醜いおのれの独りよがりに落ちこんでしまう」と釘をさしてもいる。

ともあれ、義経の伝説がこのように人々の血肉と化している以上、たとえ現在の五条大橋が、義経の生きていたころの橋とはまったく別の位置にあるのだと聞かされても、神童牛若のはなれわざを空想する妨げとはならない。

平安京の五条大橋は、いまの橋よりも北、松原通りに架かっていた。
もちろん、松原通もその頃は五条大橋と呼ばれていたのである、
嵯峨天皇の勅定により百余間の橋を架けたという記録がある。
その後数百年のことは詳しく分からないのだが、清水寺本願成就院から諸国緒人に勧請して再建したので、勧進橋とか清水橋とか呼ばれたこともある。
橋の位置ばかりか街の名前まで変えられたのは、天正年間(1573〜92)のこと。

頼朝と義経との対立は、政治の倫理と人間の情との対立だったといわれるが、義経はいつも政治には弱いとみえ、ゆかりの橋の架け替えにも政治の必要がはたらいてくる。

秀吉が伏見城から内裏へ御機嫌伺いに、実のところは公家へのデモンストレーションもかねて、しばしば参上する道筋からいうと、もとの六条坊門通り、いまの五条通りに橋が架かっている方が、ずっと便利だったのである。
そのため秀吉は、強引にも橋を南へ移し、ついでに街の名前まで変えてしまった。

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■ 三条大橋

三条大橋の欄干の擬宝珠は石川五右衛門が三条河原で処刑されるより四年前、天正十八年(1590)につくられた。
豊臣秀吉が、増田長盛を奉行として改造したもので、日本で初めての石柱の橋である。
三条大橋は東海道五十三次の終点で、この橋を渡り終えれば道はまっすぐ京の中央に入りこむ。
徳川の世になって幕府が江戸におかれ、商業が発達するにつれ、橋のあたりはますます賑やかに旅館が軒を連ねるようになった。
橋にもたれて取引を思いわずらう商人や、賀茂の友禅をながめて江戸に残した妻子を懐かしむ旅人や、剣術修行の浪人者や・・・・・ありとあらゆる人々が、この橋の上を往き交った。
はげしい往来にも堪えるよう、橋は元禄年間にも、何度か修復された記録がある。

徳川三百年の太平を覆す地鳴りのような一揆や打ちこわしが全国に起こり、お蔭参りの群集が伊勢へと旅立つ光景も見られた頃、幕府を批判する政治的な動きは、その弾圧にもかかわらずいっそう激しくなった。
安政六年(1859)安政の大獄、翌年(万延元年)桜田門外の変、そして文久二年(1862)四月、京都伏見の寺田屋事件がおこる。
老中安藤対馬守襲撃事件で幕府の公武合体論がくずれさったあと、島津久光ら雄藩連合論者が勢いをえたのだが、久光は過激な尊王攘夷派を嫌い、藩主自らの命令で自藩の志士たちを切るという、いたましい事件があった。
この後薩摩藩の尊攘派は一時勢いをなくすが、土佐・長州の動きは激しくなる一方であった。

三条大橋は、この血なまぐさい政争の真っ只中にあった。
安政の大獄で勤王派を弾圧した役人たちが、木屋町や先斗町で遊んでいる最中に襲われ、暗殺されるという事件がひっきりなしに起こった。
その血は鴨川の水を染め、首は河原に晒されて黒山の人を呼んだ。
土佐勤王党の盟主武市半平太は、三条大橋や東山を見渡せる料亭”丹虎”に住んで薩長土の連絡や朝廷工作に走り回ったし、天誅組をひきいて大和五条代官所を襲った吉村寅太郎も、その隣に住んでいたことがある。
しかし、文久三年(1863)八月十七日の吉村らの企てが失敗し、八月十八日の政変で、幕府側に立つ会津・薩摩両藩によって長州・土佐の志士たちが京都から追出されると、尊攘派は苦境に陥った。

元治元年(1864)六月五日夜、三条小橋西入る池田屋での乱闘は、こうしたなかで起こった。
前の晩、尊攘派の志士たちの会合場所枡屋が新選組にかぎつけられ、古物商に化けていた古高俊太郎が捕らえられて、諸侯暗殺計画が発覚しそうになった。
肥後藩の宮部鼎蔵、長州の吉田稔麿ら二十数人は、五日池田屋に集まって蜂起の手はずをととのえた。
しかしその夜、粛々として池田屋にむかう一隊があったのである。
池田屋に着くと、頃を見計らって内から戸を開ける者がいた。
新選組のスパイ、山崎烝である。
近藤勇以下、隊士らはいっせいに切り込んだ。
池田屋の二階は凄絶な乱闘の場となり、階下への退路も屋根伝いの道も塞がれた志士たちは、一時間余りの戦いの後九人が切られ、四人が重傷を負い、五人は捕らえられた。
新選組の人数は五十。
その上会津・桑名の兵三千が三条付近を警戒し、さすがの近藤勇も命拾いしたと後に語るほどの激しい戦いだった。

若い志士たちはこうして果てたが、犠牲は黙って見過ごされはしなかった。
七月、長州藩は兵を進めて都に上がり、蛤御門の変を起こす。
長州藩はここでも敗北し、幕府は二度にわたって長州征伐を計画するのだが、とうてい、時代の流れをおしとどめることはできない。
1866年二度目の長州征伐の際には、大坂や江戸の打ちこわし・百姓一揆にその土台をゆすられ、薩摩藩の出兵拒否にあい、高杉晋作のひきいる奇兵隊に散々悩まされて、幕府の権威は地に落ちるにいたった。
坂本竜馬らの公議政体論勧告が成功して、徳川慶喜が大政奉還を決意するのは翌年のこと。

涼風にさらされて、鴨川の床から眺める三条大橋は、そのような激しい時代を経てきたとは思えない澄んだ流れの上に優しい曲線を描いている。
橋は、このように静と動とをはらんで、いまも京の街に生きつづける。

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■ 京の名水

土用の丑の日、下賀茂神社は賑わう。
てんでに松明をもち、御手洗の泉に足をひたして祈るという風変わりな行事のためである。

石橋に立つと、御手洗の泉は細かな砂利を分けて優しく流れている。
祭神は瀬織津姫命。
社の下から、水はひたひたとあふれ出て玉垣の内をひたしている。
矢取神事にはここで裸体の若者が争うというが、いくら夏でも裸でぶつかったらふるえるよな水である。
昔の人は歌にも詠んだ。

 ききわたる御手洗川の水清み 底の心をけふぞみるべき (国基『金葉集』)

「底の心」とは、誰の心であろうか。

水といえば茶。
茶の味は水の良し悪しによってその真価が発揮されたり、またはその逆ともなる。

有名な上田秋成の茶の書『清風瑣言』は、かくれた研究家である大枝流芳の『青湾茶話』を、ちゃっかりと拝借して書かれたという説がある。
その流芳が京の名水の筆頭に上げ、「其水甘く冷なり」とたたえたのが、いまの御手洗川。
二番目に、賀茂の水には劣るけれども「水甚淡く茶の可否大にしるるなり」と推奨しているのは、祇園下河原の菊水である。
高台寺の門の北方民家にあるという。 *個人宅のため住所は書きません* 村田食料品店
西側に「下河原、菊水」、北側に「正保 甲申 暦」の銘がある。
本などにはこのあたりの谷を菊渓といい、井戸と水流が通じているので菊水と呼ぶのだろうとあるが、民家の主人の話では、水の湧き出る様が菊の花びらのようなので、この名があるという。
今は蓋がしてあるので覗くわけにはいかないが、清涼な水のかがよいをふと見るような気がする。
太閤秀吉は好んでこの水で茶をたててのんだ。
先代までここでやっていた料亭も、水にちなんで”菊の井”と名のった。
いまは真葛ケ原に移っているが、やはり菊水のゆかりで客には抹茶をたてて出すそうである。

京都の夏が暑いのは、湖底に土砂が積もってできた盆地だからというが、湧水が多いのもまたそのせいだとすれば、湖の功罪はいずれとも決めかねる。
吉田神社の明星水(落星水)を加えれば、江戸時代の都の三名水がそろって現存するといえるのだが、惜しいことに吉田の明星水はなくなっている。
もと大元宮のそばにあったが、いまは案内記にものせていない。

因みに、明星水とか落星水とかいう井戸はほかにも多くある。
その一つ、黒谷栄摂院の明星水は、奥庭に迫る山かげに静かな水をたたえている。
直径一・五メートル以上はあろうか、自然石で組んである。
徳川家康の直臣木俣守勝が京都勤めをしていた頃、黒谷の貫主琴誉上人が同じ三河の出身だったので、守勝はなつかしんで天正十七年栄摂院を建て、上人をその開基とした。
山ふところの清水に明星が天降って菩薩があらわれたので明星水と名づけ、以来皇族や公家に茶の湯をすすめたという。

醒井通六条佐女手井町にある醒井も、またの名を左女牛明星水という。
室町時代、茶道の祖村田珠光はこの水を愛してかたわらに住んだ。
銀閣寺に住んで東山殿とよばれた将軍義政も、時々ここへやってくるほどの名水だった。
その後百余年を経て、織田信長の弟有楽斎が廃墟を歎き、石垣を築いた。
天明の大火の後、堀川が浅くなり町家の下水が流れ込むので、水質が悪くなり飲めなくなってしまった。
しかしその後も、この井戸を守ってきた人々の碑文がかたわらに刻まれている。
また、なじみ深い源義経の堀川館で使われた水であるという伝説が残っていることをみても、町の名にまでなった醒井がいかに人々から愛されていたかがわかる。

町名の由来になった井戸は、たとえば一条堀川東にあった草紙洗の水もそうである。
謡曲「草紙洗」に、小野小町が大伴黒主と和歌を競った話がある。
小町を陥れようとして、黒主は歌合せの前の夜ひそかに小町の邸に忍び込み、小町の詠草を盗み聞きしてしまう。
それを万葉集に書きこんでおいて、歌合せの席に持ち出し、小町の歌は盗作だと中傷するのである。
覚えのない証拠を突きつけられた小町は、しろがねのたらいに水を汲ませてその万葉の草紙を洗いあげた。
黒主の書入れした部分だけが、ついには一字も残らず消えてしまい、小町はピンチを切り抜けた。
憂いに沈んだ小町が半狂乱で草紙を洗った水が、この井戸の水だと言い伝えられ、町の名を小町通りという。

しかし、一名清和水ともいうこの井戸は、安倍晴明が占いに使ったという清明水とともに、いまは跡形もない。
もと織物の会社があったというその場所は、印刷会社の敷地になっている。
昔は水のほとりに榎木があったらしい。

少将井町は烏丸通竹屋町から夷川上がるまで、少将井御旅町は車屋町通竹屋町下がるから夷川までの所をいう。
祇園祭の神輿の一つが少将井を御旅所とするならわしがあったそうだし、疫病よけのいわれもある。
井戸はなくて塚があるだけ。
「少」の字と「旧跡」という字しか読めないが、恐らくここに少将井社があったのだろう。

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■ 京で上がりの初日の出(京の七口)

 トントンとろりと戸を開けりゃ
 チュウチュウ雀が鳴いている
 何かご用と聞いたれば
 おてんとさまをお迎いに
 あの山越えて 里越えて
 振り出す旅の絵すごろく
 五十三次 トントロリン
 ころり振り出すさいころに
 京で上がりの初日の出
 ちょうど一貫かしました。

桃割れ時代を懐かしむ手まり歌、「京で上がりの初日の出」である。

いろいろの種類のすごろくがあったが、そのなかでも東海道すごろくは、もっともポピュラーなものであったろう。
旅すごろくの上がりは決まって京都。

わらべ歌や絵すごろくにまでとりあげられた旅の終着点、京都は歴史においても、まさに交通の終着点であり、出発点でもあった。
千年も王城があり、政治経済の中心地であったとすれば、京都へは全国各地からあらゆる階層の人が、ある人は政治的意図をもって、ある人は京へ商いするためにのぼってきた。
また逆に、京でできた珍しい商品をかついだ商人や、中央の政治情勢を伝える飛脚は、京をあとにして出発していった。

 面白いは京下りの商人
 千駄櫃荷うてつれは三人なり
 千駄櫃には多くの宝が候・・・・・

この歌は、広島あたりですでに鎌倉期の末ごろからうたわれていたのであるが、京商人によって当世流行の京櫛や京織物がどっと地方に流れ込んでいた様子がわかる。
そしてこの京商人がもたらしてくれる京の話。
それは時として政治の話もあったろうし、娘心をくすぐるお姫様の物語もいささかオーバーな表現で語られもしたであろう。

京を中心にしていきかう人々の群れは、時代を経るにしたがって大きくなっていった。
ことに室町ごろになると、全国各地へ出入りする街道口が”京の七口””安城之七路”という呼名とともにできあがっていった。
この”京の七口”は江戸時代に入るとまた変化するので、同じ”七口”でも中世の”七口”と近世の”七口”とに分けられている。

中世の七口といわれるものを列挙してみると、鞍馬口(艮口)、小原口(八瀬口・北陸道)、今道之下口(北白川・東山道)、鳥羽口(西街道)、東寺口(山陽道)、西七条口(山陰道)、長坂口(丹波道)があり、このほかに粟田口(東山口・東海道)、西三条口、伏見口(南海道)の三口が数えられている。
近世になると東三条口(粟田口)、伏見口、鳥羽口、七条丹波口、長坂口、鞍馬口、大原口があげられている。

ところで、中世も室町、それも東山時代といわれる後期の八代足利義政将軍のころ、この”京の七口”には関が設けられ、率分所というところで、関銭が徴収されていた。
率分というのは、薪炭雑物にある率をもって税をかけるところから名づけられた名称であるが、関銭と同じ意味である。
しかし、この関銭も義政時代になって急に設けられたのでなく、古くは鎌倉末、南北朝期にまでさかのぼることができる。
義政時代の関銭徴収は、とにかく伊勢皇大神宮や禁裏造営の費用調達という大義名分がついていた。

だが、室町幕府の関銭徴収というのは、いままで山科家や万里小路家などの公卿がもっていた徴収権利を奪い取ったうえで、行われたものである。
しかもこの関銭徴収には、うしろでリモート・コントロールするものがいた。
その黒幕、それこそ義政夫人、日野富子であった。

日野家は、三代将軍義満に女をとつがして以来、代々将軍家の室として、この家からだすならわしみたいなものができあがっていた。
だから富子も、ごく自然に義政夫人になってしまったわけである。
今日からいえば、まことにひどい血族結婚であるが、皇室、貴族においてさえ似たりよったりのやり方が行われていたのだから、将軍家・日野家をとりたてていうほどのことはなかったかもしれない。
平安時代には、藤原氏が、こういうやり方をして、権力をほしいままにしている。
これと同じように日野家も大変な権力を手に入れたことは、まず間違いない。

富子も先例によって義政夫人になったときは、まだ十六歳。
それからまもなく二女を生んだ。
しかし、男子が生まれない。
このころから実は義政と富子との間は、うまくいかなくなった。
義政が後継が生まれないとして弟の義視を次期将軍に据えようとしたからである。
富子の年齢は、その時二十五六歳。
女盛りである。
この女盛りの肉体であるにもかかわらず、義政が富子に世継ぎが生まれないとしたのは、いささか早計であった。
夫婦のなかは、ますます冷却するばかりである。

さて、義政のほうであるが、この将軍、政治にはまことにうとい男であったが、遊びにかけては天下一品であった。
京中が飢饉で八万人にも及ぶ死者がでて、鴨川がその死体でうずまっているという有様なのに、室町御所を平気で大枚の金を費やして修理するという神経の持ち主である。
さすがに時の天皇、御花園天皇もこれにはあきれかえって詩を送って義政をいさめたぐらいである。

能楽者をあつめて歌舞の宴をはったり、朝から晩まで酒の飲みどおしという、ドンチャン騒ぎをやらかすかと思えば、連歌師を集めて連歌の会。
それも大将軍であった義満を念頭においてのことであるから、まるきり始末が悪いのである。
義視をいち早く将軍にしようとたくらんだのも、自分が早く隠居して義満的生活をやりたいという、分不相応の考えから出たものだった。

政治に弱いというのは、まだよいが、おまけにこれまたすこぶる付きの好色である。
これも義満を真似たのかもしれないが、その好色ぶりも実力があってのことではないから、女のいうままになってしまう。
女には滅法弱く、政治の口ばしにもいいなりになってしまうという体たらくである。
京童の落首はこれを風刺して
 政三魔に出ずる也。 御今、有馬、烏丸
といった。
御今というのは大館氏の女のことで、それに有馬・烏丸の女が妾となって義政の政治を自由自在にあやつっていたのである。
もう義政の政治はなきに等しいものであった。

義政がこのように女狂いすれば、御用がなくなった富子としては頭にくるのは当然である。
肉体もまだまだ若々しいし、また日野家出身の正室としての自尊心が許さない。
平凡な良家の女であれば救われたであろうが、なまじ頭が切れるから、よけいに事は面倒になる。

旦那が女狂いすれば、妻としてはヒステリーを起こして旦那にくいつくか、もうあきらめてただ子供の成長をたのしみに隠忍自重してしまうか、どちらかのケースが多いのであるが、富子はその両方でもないのである。
そこへもってきて、富子に男子が出生した。
義政は義視をおしていたが、実子義尚ができた以上、富子はがぜん高姿勢となって義尚擁立の画作をはじめた。
はじめは山名宗全にたよって、ついには応仁の大乱をまきおこす原因を作ることになったのである。

京を焼野原にしてしまうこの応仁の大乱、東軍(細川)西軍(山名)にわかれて大乱戦を行うのであるが、その戦況の推移はともかくとして、この東西両軍の戦費が実は富子の資金から出ていることである。
それもただ貸してやるだけではない。
ちゃんと高利の利子をとっているのだから、何をかいわんやである。
まことに理財にたけた恐るべき女子である。

この富子の資金源は、いうまでもなく、さきにふれた関銭である。
大乗院寺社雑事記という記録によると、関銭を「内裏のご修理と号して、莫大なものを納めさせているが、修理というのは有名無実、一向御台の御物に成っている」と批難しているが、早い話が、富子が全部くすね込んでしまっているのである。
奈良興福寺の僧尋尊なども「ただ一天下の料足は、この御方富子にこれあるようにみえる」と書いている。

とにかく天下おしなべて、このえげつない富子の蓄財方法に憤慨したのだから、関銭徴収によって実害を受ける一般庶民が怒って蜂起したのも至極あたりまえのことだ。
この土民一揆は、文明十二年におこったが、京の七口全部が土民に占拠され、破壊されたとき、大乗院の僧侶は「珍重々々」として拍手かっさいを送っている。

近世に入ってからは、こうした関銭徴収を行うことは、なくなったが、新しい政治経済の発展に応じて、京の七口はしだいに変化をとげて、ある口はさほど重要でなくなり、ある口は、街道の整備とともにさらに重要視されて発展していった。

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■ 粟田口(東三条口)

「江戸より京への入り口は三条大橋なり」と『見た京物語』にはかかれてあるが、京から江戸に行くときは、ここが出発点である。

粟田口(三条口)、普通この街道の入り口はそう呼ばれるが、京の人は、西三条にも嵯峨、嵐山へ抜ける街道があるので、これを東三条口ともいっている。

この東三条付近の鴨川東側(東石ともいっている)から四条にかけては茶屋町がずらり、軒を並べていた。
北座、南座という芝居小屋があったため、この繁盛となったのであるが、とにかくそのなかでも陰間茶屋は有名であった。
芝居を終えた歌舞伎俳優が、性的不満をもつ、金持後家から座敷によばれて、一夜の激しい情痴をくりひろげるのである。
もっと手っ取り早くいえば、若きツバメである。

もっとも、この俳優たちは、後家ばかりに奉仕するのではなく、おかま好みの旦那衆にもサービスこれつとめたというから、前と後ろの両刀使いである。
世阿弥いらいの連綿たる伝統というべきか。

 よしのとげ折れ込んで後家大騒ぎ
この川柳じたいは、江戸葭町の陰間茶屋で妊娠した後家さんのことであるが、京でもこんなことが、たびたびあったことは十分に考えられる。
東西を問わず色の道はきびしいものである。

そうしたにぎわいを見せる、東三条を東へ白川橋をこえると、粟田口(東三条)に到着する。
この辺りからが本格的な東海道となる。

しかし、以前は洛外の粟田刑場があった町はずれであった。
京都市内に残る町組の古文書をひっくりかえしてみると、粟田口はなかなか重要な出入口であったことがわかる。
京都所司代、町奉行が交代して入京するとき、京都各町組の町年寄や町代が、粟田口にまで出迎え、それぞれ御目見得するという、京へ入るまでに重要な儀式が行われたのである。

粟田口の歴史は古い。
平安の『延喜式』にも粟田庄という庄園の名が出てくるし、京都近郊の重要な庄園であったようだ。
粟田口の旧村名をみてみると、字鍛治とか、鍛治の池とかいう地名があって、このあたりは平安の昔から有名な刀匠が居住する地域であった。
そういえば三条小鍛治宗近の宅址というのが華頂山にある粟田社の北側に残っている。
この宗近十一世紀初めの長和三年ごろに死んだ往時のならぶものなき名匠といわれた人であり、別名粟田の藤四郎ともいった。

 宗近はそら恐ろしき手間を入れ
名刀を作るには、刀匠の精魂かたむけた努力が必要であったが、宗近などはそのさいたるものであったのであろう。
江戸時代になってもこのような川柳が生まれたのだから。

あるとき宗近は一条院から刀剣の製作を依頼された。
かれは畢生の名刀を作るために、日ごろ信仰する伏見稲荷に願をかけた。
願が聞き入れられたのか稲荷大明神の使いである狐が、手間取り職人となって宗近の刀剣製作を手伝ったという。
出来ばえは誠に立派なものであった。
宗近は稲荷の神助を受けたこと記念してこの刀剣に小狐丸という銘をつけたといわれている。

名匠につきものの宗近のエピソードは、このほかにもいろいろある。
例えば祇園祭の山鉾巡行の先頭を切る長刀鉾は、悪魔払い、悪疫払いの霊験あらたかなものとして有名であるが、この長刀は宗近の鍛えたものが、飾られているといわれている。
しかし当時は宗近であったかもしれないが、現在のものは日蓮宗徒が京都で一揆を起こしたとき使用されたものだ。
長刀の銘によると天文五年(1536)の日蓮宗退治のとき分捕った戦利品で、それを買いうけ祇園社に寄付したものと彫られている。
制作年代も大永二年(1522)とあり、三条鍛治といっても左衛門助長の作である。
粟田口三条鍛治といえば、並外れて有名であった宗近の作とされるのも人情のなりゆきではないだろうか。

粟田口は名匠の居住地としてばかり有名であったのではない。
近世初期には、近辺の良質の陶土の発掘によって京焼の窯があたりをうずめ、陶工たちがいそがしく往来し、いわば京の陶業地としての地位を確立していた。
茶器類をはじめとして、かなりの日用雑器がこの地で京の需要をまかなっていたようである。
近世中期以降は、粘土の関係で陶業地が移動し、五条坂(清水坂)がその中心地になりつつあったが、それでも落ちぶれたとはいえ、数々の名工を生んだ。

仁阿弥道八、青木木米はその代表的な人たちである。
初代道八は京都の伝統を受け継いでいたが、二代道八も青蓮院に可愛がられて多数の作品をこしらえている。
しかし、二代目は江戸後期になって五条坂に移住している。
その前後にあって、交趾写し、呉須写しなどの写しもので特異な才能を発揮したのが青木木米であった。
もともとは美濃の出身であるが、才能に恵まれ、書もよくし、各地でいろいろな陶器を焼くなど、その活躍はめざましい。

鍛治の地、陶業の地として名をはせた粟田口を出て、華頂山の麓を通り過ぎてゆくと蹴上にいたる。
蹴上には、蹴上水として清水が流出し、京を出入する旅人が汗をぬぐい、喉をうるおすところであった。

承安の昔、源義経遮那王は、金売り吉次にともなわれて陸奥へ逃げ延びようとした。
鞍馬寺を抜け出した遮那王と吉次との落合場所は、粟田口日吉社十禅師の前である。
一行はここから東海道を下って陸奥に行く段取りなのである。

義経遮那王は、十六歳の少年、いでたちの時は薄化粧に眉を細くつくった稚児姿である。

蹴上のあたりまで来たとき、遮那王は、平家の侍関原与一に戯れをうけた。
この戯れというのは具体的のどういうものなのかは判然としないが、義経の美しき稚児姿に、くだんの侍むらむらと欲情でもわいたのであろうか。

しかし、義経はこれを拒絶した。
怒った侍は、義経に向かってこの水を蹴り上げた。
「無礼」とばかり義経は刀を抜くが早いかこの侍を切り捨てたという。
それ以後この水は蹴上水という名がつけられたというが、真偽のほどは保証しかねる。

『都名所図会』にも「牛若の美少年に戯れ」とあるから、そうでなくても衆道(男色)全盛の時代ゆえ、「よか稚児、今晩可愛がろうか」などという戯れもありえたかもしれない。
しかし、なんといっても逃走の途中、粟田口付近で人殺しをやったというのもいささか眉つばものである。

とはいえ、日のないところには煙はたたぬというから、蹴上水にまつわる「美少年」への戯れもどこかで起こりえたことであるかもしれない。
義経も稚児として鞍馬寺に起居していたから、衆道の洗礼は十分にあったとみてよい。
『義経記』の「われならぬ人の訪れて、通らん度に、さる者これにありしぞとおもひ出て、あとをも弔へかしとおもはれければ・・・・・・・」などという一節を読んでみると、この辺り衆道のにおいがぷんぷんする。

ただし、義経が「美少年」であったかどうかは、一説には背は小柄、色は白いが出っ歯のブ男であったというから、その説どこまで信用してよいかわからない。

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■ ”鴨川の水”

賀茂川にまつわる一番古い物語も、男女のロマンスから始まった。

神代のころ、賀茂川は”清川 すみかわ”とか”瀬見小川 せみのおがわ”と呼ばれ、清く澄んだ美しい水が流れていた。
この美しい水明の地を最初に開いた神が、賀茂氏族の祖神とされる賀茂建角身命であった。
かれはもと神武東征を案内した神といわれ、はじめ、大倭の葛城山から相楽郡の岡田の賀茂に移り、さらにこの”清川”をさかのぼて北の山のふもと賀茂にきたのである。

かれは妻の神伊可古夜日女との間に二人の子供をもうけた。
その娘、玉依日売は成長すると大そう美しくなったという。
京美人は賀茂川の産湯で洗ったからだという伝説も、その話の発祥はここいらにあるかも知れない。
それはともかく、この美しい娘が、ある日、賀茂川に川遊びに出かけた。
かの女が川底の綺麗な小石を拾い集めていたのか、あるいは川魚の泳ぎたわむれる姿を眺めていたのか、それはわからない。
おそらく美人娘のことゆえ、自分の着物などをきれいに洗たくしていたとも考えられよう。
そうこうしていると、そこへ川上からするすると一本の赤塗りの矢がかの女の足元へ流れてきたのである。
何気なくかの女がひろいあげてみると、実に見事にこしらえた赤塗りの矢であった。
そのまま捨ててしまうのも惜しいと思って家に持ち帰ったが、どうにも実用的な獣を仕止めるための矢でもないようだった。

その夜、かの女はその見事な赤塗りの矢をまくらべに飾って眠ってしまった。
ところが、夜も更けてくるころ、その赤塗りの美しい矢はいつの間にかたくましい一人の若者の姿に変わっていたのである。
かの女と若者は、たちまちにして激しい情熱を燃やした恋におちいったのだ。

しかし、よく考えてみれば赤塗りの矢が美男の若者に変化する道理はない。
あんがいにその真相はよばいの若者であったかもしれない。
もともとよばいの風習には、たがいの男女が、あらかじめ意思を確認し、それから一夜の情を交わしあったものだ。
だから、おたがいが好意をもちあわないとよばいは成立しないことになる。
よばいは大体において村の娘や、ときには人妻のところにしのんで通ったものであるが、村長や寺社などの地位の高い家の娘には決して村の若者が侵入することはなかった。
そのため、玉依日売は賀茂氏族の娘であり、村の若者もしのんでゆくには相当の勇気が必要であったのだろう。
だが、玉依日売も年ごろの美しい娘である。
ましてや村の若者たちから羨望の目でみてもらいたいという女性特有の欲求もあったと思われる。
それが、たまたま小川での出会いになり、たくましい村の若者の意にほだされて一夜の愛を約束するということではなかったのか。

こうして玉依日売は十月十日の後、男の子を生んだ。
やがて男の子が成長すると、祖父の賀茂建角身命は大きな屋敷を建て、沢山の酒を仕込んで、成人した孫の祭礼儀式のために村人たちを集め、七日七夜ぶつづけの大酒宴を開いたのである。
宴がたけなわになると、祖父は孫の男の子にむかっていいきかせた。
「お前の父と思う人に、この酒杯を飲んでもらいなさい」
すると、男の子は酒杯を恭しく天上にささげたかとおもうと、突如として屋根を打ち破り、天空の彼方へと飛び去ってしまったのである。

この物語にある赤塗りの矢は火雷命であり、男の子は賀茂別雷命といってともに上賀茂神社の祭神となった。
いうまでもなく、この話は神話であるが、八世紀初めに編集された『山城国風土記』の賀茂社の一節には、すでに賀茂川のラブロマンスが秘められ、農民の”雷神信仰”の話が残されている。

この神話は賀茂氏と呼ばれる人たちによってつくられたものらしいが、雷は雨を降らせる神と考えられ、古来より農耕の水と深い関連性をもっている。
だからこそ、賀茂氏の雷神伝説は、往古の以前から京都賀茂川の上流筋で農耕生活が営まれていたことを示す材料とされるのであろう。

北大路橋をさらに下ると出雲路橋が架けられている。
このあたりは出雲郷と呼ばれ、奈良の正倉院古文書に『出雲郷計帳』(神亀三年・728)が残っており、賀茂川のほとりに住みはじめた人間の生活を語る文献のもっとも古いものの一つである。
この出雲郷には古代人民が雑徭という苦しい労働税を課せられたために、多くの農民がいくたびか逃亡をはかったことであろう。
また、偽籍といういつわりの戸籍をつくって、何とか重税をごまかし逃れんとした古代農民の抵抗の姿を、この鴨川は知っていることでもあろう。

いままで述べてきたカモ川は、賀茂川と呼んでおり、発音は同じであるが、文字の上では賀茂川と鴨川を本来は区別している。
しかし、京都のカモ川は、やはり上賀茂から流れる筋を鴨川の源流としてみることである。
大原・八瀬を南流する高野川は下鴨神社・出町柳のところで賀茂川と合流し、そこから鴨川となって一条から十条までを南下し、さらに横大路をすぎた羽束師橋近くで桂川にそそいでいく。

昔の鴨川は実に幅の広い地域を気ままに流れていたらしい。
東は繩手通りから西は寺町通り付近まで広い河原の間を南下していたのである。
しかし、ひとたび洪水が起こると市中は泥水に埋まったという。

白河法皇の有名なエピソードにも、自分の思い通りにならないものの一つに鴨川の水をあげている。
法皇にはまだ双六の賽の目と比叡山の僧兵が、ままにならぬものであった。

平安朝も中ごろをすぎ、京都が都市として発展してくると、家屋や橋などをつくる建築資材がどんどん必要になってきた。
そのため、北山杉や河川の上流地帯の森林が濫伐され、植林対策もなかったから、雨期になると鴨川が氾濫したのである。
洪水は悪疫をともない、田畑の流失は飢餓の原因をつくりだした。
こうした洪水・疫病・飢餓という悪循環は、いつはてるともなく鴨川の氾濫とともにくりかえされてきた。
鴨川ほど京都の人々を苦しめてきた川もすくないであろう。

一方、朝廷も防鴨河使という役所を設置したが、基礎的なかわざらいや築堤の工事すら放任しがちであった。
そのため、京都の人たちは、何とか自分たちの力を寄せあって、洪水の災害から逃れようと考えたのである。
日本三大祭の一つに数えられる祇園祭も、その真相はしだいにひどくなってくる鴨川の氾濫と、それにともなう疫病をはらうために、民衆によってはじめられた災病消除を祈願する祇園御霊会のお祭であった。

いま、四条南座の東側、大和大路東入ルに「眼疾地蔵」の堂が残っている。
これも安貞二年(1228)八月に鴨川の大洪水が起こり、市中は泥の海と化した。
そのとき、中原朝臣為兼は後堀川天皇の勅令で洪水の被害視察にでかけることになり、四条河原まで馬でやってきた。
すると、どこかで助けを求める声がする。
かけつけてみると、五、六人の人たちが地蔵堂の地蔵菩薩にとりすがり、あやふく命びろいをしていたのである。
そこでかれは、この地蔵を祭るために一寺を建立し仲源寺と名づけた。
当時の河原には人家もなく、にわか雨を避ける人たちが、この寺に駆け込んで雨宿りをした。
そこで誰ということなく、”雨止み地蔵”と呼ぶようになった。
それがいつしか「あ」の字がとれて”めやみ地蔵”になったという。
あるいは、はやりめが流行したとき、多くの人々が願をかけたので”めやみ地蔵”といわれるようになったのかも知れない。

こう見てくると、鴨川はいま考えるほど情緒のある川ではない。
殺伐きわまりない洗浄の巷と化したことは何度かある。
源平の合戦では、保元・平治の乱にも、この河原は戦場となり、多くの将兵の血が流された。
さらに承久の変、応仁の乱と絶え間ない戦いが繰り返され、幾度、名だたる武将の処刑がおこなわれたことであろう。

また、罪人の処刑場としても、鴨川の河原ほど多くの人間の断末魔の悲鳴を聞いた川はない。
処刑が行われたのは三条から七条までの間が一番多かったといわれる。
河原が処刑場として適していた理由は、まず処刑後の始末が簡単にできたこと、人々がよく集まる広い場所であり、公開の処刑がいい見せしめとなったことによっている。

天下の大盗賊、石川五右衛門も、文禄三年(1594)に捕らえられ、この河原で処刑された。
彼が処刑されたのは三条河原ともいい、七条河原ともいわれる。
その釜の流れ着いたところを「釜ヶ淵」といい、九条通り周辺らしい。
五右衛門の処刑当日、牢屋から連れ出され、見せしめとして市中引き回しの途中、京極松原通にさしかかった。
そこには森如軒という茶人が住んでおり、五右衛門が捕らえられる以前から親交があった。
その家の門前まで来ると、かれは大声をあげて「都で有名な茶人とのよし、茶を一服所望したい!」とさけんだのである。
如軒は表にでてみて、かれが天下の大泥棒であったのかと驚いたが、さり気なく茶碗に一服差し出した。
かれはさもうまそうに「あら心良や、末期の茶なり」といって飲みほした。
これが例になって、その後、罪人の末期の茶をここでのますようになったという。

こうして鴨川の河原は幕末の動乱期になると暗殺と処刑が繰り返される毎日がつづいた。
京都の町は勤皇佐幕の争いで、特に勤皇派の活躍する根拠地として、政争の中心となっていった。
新撰組の近藤勇、長州の桂小五郎、土佐の坂本竜馬といったじんぶつのエピソードは鴨川のほとりだけでも、維新の史跡として多く残されている。

鴨川の流れだけは、今日も変わらぬ都の永い歴史をたんたんとして物語っているようである。

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■ 伏見口

京から南へ下がるには、古来四つの口があった。
鳥羽口、東寺口、竹田口、伏見口である。
前の二つは西海道、山陽道へと連なる幹線であるが、後者の二つはともに伏見へと到着する。

とくに伏見口は奈良街道に直結する出入り口として有名である。
伏見街道ともいわれているが、山の麓近くを通っている。
その西側にもう一本通っているのが竹田街道。
現在でもこの二本の街道を使って伏見へ入ることになる。
『東海道中膝栗毛』の有名な弥次郎兵衛と喜多八は、京へ上がるのに宇治・伏見街道から京へ入ってきている。
ちょっと変わった入り方だが、京への観光コースとしてはなかなか味な歩き方である。

方広寺前、三十三間堂を通り過ぎて、東福寺の前にいたるが、これからが伏見街道に入ることになる。
東福寺を過ぎると間もなく稲荷社の麓、門前町に入る。

稲荷社は五穀豊穣の神、倉稲魂神を祭った社で京都開発の大恩人、秦氏の創建といわれている。
平安時代より朝廷、武家をはじめとして庶民の間にも信仰があつかった。
ことに江戸時代も半ばを過ぎた明和・安永のころ、徳川幕府の中枢にあって、権力をほしいままにしていた田沼意次は、この稲荷明神を深く崇めたといわれ、その結果ひきもきらぬお客から受け取った賄賂で財を成したという話が残っている。
それ以後全国津々浦々の庶民からの稲荷信仰は倍加したという。
こうなれば、まったくの悪玉扱いにされている田沼意次も、稲荷社にとって結構なお方というべきである。

弁才天信仰とともに、金儲けの神様の両横綱といってよい。

 稲荷山、松のふぐりにかゝれるは、
     ふどしのさがり藤のもりかな

十返舎一九は、稲荷社につづく藤の森でこんなものを書き残している。
「ふぐり」というのは男の金玉。
「ふどし」は「ふんどし」で、これにたれさがる「藤」とひっかけて、「藤のもり」ときたのだから、なかなか味なものである。
この藤の森より深草の里にかけては、平安朝以来、公卿その他お金持ち衆の別荘がずらり別荘を並べていたという。
そういえば、思い出すのは『好色一代男』の世の介、京都の長者町に豪壮な本宅を構え、藤の森にはこれ又別送をもっていたというから、古代から、江戸時代にかけての金持ちの夢は、市内に本宅、藤の森から深草にかけて別荘のひとつももつことだったらしい。

 やきものの、牛の細工に買う人も、
     よだれたらして見とれこそすれ

藤の森から、深草へ入ると街道の家ごとにやきもの、土細工を作っては売っていたので一九には、こういう句が浮かんだらしい。
深草の里、その名が示すように草深い田舎で、当時の貴人が好んで移り住んでいたようである。
したがって古今や新古今の和歌集にもこの里を読み込んだものが多い。

その一つ
 夕されば、野辺の秋風、身にしみて、
     鶉なくなり、深草の里 (藤原俊成)

この歌をまねて、一発茶化した歌がある。

 一つとり、二つとりては焼いて食ひ
     鶉なくなる、深草の里 (蜀山人)
江戸時代になれば深草の里も大分ひらけて鶉の声など聞くことはなくなったらしい。

ところで、深草の里で思い出すのが、深草の少将と小野小町の物語。
小町に恋こがれて、九十九夜通いつめ、百夜にあたって満願の日、少将は折からの大雪でついに凍死したという。
この伝説、史実からいえば、いささかあぶないのであるが、それでも墨染の欣浄寺には少将と小町の墓が残っている。
伝説などというものはあまりほじくりだしても意味がない。
それはそれで楽しいものである。

小野小町が永遠の処女であったかどうか、その辺のところはあきらかではないが、京都には

 小野小町と知恩院の傘は
     ぬれもせず、さゝれもせず骨となる

という狂歌が残っているから、とりあえず小野小町処女説に軍配をあげるべきか。

小野小町には「穴なし伝説」というものもある。この場合の穴とは膣のことで、あれだけ多くの男に言い寄られながらついに誰にもなびかなかったので、こんな伝説が生まれたのだ。ちなみに、裁縫に使う穴のない針を「待ち針」と呼ぶのは、「小町針」が語源だとの説もある。

墨染めの欣浄寺がでたついでに、撞木町の傾城町へ。
赤穂浪士で有名な大石蔵之助が山科から毎夜通った遊所である。
芝居では一力となっているが、本当は万亭である。
「万」を切り離せば「一力」となる。
題材が題材だけに、当時の幕府の弾圧を恐れた脚本家が傾城屋の名を変えたのである。
『膝栗毛』には「ここはすこしの遊所ありて、軒ごとに長簾かけわたしたるうちより、顔のみ雪の如く白く、青梅の布子に、黒びろうふどの半えりまで、おしろいべたべたつけたる女、はしり出て・・・・・」と書いて、

 すみぞめの、おやま(遊女)のかほの真白さは、
     石灰蔵のねずみごろも(法衣)か

と笑っている。
弥次さん喜多さんの目にはあまり上品の女郎とはうつらなかったらしい。

墨染を出ると伏見。
伏見は、「伏水」とも書いていたように、質の高い伏流水が湧き出ていたようである。
この水がまた酒造りにもってこいのものであったので、灘の五郷とともに、江戸時代からの酒の名産地。
その酒蔵にはかならずといっていいほど、弁財天が祀られてあるが、ある高名な学者は、この因果関係は「酒」と「女」といみじくも説明した。

伏見街道の行き着くところは伏見港。
淀船が大坂との交通をにぎわせたころは、ここは京都第一の港。

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■ 長坂から越えれば山国へ(長坂口)

長坂口 - 京の七口の一つで、今の京北町、北丹波山国庄へ通じる、いわゆる周山街道なのであるが、明治以後この街道が荒廃した。

長坂口の周辺、そこは深い山々にとざされ、水美しい紙屋川の流れが、人間とのつながりを思わせるようである。
天皇の火葬所として、京北七野の一つとして有名な蓮台野。
そしてあるときは華やかな緑につつまれ、突如としてもの悲しげに灰色に変ずる鷹ケ峰。
こうした環境に囲まれた地域は今日でも、その急速な住宅造成にもかかわらず、深く沈んでいる。

そのなかにあって、ひときわ目立つのが鷹ケ峰の景観である。
遠くは西山、北山の峰々が重畳として連なり、前方に迫る三峰、鷹ケ峰、鷲ケ峰、天ケ峰がそれである。
しかし、実際にこの三峰のうちどれが鷹ケ峰なのか、いっこうにさだかではないが、おわんをかぶせたような、女性の乳房を思わせるような美峰が鷹ケ峰であろうか。
そしてその周辺も鷹ケ峰村と呼ばれたのである。

江戸初期の頃は往来する旅人以外、おとずれる人とてない無住の地であった。
「鷹峰は王城の乾にあたり、丹波に通ずる道なれども、樹木茂り人家なき故、盗賊群居して行人を悩まし・・・・・」
「辻切追いはぎをもする所」
いろいろな記録には、このような言葉で書き残されている物騒な街道筋である。

しかしこの鷹ケ峰に集団移住した一群が現れた。
元和元年(1615)のことである。
集団移住の統率者は、京都の大町人、刀剣の鑑定、磨砥、浄拭の三事を家職とする本阿弥光悦である。
光悦は、家職の三事はもちろんのこと、かれの得意とする書は、近衛信尹、松花堂とならんで寛永の三筆と称せられ、同時に出版、造庭、陶芸、漆芸など多方面にわたってすぐれた才能を発揮した。

かれの近世初期教養人としての深さは、三藐院や松花堂、烏丸光広、小堀遠州、角倉素庵、林羅山、千宗旦など往時第一級の文化人との交流にもみられる。

光悦がどうしてこの地を自分たち一族の集団移住地として決めたのか。
その過程を『本阿弥行状記』は次のように書いている。
「権現様(家康)大坂御帰陣の御時、板倉伊賀守に御尋ねなられ候事は、本阿弥光悦は、何としたるぞと仰せ有ける。存命に罷在候。異風者にて、京都に居あき申候間、辺土に住居仕り度よし申上げれば、近江丹波などより京都への道用心あしき、辻切追いはぎをする所あるべし、左様の所をひろびろと取らせ候へ、在所も取立べきもの也との上意なり」

つまり、家康の命によって鷹ケ峰の地を賜ったというのである。

京都に居あきて、何処か新しい天地を求めようとしていた光悦にとって、この家康の命はまさに願ってもないことであったろう。
例え、「辻切追いはぎをもする所」であったとしても、光悦の目には鷹ケ峰は「麓に紙屋川水草清く、都の内にも、住みまされりと思うばかりなり」としかうつらなかった。

ところで光悦は、どうして鷹ケ峰に移住したのであろうか。
一つには、近世的な芸術集団としての理想郷をここに作ろうとしたことである。
いわゆる「芸術村」である。
もう一つには光悦の法華宗帰依による正法圏=寂光土の世界を築きあげるという、宗教的楽土の建設である。
『本阿弥行状記』にも
「信の志ある道心者を集めて昼夜十二時声絶やさず。替る替る法花の首題を唱へ奉り・・・・・」
と記している。

そういえば光悦は母妙秀の深い宗教的心情から、強く影響をうけていた。
したがって個人生活においても質素倹約を旨とする、禁欲的生活のあり方が、かれの破りがたい規律となっていた。
光悦の親戚筋にあたり、中世長坂口にあった紺灰座四家の家柄である佐野(灰屋)紹益は「我身をかろくもてなして一類眷属のおごりをしりぞけ・・・・・、住宅麁相にちいさきを好みて・・・・・、二畳三畳敷いずれの宅にもかこひて、みずから茶をたて、生涯のなぐさみとす」とありし日の光悦を評している。

法華宗に帰依した京都町人のなかには、本阿弥家をはじめ、尾形、茶屋、後藤、佐野、狩野、俵屋、楽など代表的人物が網羅されている。
そうしてこの人たちは、京都本能寺の開山であった日隆上人の「門流信心法度十三ヶ条」によって、他宗との血縁関係はなく、同宗結婚を行うのを例としており、結果として強い血族結婚が成立していた。
本阿弥家の場合、後藤、尾形、茶屋、片岡などの同宗結婚が何代にもわたって行われていた。

このような芸術と宗教の理想郷を求める法華宗一族集団移住の鷹ケ峰はどんな状況であったのだろうか。
元和年間の末から、寛永のはじめにかけて作られたといわれる「鷹ケ峰光悦町古図」からみると、屋敷は五十五軒。
人的構成は、光悦をはじめとする本阿弥一門と、その婚姻関係に限られている。

鷹ケ峰の入り口は、天正十九年秀吉が命じて築造させた、京の洛中を囲む”御土居”の切口(出入り口)を出たところにある。
正確には北西の洛外にあたる。
この切り口を抜けると、西側に光悦の孫光甫の屋敷跡がある。
「古図」による光甫の屋敷の構えは、「口十五間」のもの。
この光甫屋敷を左にみながら、ゆるやかな坂道を北上していくと、ちょうどこの道筋の中頃ほどの東側に光悦の居宅地跡がある。
間口六十間の堂々たるものである。
その真向かいには、縁者のおかた(尾形)宗伯が住み、その北隣には、これも血縁者になる京の代表的豪商、御朱印船貿易茶屋四郎次郎屋敷跡がある。
右に大きく傾いて、今にも倒れそうな碑に大きく「茶屋四郎次郎屋敷跡」と彫られているのが、このあたりのよすがを物語るようである。

この坂道を登りつめて、突き当たった所に、東西に貫通する道路がある。
T字型の交差になるが、この道路が長坂口に通ずる。
古図には「西への道すじ」「京へのみち」とあり、この道の両側に間口の狭い家がぎっしりと立ち並んでいる。
「かめ」「たけ」などという女性名から推量して、そこはおそらく光悦の芸術工房で働く職人や召使の居住地であろう。
いまは、その跡に小学校がたてられ、子供の喚声が、あたりの静けさを破っている。

この小学校を東へ、長坂口の方向に歩いていくと南側に光悦寺がある。
ここは光悦が移住してまもなく草庵を結んだところである。
寛永年間に入って、光悦はそのそばに法華題目堂をたて、日夜かかさず読経三昧に入ったという。
光悦の死後、大虚山光悦寺として日蓮宗(法華宗)本法寺の末寺となった。

光悦が作りあげたこの鷹ケ峰村は、やがて一族一門とは関係のないものが移住することによって、宗教的団結、血族的団結はしだいにうすれていく。
もちろん、芸術村としての存在もあやふくなってくる。

かくして延宝七年(1679)、光悦の曾孫にあたる光伝は、鷹ケ峰村の経営を放棄し、その地を幕府に返上した。

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■ 我が待つらん宇治の橋ひめ

三十万人という大群衆が押し寄せてくるのは”宇治のあがた祭”。

大祭の六月五日、夜半を過ぎると、すべての明り火を消して、暗闇のなかで梵天の渡御が行われる行事だ。
この梵天渡御の象徴するものは、県神社の女祭神である木花開耶姫と宇治神社の雅郎子尊の男神が、年に一度の愛の契りを、暗闇の状態の中でとり結ぶのである。
いってしまえば、男と女の神さんが闇夜の晩に逢いびきをなさって、一夜の情交を交わされるという祭事なのだ。

この行事の起こりは、江戸時代、文化文政期の頃から始められ、幕末になるにつれて盛んになったといわれる。
ともかく、戦前までは、祭り当夜になると町をあげて参詣者のために開放し、自由宿泊の便宜がはかられていたらしい。

封建社会の庶民生活では、自由に旅をしたり、見知らぬ他郷者に宿を貸したりすることは禁じられていた。
農民は田畑の税に苦しめられ、町衆も身分的には低い階級として、絹を着てはならないとか、寄合での料理は一汁三菜をこえてはならないとか、日常生活の小さな行動にいたるまで規制されていたのである。
まぢてや、夜更けに町を歩くことなどは禁じられており、毎日が単調な生活のくりかえしにすぎなかった。
そうした厳しい封建制の掟から開放されていた唯一のものが”お伊勢参り”や祭礼などの行事であった。

とくに、この”あがた祭”などは、百姓や町人にとって大きな開放感の絶頂を味わえたものの代表的な行事と考えてよいであろう。
なぜならば、この暗闇の行事は、同時に抑圧された庶民階級の性の解放でもあったからだ。
かれらはこの苦しい封建社会の現実から常に開放されたいと、どんなに願っていたことだろうか。
その意識の現われが信仰となって、この”あがた祭”の梵天渡御を見ようとあつまったのである。
さらに祭りの最高潮となる暗夜になれば、男女の神さんの性の結合が、もはや人間の男女にとっても封建的な性の呪縛を解いて、かれらを原始のありのままの人間の性にたちかえらせていったのである。
この祭りに来た者たちは、その開放された空気のなかで、すぐに話し合うことができたし、また冗談口をたたいているうちに、若い男と女は気やすく感情をかわすようにもなった。

もともと、この女神は結婚守護の神でもあり、安産の神でもある。
さらに疫病排除の祈願にも霊験があらたかであったところから、現実の悩みと将来の幸福を祈る信者が薄暮のころから押し寄せたのであろう。

県神社の関白藤原頼道が平等院を建立したさいに同院の鎮守神として奉祀したことにはじまるといわれている。
この女神の別院を吾妻津姫と称し、吾田と県とが音を相通じるので県神社になったらしい。
祭礼も旧暦の三月五日におこなわれていたのであるが、明治維新後は新暦の六月五日に改められ、今日にいたったのである。

神話によれば、あるとき邇々芸能命が笠沙の御前で木花開耶姫に会われ、その夜のうちに、しとねをともにしてたがいの情愛が結ばれたという。
ところが一夜の契りで姫の身は妊娠されたから、かれはどうもおかしいぞという疑いをもったのである。
そこで「本当に自分の子であろうが、それならば幸いであるが、もしも自分の子でなかったら産むことは絶対ならん」という事態になった。
かれは猜疑心のあまり、とうとう姫の産室に火を放って一挙に焼払ってしまったのである。
ところがどうであろう、火事の害にもかかわらず、やがて姫はすこやかな御子を無事にお産みになった。
こうなってしまっては、いつまでも疑いをかけているわけにはいかない。
かれは「もとよりわが子であることは知っていたが、ただ一夜で身ごもったということを疑う者があるかも知れない。それでは困ると思って姫の霊威を示してその疑いを解いてもらおうとしたのだ」と弁解する始末であった。
かくて御子誕生のお祝いの会となり、姫は稲から天甜酒を造って家来たちに振舞ったということである。

そうした由来から、木花開耶姫は酒造の神ともいわれ、また、貞操の女神・結婚・安産の守護神にもなった。
ことに農業生産を願う庶民の信仰が結びつき、江戸末期には前に述べた”あがた祭”として発展してきたのであると考えられるであろう。

しかし、いつの世になっても男というものは他愛のない動物である。
女の粘り強い執念についには負かされてしまうようだ。
次に紹介する話も、宇治川のたもとで、生きながら鬼と化した女の執念の悲惨な物語である。
 さむしろに衣かたしき今宵もや
    我を待つらん宇治の橋ひめ

この宇治川に架けられた奈良街道への大橋が有名な宇治橋である。
その橋の中ほど東側の欄干に一部突き出ているところがあり、そこを”橋姫”さんとよんでいる。
いつごろから、そのようによばれるようになったのかはわからないが、紫式部の『源氏物語』にも”橋姫”の巻がみられ、その他にも数々の歌に詠まれてきた。
また、宇治地方の伝説には橋姫にかかわる種々の物語がみられる。

九世紀の初め、嵯峨天皇の時代に大変激しい嫉妬心を抱いた女がいたという。
その夫は妻のあまりにも嫉妬深い感情に、とうとう嫌気がさしてきたので離縁をして追い出してしまった。
よくある話で、いつもしつこくやきもちをやかれると男としては我慢がならない。
それほど外で男がもてるわけがないのだが、概して嫉妬深い女は、ちょっとしたことでも自分の夫を他の女にとられてしまうかもわからないと思うらしい。
男としても、最初は自分を愛するあまりに心配になってやけるのだろうと、むしろ好意をもって理解しようとするが、何回も繰り返されているうちに鼻もちならなくなってくる。
そうなってしまうと、男と女の仲は、もはや永久に平行線上をたどるばかりで、女はますます逆上のていをあらわしてくる始末となろう。
しかし、実際には男が恋しくてたまらないのである。
これが悲しい女の性でもあろう。

この物語の女も、夫に棄てられてからは、恋しさがいっそうつのるばかりであった。
女は宇治川の水神に百夜の願をかけたのである。
そして夜ごと夜ごと川辺にゆき、髪を水に浸して「願わくば私は鬼神となって、わが夫の現在の妻を殺してしまいたい」と水面を叩いて水神に誓い続けた。
その女の形相ものすごく、その呪いは川波の音をさらにざわめかせ、その恐ろしさは言語に絶したという。
やがて満願の百夜がくると、女はたちまち鬼と化し、夫の妻を殺してしまったとうことである。

異句同様の話しは、『平家物語』の”剣の巻”にも書かれている。
往時の昔、京都の街にいた嫉妬深い女が、自分の愛人に心を寄せる女を、すべて取殺そうとして貴船神社に祈願したところ、その後しばらくして、宇治川に生きながら鬼女と化してあらわれたという。

こうした伝説によって、橋姫は嫉妬深い神様となり、嫁入りするときにこの神社の前を通ると神の嫉みから夫婦が円満にゆかないなどといわれたこともある。

宇治橋の西詰、南へ五十メートルのところに住吉神社とならんで、この橋姫神社がある。
ともに両社は宇治川水運業者の守護神として祭られたものだ。
住吉神社の神像は水運全体を主宰する神で、合掌せる赤色夜叉の坐像が安置されている。
それにくらべると、橋姫神社の神像は鬼女の裸体に緋袴を着け、左手に蛇を握り、右手に釣具を持った坐像で、あまりにもその形相にはものすごいものがある。
橋姫は世の中の罪穢を浄め、凶事を取り除く大神とされ、伊弉諾尊を父とする瀬織津姫のことだといわれる。

橋姫神社のおこりとされるのは、六世紀の中頃、欽明天皇三年の洪水のとき、宇治川上流の桜谷に鎮座していた神像が流されて、宇治橋に止まったところから、この橋を守る神として祭られたとされている。
それ以来、宇治橋の欄干に奉祀されたが、後になって宇治橋西詰めの北側に住吉神社とともに祭られていた。
しかし、それも明治三年の大洪水で橋も社殿も流失してしまったので、改めて明治三十九年十月、橋を旧観に復興したとき、現在のところに造営されたのである。

宇治の橋姫にまつわる伝説も、平安朝、鎌倉時代では文学のうえでも決して嫉妬心の激しい女として描かれていたない。
むしろ可憐な女性として歌に詠まれている。
嫉み深い鬼女とされだしたのは『平家物語』によって流布されたからであろう。
橋姫が橋守りの神とされる理由は、いくたびかの洪水による橋の流失を、濫獲した魚霊の祟りだとして供養塔を建てたり、長い橋に神の加護を祈ることなどが、平安朝以来の人々の信仰でもあったからだ。

とくに日本各地の民俗信仰には”水の精”と祭祀したものが、ひじょうに多い。
また、水道の水源地に必ず井祭がおこなわれ、沼や河畔にも弁財天の類が祀られており、水運業者たちも船霊祭をやっている。
宇治川の流域には淀姫神社もあって、橋姫といい弁才天にしてもみな女性の神である。
そこに気がつくと、女と水の関係が解き明かされねばならない。
それは女性の生む神秘性と水の生成力とが結合されるところに、その原始的な信仰が生まれてきたのであろう。
そのようなことから、夜になると長い橋にはよくあらわれる妖怪変化・鬼などの類も通行者の恐れ悩む一つであったろうから、橋姫を祭って加護を祈ったのではなかろうか。

宇治は交通の要衝にあたり、宇治川の急流をひかえて、南部と東国より京都に入る要害の地でもある。
そのためにいくたびか京都を守る必争の地ともなった。
四世紀には忍熊王の乱があり、十二世紀後半は以仁王の挙兵がおこなわれた。
さらに、源義仲追討の院宣が後白河法皇より下されたとき、佐々木高綱、梶原景季らが、”宇治川の先陣争い”をしたのも、この川の中である。
宇治川を渡ることは京都を制圧することにつながったからである。
だが、武将たちが功名を競いあったかげに、それこそ夫の尻をたたく妻女の執念が秘められていたのではなかろうか。

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■ 丹波から山城への水路 - 舟下嵐峡

嵐山の名勝はもとよりこの大堰川の清流を生命とした。
清流は丹波の山脈からつづいた小倉山、亀山の谷間をぬい、さらに東南の京都盆地の緑野に連なって、北西より南東に向かって山脈を流れるのである。
春は桜、秋の紅葉といわず、紺碧の流れに山姿を投影し、その清流の絶妙さは四季の変化にともなって相応する。
この大堰川は亀岡を過ぎると保津川とも呼ばれ、渡月橋より下流を桂川といっている。

平安時代の貴族たちが好んで船遊びにでかけたのも、この風光明媚な山水の趣に魅せられたからであろう。
現在も五月第三日曜に催される車折神社の三船祭りは、竜頭鷁首の船や俳諧船、小唄船など詩歌管弦の船遊びを再現している。
まことに拾遺の山々とこの川の風雅は、大和絵風の景色を映しだして、王朝貴族たちの心にやすらぎをおぼえさせたものと想像できよう。

江戸時代に入って、海外貿易に大きな働きをしめした京都の大商人、角倉了以は大堰川を通して丹波と水上運送を開こうと考えていた。
かれは嵯峨に永く住んでいて、ここを通って行われる丹波と山城のの交通がいかに不便であるかを知っていたのである。
京都が都市として発展してゆくためには、まだまだ多くの米穀や材木を丹波から供給してもらわねばならなかった。
それらの運送はいずれも山路を越えて人馬による労多き困難な仕事である。
かれは倉敷の和気川に航運するタカセ(舟+共)船を見学し、これだと思った。
この動機によって大堰川を調査し、息子与一を江戸幕府に走らせて徳川家康の許可を得たのである。

慶長十一年(1606)三月、大堰川の開鑿工事は始められた。
そのときの模様は渡月橋上流一キロほどの右岸にある大悲閣(千光寺)の碑が物語ってくれる。
それによると、川端にある大きな岩石は網をかけて縛り、滑車で引いて取り除いた。
また水中にある大石は船の上に櫓を組んで、長さ一メートルの鉄棒に七メートルの柄をつけたテコを使い、数十人の力で石を持ち上げて川岸に投げ捨てて砕いてしまう。
水面に出ている岩石は火薬を使って爆破させる。
川幅が広くて底の浅い場所は、両岸から石を積築して川幅を狭くし水深く流れるようにした。
さらに、滝になったところは滝の上を削って下流と同じ高さにする、というありさまであった。

このような難工事と非常な努力のすえ、秋の八月に完成した。
ここにおいて、はじめて丹波の世喜村から嵯峨までの間を高瀬舟が航行したのである。
船は平たい底をして、穀類、塩、鉄、材木など、多くの荷物を積んで走った。
いまは落合橋から渡月橋の間を”保津川下り”と称して、船頭の見事な竿捌きでこの激流を下るスリルを観光客が楽しんでいる。

角倉了以、与一父子の開鑿事業によって、丹波から京都への舟運が通じたという意味は、京都の発展と庶民生活にあたえた利益を考えただけでも計り知れないほど大きいものであった。
米だけの舟運量をとっても、年間に一万五千五百石あったというのだから、材木や塩など他の特産物も含めるとずいぶん多量なものが運び込まれたにちがいない。
角倉氏は今後の経営のためにも、幕府から許可をもらい、この川を来住する諸舟に通航料を課して利益をあげ、後の世まで大いに栄えたのである。

慶長十九年、六十一歳の生涯が終わったとき、かれの遺名によって大悲閣が建てられた。
石上に網をまいて敷き、片膝をたててすわっている坐像である。
いまもその鋭いまなざしとたくましい筋骨が彼の人生のすべてを語っているようだ。

渡月橋の下流にある臨川寺は流筏集積場である。
この桂川流域に材木商が多くみかけられるのは、丹波の山から筏によって下ってきた木場としての名残なのだ。

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日本の墓

■ 堀河や声ききたらぬ蛙かな

堀川は京都市の中央を北から南へ直線に流れる小川で、北は一条戻橋から堀川通りに沿って十条の南で鴨川にそそいでいる。

もともと堀川通りはもっとせまい通りであったのだが、太平洋戦争の疎開対策によって西側の民家が壊され、現在のように広い幅のものとなった。

堀川の水源は紫竹一帯の小流が小川通りに沿うて南下すると小川と、西陣一帯の諸溝の水を集めた有栖川を加えたものである。
これらの支流は小川の一部をのぞいて、いずれも都市計画によって暗渠とし、道路に整備された。
平安期の頃は、大内裏の東にあって、西堀川(紙屋川)に対して東堀川といったが、しだいに堀川という名が有名になり、今日にいたったのである。

平安遷都のときには、堀川はもともと賀茂川の本流であったらしい。
桓武天皇は都市経営にあたって、中央に川があっては妨げになると考えられ、上賀茂附近から流路を東南につけ替えて、現在の高野川と合流させたといわれている。(異説あり)
このことは堀川と賀茂川間の地層が砂礫層であることによってもうなずける。
そしてその川跡には新たに賀茂川より水をひき、幅十五メートルの浅い小川をつくり、大内裏造営の資材を運搬したらしい。
堀川という名がつけられたのも、実はこのことによったからである。

九世紀の中頃には堀川で鮎をとって食べたという記載が『三代実録』に残っている。
また堀川の川沿いには堀河院とか高陽院、冷泉院などの貴族の大邸宅がつくられ、六条には源義経の堀川館が存在していた。

中世になると、祇園社の堀川十二町の堀川神人が、この川筋を貯木場として特許をもち、材木商で栄えたことがうかがえるのである。
近世に入ると染色業者が多く住むようになり、染色工場から排出される汚水で堀川は濁流となっていった。
堀川丸太町を上ルと堀川学派の名で高い伊藤仁斎の古義堂址が、いまは史跡指定となって残されている。

堀川通りに残る町名にも、古をしのばれるものがある。
山名町は、応仁の乱で西軍の武将として戦った山名宗全のゆかりの場所なのだ。
かれの屋敷跡だったところが、そっくり山名町と名づけられている。
山名町を通り抜ける南端の道路を行くと、そのなかほどのところに山名宗全の墓がまつられている。
いつ誰がまつったのかわからないのだが、毎年八月の地蔵盆になると、町中の人たちがお詣りをする習慣になっている。

明治二十五年には、わが国最初の電車が四条通から中立売りまでの堀川を走り、北野神社が終着駅であった。
”堀川電車””チンチン電車”と呼ばれていた。

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■ 淀の川瀬の水車

 淀の小橋のあの水車
     誰を待つやらくるくると

淀の城郭の水ぎわにには水車がおかれていた。
淀君がこの城に住むようになってから、城中に水車をまわして用水をひいたということである。
それいらい、誰というとなく人びとの口に喧伝されたのが、”淀の川瀬の水車”のことであったという。
さぞかし、いろいろななまめかしい話ができあがったのであろう。

天正年間から文禄(十六世紀末)にかけて、大坂城と伏見城が築かれ、伏見・大坂間の淀川筋の堤防が整備されると、淀川を上下する諸船の往来は陸上交通にもまして頻繁となってきた。
太閤秀吉が淀川輸送を重視したのであるが、江戸時代になっても、徳川幕府は枚方に監船所を設置し、伏見・大坂間を往来する大小の船を監視したのである。

淀川輸送にもっとも活躍したのが、いわゆる淀船であった。
いずれも二十石積みのところから”淀二十石船”といわれ、淀川の運輸を一手に掌握し、他船の往来を許さぬぐらいに勢力を張った時代もある。

 船は出てゆく帆かけて走る
     茶屋の娘が出てまねく

伏見の港を出てゆくときは、船乗りたちが中書島の遊郭でさかんに命の洗たくをして遊妓の情けに別れを惜しんだという。
船底一枚めくれば地獄の世界だという、きびしい船乗りの仕事が、かれらをそうさせたのかも知れない。

伏見の観月橋を向島に渡ろうとする橋詰に石標がひとつ立っている。
 「淀川、従是下至海」

琵琶湖から流れてきた宇治川はここで終わり、これから淀川がはじまろうとするのだ。
昔は町や橋の名が近くの大名屋敷か国名に因んでつけられたものであった。
ここにある橋も以前は桂橋、月見橋などと呼ばれたが、橋のほとりに多賀豊後守の屋敷ができたから豊後橋といわれるようになった。
そこに淀川の歴史がある。

江戸時代の中頃になると、淀川三十石船が往来した。
その三十石船とともに有名になったものには枚方の”くらわんか”舟がある。

世に聞こえた”くらわんか”舟の伝説によると、大坂夏の陣の戦いで、家康は淀川べりにまで大坂方に追い討ちされてきた。
渡ろうとしても舟はなく、これでもはやうつ術もないと大久保彦左衛門と共に死を決心したときに、たまたま魚舟がやってきてかれら二人を救ったのである。
ようやく戦争が終わり、その恩賞として漁夫の希望にまかせた。
漁夫は淀川を上下する船客に飲食品を一手に販売する権利を得たいと申し出たのである。
さっそく家康はその望みをかなえてやり、さらに、幕府御用船の格を与えてやったのが、その起源であるという。
それ以後、航行する船に近より、船客の貴賤にへだてなく「くらわんか、くらわんか、かす汁、かん餅くらわんか、巻きずしどうじゃ、酒くらわんかい、銭がないのでようくらわんかい」とののしりながら、淀川三十石船にこぎよせてくる。
これを茶船ともいったが、その売声によって”くらわんか舟”と呼びならわしたのである。

 商ひにへつひもなく言葉まで
     実に現金喰はんか舟

一雛の詠んだ狂歌にも、くらわんか舟の商売根性が、まことにもって見事によまれている。
最近では”くらわんか”料理として再現されだした。
本当に”くらわんか”にまつわる商根性というのは立派なものである。

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全国の城(京都6)】【淀城(別名・てん城)】【「くらわんか」ってなに?】【三十石船とくらわんか舟】【東海道膝栗毛の中の「くらわんか舟」
狂歌・雑俳の中の「くらわんか舟」
 

■ 春雨やすこし水ます紙屋川

紙屋川は柏川というのが正しいらしいが、これを訛って替川といったり、他にもいろんな名称がつけられている。
平安京の頃には西堀川であった。
その水源は鷹ケ峰の山中より発生し、柏野をへて南に向かい、北野神社の西を流れるあたりから天神川と呼ばれている。
おそらく北野天神との関係から天神川とされたのであろう。
さらに西ノ京円町附近から西に流れ、太秦安井の南西で御室川と合流し、やがて吉祥院をすぎると桂川へそそいでゆく。

本来、西堀川の紙屋川は川幅も広く、優雅に流水していたと想像できる。
しかし、何分にも京都の西方は地形が低く、昔からよく水がついたところである。
紙屋川も六月の梅雨期になれば、毎年のごとく氾濫し、よく洪水となった。
どうしても川床が高いために、少しの雨量で水害をもたらすのである。

  春雨やすこし水ます紙屋川

虚子の詠んだ俳句をみても、紙屋川の水がよくあふれたことを物語っている。
このように、度重なる水害のためか、改修工事が行われて、すっかり変わってしまった。
いまでは紙屋川も狭くなり、川底も深くなっている。
そのためであろうか、橋などに紙屋川の名称を残しているが、川そのものにはありし日の姿はすっかり消されている。
昔日の面影をしのぶこともできない。

それはともかく、紙屋川が平安京の時代から日本の製紙事業を語る名称として、京洛の人たちになつかしまれてきた存在であることは事実である。

九世紀の初め、嵯峨天皇のとき、官営の製紙工場である紙屋院が設けられた。
紙屋院での紙の生産は毎年二万枚に達したといわれ、禁裏御用の重要な役割を果たしていた。
同時に民間の製紙事業も奈良時代に比べると著しく伸びてきた。
中年の作男が年に四十張の紙を上納したほどである。

こうした紙を漉いたところから、この川を紙屋川といったのであろう。
また、この紙をつくる紙師が住んでいたところを宿紙村と名づけたのである。
その製品は紙屋紙とよばれたち宿紙ともいわれ、ねずみ色をした紙であった。
しかし、後になると『源氏物語』のなかにも紙屋紙が「うるわしき」紙として描かれ、その紙色は「色合華やかなる」ものであったと記されている。

この宿紙は漉返しの紙で、色が薄黒くねずみ色であり、むらがあるところから薄墨紙とも水雲紙とも呼ばれていた。
とくに綸旨紙として使用され、天皇の命を下に達するときの文書となったのである。

これらの紙をつくっていた紙師たちは、北野神社の天神川附近と丸太町円町の東方、紙屋川沿いに紙座を組織していたという。
そうしたかれらの活動は日本の紙の発展史に大きな貢献をしていたのである。
さらにかれらを取り締まる紙屋院は、花園妙心寺の東南、木辻あたりにあったといわれているが、いまは跡もない。

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■ 白河の花

銀閣寺の北、滋賀県坂本にいたる山中越の街道口を白川村と称し、いまは北白川と呼ばれているところである。
そこの土着の婦人たちが副業として、折々の四季の花や番茶、盆正月の飾りものを京中の街に売り歩いたのが白川女の特色なのだ。
その姿は紺木綿の着物、三幅前垂れに細い三尺のしまものの帯をしめ、裾をはしょってしえおの腰布をみせている。
足には白の脚絆ををこうの前まで出し、わらじの紐をくくりつけて、手に黒い手甲をつける。
白い手拭を姉さんかぶりにして、肩に桜と菊の模様をした手拭をかけ、房のついた友仙のたすきを結び、まことに美しいものである。

 何となく春のこころにさそはれて
    けふ白河の花のもとまで (後京極良継)

王朝の昔から、白川の一帯には四季の花々が、絶えることなく咲きみだれていたのであろう。
王朝の貴族たちが、うららかな春の日和にさそわれて、つい白川の里まで花を求めてやってきたとしても、それは無理のない話である。
そしてこのころ、三好清行のすすめで白川の花を御所に献上したのが、白川女の始まりだといわれている。

それはともかく、最初は御所や公家の屋敷に年貢の一部として生産物を納めていたのが、京都の町の商業的な発展とともに、近郊の村々の女たちも、思いきって商いに出てきたのではなかろうか。

白川と呼ばれる川は、もともと源が滋賀県に通じる山中越の山中村で発生し、如意ケ嶽、白川山の渓水を取り入れて清流となった川である。
この清麗な川は花崗岩の崩壊した白砂をたくさん流すところから、いつしか白川といわれるようになった。

いま、この川は北白川の町なかを東から西南にむけて流れ、鹿ケ谷、南禅寺の西側を経て疎水運河にそそいでいる。
この流れに沿って、その流域全体である加茂川の東一帯、九条通り辺りまでを、ひろく白川と称していた。
そのなかで三条の鴨川に流入するまでを北白川と呼び、さらにそれより南に流れるのを南白川ともいっていたのである。
しかし、現在の地名では昔の白川村一帯に北白川の名があたえられ、白川は白河と書かれて、岡崎のあたりをさすようになった。

いまの岡崎、白河の地は、藤原頼道の伝領した別業の地で、院政の時代には貴族たちの別荘地となった。
このあたりは深い緑木が生い茂り、その合間をぬうようにして白川の清らかな水が流れていたのである。
鴨川の東に、このような美しい景観をみいだした貴族たちは、立てこんできた京の街をのがれて、白河に邸宅や社寺をつぎつぎと移して住むようになった。
さらに院庁が白河殿に定められてからは、この付近一帯に法勝寺、尊勝寺、円勝寺、成勝寺、最勝寺、延勝寺、などの六カ寺が建てられていた。
いわゆる六勝寺址として、岡崎の旧蹟のうちでは、もっとも著名なものである。

この地で白河の名をとどめているものに白河橋がある。
三条東大路を三百メートルも東に行くと、白川に架設された石橋が残っている。
この橋は古くから国道筋の白川に架かる官橋で、もともとは木橋であった。
寛文二年(1662)の京都大地震で五条大橋が壊れた時、京都所司代牧野親成が、その古い石材でこの橋をつくったのがはじめだといわれているが、その後何回も修復されて今日にいたったのである。

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